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テモテへの手紙二2・14~19
「これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、その言葉は悪いはれ物のように広がります。その中には、ヒメナイとフィレトがいます。彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、『主は御自分たちを知っておられる』と、また『主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである』と刻まれています。」
先月は第四日曜日の午後にチャペルコンサートがありましたので、夕拝を休会にしました。それで少し間があきましたが、今日の夕拝から、テモテへの手紙二の学びを再開したいと思います。
これは使徒パウロが後輩伝道者テモテに書き送った手紙として、教会の歴史の中で伝えられてきたものです。皆さんの中には聖書やキリスト教の最近の書物を多く読まれる方もおられると思います。最近の書物の中には、この手紙はパウロが書いたものではなく、パウロの名を借りた人が書いていると説明しているものがかなりあります。そういう書物を読んでおられる方のために、その点について触れておく必要を感じます。
なぜそのように言えるのかという説明の中に、パウロの他の手紙と比べて、用いられている文体や用語がかなり異なっているというのがあります。それは、たしかにそのとおりなのです。ですから、そのことを理由に(理由は他にもありますが)、この手紙は使徒パウロが書いたものではない、と説明することは不可能ではないと私も思います。
しかし、私は別のことを考えます。何を考えるのか。わたしたちでもしょっちゅうするのは、公の言葉づかいとごく親しい身内相手の言葉づかいとを使い分けることです。官公庁が公式文書に用いるような言葉と親しい仲間同士の間で用いる言葉とは違っていて然るべきです。そういう区別をパウロがしなかったと言えるでしょうか。
私はパウロが書いたかどうかという点については賛成も反対もしません。どちらの立場もそれなりの言い分があると思います。しかし、私の感覚から言わせていただけば、パウロが書いた手紙であると考えるほうが、面白い結論が出てきそうな気がします。
教会は秘密主義なのかと誤解されるのは困るのですが、現実の教会があつかう問題の多くは、微妙でデリケートな事柄ばかりです。そのようなことについて、牧師同士がひそひそ話をしているという様子を想像していただくとよいかもしれません。
テモテへの手紙の内容は、そのような、教会内部に起こる微妙な問題ばかりで、それらをめぐって秘密裏におこなった牧師同士の会話だと考えると腑に落ちる部分が多くあります。パウロの他の手紙とは文体や用語が違うのでパウロの手紙ではないと言ってしまいますと、いま申し上げたような興味深い可能性を失ってしまう気がするのです。
今日お読みしました個所に書かれていることも、微妙と言えば微妙な話です。「これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい」(14節)と書かれていますが、「人々」とは教会の人々です。おそらくは牧師テモテが牧会する教会の人々のことであり、それはもちろんクリスチャンです。
そのクリスチャンである人々に対してパウロが書いていることは、「言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい」というわけです。裏返して言えば、クリスチャンの中にも、人の言葉をあげつらうような人がいる、ということです。
ただ、この「言葉をあげつらう」という訳は、少し訳しすぎではないかという印象を私は持ちます。原文の言葉を単純に訳せば「言い争う」です。言い争いは教会の中でも起こりうることを、パウロは知っています。だからこそ、そうならないようにテモテに注意しているのです。
それに続く「そのようなこと」とは「言葉をあげつらうこと」または「言い争うこと」です。そのようなことは「何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです」とパウロは書いています。「聞く者」は教会です。その言い争いの場は教会の中ですから、聞くのは教会の人々です。「聞く者を破滅させる」とは、教会に悲惨な結果を招くことになるということです。
すでにパウロはその悲惨な結果を体験済みでした。「あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます」(1・15)。だからこそ、パウロはテモテに自分と同じ苦労や悲劇を味わわせたくなかったのです。
「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」(15節)。これは説明の必要がないほど論旨明快な言葉だと思います。
「適格者と認められて」とあるのは、今のわたしたちでいえば説教免許とか教師試験とかのようなことがパウロの時代から行われていた可能性を感じる言葉です。実際の試験がどういうものだったかは分かりませんが、何らかの試験はおそらくあったのではないかという印象です。
そしてそれに続く言葉が「俗悪な無駄話を避けなさい」(16節)です。緊張感ある言葉です。そしてまた、この文脈でこの言葉がいきなり出てくると誤解されてしまうところが出てくるかもしれません。パウロが書いているのは、狭い意味での教師、牧師、説教者だけの話ではないのかもしれませんが、この文脈で言われると牧師たちは説教以外のときは黙っていなくてはならなくなります。牧師は聖書の言葉だけを語ってほしい。あとは黙ってほしいという話になりますと、息が詰まってしまいます。
翻訳の問題があるかもしれません。「俗悪な無駄話」と訳されていますが、この「俗悪(ぞくあく)」と「悪(あく)」の字がついて悪者(わるもの)呼ばわりされてしまっていますが、この言葉を原文で確認するかぎり、これは「世間の話」というくらいの意味だと思います。
この単語の中に「敷居」という字が含まれています。字義どおり訳せば「敷居が低い」とか「敷居がない」です。その敷居は、教会の内と外を隔てる敷居です。その敷居を踏み越えている話かどうかが問われているのです。
その意味では「俗悪な無駄話」はやはり訳しすぎです。実際の意味は、教会の中に「世間の話」を持ち込みすぎないほうがよい、教会の敷居を低くしすぎないほうがよい、ということです。
世間の評価、世間の肩書き、世間の付き合い。それらすべてが悪いわけではありません。新共同訳は「俗悪」と呼んでしまっていますが。
しかし、そのようなものを教会の中に持ち込むべきではありません。教会には教会固有の判断があります。教会らしい言葉があります。
敷居を取り去りすぎないでください。そういうことをすると、教会が壊れます。教会でない、別の団体になります。
そのことをパウロは警戒し、パウロにその危険を伝え、警戒を促しているのです。
(2014年6月22日、松戸小金原教会主日夕拝)