2014年8月5日火曜日

日記「ジンメルの『哲学の根本問題』を読みはじめました」


ゲオルク・ジンメル[1858-1918]への関心が私にあるのは、神学者ファン・ルーラー[1908-1970]がヒムナシウム時代に(!)カントの「純粋理性批判」やジンメルの「哲学の根本問題」を友人ザイデマと一緒に読んでいたという事実を、ファン・ルーラーの側の伝記で知らされたからだ。

それで昨日とうとう、ジンメルの「哲学の根本問題」日本語版(生松敬三訳)を入手した。ファン・ルーラーの伝記を最初に読んだのは1997年だ。お恥ずかしながら17年前どころか最近まで日本語版『ジンメル著作集』の存在すら知らなかった。にわかと言うなかれ。私の関心はファン・ルーラーにある。

しかし、昨夜から読みはじめたジンメルの「哲学の根本問題」(生松敬三訳)が面白い。哲学書にこれほど興奮するのは初めてかもしれない。実感するのは「かゆいところに手が届く哲学」だということだ。またファン・ルーラーへの影響関係もわりとはっきり分かる気がする。これはすごいことになってきた。

ジンメルの生い立ちや活動などはネットに書いてあることくらいしか私は知らない。深入りしたいとはあまり思わない。しかし、だらだら無駄話をしているようでは決してない硬質で簡素な哲学の文面に、哲学者としてというよりむしろ生活者としての「苦労」が滲み出ている。こんな哲学を読むのは初めてだ。

ジンメルはたとえば次のように書いている。

「芸術への長い献身的な求愛はあの芸術作品の内面的な追創造(ナッハシャフェン)による理解でもってはじめてむくいられるのと同じく、哲学体系の抽象的で硬直した概念は、長いこと哲学体系に心を砕き、その深部での興奮を求めて努力した者の眼にのみ、概念内部の激しい動き、そこに息づいている世界感情の広がりを開いて見せてくれる。こうした内部的過程の生動性は哲学にあっては概念という結晶形態をとっているわけだが、哲学をこの内部的過程から理解すること―このような理解を容易ならしめるという仕事を、もし私の思いちがいでないとすれば、これまでの哲学史叙述はあまり問題としていない。むしろ、ふつう哲学史は思考の諸成果の最終的な、いちばん明確なものを叙述している。ところが、そうした論理的に完結した形態は、創造過程の生き生きと連続した流れからはもっとも遠くはなれたものなのである。」『ジンメル著作集』第6巻p9-10

私は哲学に関心はあるが、深いことは分からない。神学のことなら少し分かる。神学はもっとひどい。そのように上のジンメルの言葉を読んで思った。「聞きたいのは結論だけだ。プロセスの長い説明は時間の無駄だ。正解を簡潔に述べよ」。他ならぬ教会が、神学にその程度の期待しかしなくなっている。

ファン・ルーラーの神学は違う。徹底的にプロセスとディティールにこだわる神学だ。講義中のファン・ルーラーはいつも輝くような笑顔で話していたらしい。しかしそれでも学生にとっては鬼のように怖い、小うるさい先生だったようだ。体系を守るためにディティールを犠牲にするようなことを嫌ったからだ。

そのようなファン・ルーラーのスタンスにジンメルの影響がどれくらいあるかは分からない。ファン・ルーラーの伝記に書いてあるのは、ヒムナシウム時代にジンメルの「哲学の根本問題」を読んでいた、ということだけだ。しかし、ジンメルとファン・ルーラーは同一の方向を向いていると私は思う。