2014年8月17日日曜日

主イエスは漁師たちを弟子にしました

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
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マルコによる福音書1・16~28

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。』イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広がった。」

先週からマルコによる福音書を読みはじめました。

この福音書にはイエスさまがお生まれになったときのことや子どもの頃のことが書かれていません。いきなり大人のイエスさまが登場します。他の福音書のように、結婚する前のマリアからお生まれになったとか、そのことを天使が知らせたというような、出生についての神秘的な説明はありません。ヨハネから洗礼を受けて、神の国の福音を宣べ伝える伝道者になられたところから始まっています。

その理由を考えてみました。あくまでも一つの可能性です。マルコはわたしたちと同じ人間としてのイエスさまを描こうとしています。わたしたちと同じ普通の人間としての、伝道者としてのイエスさまを描こうとしています。

もう一つのことを申し上げておきます。わたしたちが伝道の働きに就くときにも「模範」とすべき存在が必要です。だれを模範にするかは自由です。身近な教師や長老かもしれませんし、外国人かもしれませんし、歴史上の偉人かもしれません。しかし、教会の歴史を最後までさかのぼって、イエスさまを模範にすることも可能です。

イエス・キリストは神の御子であり、御子なる神であり、救い主である。その方を模範にすることは神の御子を人間的な次元に引きおろすことになるのではないかという心配は御無用です。マルコはイエスさまをわたしたちと全く同じ地平に立つ人間存在として描いています。そのように描くことができるのは、イエスさまとわたしたちには共通点があるからです。もし共通点があるのなら、わたしたちはイエスさまを「模範」にしてもよいのです。

今日お読みした個所に記されているのは、伝道者になられたイエスさまが最初になさった仕事です。それは御自分と一緒に働く伝道仲間を集めることでした。

もちろん彼らはイエスさまの弟子になりました。彼らは弟子です。しかし、彼らはイエスさまと一緒に伝道しました。それが大事です。彼らは見ていただけではありません。彼らも働きました。その意味で彼らはイエスさまの伝道仲間なのです。

しかしまたそれは、すべての福音書の結末を先取りして言えば、イエスさまが十字架におかかりになって地上の生涯を終えられた後、伝道を続ける人を選ぶことでもあったと考えることができます。これは大げさな言い方ではありません。イエスさまの弟子集めの理由は、御自身が死ぬためでした。イエスさまは死んで彼らに伝道を任せる。イエスさまは伝道の後継者をお選びになったのです。

イエスさまが最初に声をかけたのはガリラヤ湖の漁師たちでした。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」(16節)。「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(19節)と記されています。

最初に出てくる「シモン」が、後のペトロです。ペトロはイエスさまがお付けになった名前です。他の書物に出てくる「ケファ」も同一人物です。「ペトロ」も「ケファ」も、その意味は「岩」です。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16・18)とイエスさまがおっしゃった、教会の土台となる固い岩です。

このようにしてイエスさまは、ガリラヤ湖の漁師たちを伝道仲間にしました。イエスさまは彼らの姿を御覧になったのと同時に、彼らの漁師としての仕事ぶりを御覧になりました。そのイエスさまが彼らに次のように言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)。

もちろん人間は魚ではありません。人間は人間です。そのことはイエスさまも分かっておられます。イエスさまがおっしゃったことは、あくまでもたとえです。あなたがたはいま、漁をしている。そのあなたがたの力と技術を、伝道のために用いてください、とおっしゃっているのです。

シモンとアンデレは、イエスさまの呼びかけにすぐに応じました。「二人はすぐに網を捨てて従った」(17節)と記されているとおりです。潔い決断だったという印象を受けます。彼らが決断したことは、転職です。仕事を変えること。漁師の仕事をやめて伝道の仕事に就くことです。

彼らが転職する決断に至った理由はひとえに、イエスさまの呼びかけに応じたいと思ったからです。漁師の仕事に不満があったとか、別の仕事をしたいと願っていたということではありません。

ただ、イエスさまは、漁師の仕事と伝道の仕事との間に共通点を見出しておられます。だからこそイエスさまは彼らに「人間をとる漁師にしよう」とおっしゃったのです。彼らのほうも、イエスさまからそのように言われて納得したのです。イエスさまの言葉を聞いて、漁師の仕事と伝道の仕事との間には共通点があるということに気づいたのです。だから、すぐにイエスさまに従うことができたのです。仕事上の経験や技術が応用できる。そのことを、彼らが理解したのです。

どこが似ているのでしょうか。手がかりは聖書に書かれていることだけです。それはイエスさまが彼らに言われた「人間をとる漁師にしよう」という言葉です。しかし、原文を見ますと、「をとる」は新共同訳聖書による補足だと分かります。原文には「人間の漁師」(ハリエウス・アントローポーン)と書かれているだけです。

それではイエスさまはやはり、人間は魚に過ぎないとおっしゃっているのでしょうか。人間などは、網を張り、罠を仕かけてごっそりかき集めるだけの獲物だとおっしゃっているのでしょうか。

もちろん違います。イエスさまはそのようなことをお考えになる方ではありえません。別の意図を考えなくてはなりません。しかし手掛かりは聖書に書かれていることだけです。聖書の中をいろいろと探してみる必要があります。

見つかりました。旧約聖書の次の御言葉です。「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる」(エレミヤ書16・16)。

考えられることは、イエスさまはこのエレミヤ書16・16の御言葉を念頭に置かれながらガリラヤ湖の漁師たちに声をおかけになったということです。その可能性は十分あります。イエスさまはいつも旧約聖書の御言葉を心にとめておられました。

そして、このエレミヤ書の御言葉で重要なのは、漁師の働きについては「彼らを釣り上げること」と言い、狩人の働きについては「彼らを狩り出すこと」と言っていることです。この「彼ら」とは、神の民イスラエルのことです。神が、御自身の御国を与えると約束された民です。

新共同訳がとても上手に訳しているのは「釣り上げる」とか「狩り出す」という言葉です。「釣る」と「上げる」、また「狩る」と「出す」を複合した言葉で訳しています。これによって複合的な動きを表現できます。「釣る」だけではなく「上げる」のだ。「狩る」だけではなく「出す」のだ。

そして、この「釣り上げる」とか「狩り出す」という言葉でエレミヤが言おうとしているのは、人を罪と悪の中から救い出すことです。「救出」です。

「人間をとる漁師にしよう」とイエスさまがおっしゃったとき、このエレミヤ書の御言葉を念頭に置いておられたと考えることができます。その意味は、人を罪から釣り上げる、救い出す、救出する漁師にしよう、ということです。

今日は次の段落まで読みました。イエスさまと弟子たちがカファルナウムに到着し、安息日に会堂で説教されたときのことが書かれています。そのとき、会堂にいた一人の男性が大声でイエスさまに向かって叫んだというのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(24節)。

わたしたちならどうでしょうか。この人は「汚れた霊に取りつかれた男」(23節)と呼ばれています。会堂でイエスさまが説教しておられる最中に大声で叫び、集会を妨害しました。他にも人が集まっている場所です。そのような人は出て行ってもらうべきでしょうか。そうしなければ他の人々の迷惑になります。集会の秩序が保てません。もしかしたら私もそのように考えてしまうかもしれません。

しかし、イエスさまはこの人を会堂から追い出されませんでした。「黙れ、この人から出て行け」と、この人に取りついていた汚れた霊をお叱りになりました。すると、汚れた霊はこの人から出て行った、というのです。

この場にいた人々は皆、驚きました。「これはいったいどういうことなのか。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(27節)。イエスさまの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まりました。

イエスさまがなさったことは何でしょうか。この人の中から汚れた霊を追い出すことでした。霊が出て行った後、その人はどうなったでしょうか。もちろん、正気に戻ったのです。

実は、これが「救い」です。そして「救出」です。

今日、二つの段落を続けて読んだのは、両者が関係していると思えたからです。「人間をとる漁師」の仕事は、人間を罪と悪から救い出すことです。「人間を罪と悪から救い出す」とは、人間の中にすみついている汚れた霊を追い出すことです。これは同じことを意味しています。

そして、罪と悪が出て行った後の人間は、正気に戻るのです。「人間」そのものは、罪でも悪でもないのです。

イエスさまの「伝道」とは、人間を罪と悪の中から救い出すことでした。その仕事をイエスさまは伝道仲間と一緒にお始めになったのです。

(2014年8月17日、松戸小金原教会主日礼拝)