2014年8月27日水曜日

牧師が一生の間に書きのこすことは何か

だれでもカール・バルトになれるわけではないし、なる必要もないが、日本語版『カール・バルト著作集』と『教会教義学』(いずれも新教出版社)を見ると、一人の牧師・神学者が一生の間に書きのこすことにはどのようなことがあるかについて、そのほぼ全貌を知ることができる。これは大いに参考になる。

日本語版『カール・バルト著作集』は次のような構成になっている。教義学論文集(第1~3巻)、神学史論文集(第4巻)、倫理学論文集(第5巻)、政治・社会問題論文集(第6~7巻)、単行本として出版されたもの(第8~15巻)、説教集(第16~17巻)。第18巻書簡集は刊行されなかった。

『カール・バルト著作集』の第8~15巻を「単行本として出版されたもの」と書いたが、ざっくりまとめすぎたかもしれない。第8~10巻が教義学関係、第11~13巻が神学史関係、そして第14~15巻が聖書注解。このように日本語版著作集は論理的に美しく整理されている。編集者の腕の見せ所だ。

しかし、今書いていることの趣旨は神学の中身を詳細に分類することではない。むしろ逆にできるだけ大づかみに考えたい。『カール・バルト著作集』の教義学論文集、神学史論文集、倫理学論文集、また単行本の教義学関係、神学史関係、聖書注解までをすべて「神学論文」の一言でまとめておくことにする。

ここで考えるべき問題は、第6~7巻の「政治・社会問題論文集」と第16~17巻の「説教」をどのように分類すればよいかだ。「説教」が「神学論文」とは区別されることは大方の了解は得られると思うが、難しいのは「政治・社会問題論文集」と「神学論文」の関係だ。区別すべきか、すべきではないか。

異論はあるだろうが、結論を早めていえば、「政治・社会論文集」と「神学論文」は区別するほうがいいだろうと私は考えている。また、日本語版著作集では刊行されなかったので忘れそうになるが、第18巻「書簡集」もカテゴリー的に区別されて然るべきだろう。

さらに、巨大なる『教会教義学』のすべても「神学論文」に数えてしまうことにする。今しているのは大雑把な話だ。したがって、カール・バルトの生涯全著作は、ざっくり分ければ四種類になると私は考える。第一は「神学論文」、第二は「政治・社会論文」、第三は「説教」、そして第四は「書簡」である。

カール・バルトの「神学論文」と「政治・社会論文」を区別すべきかどうかが難しいのは、どちらの問題を考えるときもバルトの発想方法は一貫しているからだ。神学論文を書くときのバルトが「神学的に考えている」のは当然だが、政治・社会論文を書くときのバルトも、同じように「神学的に考えている」。

しかし私はやはりバルトの「神学論文」と「政治・社会論文」は区別するほうがよいと考える。理由は日本語版著作集「政治・社会問題論文集」(第6~7巻)の内容をご覧になると、ある程度理解していただけるはずだ。すべてではないが、かなり多くが「手紙」として書かれている。内容は時事問題である。

「時事問題」を軽んじる意図は私には皆無である。それだけは言っておきたい。しかし、実際には「時事問題」を扱っているバルトの「政治・社会論文」と「神学論文」(教義学、神学史、倫理学、聖書注解など)は一緒くたにしないほうがいい。ごちゃ混ぜにすると、まぎらわしいし、ややこしい。

バルトの場合、「神学的に考えている」という点では「説教」も「書簡」も同じだ。神学論文も、時事問題(政治・社会問題論文)も、説教も、そして(私的)書簡も、どれを書くときのバルトも常に「神学的に考えている」。それほど一貫した発想方法の持ち主だった。それだけは間違いない。

しかし、今書いているのはカール・バルトの場合に限った話だ。彼の全著作を四つに分類できる、第一は神学論文、第二は時事問題(と言い換えよう)、第三は説教、第四は(私的)書簡であると、このような順序で整理するのは、大学教授としてのバルトを考えているからだ。

バルトには、大学教授になる前、教会の牧師だった時代がある。牧師時代のバルトも、神学論文も、時事問題も、説教も、書簡も書いていた。しかし、「重要度」を言いたいのではないが、牧師の働きとしての「優先順位」をあえて言うとしたら、説教、書簡、時事問題、神学論文の順ではないだろうか。

そろそろまとめよう。バルトの生涯著作は雑に分ければ四種類になるという話をしてきた。最後に書いた「牧師的順序」でいえば、説教、書簡、時事問題、神学論文を書いた。それはバルトだけではなく、多くの牧師・神学者が同じようなことを書いてきた。昔から今に至るまで、そしてこれからも。

今の牧師・神学者は、かなり多くの人がネットを利用している。説教と時事問題はブログで、書簡はメールで、神学論文はPDFで書いたりしている。メールは原則非公開だが、各情報がばらばらにならないように、FacebookやTwitterのタイムラインに貼り付けて、時系列的に整理している。

牧師がネットを利用することに違和感を表明されることがいまだにあるのは私にとっては残念なことだが、こればかりは理解していただくほかはない。今の牧師たちが書いている内容は、過去の多くの牧師・神学者が書いてきたことと基本的に全く同じなのだ。説教、書簡、時事問題、神学論文である。

私の文体がしばしば「ちゃらい」のは、以前も書いたことがあるが、意図的な文体研究上の工夫をしているだけであって他意はない。いばるわけではないが、私はTPOに合わせて文体を使い分けることが苦手ではないほうだという自負がある。読者を想定しながら、できるだけ読みやすい文章を心がけている。

いちばん困るのは、今の高校生や大学生くらいの世代の方々に読んでもらえないかと自分で工夫して書いたつもりの文章を、70代80代くらいの人たち(私の親の世代ですな)が見て「牧師のくせにこんなふざけた文章を書くとは、けしからん」とか言い出されることだ。マジで参ります。やめてください。

最後は私の愚痴になりました。まあお許しください。