2008年12月28日日曜日
あなたがたの必要をキリストが満たしてくださる
フィリピの信徒への手紙4・15~23
「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。キリスト・イエスによって結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。」
フィリピの信徒への手紙を、今年9月初めから半年にわたって学んできました。今日は最後の個所を学びます。この個所にパウロが書いていることも、基本的には先週の個所と同じようなことです。フィリピの教会の人々がパウロの伝道活動を経済的ないし金銭的に支援してくれたことに対する感謝の言葉です。
この件に関してパウロは大きなスペースを割いています。新共同訳聖書の中でこの手紙は6ページとちょっとあります。そのうちほぼ1ページ分がこのことのために割かれています(4・10~20、2・25~30)。つまりこの手紙の6分の1が献金への感謝の言葉なのです。
フィリピの信徒への手紙は「喜びの手紙」と呼ばれてきました。喜びという言葉が繰り返し出てくるからです。しかし私は、この手紙の中には喜びについてだけではなく苦しみや悲しみや涙についても書かれているということに皆さんの注意を促してきたつもりです。キリスト教信仰の肯定的・積極的な要素だけではなく、否定的・消極的な要素についても多く書かれていました。この手紙には「苦しみの手紙」とか「涙の手紙」とも呼ばなければならない面もあると申し上げてきました。
そしてこの手紙にはパウロを助けてくれた教会への「感謝」の言葉もたくさん書かれています。しかも、その感謝はフィリピの教会の人々がパウロと苦しみを共にしてくれたことへの感謝です。それはまさしく苦しみへの感謝、涙への感謝です。
このことを見ながら私が考えさせられることは、やはりどうしてもわたしたちの教会の現実です。松戸小金原教会だけのことにはしたくありません。日本キリスト改革派教会のこと、そして日本のキリスト教会全体のことを考えさせられるのです。
松戸小金原教会は昨年と今年の二年間、「主の日の礼拝を楽しみ、日々、生き生きと過ごそう」という標語を掲げてきました。そして目標聖句は「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8・10)というものでした。この標語と目標聖句を提案したのは私です。キリスト教信仰における喜びや楽しみの要素を強調したいと願ったからです。そのことは皆さんに十分に理解していただいたと感じています。
しかしまた、二年間の歩みの中で同時に感じてきたことを一言で表現するとしたら、教会の伝道が思うように進まないということでした。喜んでばかりはいられないと感じさせられてきたのです。
この点については何一つ開き直って言うべきことではないことはよく分かっています。しかし一つだけ申し上げておきたいのは、伝道が思うように進んでいないのはわたしたち松戸小金原教会だけのことではないということです。日本の教会全体が苦しんでいます。ある先生の言葉をお借りすると、今の日本の教会の伝道は「惨憺たる有様」です。それが日本の教会全体の共通認識です。
なぜそのような状態なのかについてはいろんな分析もなされています。しかし今日それをお話しすることは控えます。何となく言い訳がましくなってしまうからです。
そのことよりもむしろ今日お話ししたいのは、「惨憺たる有様」であると指摘されている今の日本の教会の現実を直視しつつ、これからなおしばらくの間、わたしたち自身が、一つの重大な覚悟ないし決意を持つことが必要であるということです。それは、わたしたち一人一人が伝道の困難なこの時代の中にあって、キリストのため、教会のため、伝道のために苦しむことを引き受けることへの覚悟ないし決意です。
ここでぜひ思い起こしていただきたいのは、次の言葉です。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1・29)。パウロはこの言葉を「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」と信じることができたフィリピ教会の人々への励ましの言葉として書いています。
パウロの時代の教会も、右肩上がりに成長していたわけではありません。伝道の伸び悩みに関してはわたしたちが感じているのと同じような、あるいはわたしたち以上の苦しみがパウロの時代の教会にありました。そしてパウロの認識のなかには、教会の伝道が思うように進まない原因の少なくとも一つとして、教会の外側には「反対者たち」がいるという点がありました。そのことを無視できないのです。
しかし、です。パウロは、教会の外側で伝道を妨げている人々のことを強く非難したりその人々の責任を問うたりするようなことには、ほとんど言及しません。むしろパウロは、どんなに反対されても妨げられても救い主イエス・キリストへの信仰を持ち続け、教会にとどまり続けている人々を励ますことにひたすら集中するのです。それがパウロの信仰の特質であると言えるかもしれません。伝道が思うように進まないことを教会の外側にいるどこかのだれかのせいにして問題を片づけるのではなく、「キリストのために苦しむことは神から与えられた恵みなのだ」という言葉をもって、教会の人々を力づけるのです。
日本の教会の場合、伝道が進まない理由を日本古来の宗教のせいにしたり、今の日本の政治のせいにしたり、今の時代風潮のせいにしたりすることは、ある意味でいとも簡単なことです。そうだと言ってしまえば誰も反対できないでしょう。しかしわたしたちの意識をそこに持って行くのではなく、別のところに持って行く。しかしまた、ただ自分自身を責め続けるだけでも意味がないでしょう。今こそわたしたちが考えるべきことは何なのかということを、私はこの手紙を読みながらいろいろと考えさせられてきました。
その中で注目させられたことがあります。それは、パウロが、キリスト者に与えられる恵みとしての苦しみの中に、教会とその伝道を支えることに伴う苦しみという点を加えていることです。もっとはっきり言っておきます。4・14に書かれているとおり、パウロは、このわたしのためにたくさんの贈り物や献金をしてくれているあなたがたは「よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と言って、自分の生活を切り詰めてまで教会とその伝道を支援してくれている人々を激励しています。
もちろんパウロは「物欲しさにこう言っているのではありません」(4・11)とも書き、また今日の個所では「贈り物を当てにして言うわけではありません」(4・17)とも書いています。明らかに、変な詮索をされることを嫌がっています。しかしパウロは、この点では非常に現実主義者です。物やお金の問題で人がどれほど苦しみを味わうかを熟知しています。この問題についてパウロは無頓着ではありません。なぜなら、他ならぬパウロ自身が、伝道旅行の最中、そのようなことで苦しみ抜く経験をしたからです。
ここから痛烈に考えさせられることがあります。それは、教会の伝道が思うように進まないのは、教会の活動に参加することそのものに大きな苦しみが伴うからでもあるからではないかということです。不況の中で厳しい生活を強いられている人々がいます。その人々が「教会に参加することによって今以上の負担を負うことになるのは勘弁してほしい」と言いたくなる気持ちを持つことを誰が否定できるでしょうか。この点についてわたしたちがあまりにも無頓着であることはできないだろうと思っています。
今日の個所の最初のところでパウロは、フィリピの教会の人々への感謝の言葉を述べています。「わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。」これが事実であるとしたら、パウロにとっては厳しいことであったに違いありません。はっきり分かることは、当時のキリスト教会の中にはパウロの伝道を助けようとする人々と、助けたくないと考える人々とがいたということです。
これはパウロのフィリピ伝道が第二回伝道旅行の中で行われたことと関係しているのではないかと思われます。第二回伝道旅行はエルサレムの使徒会議(使徒言行録15章)の直後に行われました。使徒会議では「人が救われるためにもはや割礼を受ける必要はない」と主張したパウロたちと「割礼を受ける必要がある」と主張した人々が激突しました。パウロの言葉や行いを信用しない。そう考えた人々は、彼のことを助けようとしなかったのです。
しかし、そこから先はパウロの性格にも関係していると思われます。パウロという人は、自分を支持してくれる人が少ないから、物やお金の面で助けてくれる教会が少ないから、伝道旅行自体を取りやめるというようなことは、おそらく考えもしなかったのです。何は無くとも出かけなければならない。イエス・キリストの福音によって救われるべき人々がこの世界にいるかぎり。そのような覚悟と決意とをもって出かけていったのです。無謀と言えば無謀、危険と言えばこれ以上の危険はないほどの旅行であったと言えるでしょう。
ところが、なんと幸いなことに、パウロにとっては旅先で出会っただけであるような人々が彼の伝道を支えてくれることになりました。それがフィリピの人々でした。
そのフィリピ教会の人々に対してパウロは、もしかしたら誤解を生むかもしれない言葉を書いています。「むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」(17節)。何が「あなたがたの益となる豊かな実」なのでしょうか。はっきりしていると思います。あなたがたフィリピ教会の人々がささげてくれている献金そのものが、あなたがた自身にとっての利益であり、豊かな実りなのだと言っているのです。
ここで考えなければならないことは、伝道旅行中のパウロが伝道している相手は、どう考えてもフィリピの町に住んでいる人々ではなかったということです。その意味は、彼らが献金した分だけフィリピ教会の会員が増えるというような事情にあったわけではないということです。パウロが言っていることは、明らかにもっと広く大きなことです。世界に広がるキリストの体なる教会全体の成長と発展という大目標のために貢献することこそが、あなたがた自身の利益なのだということです。
急に身近な話をします。わたしたちの教会の会計報告をご覧いただきますと、かなりの部分が日本キリスト改革派教会の大会や中会、また神学校のためにささげるものであるとお分かりいただけるはずです。私は松戸小金原教会の牧師でもあると同時に大会や中会の議員でもある者として、その面からも皆さんに感謝を述べなければなりません。そして、パウロと共に、「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(19節)という言葉で、皆さんを激励しなければなりません。
今日この2009年の最初の礼拝において私が最後に申し上げたいことは、「どうかみんなで苦しみましょう」ということです。キリストのため、教会のため、伝道のために苦しみ抜いた人を、わたしたちの神は、決してお見捨てにならないからです!
(2008年12月28日、松戸小金原教会主日礼拝)