2014年8月4日月曜日

岩波文庫に改革派を

オークションで岩波文庫を大量に蒐集したが、集めたこと自体に安心したのか読書欲がイマイチわかない。一冊一冊開いてみるが、面白いと思えるものはほとんどない。ツイッターやfacebookの友達の書き込みのほうがはるかに面白い。古典を読むことは私にとっては苦痛以外の何ものでもないらしい。

オークションで大量に買い集めた岩波文庫をイマイチ読む気がしないことには決定的で致命的でさえあるもう一つの理由があることは分かっている。要は私にぴたっと来る本がないのだ。哲学でも社会学でも文学でもカトリックの人やルター派の人が書いているのはわりとあるが、改革派の人のはほとんどない。

哲学や社会学や文学にカトリックもルター派も改革派もない、そんなことを期待すること自体が間違っている、と思われてしまうかもしれないが、背景が違う人のものを読むと、直接キリスト教のことや宗教のことに言及されていなくても、相性とか肌合いといったレベルの微妙なところで、たいていずれる。

背景の違う人の本を読みたくないと言いたいのではない。そういうのは悪しきセクト主義だろう。それは分かっているつもりだ。だけど、岩波文庫にかぎらず文庫本に私がある程度期待するのは、リラックスしたいときの読み物としての役割だ。疲れた心を鼓舞し、応援してくれるようなものを読みたいと思う。

しかし、そういうのがない。ぴたっと来る本がない。実はあるのかもしれず、私が知らないだけかもしれないが、少なくとも私には見当たらない。文庫サイズに限らず。だから読んでもちっとも心が休まらない。そう20年くらい感じてきた。それが、無理にオランダ語の本を読みはじめた動機になったほどだ。

でも、それも10年前の状況だ。疲れたとき辞書と首っ引きでファン・ルーラーの本でリラックスできたのは、それだけの体力や気力があったからだ。今はそういうのが根こそぎ持って行かれた感覚がある。イチャモンとかつけないし、ちゃんと買うので、どなたかに分かりやすい日本語に訳していただきたい。

傍若無人なわがままを書き散らすばかりで申し訳ないが、「顔が汚れて力が出ないアンパンマン」状態の日曜日の夜の改革派牧師が、それを読んで鼓舞され、勇気づけられ、元気になれるような、分かりやすい日本語の本が欲しい。そういう本が今は「無い」と感じられること自体は悲劇だと自覚している。