2009年1月1日木曜日

初めに神は天地を創造された


創世記1・1~5

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」

あけましておめでとうございます!今日は新年礼拝です。昨年同様、日曜学校との合同礼拝として行っています。

今日開いていただきましたのは、旧約聖書のいちばん最初のページです。「初めに、神が天地を創造された」と書かれています。新しい年の初めにみんなで思い起こしたいことは、これです。この世界は神がお造りになったものであるということです。神がわたしたちのために最初に行ってくださったみわざは、この地上の世界をお造りになることであったということです。

この個所に書かれていますのは、この世界が神さまによって造られたときの最初の様子です。「地は混沌であった」とありますが、「混沌」という言葉を子どもたちは知らないと思います。説明するのがとても難しい言葉なのですが、ぐちゃぐちゃであるとか、乱れているとか、整っていないというような意味です。

しかしこれは、学校の教科書に書いてあるような、この地球ができたばかりの頃の様子を言っているのではありません。聖書に記されている、神が創造してくださった「天地」の意味は、この地球だけのことではないからです。ぐちゃぐちゃとか、乱れているとか、整っていないというのは神さまとの関係です。神さまがともかく最初に造ってくださったこの天地には、神さまがこの天地を支配してくださるために必要な、他の何もなかったということです。

そこに町や家などはもちろんありませんでした。テレビやゲームもありませんでした。だって人も住んでいなかったのですから。草も木も生えていませんでした。要するに何もなかったのです。あるのは空と土だけでした。そのような風景を想像してみてくださるとよいでしょう。

空と土しか見えない。そのような場所はこの地球上に今でもあります。私はそこに一度だけ行ったことがあります。それは砂漠です。この話は前にもしたことがありますので、覚えておられる方がおられるかもしれません。

しかし、残念なことに私はそこにバスで行きましたので、砂漠の真ん中にアスファルトの道路が見えました。ですから、完全な意味でそこに何もないと言える場所に行ったわけではありません。しかし、ほとんど何もない、そのような場所を見ることができました。文字どおり空と土だけ。まっすぐな地平線の上は鮮やかな青色の空、地平線の下は小麦色の砂。二色刷りの風景でした。

この日本に住んでいますと、そのような風景を見る機会がほとんどありません。地平線を見る機会さえめったにありません。あらゆるところに建物がたち、物があふれています。それらはみな、人間が作ったものです。ですから、この世界を神がお造りになったという話があまりピンと来ないと感じる人がおられても、無理もありません。

私自身がそうです。生まれたときから今に至るまで、そこに何もないという場所に立つことが、ほとんどありませんでした。今の子どもたちは、もっとそうでしょう。生まれたときからパソコンがあり、超高層ビルが立ち並び、スペースシャトルが飛んでいました。そのような時代に生まれた子どもたちに「何もない世界を想像してください」と言っても明らかに無理があります。

しかし、わたしたちは、それぞれの人生の中で、そこに何もない世界というものを全く想像することができないとは言い切れない、「あ、もしかしてこれがそうなのか」と感じることができる場面に遭遇することがあります。いくつか例を挙げてみたいと思います。

第一の例は、そこに立っていた家が無くなったというような場面を見るときです。

昨年末、牧師館の隣の家が取り壊されました。これから新しい家が建てられるようです。その家に以前住んでいた家族の中に、うちの長男の同級生の子どもがいました。その子は何年か前に、別の町に引っ越しました。長男にとってはこの町に引っ越してきたときに最初にできた友人でしたので、長男はずいぶん寂しい思いを味わいました。そしてついに家も壊されました。今は地面だけが見えています。

そこにあったもの、そこにいた人が、少しずつ少しずつ目の前から失われていく、そのような場面を見ました。大げさな言い方かもしれませんが、まるで時計が逆に回っているような感じさえしました。

第二の例は、子どもたちには難しいかもしれない話です。大人たちにも難しいかもしれません。しかし、今の70歳以上の方々にはピンと来るものがあるかもしれません。

それはたとえば戦争のようなことです。自分の住んでいた家や町が無くなってしまった。食べるもの飲むものにさえ困ってしまった。そのような経験をなさった方々がおられます。

また、勤めていた会社が倒産してしまったとか、一緒に暮らしていた大切な家族が亡くなってしまったというようなことです。

その日そのときまではそこに当たり前のようにあったもの、当然のように一緒に生きていた人が目の前から失われてしまう。そのようなことをわたしたちは実際に体験します。「子どもたちには難しいかもしれません」と言いましたが、子どもたちの中にもそのような体験をする子たちが現実にいます。

今日、私はなぜこのような話をしているのかと言いますと、もちろん理由があります。今の日本全体、世界全体を見渡すとき、会社が無くなったとか、お金や家が無くなったということで苦しんでいる人々、困っている人々が大勢いるということを思わずにはいられないからです。わたしたち自身も、決して楽な暮らしをしているわけではないでしょう。持っていたものが無くなってしまった。生活が行き詰ってしまった。すっかり絶望してしまった。生きる理由が無くなった。自分の命を絶ってしまった。そのような話を聞かない日はないほどです。

そういう話を聞くのも辛いことです。しかし、何もかも失って絶望した人々は、もっと辛い思いをしたことでしょう。もし何かわたしたちにできることがあるならば、どうにかしたいという思いがないわけではありませんが、何をどうしたらよいのか分からないでいます。そういうことを、まさに今、この話をしながら考えさせられています。

しかし、です。わたしたちが知っていることは、もう一つある。そう言いたい気持ちを抑えることができません。それが今日の御言葉であると言いたくなります。わたしたちは知っていること、それは、わたしたちの目の前にあるもの、形があって手で触れることができるもの、それらすべてのものが無くなってしまった、目の前から失われてしまった、そのときにも、それがわたしたちにとっての完全な絶望の理由ではないということです。

そこには空と砂しかない、まさに砂漠のようなところに立たざるをえなくなったときにも、わたしたちは絶望しないでいることができます。なぜなら、わたしたちは、その空と砂、天と地を、神というお方がお造りになったという“事実”を信じているからです!

わたしたちの神は、何もない世界の上にすべてのものを築き上げてくださった方です。まさにゼロからすべてを作り上げてくださった方です。その方がわたしたちと共に、今も、そして永遠に生きておられるのです。

「牧師さん、あなたはゼロからスタートしたことがないでしょう」と言われてしまうかもしれません。しかし、あまり説得力がない話かもしれませんが、私は私なりのゼロからのスタートを味わったことがあると思っています。

たとえば、今の私の書斎にはたくさんの本がありますが、25年前に高校を卒業して大学に入学したときには聖書一冊しか持っていませんでした。その頃のことを今でもはっきり覚えています。もちろん妻もいませんでしたし、子どもたちもいませんでした。

ついでに恥ずかしいことを言いますと、私の高校時代は成績が最悪の落ちこぼれでした。英語や数学のテストで0点をとったこともあります。先生たちから完全に見捨てられていました。

このように私は、まさに何も持っていない、また何も知らない、そのような者でした。しかし、今では多くのものを与えられています。もし私の持っているすべてが無くなってしまったらどうなってしまうのだろうかと時々考え込んでしまいます。とても寂しくなるでしょうし、絶望してしまいそうになるかもしれません。しかしまた、もしそのような日が来たら、私はもう一度、今日の聖書の御言葉を開いて、繰り返し噛みしめなければならないと思っています。

わたしたちの神は、たった一本の地平線を引くところから、この世界を始めてくださいました。そこに何もない世界を造ること。神さまが最初になさった仕事は、ただそれだけでした。神さまもゼロからスタートなさいました。しかし、その神がその何もない世界の上にすべてのものを生み出してくださったのです!

ゼロからの再スタートを余儀なくされた人々を、神さまは決してお見捨てになりません。すべてをお造りになった神御自身が、すべてを失った人にもう一度(いいえ何度でも!)豊かな恵みを与えてくださいます。そのことをぜひ信じていただきたいのです。

今日の話も子どもたちには難しかったかもしれないことをあやまります。ごめんなさい。

日曜学校の皆さんに覚えてほしいことは、「どんなことがあっても大丈夫だからね!神さまがみんなを守ってくださるからね!今年一年もがんばろう!」ということです。

(2009年1月1日、松戸小金原教会新年礼拝)