2008年12月24日水曜日

天に宝を積むために


ルカによる福音書18・18~30

「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた。イエスは言われた。『なぜわたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。』すると、議員は、『そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言うと、イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。するとペトロが、『このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。』」

クリスマスおめでとうございます。今夜お話ししますことは、クリスマスとは直接的には関係ないことかもしれません。しかしこの機会に聴いておいていただきたいことです。それは、聖書の中で「永遠の命」と呼ばれているものをわたしたちが手に入れるためにはどうしたらよいのかという問題です。

「永遠の命」と聞いてもピンと来ない方もおられるかもしれません。聖書には、これと同じ意味の「天国に入る」とか「神の国に入る」という言葉もあります。こちらのほうが分かりやすい方は、同じことを言っているとお考えいただいて構いません。聖書において「永遠の命」とは、永遠に生きておられる神との関係が永遠に切れないで生きていくことができる天国の生活です。永遠に生きておられる神と共に、永遠に生きていくことです。

その「永遠の命」をどうしたら手に入れることができるのでしょうかと、イエスさまに質問した人がいました。名前は出てきませんが、若い男の人でした。この人は「議員」でした。簡単に言えば、子供の頃からいろんな勉強を一生懸命にがんばってみんなから尊敬されるようになり、この国を代表するにふさわしい人物と認められた、そういう人でした。

その人がなぜイエスさまにこんな質問をしたのかという理由については、何も記されていません。しかし、だいたい想像はつきます。わたしはこれまで一生懸命がんばってきた。社会的に尊敬される、道徳的に落ち度のない生き方を貫いてきた。だから最高法院の議員になることができた。しかしまだ一つ足りないものがある。それが「永遠の命」である。わたしはこの先どんなに頑張ってもいつか死ぬ。死んでしまったら、頑張ったことが全部無駄になる。そんなのは嫌だ。わたしは死にたくない。

おそらくこんな感じのことをこの人は考えたのです。そしてイエスさまに質問しました。「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」するとイエスさまは次のようにお答えになりました。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。」

イエスさまの答えを聞いたこの人は「非常に悲しんだ」と聖書に書かれています。非常に驚き、がっかりしました。なぜかと言えば、この人は「大変な金持ちだったから」です。皆さんの中にも悲しんだり驚いたりがっかりしたりした方がおられるかしれません。無理もないことです。なぜならこのときイエスさまが、この答えがこの人を悲しませ、驚かせ、がっかりさせるものであるということを初めから分かっておられながら、あえてこのようにおっしゃっているということは、どう考えても明らかだからです。

この人が何を感じたのかについてもだいたい想像がつきます。冗談じゃない。私の財産は、私が頑張ってきたことの証しではないか。それを売り払ってしまったら、「欠けているものが一つある」どころか何もない状態になってしまうではないか。人から軽んじられるばかりの惨めな生活を送らなければならなくなる。そんなのは嫌だし、理不尽だ。

ルカによる福音書には書かれていませんが、マタイによる福音書とマルコによる福音書には、この人は「悲しみながら立ち去った」と書かれています。この人がイエスさまの前から立ち去ったことの意味は、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」というイエスさまの勧めを受け入れず、事実上拒否したということです。貧しさの中で苦しんでいる人々がいることを知りながら、自分の財産を失うことによって自分の地位が維持できなくなることを恐れたのです。たとえ自分が貧しくなってでも困っている人を助けようというような気持ちまでは持つことができなかったのです。

イエスさまがこの人の嫌がるようなことを言っておられるのは明らかに試しておられるのです。テストの結果、彼は立ち去りました。これではっきりしました。この人のように自分のことしか考えない、貧しさに苦しんでいる人がどうなろうと関係ないと思っている人は「永遠の命」を受け継ぐことができないのです。天国に入ることができないのです。

誤解を避けるために別の言い方もしておきます。最初に申し上げましたとおり、聖書の中で「永遠の命を受け継ぐこと」と「天国に入ること」あるいは「神の国に入ること」とは同じ意味です。そこから考えてみていただきたいことは、「天国」とはどのような人々の集まるところであり、また「天国」とはどのような仕組みになっているところなのだろうかということです。

わたしたちもやがて天国に行くでしょう。そのとき、そこには自分のことしか考えない人ばかり集まっていると分かったらどうでしょうか。あるいはまた天国にも貧富の差がある。そして貧しい人の入るところと豊かな人が入るところとが違うようにできているとしたらどうでしょうか。天国にもVIPルームがある。そこに入れる特別な人と、入れない普通の人がいる。あるいは、エグゼクティヴクラスの座席とエコノミークラスの座席がある。そのようなところに行きたいと思うでしょうか。私は嫌です。

イエスさまが問題にしておられるのは、いわばそのようなことです。「そもそも天国とはどのようなところなのか」です。天国には貧富の差はないのです。全員同じなのです。

「一生懸命頑張って稼いだ人も、怠けた人も、天国では同じ待遇であるということか。それなら、怠けた人のほうが得ではないか。頑張った人のほうは馬鹿を見るではないか」と言われてしまうかもしれませんが、そういうのは問題のすり替えというのです。

イエスさまが問題にしておられることは、豊かな人々が貧しい人々を助けようとしないことです。強い人々が弱い人々を担おうとしないことです。わたしたちが生きているこの世界、社会全体が良くなっていくことを望まず、強い個人だけが生き残る。そのような状態を是認し、温存し続けることです。それは「天国」ではなく、むしろ「地獄」なのです。

今夜は日曜学校の子どもたちも大勢参加してくれています。ちょっと難しい話だったと思いますので最後は分かりやすい言葉で言います。

できれば皆さんは将来がんばってぜひお金持ちになってほしいと願っています。そうなることが悪いと言っているわけではありません。でも、そのお金は、ただ自分のためだけに使うのではないようにしてください。自分以外の人のため、とくに困っている人のために、せっせと使ってください。遠慮なく全部使い切ってください。自分のためには一円も残してはいけません。

でも、大丈夫です。困っている人を助けるために全部を使い果たした人のことを神さまは放っておかれません。神さまが必ず助けてくださいます。そのことをぜひ信じてください。

毎日のごはんやおやつを食べたり飲んだりしてはならないという意味ではありません。食べなければ飲まなければ死んでしまいます。そういう意味ではなく、自分の持っているものにしがみつくのではなく、自分の働きやお金が世のため・人のために役立っているということを喜び楽しんでくださいということです。それが「天に宝を積むこと」なのです。

父なる神さまは、独り子イエスさまをお与えくださったほどにこの世を愛してくださいました。それがクリスマスの出来事です。そして、イエスさまはわたしたちを救ってくださるために十字架の上で御自身の命をすべて使い切ってくださいました。そのイエスさまを父なる神さまがよみがえらせてくださいました。そのことをわたしたちはイースターのとき学びます。イエスさまのご生涯は、どうしたら「天に宝を積むこと」ができるのかをわたしたちに教えてくれる模範です。

イエスさまのように生きること、あるいは全く同じでなくてもイエスさまの真似をして生きること、それが「天に宝を積むこと」なのです。

(2008年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイヴ礼拝)