2014年8月11日月曜日
うちの岩波文庫が292冊になりました
「面白くない」とか言いながら、また落札してしまった。岩波文庫、292冊目。まだまだ。
関口康蔵書 岩波文庫一覧(2014年8月11日現在)
うちの岩波文庫が292冊になり、他にも大量に本がある中で考えさせられるのは「現代はたくさん本がある」ということだけではない。2千年前の人にも、その人にとっての2千年前の人たちがいたし、それ以降の人たちがいた。その人たちが考え、話し、書いた言葉は、残ってないが、大量に存在したのだ。
もちろん本を書く人たちの、はっきり言えば実力差は、歴然としてある。これは否定しないでおく。字を書き、本としてまとめることをなめてはならないと思うからだ。時間とお金があれば本の形にすることはできよう。しかし、駄作は確実に淘汰される。ただ、本の形でなくても、思想の伝達は可能である。
脱線しそうになった。我々にとっての過去の人たちが書き残した大量の字と本の中に、読み継がれるべき重要なものと、あまり価値のないものとがある、と言いたかった。キリスト教史にも古代ではこの人、中世ではこの人、宗教改革期ならこの人、現代ではこの人と名指されるキーパーソンは間違いなくいる。
だが、錯覚の罠にかからないようにしよう。そんなトラップ踏みは私だけかもしれないが、歴史のキーパーソンだけの本を読んで、あたかも歴史のすべてが分かったかのような気になってしまう罠。有名人の本だけを読むことが悪いとは言えない。しかし歴史は有名人だけのものではない。無名な苦労人もいた。
人の存在の貴賎を言いたいのではない。本を書く人たちに実力差が歴然とあることは否定できないと言いたいだけだ。その意味での(その意味だけでの)主役と脇役が歴史にはいたと言える。うまく書ける人と、そうでない人がいた。うまく書ける人は、歴史の事実を(その人の観点や価値観から)書き残す。
私は何を言いたいのか。2千年前の人にも、その人にとっての2千年前やそれ以降の人がいた。その人たちの思想や言葉は、本の形でなくても伝達可能。私が考えるのはたとえば使徒パウロ。パウロの家に書斎があったら、パウロの手元にネットがあったら多種多様で大量の情報があったに違いないと思うのだ。
紙媒体の本を購入し、リアルの書斎のリアルの本棚に並べ、背表紙を毎日見ながら生活することは、それらの本を書いた人たちのリアルプレゼンスを実感できるきっかけにはなる。私の部屋の中に、多くの神学者や聖書学者、哲学者や社会学者がいる。そう言い切るとかえって怖いが、そうだと感じなくもない。