2014年8月6日水曜日

日記「ジンメルの『哲学の根本問題』がアツい!」


ゲオルク・ジンメル[1858-1918]の論文「哲学の根本問題」(1910年)を読んでいます。

いやもう、これはホントに「かゆいところに手が届く哲学」です。まるで十把一絡げの大雑把な議論で構成された「分かりやすい」売れ筋系の哲学を、鬼の形相で睨みつけていた人ではないかと空想します。

以下、引用。

「このような意味に解すれば、自己保存衝動によってわれわれのすべての意欲を統合することは、人間のいわゆる幸福衝動による統合よりもはるかに深いもののように私には思われる。人間は結局のところ快楽以外のものを求めはしないという主張は、ごく浅薄なシニシズムから生じてくることもあるし、またすぐれて社会的、否、社会主義的な性格のきわめて高貴な道徳の根底として利用されてもきたということは、興味のないことではない。おそらく、幸福主義的心理学のこの二つの担い手が合致するということは、この心理学が心的事実の個別的本質を見逃しているということを示唆しているのであろう。というのは、社会主義的教義が少なくともいまここで問題となっている形ではそうであるように、シニシズムの決定的思想傾向も一つの平準化的傾向であるからである。シニシズムは、諸事物の差異はみなひとしく無価値であり無意味であるとして、諸事物の本来的差異を否定してしまう。差異を認めることは不可避的に価値の差別を認めることになるというのである。シニシズムはいかなる価値をも認めないのだから、どうして価値の差別などを認めることができよう。しかしながら、心的諸事実の個別性に対する徹底的な無関心なしには、これらの事実をそれ自体無差別な幸福衝動ないし快楽衝動に還元することは不可能である。けれどもまた、そのような無関心をもってしては、この還元はまったく無内容なものとなる。なぜなら、学問的な、あるいはその他の客観的目標への労苦多い献身と気楽な享楽生活が、また政治的ないし宗教的な信念のための殉教的行為ときわめて卑怯な悪意や奸計が、また限りない犠牲と無際限な我意が、とにかくみなただ快楽という唯一究極の目標を追いかけていると言うのは、まことに抽象的な言い分であり、このように対立しているものすべてに対して同じ態度をとるためには、個々のものを高く超え出てゆかねばならず、かくしてもはや特殊な内容はまったく見えないことになるからである。」(「哲学の根本問題」『ジンメル著作集』第6巻p. 176-178

私なら「人間をバカにするのもいいかげんにしろ!」と声を荒げてしまいそうな場面で、ジンメルはぐっとこらえて、あくまでも理詰めで反論している。しかし、内なる情熱を隠さずにはいない。そのような文章だと思いながら読んでいます。

引用したジンメルの言葉を噛み砕くのは難しいですが、真面目に生きている人と不真面目に生きている人を「差別はいけない」の殺し文句で均等扱いしたうえで、「結局人間は快楽のために生きてんだよ」的に嘯く、キザと言えばキザ、バカと言えばバカなことを言う連中と対決している文章だと思います。