2014年8月27日水曜日

牧師が一生の間に書きのこすことは何か

だれでもカール・バルトになれるわけではないし、なる必要もないが、日本語版『カール・バルト著作集』と『教会教義学』(いずれも新教出版社)を見ると、一人の牧師・神学者が一生の間に書きのこすことにはどのようなことがあるかについて、そのほぼ全貌を知ることができる。これは大いに参考になる。

日本語版『カール・バルト著作集』は次のような構成になっている。教義学論文集(第1~3巻)、神学史論文集(第4巻)、倫理学論文集(第5巻)、政治・社会問題論文集(第6~7巻)、単行本として出版されたもの(第8~15巻)、説教集(第16~17巻)。第18巻書簡集は刊行されなかった。

『カール・バルト著作集』の第8~15巻を「単行本として出版されたもの」と書いたが、ざっくりまとめすぎたかもしれない。第8~10巻が教義学関係、第11~13巻が神学史関係、そして第14~15巻が聖書注解。このように日本語版著作集は論理的に美しく整理されている。編集者の腕の見せ所だ。

しかし、今書いていることの趣旨は神学の中身を詳細に分類することではない。むしろ逆にできるだけ大づかみに考えたい。『カール・バルト著作集』の教義学論文集、神学史論文集、倫理学論文集、また単行本の教義学関係、神学史関係、聖書注解までをすべて「神学論文」の一言でまとめておくことにする。

ここで考えるべき問題は、第6~7巻の「政治・社会問題論文集」と第16~17巻の「説教」をどのように分類すればよいかだ。「説教」が「神学論文」とは区別されることは大方の了解は得られると思うが、難しいのは「政治・社会問題論文集」と「神学論文」の関係だ。区別すべきか、すべきではないか。

異論はあるだろうが、結論を早めていえば、「政治・社会論文集」と「神学論文」は区別するほうがいいだろうと私は考えている。また、日本語版著作集では刊行されなかったので忘れそうになるが、第18巻「書簡集」もカテゴリー的に区別されて然るべきだろう。

さらに、巨大なる『教会教義学』のすべても「神学論文」に数えてしまうことにする。今しているのは大雑把な話だ。したがって、カール・バルトの生涯全著作は、ざっくり分ければ四種類になると私は考える。第一は「神学論文」、第二は「政治・社会論文」、第三は「説教」、そして第四は「書簡」である。

カール・バルトの「神学論文」と「政治・社会論文」を区別すべきかどうかが難しいのは、どちらの問題を考えるときもバルトの発想方法は一貫しているからだ。神学論文を書くときのバルトが「神学的に考えている」のは当然だが、政治・社会論文を書くときのバルトも、同じように「神学的に考えている」。

しかし私はやはりバルトの「神学論文」と「政治・社会論文」は区別するほうがよいと考える。理由は日本語版著作集「政治・社会問題論文集」(第6~7巻)の内容をご覧になると、ある程度理解していただけるはずだ。すべてではないが、かなり多くが「手紙」として書かれている。内容は時事問題である。

「時事問題」を軽んじる意図は私には皆無である。それだけは言っておきたい。しかし、実際には「時事問題」を扱っているバルトの「政治・社会論文」と「神学論文」(教義学、神学史、倫理学、聖書注解など)は一緒くたにしないほうがいい。ごちゃ混ぜにすると、まぎらわしいし、ややこしい。

バルトの場合、「神学的に考えている」という点では「説教」も「書簡」も同じだ。神学論文も、時事問題(政治・社会問題論文)も、説教も、そして(私的)書簡も、どれを書くときのバルトも常に「神学的に考えている」。それほど一貫した発想方法の持ち主だった。それだけは間違いない。

しかし、今書いているのはカール・バルトの場合に限った話だ。彼の全著作を四つに分類できる、第一は神学論文、第二は時事問題(と言い換えよう)、第三は説教、第四は(私的)書簡であると、このような順序で整理するのは、大学教授としてのバルトを考えているからだ。

バルトには、大学教授になる前、教会の牧師だった時代がある。牧師時代のバルトも、神学論文も、時事問題も、説教も、書簡も書いていた。しかし、「重要度」を言いたいのではないが、牧師の働きとしての「優先順位」をあえて言うとしたら、説教、書簡、時事問題、神学論文の順ではないだろうか。

そろそろまとめよう。バルトの生涯著作は雑に分ければ四種類になるという話をしてきた。最後に書いた「牧師的順序」でいえば、説教、書簡、時事問題、神学論文を書いた。それはバルトだけではなく、多くの牧師・神学者が同じようなことを書いてきた。昔から今に至るまで、そしてこれからも。

今の牧師・神学者は、かなり多くの人がネットを利用している。説教と時事問題はブログで、書簡はメールで、神学論文はPDFで書いたりしている。メールは原則非公開だが、各情報がばらばらにならないように、FacebookやTwitterのタイムラインに貼り付けて、時系列的に整理している。

牧師がネットを利用することに違和感を表明されることがいまだにあるのは私にとっては残念なことだが、こればかりは理解していただくほかはない。今の牧師たちが書いている内容は、過去の多くの牧師・神学者が書いてきたことと基本的に全く同じなのだ。説教、書簡、時事問題、神学論文である。

私の文体がしばしば「ちゃらい」のは、以前も書いたことがあるが、意図的な文体研究上の工夫をしているだけであって他意はない。いばるわけではないが、私はTPOに合わせて文体を使い分けることが苦手ではないほうだという自負がある。読者を想定しながら、できるだけ読みやすい文章を心がけている。

いちばん困るのは、今の高校生や大学生くらいの世代の方々に読んでもらえないかと自分で工夫して書いたつもりの文章を、70代80代くらいの人たち(私の親の世代ですな)が見て「牧師のくせにこんなふざけた文章を書くとは、けしからん」とか言い出されることだ。マジで参ります。やめてください。

最後は私の愚痴になりました。まあお許しください。

2014年8月21日木曜日

「日曜学校好景気」の理由は何だったのか

私は社会学を専門的に勉強したことがないので研究方法が分からないが、戦後から1970年代初頭までの日本の教会の日曜学校に子どもが大勢集まっていた理由を正確に知りたい。当時の「日曜学校好景気」との比較で、今の教会の「不振」がずっと責め続けられてきた。もう40年以上前のことなのに。

「あの頃の日曜学校は毎週100人以上いた(のに、今は...)」という話を何度聞かされたことか。私は40年前の「日曜学校好景気」を覚えている。忘れられるわけがない。あれほどたくさん集まっていた日曜学校と教会から、一人また一人と、去っていく人の後ろ姿を40年以上ずっと見てきたからだ。

私は牧師の子弟ではないので、牧師になる前は基本的に、日曜日と水曜日の夜の教会しか知る由もなかった。しかし、だからこそはっきり分かる面もある。40年かけて、教会と日曜学校からだんだん人がいなくなった。特定の教会の話ではない。日本国内の「社会現象」として、そういう流れがあった。

私は40年前は日曜学校の生徒だったので、来なくなった子どもたちの気持ちや理由は、わりと手にとるように分かる。塾、そろばん、習い事、町内会の野球、サッカー、学校のクラブ、部活。そしてとにかくテレビ。特撮ヒーロー、アニメ。これでもかこれでもかと日曜日に「お楽しみ」が集中する。

級友たちが日曜日を「楽しく」過ごしているのを横目で見ながら教会に行く間、しきりと考えていたことは、「何が悲しくて私は教会に行くのか」ということだった。これは後からとってつけた話ではなく当時の本心だ。だから日曜学校に来なくなった子どもたちの気持ちや理由はかなり分かっているつもりだ。

だけど、今の私が知りたいのは当時の子どもたちの気持ちの側ではない。戦後から1970年代初頭までの日本の教会の「日曜学校好景気」の正確な理由を知りたい。いやらしい言い方をお許しいただけば、政治的誘導はあったような気がする。しかし、それが無くなった。そのあたりの事情を知りたいと思う。

2014年8月17日日曜日

主イエスは漁師たちを弟子にしました

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
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マルコによる福音書1・16~28

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。』イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広がった。」

先週からマルコによる福音書を読みはじめました。

この福音書にはイエスさまがお生まれになったときのことや子どもの頃のことが書かれていません。いきなり大人のイエスさまが登場します。他の福音書のように、結婚する前のマリアからお生まれになったとか、そのことを天使が知らせたというような、出生についての神秘的な説明はありません。ヨハネから洗礼を受けて、神の国の福音を宣べ伝える伝道者になられたところから始まっています。

その理由を考えてみました。あくまでも一つの可能性です。マルコはわたしたちと同じ人間としてのイエスさまを描こうとしています。わたしたちと同じ普通の人間としての、伝道者としてのイエスさまを描こうとしています。

もう一つのことを申し上げておきます。わたしたちが伝道の働きに就くときにも「模範」とすべき存在が必要です。だれを模範にするかは自由です。身近な教師や長老かもしれませんし、外国人かもしれませんし、歴史上の偉人かもしれません。しかし、教会の歴史を最後までさかのぼって、イエスさまを模範にすることも可能です。

イエス・キリストは神の御子であり、御子なる神であり、救い主である。その方を模範にすることは神の御子を人間的な次元に引きおろすことになるのではないかという心配は御無用です。マルコはイエスさまをわたしたちと全く同じ地平に立つ人間存在として描いています。そのように描くことができるのは、イエスさまとわたしたちには共通点があるからです。もし共通点があるのなら、わたしたちはイエスさまを「模範」にしてもよいのです。

今日お読みした個所に記されているのは、伝道者になられたイエスさまが最初になさった仕事です。それは御自分と一緒に働く伝道仲間を集めることでした。

もちろん彼らはイエスさまの弟子になりました。彼らは弟子です。しかし、彼らはイエスさまと一緒に伝道しました。それが大事です。彼らは見ていただけではありません。彼らも働きました。その意味で彼らはイエスさまの伝道仲間なのです。

しかしまたそれは、すべての福音書の結末を先取りして言えば、イエスさまが十字架におかかりになって地上の生涯を終えられた後、伝道を続ける人を選ぶことでもあったと考えることができます。これは大げさな言い方ではありません。イエスさまの弟子集めの理由は、御自身が死ぬためでした。イエスさまは死んで彼らに伝道を任せる。イエスさまは伝道の後継者をお選びになったのです。

イエスさまが最初に声をかけたのはガリラヤ湖の漁師たちでした。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」(16節)。「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(19節)と記されています。

最初に出てくる「シモン」が、後のペトロです。ペトロはイエスさまがお付けになった名前です。他の書物に出てくる「ケファ」も同一人物です。「ペトロ」も「ケファ」も、その意味は「岩」です。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16・18)とイエスさまがおっしゃった、教会の土台となる固い岩です。

このようにしてイエスさまは、ガリラヤ湖の漁師たちを伝道仲間にしました。イエスさまは彼らの姿を御覧になったのと同時に、彼らの漁師としての仕事ぶりを御覧になりました。そのイエスさまが彼らに次のように言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)。

もちろん人間は魚ではありません。人間は人間です。そのことはイエスさまも分かっておられます。イエスさまがおっしゃったことは、あくまでもたとえです。あなたがたはいま、漁をしている。そのあなたがたの力と技術を、伝道のために用いてください、とおっしゃっているのです。

シモンとアンデレは、イエスさまの呼びかけにすぐに応じました。「二人はすぐに網を捨てて従った」(17節)と記されているとおりです。潔い決断だったという印象を受けます。彼らが決断したことは、転職です。仕事を変えること。漁師の仕事をやめて伝道の仕事に就くことです。

彼らが転職する決断に至った理由はひとえに、イエスさまの呼びかけに応じたいと思ったからです。漁師の仕事に不満があったとか、別の仕事をしたいと願っていたということではありません。

ただ、イエスさまは、漁師の仕事と伝道の仕事との間に共通点を見出しておられます。だからこそイエスさまは彼らに「人間をとる漁師にしよう」とおっしゃったのです。彼らのほうも、イエスさまからそのように言われて納得したのです。イエスさまの言葉を聞いて、漁師の仕事と伝道の仕事との間には共通点があるということに気づいたのです。だから、すぐにイエスさまに従うことができたのです。仕事上の経験や技術が応用できる。そのことを、彼らが理解したのです。

どこが似ているのでしょうか。手がかりは聖書に書かれていることだけです。それはイエスさまが彼らに言われた「人間をとる漁師にしよう」という言葉です。しかし、原文を見ますと、「をとる」は新共同訳聖書による補足だと分かります。原文には「人間の漁師」(ハリエウス・アントローポーン)と書かれているだけです。

それではイエスさまはやはり、人間は魚に過ぎないとおっしゃっているのでしょうか。人間などは、網を張り、罠を仕かけてごっそりかき集めるだけの獲物だとおっしゃっているのでしょうか。

もちろん違います。イエスさまはそのようなことをお考えになる方ではありえません。別の意図を考えなくてはなりません。しかし手掛かりは聖書に書かれていることだけです。聖書の中をいろいろと探してみる必要があります。

見つかりました。旧約聖書の次の御言葉です。「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる」(エレミヤ書16・16)。

考えられることは、イエスさまはこのエレミヤ書16・16の御言葉を念頭に置かれながらガリラヤ湖の漁師たちに声をおかけになったということです。その可能性は十分あります。イエスさまはいつも旧約聖書の御言葉を心にとめておられました。

そして、このエレミヤ書の御言葉で重要なのは、漁師の働きについては「彼らを釣り上げること」と言い、狩人の働きについては「彼らを狩り出すこと」と言っていることです。この「彼ら」とは、神の民イスラエルのことです。神が、御自身の御国を与えると約束された民です。

新共同訳がとても上手に訳しているのは「釣り上げる」とか「狩り出す」という言葉です。「釣る」と「上げる」、また「狩る」と「出す」を複合した言葉で訳しています。これによって複合的な動きを表現できます。「釣る」だけではなく「上げる」のだ。「狩る」だけではなく「出す」のだ。

そして、この「釣り上げる」とか「狩り出す」という言葉でエレミヤが言おうとしているのは、人を罪と悪の中から救い出すことです。「救出」です。

「人間をとる漁師にしよう」とイエスさまがおっしゃったとき、このエレミヤ書の御言葉を念頭に置いておられたと考えることができます。その意味は、人を罪から釣り上げる、救い出す、救出する漁師にしよう、ということです。

今日は次の段落まで読みました。イエスさまと弟子たちがカファルナウムに到着し、安息日に会堂で説教されたときのことが書かれています。そのとき、会堂にいた一人の男性が大声でイエスさまに向かって叫んだというのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(24節)。

わたしたちならどうでしょうか。この人は「汚れた霊に取りつかれた男」(23節)と呼ばれています。会堂でイエスさまが説教しておられる最中に大声で叫び、集会を妨害しました。他にも人が集まっている場所です。そのような人は出て行ってもらうべきでしょうか。そうしなければ他の人々の迷惑になります。集会の秩序が保てません。もしかしたら私もそのように考えてしまうかもしれません。

しかし、イエスさまはこの人を会堂から追い出されませんでした。「黙れ、この人から出て行け」と、この人に取りついていた汚れた霊をお叱りになりました。すると、汚れた霊はこの人から出て行った、というのです。

この場にいた人々は皆、驚きました。「これはいったいどういうことなのか。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(27節)。イエスさまの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まりました。

イエスさまがなさったことは何でしょうか。この人の中から汚れた霊を追い出すことでした。霊が出て行った後、その人はどうなったでしょうか。もちろん、正気に戻ったのです。

実は、これが「救い」です。そして「救出」です。

今日、二つの段落を続けて読んだのは、両者が関係していると思えたからです。「人間をとる漁師」の仕事は、人間を罪と悪から救い出すことです。「人間を罪と悪から救い出す」とは、人間の中にすみついている汚れた霊を追い出すことです。これは同じことを意味しています。

そして、罪と悪が出て行った後の人間は、正気に戻るのです。「人間」そのものは、罪でも悪でもないのです。

イエスさまの「伝道」とは、人間を罪と悪の中から救い出すことでした。その仕事をイエスさまは伝道仲間と一緒にお始めになったのです。

(2014年8月17日、松戸小金原教会主日礼拝)

2014年8月11日月曜日

うちの岩波文庫が292冊になりました


「面白くない」とか言いながら、また落札してしまった。岩波文庫、292冊目。まだまだ。

関口康蔵書 岩波文庫一覧(2014年8月11日現在)

うちの岩波文庫が292冊になり、他にも大量に本がある中で考えさせられるのは「現代はたくさん本がある」ということだけではない。2千年前の人にも、その人にとっての2千年前の人たちがいたし、それ以降の人たちがいた。その人たちが考え、話し、書いた言葉は、残ってないが、大量に存在したのだ。

もちろん本を書く人たちの、はっきり言えば実力差は、歴然としてある。これは否定しないでおく。字を書き、本としてまとめることをなめてはならないと思うからだ。時間とお金があれば本の形にすることはできよう。しかし、駄作は確実に淘汰される。ただ、本の形でなくても、思想の伝達は可能である。

脱線しそうになった。我々にとっての過去の人たちが書き残した大量の字と本の中に、読み継がれるべき重要なものと、あまり価値のないものとがある、と言いたかった。キリスト教史にも古代ではこの人、中世ではこの人、宗教改革期ならこの人、現代ではこの人と名指されるキーパーソンは間違いなくいる。

だが、錯覚の罠にかからないようにしよう。そんなトラップ踏みは私だけかもしれないが、歴史のキーパーソンだけの本を読んで、あたかも歴史のすべてが分かったかのような気になってしまう罠。有名人の本だけを読むことが悪いとは言えない。しかし歴史は有名人だけのものではない。無名な苦労人もいた。

人の存在の貴賎を言いたいのではない。本を書く人たちに実力差が歴然とあることは否定できないと言いたいだけだ。その意味での(その意味だけでの)主役と脇役が歴史にはいたと言える。うまく書ける人と、そうでない人がいた。うまく書ける人は、歴史の事実を(その人の観点や価値観から)書き残す。

私は何を言いたいのか。2千年前の人にも、その人にとっての2千年前やそれ以降の人がいた。その人たちの思想や言葉は、本の形でなくても伝達可能。私が考えるのはたとえば使徒パウロ。パウロの家に書斎があったら、パウロの手元にネットがあったら多種多様で大量の情報があったに違いないと思うのだ。

紙媒体の本を購入し、リアルの書斎のリアルの本棚に並べ、背表紙を毎日見ながら生活することは、それらの本を書いた人たちのリアルプレゼンスを実感できるきっかけにはなる。私の部屋の中に、多くの神学者や聖書学者、哲学者や社会学者がいる。そう言い切るとかえって怖いが、そうだと感じなくもない。

2014年8月6日水曜日

日記「ジンメルの『哲学の根本問題』がアツい!」


ゲオルク・ジンメル[1858-1918]の論文「哲学の根本問題」(1910年)を読んでいます。

いやもう、これはホントに「かゆいところに手が届く哲学」です。まるで十把一絡げの大雑把な議論で構成された「分かりやすい」売れ筋系の哲学を、鬼の形相で睨みつけていた人ではないかと空想します。

以下、引用。

「このような意味に解すれば、自己保存衝動によってわれわれのすべての意欲を統合することは、人間のいわゆる幸福衝動による統合よりもはるかに深いもののように私には思われる。人間は結局のところ快楽以外のものを求めはしないという主張は、ごく浅薄なシニシズムから生じてくることもあるし、またすぐれて社会的、否、社会主義的な性格のきわめて高貴な道徳の根底として利用されてもきたということは、興味のないことではない。おそらく、幸福主義的心理学のこの二つの担い手が合致するということは、この心理学が心的事実の個別的本質を見逃しているということを示唆しているのであろう。というのは、社会主義的教義が少なくともいまここで問題となっている形ではそうであるように、シニシズムの決定的思想傾向も一つの平準化的傾向であるからである。シニシズムは、諸事物の差異はみなひとしく無価値であり無意味であるとして、諸事物の本来的差異を否定してしまう。差異を認めることは不可避的に価値の差別を認めることになるというのである。シニシズムはいかなる価値をも認めないのだから、どうして価値の差別などを認めることができよう。しかしながら、心的諸事実の個別性に対する徹底的な無関心なしには、これらの事実をそれ自体無差別な幸福衝動ないし快楽衝動に還元することは不可能である。けれどもまた、そのような無関心をもってしては、この還元はまったく無内容なものとなる。なぜなら、学問的な、あるいはその他の客観的目標への労苦多い献身と気楽な享楽生活が、また政治的ないし宗教的な信念のための殉教的行為ときわめて卑怯な悪意や奸計が、また限りない犠牲と無際限な我意が、とにかくみなただ快楽という唯一究極の目標を追いかけていると言うのは、まことに抽象的な言い分であり、このように対立しているものすべてに対して同じ態度をとるためには、個々のものを高く超え出てゆかねばならず、かくしてもはや特殊な内容はまったく見えないことになるからである。」(「哲学の根本問題」『ジンメル著作集』第6巻p. 176-178

私なら「人間をバカにするのもいいかげんにしろ!」と声を荒げてしまいそうな場面で、ジンメルはぐっとこらえて、あくまでも理詰めで反論している。しかし、内なる情熱を隠さずにはいない。そのような文章だと思いながら読んでいます。

引用したジンメルの言葉を噛み砕くのは難しいですが、真面目に生きている人と不真面目に生きている人を「差別はいけない」の殺し文句で均等扱いしたうえで、「結局人間は快楽のために生きてんだよ」的に嘯く、キザと言えばキザ、バカと言えばバカなことを言う連中と対決している文章だと思います。

2014年8月5日火曜日

日記「ジンメルの『哲学の根本問題』を読みはじめました」


ゲオルク・ジンメル[1858-1918]への関心が私にあるのは、神学者ファン・ルーラー[1908-1970]がヒムナシウム時代に(!)カントの「純粋理性批判」やジンメルの「哲学の根本問題」を友人ザイデマと一緒に読んでいたという事実を、ファン・ルーラーの側の伝記で知らされたからだ。

それで昨日とうとう、ジンメルの「哲学の根本問題」日本語版(生松敬三訳)を入手した。ファン・ルーラーの伝記を最初に読んだのは1997年だ。お恥ずかしながら17年前どころか最近まで日本語版『ジンメル著作集』の存在すら知らなかった。にわかと言うなかれ。私の関心はファン・ルーラーにある。

しかし、昨夜から読みはじめたジンメルの「哲学の根本問題」(生松敬三訳)が面白い。哲学書にこれほど興奮するのは初めてかもしれない。実感するのは「かゆいところに手が届く哲学」だということだ。またファン・ルーラーへの影響関係もわりとはっきり分かる気がする。これはすごいことになってきた。

ジンメルの生い立ちや活動などはネットに書いてあることくらいしか私は知らない。深入りしたいとはあまり思わない。しかし、だらだら無駄話をしているようでは決してない硬質で簡素な哲学の文面に、哲学者としてというよりむしろ生活者としての「苦労」が滲み出ている。こんな哲学を読むのは初めてだ。

ジンメルはたとえば次のように書いている。

「芸術への長い献身的な求愛はあの芸術作品の内面的な追創造(ナッハシャフェン)による理解でもってはじめてむくいられるのと同じく、哲学体系の抽象的で硬直した概念は、長いこと哲学体系に心を砕き、その深部での興奮を求めて努力した者の眼にのみ、概念内部の激しい動き、そこに息づいている世界感情の広がりを開いて見せてくれる。こうした内部的過程の生動性は哲学にあっては概念という結晶形態をとっているわけだが、哲学をこの内部的過程から理解すること―このような理解を容易ならしめるという仕事を、もし私の思いちがいでないとすれば、これまでの哲学史叙述はあまり問題としていない。むしろ、ふつう哲学史は思考の諸成果の最終的な、いちばん明確なものを叙述している。ところが、そうした論理的に完結した形態は、創造過程の生き生きと連続した流れからはもっとも遠くはなれたものなのである。」『ジンメル著作集』第6巻p9-10

私は哲学に関心はあるが、深いことは分からない。神学のことなら少し分かる。神学はもっとひどい。そのように上のジンメルの言葉を読んで思った。「聞きたいのは結論だけだ。プロセスの長い説明は時間の無駄だ。正解を簡潔に述べよ」。他ならぬ教会が、神学にその程度の期待しかしなくなっている。

ファン・ルーラーの神学は違う。徹底的にプロセスとディティールにこだわる神学だ。講義中のファン・ルーラーはいつも輝くような笑顔で話していたらしい。しかしそれでも学生にとっては鬼のように怖い、小うるさい先生だったようだ。体系を守るためにディティールを犠牲にするようなことを嫌ったからだ。

そのようなファン・ルーラーのスタンスにジンメルの影響がどれくらいあるかは分からない。ファン・ルーラーの伝記に書いてあるのは、ヒムナシウム時代にジンメルの「哲学の根本問題」を読んでいた、ということだけだ。しかし、ジンメルとファン・ルーラーは同一の方向を向いていると私は思う。

2014年8月4日月曜日

岩波文庫に改革派を

オークションで岩波文庫を大量に蒐集したが、集めたこと自体に安心したのか読書欲がイマイチわかない。一冊一冊開いてみるが、面白いと思えるものはほとんどない。ツイッターやfacebookの友達の書き込みのほうがはるかに面白い。古典を読むことは私にとっては苦痛以外の何ものでもないらしい。

オークションで大量に買い集めた岩波文庫をイマイチ読む気がしないことには決定的で致命的でさえあるもう一つの理由があることは分かっている。要は私にぴたっと来る本がないのだ。哲学でも社会学でも文学でもカトリックの人やルター派の人が書いているのはわりとあるが、改革派の人のはほとんどない。

哲学や社会学や文学にカトリックもルター派も改革派もない、そんなことを期待すること自体が間違っている、と思われてしまうかもしれないが、背景が違う人のものを読むと、直接キリスト教のことや宗教のことに言及されていなくても、相性とか肌合いといったレベルの微妙なところで、たいていずれる。

背景の違う人の本を読みたくないと言いたいのではない。そういうのは悪しきセクト主義だろう。それは分かっているつもりだ。だけど、岩波文庫にかぎらず文庫本に私がある程度期待するのは、リラックスしたいときの読み物としての役割だ。疲れた心を鼓舞し、応援してくれるようなものを読みたいと思う。

しかし、そういうのがない。ぴたっと来る本がない。実はあるのかもしれず、私が知らないだけかもしれないが、少なくとも私には見当たらない。文庫サイズに限らず。だから読んでもちっとも心が休まらない。そう20年くらい感じてきた。それが、無理にオランダ語の本を読みはじめた動機になったほどだ。

でも、それも10年前の状況だ。疲れたとき辞書と首っ引きでファン・ルーラーの本でリラックスできたのは、それだけの体力や気力があったからだ。今はそういうのが根こそぎ持って行かれた感覚がある。イチャモンとかつけないし、ちゃんと買うので、どなたかに分かりやすい日本語に訳していただきたい。

傍若無人なわがままを書き散らすばかりで申し訳ないが、「顔が汚れて力が出ないアンパンマン」状態の日曜日の夜の改革派牧師が、それを読んで鼓舞され、勇気づけられ、元気になれるような、分かりやすい日本語の本が欲しい。そういう本が今は「無い」と感じられること自体は悲劇だと自覚している。

2014年7月24日木曜日

ブログのタイトルを「作文練習帳」に変更しました

再開拙ブログの方向がやっと定まりました。

2008年の元日に開設したブログです。何をしたかったかを思い出しました。

ファン・ルーラーを翻訳する日本語を磨く必要を痛感したのです。

ブログは「作文練習帳」でした。

原点に立ち返ることにしました。

2014年6月25日水曜日

超訳教義学要綱草稿



この本に収録されたぼくの講義は、かつてはボンの選帝侯が住んでいたという壮麗なお城の中でおこなったものです。お城の中にボン大学が作られたのですね。でも、ぼくがこの講義をしたとき、お城はほとんど廃墟の状態でした。だって、1946年の夏だったわけですからね。

講義はね、みんなが元気になるように、ジュネーヴ詩編歌か賛美歌を歌ってから始めました。朝7時の開始ですよ。だって、8時になると、ぶっ壊れた建物の残骸を細かく砕いたり、新しく建て直したりする工事が中庭あたりで始まって、その音がうるっさくてね。

ちょっと面白い話しますけどね、ほんとにもうグッチャグチャに壊れた建物のがれきの中を、ぼくが興味本位で歩いてたら、シュライアマハー先生の胸像が無傷のままで倒れてるのを見つけちゃいました。それはあとでちゃんと保管されて建て直されたようですけどね。

ぼくの講義を聴いてくれたのは、半分くらいは神学部の学生たちでしたけど、もう半分かそれ以上は他の学部の学生たちでした。今のドイツ人たちは、いろんな形で、いろんなところで、めいっぱいの苦労をして、生き延びてきたんです。そういう姿が、ぼくの講義を聴いてくれた学生たちにも滲み出てましたよ。

ぼくはもうずっと前から雑誌だ新聞だでさんざん叩かれてきた人間で、しかもドイツ人じゃないしね。学生たちには、ぼくは珍しかったでしょうね。でも、ぼくのほうから見ても、やっと笑うことを覚えはじめたばかりのような、まだまだしかめっ面の彼らの姿は、目の奥に焼き付いてますよ。ぼくは、この講義の情景を一生忘れない。

だしね、たまたまのことですけど、この講義はぼくのちょうど50回目の学期だったんです。終わったときに思ったことは、この学期がいちばん素晴らしかった、ということです。

でも、じつは、この講義を本にすることは、けっこう悩んだんですよね。

だってもうね、ぼくは1935年に『われ信ず』(Credo)という本を出し、1943年には『教会の信仰告白』(Confession de la Foi de l’Eglise)という本を出しましたが、どちらも使徒信条を講解したものです。なので、この本で使徒信条の講解は三冊目になるわけですが、この本をじっくり読んでいただけばすぐにバレてしまうのですが、新しい内容はほとんど全く出てきません。まして、ぼくの『教会教義学』を読んでくれちゃってる人たちにとっては、何をかいわんやです。

そして、ぼくはそのとき生まれて初めてやったことなのですが、きちんと書いた完全原稿なしでしゃべりました。レジュメに書いたいくつかの命題だけを配ってね、それを見ながら、自由にしゃべりまくったんです。だって、言っちゃ悪いけど、ほとんど原始時代のような状態のドイツの中で話したわけですよ。だからぼく自身も、原始人になってね、原稿を「読む」んじゃなくて、「しゃべる」ことが必要だと思ったんですよ。

そのぼくのおしゃべりを速記してくれた人がいましてね。もちろん、ぼくもちょっとくらいは手を入れましたけど、とにかくそういうものです、この本は。

ぼくはこれまではけっこう物事を厳密に扱うことのために努力してきた人間だし、今でもそのつもりです。だけど、この本に限っては、いろんな点で厳密ではないです。最後のあたりは、ぼくの都合で急がなくてはならなくなってますし、この講義以外のことで身辺が多忙になってしまっていたことがバレてしまうような内容です。

まあ、でも、生(なま)というかライブ感覚というのを分かる人には、この本の欠点こそが、逆にこの本の良いところだと思ってもらえるかもしれません。このときぼくはトークライブをやらかしたのですが、ぼく自身、しゃべっている間、楽しくて仕方なかったんです。

でも、それが活字として印刷されますとね、欠点があることに気づいています。その欠点をあげつらって批判する人がいても、ぼくは別に構わないと思っています。恨んだりはしません。

もとはといえば、ツォリコン出版社の社長さんが、「この本を出版しろ」とぼくに圧力をかけてきたので仕方なく出すことにしたんですけどね。ぼくもそれを承知したわけですけど。でも、これを出版する気になったことには理由がある。

ぼくは他の本ではもっと厳密に書いてきましたし、あるいはもっと簡潔に書いたところもあります。でも、それは、ほんの一握りの人にしか分からないマニアックな話です。だから、この本のような、ざっくりした話し方で書かれた本があれば、マニア向けの話の分かりやすい説明になるのではないかと思ったんです。

マニアじゃない人たちにとってもね、この本が「時の間」の(ドイツに限らず)新しい一時代の記録のようなものになっているという理由で(そのつながりははっきりとは分からないと思いますけどね)、この本を読んで嫌な思いを感じる人はいないんじゃないかなと思っています。

もう一つ言えば、そもそも使徒信条というのは、この本の中でぼくがしゃべっているような、まさにこういう口ぶりやテンポで説明されるほうがよいものではないか、いや、そうすべきなのではないか、ということも、この本を出版することを決めたときに自分に言い聞かせたことです。

もしこの本を誰かに献呈するとしたら、1946年の夏、ぼくのこの講義を聴いてくれたボン大学の学生たちと聴講生たちに献呈します。

ぼくは、きみたちと一緒に、この講義をしている間(そりゃ当たり前のことだね)、本当に幸せな時間を過ごしたよ!

1947年2月、バーゼル

13 我らの主

えっと、皆さんにお配りしたレジュメに、毎度のように私が考えた短い命題を書いていますが、その命題でいいか、別の命題を持ってくるかで、迷いました。

別の命題と言いますのは、その出どころはマルティン・ルターの『小教理問答』です。使徒信条第二項についてのルターの解説文です。

「わたしは、父から永遠の中に生まれたまことの神であって、おとめマリヤから生まれたまことの人イエス・キリストが、わたしの主であると信じます」(聖文社、改訂新版第2版、1987年、15ページ)。

この一言でルターは使徒信条第二項の内容全体を語っています。もちろん、使徒信条の原文を見れば、ルターの解釈はかなり自分に引き寄せた解釈っぽいことが分かります。だけど、その我田引水性とでも言うのか、ルターのそれは、ものすごく天才的なものでした。それだけははっきり言えます。

どこが天才的なのか。使徒信条に書かれている最も根本的で最も単純な命題である「主イエス・キリスト」(Kyrios Jesus Christus)に立ちかえっているところです。使徒信条の第二項には「主イエス・キリスト」以外の言葉もたくさん出てきます。しかし、ルターはそれらすべてを一括したうえでギリギリの分母を求めたのです。

2014年6月22日日曜日

俗悪な無駄話を避けなさい(夕拝説教)


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テモテへの手紙二2・14~19

「これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、その言葉は悪いはれ物のように広がります。その中には、ヒメナイとフィレトがいます。彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、『主は御自分たちを知っておられる』と、また『主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである』と刻まれています。」

先月は第四日曜日の午後にチャペルコンサートがありましたので、夕拝を休会にしました。それで少し間があきましたが、今日の夕拝から、テモテへの手紙二の学びを再開したいと思います。

これは使徒パウロが後輩伝道者テモテに書き送った手紙として、教会の歴史の中で伝えられてきたものです。皆さんの中には聖書やキリスト教の最近の書物を多く読まれる方もおられると思います。最近の書物の中には、この手紙はパウロが書いたものではなく、パウロの名を借りた人が書いていると説明しているものがかなりあります。そういう書物を読んでおられる方のために、その点について触れておく必要を感じます。

なぜそのように言えるのかという説明の中に、パウロの他の手紙と比べて、用いられている文体や用語がかなり異なっているというのがあります。それは、たしかにそのとおりなのです。ですから、そのことを理由に(理由は他にもありますが)、この手紙は使徒パウロが書いたものではない、と説明することは不可能ではないと私も思います。

しかし、私は別のことを考えます。何を考えるのか。わたしたちでもしょっちゅうするのは、公の言葉づかいとごく親しい身内相手の言葉づかいとを使い分けることです。官公庁が公式文書に用いるような言葉と親しい仲間同士の間で用いる言葉とは違っていて然るべきです。そういう区別をパウロがしなかったと言えるでしょうか。

私はパウロが書いたかどうかという点については賛成も反対もしません。どちらの立場もそれなりの言い分があると思います。しかし、私の感覚から言わせていただけば、パウロが書いた手紙であると考えるほうが、面白い結論が出てきそうな気がします。

教会は秘密主義なのかと誤解されるのは困るのですが、現実の教会があつかう問題の多くは、微妙でデリケートな事柄ばかりです。そのようなことについて、牧師同士がひそひそ話をしているという様子を想像していただくとよいかもしれません。

テモテへの手紙の内容は、そのような、教会内部に起こる微妙な問題ばかりで、それらをめぐって秘密裏におこなった牧師同士の会話だと考えると腑に落ちる部分が多くあります。パウロの他の手紙とは文体や用語が違うのでパウロの手紙ではないと言ってしまいますと、いま申し上げたような興味深い可能性を失ってしまう気がするのです。

今日お読みしました個所に書かれていることも、微妙と言えば微妙な話です。「これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい」(14節)と書かれていますが、「人々」とは教会の人々です。おそらくは牧師テモテが牧会する教会の人々のことであり、それはもちろんクリスチャンです。

そのクリスチャンである人々に対してパウロが書いていることは、「言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい」というわけです。裏返して言えば、クリスチャンの中にも、人の言葉をあげつらうような人がいる、ということです。

ただ、この「言葉をあげつらう」という訳は、少し訳しすぎではないかという印象を私は持ちます。原文の言葉を単純に訳せば「言い争う」です。言い争いは教会の中でも起こりうることを、パウロは知っています。だからこそ、そうならないようにテモテに注意しているのです。

それに続く「そのようなこと」とは「言葉をあげつらうこと」または「言い争うこと」です。そのようなことは「何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです」とパウロは書いています。「聞く者」は教会です。その言い争いの場は教会の中ですから、聞くのは教会の人々です。「聞く者を破滅させる」とは、教会に悲惨な結果を招くことになるということです。

すでにパウロはその悲惨な結果を体験済みでした。「あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます」(1・15)。だからこそ、パウロはテモテに自分と同じ苦労や悲劇を味わわせたくなかったのです。

「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」(15節)。これは説明の必要がないほど論旨明快な言葉だと思います。

「適格者と認められて」とあるのは、今のわたしたちでいえば説教免許とか教師試験とかのようなことがパウロの時代から行われていた可能性を感じる言葉です。実際の試験がどういうものだったかは分かりませんが、何らかの試験はおそらくあったのではないかという印象です。

そしてそれに続く言葉が「俗悪な無駄話を避けなさい」(16節)です。緊張感ある言葉です。そしてまた、この文脈でこの言葉がいきなり出てくると誤解されてしまうところが出てくるかもしれません。パウロが書いているのは、狭い意味での教師、牧師、説教者だけの話ではないのかもしれませんが、この文脈で言われると牧師たちは説教以外のときは黙っていなくてはならなくなります。牧師は聖書の言葉だけを語ってほしい。あとは黙ってほしいという話になりますと、息が詰まってしまいます。

翻訳の問題があるかもしれません。「俗悪な無駄話」と訳されていますが、この「俗悪(ぞくあく)」と「悪(あく)」の字がついて悪者(わるもの)呼ばわりされてしまっていますが、この言葉を原文で確認するかぎり、これは「世間の話」というくらいの意味だと思います。

この単語の中に「敷居」という字が含まれています。字義どおり訳せば「敷居が低い」とか「敷居がない」です。その敷居は、教会の内と外を隔てる敷居です。その敷居を踏み越えている話かどうかが問われているのです。

その意味では「俗悪な無駄話」はやはり訳しすぎです。実際の意味は、教会の中に「世間の話」を持ち込みすぎないほうがよい、教会の敷居を低くしすぎないほうがよい、ということです。

世間の評価、世間の肩書き、世間の付き合い。それらすべてが悪いわけではありません。新共同訳は「俗悪」と呼んでしまっていますが。

しかし、そのようなものを教会の中に持ち込むべきではありません。教会には教会固有の判断があります。教会らしい言葉があります。

敷居を取り去りすぎないでください。そういうことをすると、教会が壊れます。教会でない、別の団体になります。

そのことをパウロは警戒し、パウロにその危険を伝え、警戒を促しているのです。

(2014年6月22日、松戸小金原教会主日夕拝)