序
この本に収録されたぼくの講義は、かつてはボンの選帝侯が住んでいたという壮麗なお城の中でおこなったものです。お城の中にボン大学が作られたのですね。でも、ぼくがこの講義をしたとき、お城はほとんど廃墟の状態でした。だって、1946年の夏だったわけですからね。
講義はね、みんなが元気になるように、ジュネーヴ詩編歌か賛美歌を歌ってから始めました。朝7時の開始ですよ。だって、8時になると、ぶっ壊れた建物の残骸を細かく砕いたり、新しく建て直したりする工事が中庭あたりで始まって、その音がうるっさくてね。
ちょっと面白い話しますけどね、ほんとにもうグッチャグチャに壊れた建物のがれきの中を、ぼくが興味本位で歩いてたら、シュライアマハー先生の胸像が無傷のままで倒れてるのを見つけちゃいました。それはあとでちゃんと保管されて建て直されたようですけどね。
ぼくの講義を聴いてくれたのは、半分くらいは神学部の学生たちでしたけど、もう半分かそれ以上は他の学部の学生たちでした。今のドイツ人たちは、いろんな形で、いろんなところで、めいっぱいの苦労をして、生き延びてきたんです。そういう姿が、ぼくの講義を聴いてくれた学生たちにも滲み出てましたよ。
ぼくはもうずっと前から雑誌だ新聞だでさんざん叩かれてきた人間で、しかもドイツ人じゃないしね。学生たちには、ぼくは珍しかったでしょうね。でも、ぼくのほうから見ても、やっと笑うことを覚えはじめたばかりのような、まだまだしかめっ面の彼らの姿は、目の奥に焼き付いてますよ。ぼくは、この講義の情景を一生忘れない。
だしね、たまたまのことですけど、この講義はぼくのちょうど50回目の学期だったんです。終わったときに思ったことは、この学期がいちばん素晴らしかった、ということです。
でも、じつは、この講義を本にすることは、けっこう悩んだんですよね。
だってもうね、ぼくは1935年に『われ信ず』(Credo)という本を出し、1943年には『教会の信仰告白』(Confession de la Foi de l’Eglise)という本を出しましたが、どちらも使徒信条を講解したものです。なので、この本で使徒信条の講解は三冊目になるわけですが、この本をじっくり読んでいただけばすぐにバレてしまうのですが、新しい内容はほとんど全く出てきません。まして、ぼくの『教会教義学』を読んでくれちゃってる人たちにとっては、何をかいわんやです。
そして、ぼくはそのとき生まれて初めてやったことなのですが、きちんと書いた完全原稿なしでしゃべりました。レジュメに書いたいくつかの命題だけを配ってね、それを見ながら、自由にしゃべりまくったんです。だって、言っちゃ悪いけど、ほとんど原始時代のような状態のドイツの中で話したわけですよ。だからぼく自身も、原始人になってね、原稿を「読む」んじゃなくて、「しゃべる」ことが必要だと思ったんですよ。
そのぼくのおしゃべりを速記してくれた人がいましてね。もちろん、ぼくもちょっとくらいは手を入れましたけど、とにかくそういうものです、この本は。
ぼくはこれまではけっこう物事を厳密に扱うことのために努力してきた人間だし、今でもそのつもりです。だけど、この本に限っては、いろんな点で厳密ではないです。最後のあたりは、ぼくの都合で急がなくてはならなくなってますし、この講義以外のことで身辺が多忙になってしまっていたことがバレてしまうような内容です。
まあ、でも、生(なま)というかライブ感覚というのを分かる人には、この本の欠点こそが、逆にこの本の良いところだと思ってもらえるかもしれません。このときぼくはトークライブをやらかしたのですが、ぼく自身、しゃべっている間、楽しくて仕方なかったんです。
でも、それが活字として印刷されますとね、欠点があることに気づいています。その欠点をあげつらって批判する人がいても、ぼくは別に構わないと思っています。恨んだりはしません。
もとはといえば、ツォリコン出版社の社長さんが、「この本を出版しろ」とぼくに圧力をかけてきたので仕方なく出すことにしたんですけどね。ぼくもそれを承知したわけですけど。でも、これを出版する気になったことには理由がある。
ぼくは他の本ではもっと厳密に書いてきましたし、あるいはもっと簡潔に書いたところもあります。でも、それは、ほんの一握りの人にしか分からないマニアックな話です。だから、この本のような、ざっくりした話し方で書かれた本があれば、マニア向けの話の分かりやすい説明になるのではないかと思ったんです。
マニアじゃない人たちにとってもね、この本が「時の間」の(ドイツに限らず)新しい一時代の記録のようなものになっているという理由で(そのつながりははっきりとは分からないと思いますけどね)、この本を読んで嫌な思いを感じる人はいないんじゃないかなと思っています。
もう一つ言えば、そもそも使徒信条というのは、この本の中でぼくがしゃべっているような、まさにこういう口ぶりやテンポで説明されるほうがよいものではないか、いや、そうすべきなのではないか、ということも、この本を出版することを決めたときに自分に言い聞かせたことです。
もしこの本を誰かに献呈するとしたら、1946年の夏、ぼくのこの講義を聴いてくれたボン大学の学生たちと聴講生たちに献呈します。
ぼくは、きみたちと一緒に、この講義をしている間(そりゃ当たり前のことだね)、本当に幸せな時間を過ごしたよ!
1947年2月、バーゼル
13 我らの主
えっと、皆さんにお配りしたレジュメに、毎度のように私が考えた短い命題を書いていますが、その命題でいいか、別の命題を持ってくるかで、迷いました。
別の命題と言いますのは、その出どころはマルティン・ルターの『小教理問答』です。使徒信条第二項についてのルターの解説文です。
「わたしは、父から永遠の中に生まれたまことの神であって、おとめマリヤから生まれたまことの人イエス・キリストが、わたしの主であると信じます」(聖文社、改訂新版第2版、1987年、15ページ)。
この一言でルターは使徒信条第二項の内容全体を語っています。もちろん、使徒信条の原文を見れば、ルターの解釈はかなり自分に引き寄せた解釈っぽいことが分かります。だけど、その我田引水性とでも言うのか、ルターのそれは、ものすごく天才的なものでした。それだけははっきり言えます。
どこが天才的なのか。使徒信条に書かれている最も根本的で最も単純な命題である「主イエス・キリスト」(Kyrios Jesus Christus)に立ちかえっているところです。使徒信条の第二項には「主イエス・キリスト」以外の言葉もたくさん出てきます。しかし、ルターはそれらすべてを一括したうえでギリギリの分母を求めたのです。