2013年4月30日火曜日

複数の方から「若く見える」と言われました


最近の驚き。

初対面の方や久しぶりの方複数(すべて男性)から「若く見えます」「若いですね」「若返りましたね」と言われました(汗)。

何の操作も細工もしてません(汗)。

そう言われて、ちょっとまた、うれしかったりする(汗)。

そういう、いまだかつて抱いたことがなかった自分の感覚に、二重の驚き(汗)。

状況は何も変わってないんですけどね(汗だく)。

う~ん、そうですね、強いていえば、最近わりとたくさん水(ミネラルウォーター)を飲むようになったくらいですかね。

以前は明けても暮れてもウーロン茶を飲んでましたけど、さすがに飽きました。

甘い飲み物やアルコールは元からそんなに飲まないんです。無糖のものが好きです。

紅茶もコーヒーも、ちょっと前までは、それを飲めば終わりでしたが、最近は紅茶やコーヒーのあとに、必ずたくさん水を飲みます。

他は何にもしてませんよ(汗)←あ、汗が出たら水分補給しなきゃ(笑)。

2013年4月28日日曜日

自分の父親と思って諭しなさい


テモテへの手紙一5・1~4

「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。」

こういう個所は「面白い」と思いながら読むことができる人と、必ずしもそうでないと感じる人とで分かれてしまうかもしれません。「老人」とか「やもめ」とかいう言葉がストレートに出てくることに抵抗があるという方がおられるかもしれません。

しかし間違いなく言えることは、西暦一世紀の教会の中での信徒同士の交わりの様子はこのようなものであったということです。私自身は「面白い」と思いながら読みましたし、「素晴らしいことだ」とも思いました。

教会の交わりというものが、まさに家族として、神の家族として、親子や兄弟姉妹として描かれています。そのようなものであるべきだと勧められてもいます。少なくとも、そのようなものが教会の理想的なあり方であるという思想があります。そのような理念があり、またそのような信仰があります。

しかしまた、ここで忘れてはならないことは、この手紙はやはり使徒パウロが年若い伝道者テモテに宛てて書いた手紙として読むべきだということです。その文脈から切り離して読むと、誤解されてしまう危険性があります。

この個所に書かれていることは、「若い牧師に対する先輩牧師のアドバイスの言葉」として読めば、パウロの意図をおそらく最も正確に理解することができるだろうと思います。この手紙にはすでに「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません」(4・11)と書かれていました。若い牧師が教会で大きな失敗をしないためにどういうことが大切なのかが、今日の個所に書かれているのです。

それが「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい」(1節)ということです。

この「老人」(プレスビテロス)は「長老」とも訳せる言葉です。しかし、教会役員としての「長老」には年齢の若い人がいますので、この個所の「長老」を教会役員としての長老だけに限定して考える必要はありません。それに、「長老を叱ってはなりません」と訳してしまうと奇妙な話になるでしょう。

そうでなく、この「老人」は高齢者です。若い人とは年齢が離れた、年上の教会員です。そういう相手を叱りつけてはいけませんとパウロはテモテに言っています。おそらくそのように言うパウロの意図は、高齢者の人間としての尊厳やプライドの問題です。高齢者のプライドを傷つけてはならないと言っているのです。

しかし、その一方で「自分の父親と思って諭しなさい」とも書いています。ここで用いられている場合の「諭す」(パラカレオー)という語の意味においては、教会の教師が信徒に教えたり指導したりすることを必ず含んでいますので、そもそも教えることや指導することを老人相手にしてはならないと言っているわけでもないのです。

「テモテよ、おまえは、年下の分際で、自分よりも年上である目上の人に向かって教えるだの指導するだのすること自体、たいへんけしからんことである。言語道断である」と、そのようなことを言っているわけではないのです。

つまり、ここでパウロが言っていることは、一方で若い牧師は高齢の教会員を叱りつけるようなことをしてはならないということです。しかし他方で、だからといって若い牧師は高齢の教会員を「諭す」責任を放棄してよいわけでもないということです。

それで私に思い当たるパウロの意図は、教会の牧師たちは教会員に対して“言い方を間違えてはならない”というあたりのことです。

同じことを言うのでも、厳しく冷たく吐き捨てるように叱り飛ばすようなやり方と、そうでないのとでは、伝えようとしている事柄の伝わり方や相手の反応が全く違います。

もし牧師や長老が教会員に求めることがあるとすれば、聖書のみことばに従って正しく生きるようになってもらいたいということだけです。まるで自分が権威者であるかのようにふるまい、自分の権威に従わせることが目的であるような牧師や長老では困ります。教会が完全に壊れてしまいます。

この個所を読んでいて私に伝わってくるパウロの思いがあるとしたら、それは、教会における人間関係は非常にデリケートなものだということです。そのデリケートな関係を大切に守らなければならない。土足で踏みにじるようなことをしてはならない。牧師や長老が率先して教会を壊すようなことをしてはならない。パウロがテモテに言おうとしていることは、そのようなことです。

「老人を叱ってはならない」。その意味は、何を伝えるにしても、言い方に気をつけなさい、ということです。

「自分の父親と思って諭しなさい」と書かれているところを読んで、私と父親との関係を考えさせられました。若くて元気だったころと比べると、最近はだいぶ弱っているような感じです。最近たまに電話で話すとき、ゆっくり丁寧に説明しなければ内容を理解してもらえないときがあります。落ち着いて内容を理解してもらい、十分に納得してもらえるように語る。そういうふうにすれば分かってもらえます。

しかし、わたしたちの現実の親子関係が、はたしてパウロが思い描くような理想的な関係になっているだろうかと考えると、私は心痛むものがあります。私はひどい親不孝者ですから。

しかし、ここで開き直って考え直してみる。親子の関係や家族の関係をいつでも必ず教会が模範にしなければならないだけではなく、その逆の順序もあるはずです。教会の中で培われた信頼関係を築くための方法のほうを家庭に持ち帰って、親子の関係や夫婦の関係に当てはめて生かしていくことも、わたしたちにできることです。教会と家庭との相互関係や往復運動が重要なのです。

(2013年4月28日、松戸小金原教会主日夕拝)

偶像礼拝はなぜ悪いのですか


ローマの信徒への手紙1・18~23

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」

いまお読みしました個所に書かれていることを、今日もまた最初に一言でまとめておきます。この個所でパウロが要するに言おうとしていることは、すべての人は神を知っている、ということです。「私は神など知らない」と言い張ってもよい人は一人もいないのです。

「彼らには弁解の余地がありません」(20節)と書かれています。「彼ら」とは、全人類です。全人類には弁解の余地がないのです。

何の弁解の余地がないのでしょうか。それは次のようなことです。「私は神など知らない。見たことも触ったこともない。だから、神を知らない私は、神の教えなどというものも知らない。だから私は、神の教えに反することが罪であり、そのような罪をあなたは犯していると責められても困る。なぜなら私は神を知らないし、神の教えも知らないのだから」と言い張ることはできない。なぜなら、すべての人は必ず神を知っているからであると、パウロは言っているのです。

なぜそのように言えるのでしょうか。その理由をパウロは次のように書いています。「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです」(19節)。この「彼ら」も全人類です。神について知りうる事柄は全人類に明らかであると言っています。「神がそれを示されたのです」(19節)とあるとおり、「神について知りうる事柄」を神御自身が全人類に示されたのです。

「神について知りうる事柄」とは何でしょうか。それが次のように説明されています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(20節)。

ここでまた「造られた」と受動形の文になっています。世界は「造られた」のです。この世界は誰かが造ったのです。誰が造ったのかについては、わたしたちはよく知っています。それが神です。神が世界の創造者です。しかし、このような言い方をしても納得していただけない場合がありますので、別の言い方をしておきます。

世界、世界と、いま言っていますが、人間社会だけのことではありません。わたしたちがその上に立っている地球だけでもありません。宇宙空間を含めた天地万物です。ありとあらゆるものです。そのすべてを造ったのは少なくとも人間ではありません。それは明白です。人類が一度も行ったこともない星を人類が造れるわけがありません。世界のすべてを人間が造ったなどと言うことこそ、非科学的な言説です。人類以外の何ものかが全宇宙を造ったのです。

しかし、その「何ものか」が何ものなのかは諸説に分かれます。それを偶然と呼ぶ人もいます。自然と呼ぶ人もいます。(非人格的な)力のようなものだと考える人もいます。このように考える人たちは、全宇宙をつくった存在の中にも人間と同じような意味での「心」があって、その心の中で「この世界を造る」意志があったとか、「これを造りたい」という願いがあったとか、「これが将来どうなってほしい」という祈りがあったとか、そのようなことを基本的には認めません。

しかし、ここから先が宗教の話になります。宗教的に考える人たちは、この世界を造った存在のうちに「心」があり、その中に意志や願いや祈りがあったと信じるのです。そのような存在をわたしたちは“人格的な”存在などと表現します。神の心が、世界が創造されたときに働いたとわたしたちは信じています。この世界は偶然できたとか、自然にできたとか、意志や願いのようなものとは全く無関係にできたとか、そのようなものではない。この世界にはこれを造った存在の心が働いている。そのような心を持つ存在を、わたしたちは「神」と呼ぶのです。このような順序で考えることも不可能ではありません。

パウロが書いていることも、それとよく似たようなことであると考えていただいて構いません。世界が造られたときから「被造物」に現れているという「目に見えない神の性質」つまり「神の永遠の力と神性」の中身は、御自身がお造りになったこの世界をどんなふうにしようとか、どんなふうになってほしいと願われたり祈られたりなさった、神の意志です。

「これを通して神を知ることができます」(20節)とパウロは書いています。これは料理や芸術をなさる方には分かっていただける話ですが、「造られたもの」にはそれを造った人の思いがある。その作品を観る人たちは、その作品に込められた作者の心を読みとる。そういうことが創造者なる神と、被造物としてのこの世界と人間との関係にも当てはまります。この世界に生きている人たちは、この世界をお造りになった神の作品の中に生きているかぎり、この神の作品の仕組みをだんだん分かるようになりますので、その意味で、神の作品としてのこの世界のうちにこめられた神の意志を知ることができるのです。

もう少し分かりやすい話をしておきます。この世界には山があり、海があります。空には太陽があり、月があり、星があります。先ほども言いましたが、これらすべてのものを人間が造ったなどということはありそうもないし、そのように言うこと自体が非科学的です。しかし、人間が造ったのでなければ、だれが造ったのでしょうか。偶然や自然や(非人格的な)力が造ったのでしょうか。そのように考える人は大勢います。しかし、そのように考えるにしては、この世界にはあまりにも多くの調和があります。見事なまでの法則があります。人間には心があり、意志や感情があります。何かを愛し、人を愛し、いろんなものをいたわり、助け、育む思いがあります。そのようなわたしたち人間の心が偶然や自然や非人格的な力によってできたというふうに考えるのは、かえって難しいことです。

むしろ分かりやすいのは、わたしたち人間に心を与えた存在にも心があるという話です。そして、その存在をわたしたちは神と呼ぶのです。こういうふうな話は特別熱狂的な宗教にかぶれた人たちにしか至りえないというようなことはないのです。だれでも分かる話だし、過去の歴史の中でほとんど全人類が、一度以上は考えたことがあるし、信じたことがある、その意味で普遍的な認識であると言えるのです。

しかし、いま私が申し上げていることには明らかに限界がある、ということも分かっています。いま考えていることは、我々人間はこの世界の中でただ生きているだけで自然に神を知ることができるのかという問題です。この問題は、キリスト教会の二千年の歴史の中でずっと議論され、いまだに議論され続けている難問中の難問です。

今のところのわたしたちの結論は、そのようにして神を知ることは全くできないというわけではないが、はなはだ不十分であるということです。やはりそこで聖書を読まなければ、正しく神を知ることができないのだというのが今のところの結論です。だから、先ほど来申し上げていることには限界があるのです。そのことを私は十分に分かった上で申し上げていますので、そろそろ話の方向を変えて行かなくてはなりません。

どこに限界があるのでしょうか。その限界をパウロ自身も知っています。次のように書かれています。「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍くなったからです」(21節)。

すべての人に弁解の余地はないのです。すべての人は、「私は神など知らない」と言い張ることはできないのです。しかしそれにもかかわらず、多くの人は「私は神など知らない」と言います。それにはそれなりの理由があります。世界のどこを捜しても「ここに神がいる」と指さしたり、その存在を手で触ったり、指先でつまんだりしたことがある人はいないからです。神を自分の目で見た者はいません。触ることもなでることもできません。

そこでわたしたちの心に魔が差すのです。見たことも触ったこともない神のことは「知らない」ということにしておこう。こういう考えが出てくるのです。

たとえば、わたしたちが産まれたことをお父さんとお母さんの出会いや結婚というようなことだけで説明できるとすれば、「お父さん、お母さん、ありがとう」と、父の日と母の日に感謝のプレゼントでも贈れば済むかもしれません。しかし、それだけでは説明できないわたしたちの人生があり、この世界の存在があるのであれば、全世界を造り出し、生み出してくださった神に感謝しなくてはなりません。

ところが、そのようなことが、わたしたちにとっては面倒くさいのです。面倒くさいので、神だなんだと、大げさなことは分からないし、関心も興味もない、という話にしたがるのです。

しかし、その一方で、わたしたちは、現実の人生や難しい社会の中で生きていると、心のよりどころが欲しくなります。世界を創造された神だなんだと大げさな話は勘弁してほしい。でも、人生に行き詰まったとき、人からいじめられたとか、つらい思いになったとき、それをぎゅっと握りしめて、「助けてください」と心の中で言える、ポケットの中に入れておける小さなお守りのようなものなら持っていたいのです。

それは、神ではないのに、神の代わりにする代用品です。それ自体には何の力もありません。しかし、わたしたちは、そういうものを持ちたがります。自分の都合のよいときだけ取り出せる神さま。そのようなものに本当は納得も満足もしていないし、できていないのかもしれません。しかし、それ以上のものを求めるほどの気持ちまでは起きないのです。神を礼拝するとか、その神に感謝するという信仰にまで至らないのです。

今日の説教題に「偶像礼拝はなぜ悪いのですか」と書きました。このようなことを書きますと、教会は偶像礼拝は「悪い」ことだと鼻から決めつけているが、それが「悪い」かどうかは人それぞれの価値観であると言われてしまう時代に、わたしたちは生きています。そのことも私はよく分かっているつもりです。しかし、私はやはり「悪い」ことだと考えています。

なぜ「悪い」のでしょうか。天地万物の創造者なる神は、わたしたちが都合よくポケットから取り出して利用してもよいような存在ではないからです。偶像礼拝は、まるで神がそのようなものであるかのように人を誤解させ、人の道を誤らせるのです。こういうところが「悪い」のです。

(2013年4月28日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年4月26日金曜日

「第7回 カール・バルト研究会」報告



本日(2013年4月26日)21時から23時30分まで、「第7回 カール・バルト研究会」を行いました。

今日は過去最多人数である5名揃っての研究会となりました。やっぱり参加者が多いと盛り上がりますね。

「第7回」参加者名簿(五十音順、敬称略)

小宮山裕一(茨城県)
関口 康(千葉県)
中井大介(大阪府)
謎の匿名氏(住所非公開)
藤崎裕之(北海道)

今日のテキストはカール・バルト『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の「4.信仰とは告白を意味する」(§4 Glauben heisst Bekennen)の後半部分でした。

「カナンの言葉」(=聖書と教会の伝統の中で培われてきた言葉)に固くとどまることと「新聞の言葉」(=徹底的に世俗的で卑俗な言葉)へ翻訳することとの緊張関係がスリリングに語られているところなどは、我々が毎日悩まされている問題なので、バルトの意図は手に取るように分かるし、具体的な課題が次々に見えてくるような内容でした。

次回(第8回)は2013年5月10日(金)21時から23時までです。

2013年4月24日水曜日

日本キリスト改革派教会の 「前史」を学ぶ意義


1946年に創立した日本キリスト改革派教会は、2016年に70周年を迎えます。

我々の教派の通史を学べる本としては、1996年に大会「歴史資料編纂委員会」が発行した『日本基督改革派教会史 途上にある教会』(発売元 聖恵授産所出版部)があります。しかし残念なことに本書には創立30周年までの歴史しか書かれていません。本書が発行された1996年は教派創立50周年の年でした。30周年までしか書くことができなかった背景に存命の方々に対する配慮や遠慮があったことは間違いありません。

しかし、そうした限界にもかかわらず、『日本基督改革派教会史』は非常に興味深いものです。特に注目に値するのは、第一章(タイトルは「創立以前」)と第二章(「創立への胎動」)に描かれた「前史」の部分です。

「前史」がなぜ重要なのでしょうか。その理由が「はじめに」の中に次のように書かれています。

「日本基督改革派教会は、太平洋戦争の敗戦によって、戦前の天皇制国家が崩壊しつつある時代に誕生した。その意味では、厳密にいうと、教派としての歴史は〈戦後〉のあゆみに限られる。戦後になって出現した日本基督改革派教会、そして、それがめざすキリスト教の路線は、それまでのどの日本のキリスト教会も取らなかった独自のものであり、その独自性は、神学や信条の方法から、教会のあり方の全ての部分にまでおよんでいる。けれども、そうした独自な教会の路線が、どのようにして生み出されたかを、つぶさに検討してみると、日本基督改革派教会の行き方・考え方には、歴史的なつながりがあり、日本の教会史が成熟してゆく過程で、どうしてもそうならざるを得なかった、〈必然性〉とも〈期待〉ともいうべき経過をたどったことが理解されるのである。その意味では日本基督改革派教会が誕生するにいたる〈前史〉の部分を避けるわけにはいかない」(13頁)。

さらに、第一章の冒頭には次のように書かれています。

「日本における改革派教会のあゆみは、プロテスタント・キリスト教会の揺籃期にまでさかのぼる。つまり日本基督改革派教会は、その創立以前にかなりながい〈前史〉をもっていると私たちは考える」(19頁)。

改革派教会の「前史」といえば、考え方次第では16世紀スイスの宗教改革者ジャン・カルヴァンまでさかのぼることもできないわけではありません。しかし、『日本基督改革派教会史』はそのような大げさな書き方を望んでいません。その代わりに本書が採用する方法は、「日本における」改革派教会の歴史から出発することです。

「日本における」改革派教会の歴史は、ペリーの黒船来航(1853年)とその翌年の日米和親条約(1854年)の18年後に当たる1872年に横浜に誕生した日本初のプロテスタント教会である「日本基督公会」まで遡ります。『日本基督改革派教会史』の「前史」も「日本基督公会」の創立から始まります。

「日本基督公会」という名称には「改革派教会」という文字は見当たりません。しかし、この教会の創立を指導した複数のアメリカ人宣教師の所属は「アメリカオランダ改革派教会」(ダッチ・リフォームドチャーチ・イン・アメリカ)か「アメリカ合衆国長老教会」(プレスビテリアンチャーチ・イン・ザ・ユナイテッドステイツ・オブ・アメリカ)でした。つまり、この複数のアメリカ人宣教師の信仰と神学が色濃く「改革派的なるもの」でした。

独立した教派としての日本キリスト改革派教会は1946年に始まります。しかし、「日本における改革派教会」は1872年に始まるのです。

さて、これから書くことは『日本基督改革派教会史』に記されていることではありませんが、このたび調べて分かったことです。

日本に宣教師を送りだしてくださることによって「日本における改革派教会」の産みの親のひとりになってくださった「アメリカオランダ改革派教会」(ダッチリフォームドチャーチ・イン・アメリカ)は「アメリカにおけるオランダ改革派教会」という意味です。なぜこういう名前なのかといえば、18世紀末(正確には1789年)に始まり、19世紀中盤に活発になったオランダ人のアメリカ大陸への移民の中に「オランダ改革派教会」の熱心な教会員が多くいたからです。

この人々は改革派神学を熱心に学び、オランダの「国家訳」と呼ばれる聖書を使用し、ハイデルベルク信仰問答を暗誦し、ジュネーヴ詩編歌のオランダ語版を歌っていました。

また彼らは、カルヴァンの教えに立つオランダのユトレヒト大学神学部の教授フーティウス(ヴォエティウス)やその弟子たちの本を繰り返し読んでいました。驚かれるかもしれませんが、彼らが重んじたフーティウスという神学者は、改革派教会の信徒に対し、舞踏、演劇、暴飲暴食、贅沢な家具、華やかな髪飾り、化粧、賭博、礼拝賛美でのオルガン使用などを禁止しました。

フーティウスによると、改革派教会の信徒たる人は毎週日曜日の礼拝に通い、聖餐に与り、ハイデルベルク信仰問答を学び、聖書を読み、詩編歌を歌うだけで満足すべきではありませんでした。外面的なことだけではなく、内面的なことを重んじることが必要でした。禁欲的に自己自身の霊性を高め、静かに祈り、黙想し、自らの永遠の終末に備え、神の大いなるみわざに感謝することこそが信者にふさわしいと教えました。

「日本における改革派教会」を生み出したアメリカの宣教師たちの信仰の特質が禁欲主義的なものであったことは、よく知られています。その禁欲主義の精神的淵源をたどれば、どうやらそれは、オランダ的な性格を持つ「改革派敬虔主義」(リフォームド・パイエティズム)と形容される伝統につながるようです。

日本キリスト改革派教会はこの「日本における改革派教会の伝統」をいまでも継承しています。それは私たちにとっては誇るべき長所ですが、短所になる場合もあります。それについて具体的に書く紙面はもうありませんが。教派の「前史」を知ることは、教派の特色や性格を知り、「改善点」を見出すために重要なのです。

(松戸小金原教会月報『まきば』第395号(2013年4月28日発行)掲載)

2013年4月22日月曜日

ぼくのツイッターの宣伝をさせていただきます


各位

実際には未だにほとんど活用できていないので持ち出しにくい話題なのですが、ぼくのツイッターの宣伝をさせていただきます。

何の役に立つのかが全く分からないまま始め、最初の頃は「これ何の役に立つの?」と問いかけるツイートばかり書きこんでいました。

しかし、震災後しばらくの間、「お、これは使えるぞ」と興奮状態になりました。

で、今はちょっと醒めている、そんな感じなんですけど。

とりあえず今は、ブログの更新通知を中心に、たまにごちゃごちゃと、悪夢にうなされているようなツイート(涙)。

あとは、他の方の興味深い書き込みをリツイート、くらいです。

というわけで、全く面白くないんですが(すみません)、もしよろしければフォローしていただけますとうれしいです。

ツイッター 関口 康(@ysekiguchi)
http://twitter.com/ysekiguchi

2013年4月21日日曜日

福音が神の力であるとはどういう意味ですか


ローマの信徒への手紙1・16~17

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

ローマの信徒への手紙の学びは、今日で三回目になります。今日お読みしました個所は短いですが、ここにこの手紙の核心部分があると多くの人が指摘しています。この手紙の中でパウロが述べようとしていることのすべてがこの個所に要約されているというのです。

パウロは次のように書いています。「わたしは福音を恥としない」(16節)。もちろんこれは「わたしにとって福音は恥ではない」という意味です。しかし、もう少し言葉を付け足して言えば、彼は聖書に基づいて福音を宣べ伝える伝道者としての働きをしているのですから、「わたしは福音を恥としない」ということは、福音を宣べ伝える自分の仕事としての伝道を恥としないということでもあります。

しかしまた、さらに言葉を加えるとしたら、パウロは個人で仕事をしているのではなく、教会の中で、教会と共に福音を宣べ伝える使命を担っているのですから、「福音を恥としない」ということは、福音宣教の働きを担う教会を恥としないということでもあります。福音と伝道と教会はワンセットで考える必要があります。ばらばらに切り離して考えることはできません。

なぜパウロは「福音を恥としない」というようなことを言わなければならないのでしょうか。いろいろ考えてみることができます。私が思い当たるのは、根拠の問題です。福音が根拠としていることが、なんとなく人前で言いにくいことのように感じられる場合があるのです。

「福音」の定義のようなことが、この手紙の冒頭部分に記されていました。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです」(1・2~6)。

「福音」のこの定義の内容については、第一回目の学びのときにお話ししました。私が申し上げたことは、すべてのことが受動形で書かれているということでした。「約束された」、「ダビデの子孫から生まれた」、「力ある神の子と定められた」、「恵みを受けて使徒とされた」、「イエス・キリストのものとなるように召された」。すべて受動形です。パウロは自分で何かを「した」というよりも、何ものかによって何かを「された」のです。イエス・キリストでさえ、御自分で何かを「した」というよりも、何ものかによって何かを「された」のです。

その「何ものか」は何ものなのか、ということについては、わたしたちはもちろん分かっています。最初に「神が」(2節)と書かれています。つまり、これらすべてのことをなさったのは「神」です。イエス・キリストの父なる神です。神が存在しなければすべては成り立ちません。福音も伝道も教会も成り立ちません。パウロの仕事も成り立ちませんし、彼の生活も成り立ちません。

一切の根拠は「神」です。福音と伝道と教会の存在は「神」に全体重を乗せています。しかしこの点こそが難しい面をはらんでいます。それはわたしたちにも身に覚えのあることです。それは、神の存在は人間の目で見ることができないし、手で触ることもできないし、理論や実験によって客観的に証明することができない存在であるという点です。「中世」と呼ばれる時代の教会で「神の存在証明」を行う哲学議論が盛んに営まれたことがありますが、そのような議論を今のわたしたちはもう信じていませんし、信じることができません。

あるいは、わたしたちはイエス・キリストが死者の中から復活したと信じています。しかし、その根拠は「そのように聖書に書かれている」ということだけです。復活の根拠は聖書だけです。しかも、イエス・キリストの復活の事実には、現代の科学者が重んじる「再現性」というものがありません。同じ条件のもとで同じ理論に基づいて同じ実験を繰り返せば、何度でも同じ結果が出るというような仕方で、その事実を証明することができません。なぜなら、死者の復活は、いまのところ、歴史の中でただ一度だけ、神の力によって起こった出来事だからです。

そのように「神」だけが根拠であるとか、科学的再現性のない歴史的事実が根拠であるとかいうことを信頼することに対して疑問や躊躇を持つ人がいるのは無理もないことです。「ありそうもないことだ」と突き放す人がいるのは当然です。笑ったり蔑んだりする人がいるのも当然です。

そして、そのことは現代に始まることではなく、パウロの時代も同じです。ピタゴラス(前6世紀)もアルキメデス(前3世紀)も、パウロが生まれるよりもはるか昔に活躍した哲学者であり、数学者です。古代ローマの教養ある人たちは、キリスト教が宣べ伝えられるよりもはるか昔から、緻密な哲学や数学や物理学や天文学を学び、信頼しています。

しかし、彼らは「神」を信じていなかったわけではありません。彼らなりの「神」がいます。しかし、すべてはパウロの目から見れば厭うべき「偶像」以外の何ものでもありません。パウロがアテネを訪ねたとき、「この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した」(使徒言行録17・16)と書かれているとおりです。

しかしパウロは、そのような古代ローマの状況を十分に把握しながら、それでもなお「福音を恥としない」と言っているのです。わたしたちが宣べ伝えている福音の根拠は「神」です。イエス・キリストの父なる神です。「神」に基づく福音をわたしたち教会は信じているし、宣べ伝えています。そのことを「恥としない」とパウロは言っているのです。

今の日本ではどうでしょうか。

最近、公立の学校でも「宗教」についてかなり教えるようになったようです。公立の大学には「宗教学」という講座が昔から設けられています。しかし、学校の授業の中で「神」や「信仰」を根拠にして試験の答案を書くとおそらく罰点をつけられます。「もっと客観的に書いてください」と注文をつけられます。入学試験や就職試験なら不合格にされます。唯一違うのは、神学校の入学試験と教会の牧師になるための就職試験だけです。「神」や「信仰」に基づいて何かを言ったり書いたりすることで、学校の成績があがったり、就職に有利に働いたりすることはありません。

ですから、たとえば、そういう状況の中では、「神」は無意味であり、無価値であると判断されることが十分ありえます。このような感覚はわたしたちにとって決して他人事ではありえないはずです。

そのようなことは、パウロはよく分かっているのです。そういうことを知らずに言っているわけではないのです。「福音を恥としない」というのは、「福音を恥とする感情を全く理解できない」という意味ではありません。むしろ彼は痛いほど分かっているのです。しかし、その感情を押しのけてでも言わなければならないことがあると信じているのです。

パウロは、何を言わなければならないのでしょうか。それは次に書かれていることです。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(16節)。最初と最後をつなぎあわせれば、「福音は神の力である」ということになります。しかし、途中の部分も大事です。「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」、それが「福音」です。

これはどういう意味になるでしょうか。「ユダヤ人をはじめ」とは「ユダヤ人だけでなく」と言っているのと同じです。それは、イエス・キリストの福音によって救われる必要があるのは、信者の家庭に生まれ、幼い頃から聖書に基づく信仰教育を受けてきたユダヤ人のような人々だけに限られているわけではないと言っているのと同じです。

そして、次に名指しされている「ギリシア人」は広い意味です。ギリシア語を話す人たちのすべてを含んでいます。古代ローマの全住民を指していると思われます。しかし、それだけではありません。「信じる者すべて」とも言っています。国境も時代も完全に越えています。昔の人には宗教が必要であったが、現代人には必要ないということにはなりません。また、ヨーロッパ人には必要であるが、アジア人には必要ないということにはなりません。福音は国境と時代を越えたすべての人を救う神の力なのだと言っているのです。

しかしまたパウロは「信じる者すべて」と書いています。「信じない者」の定めについては論理的にははっきりしています。その人々には救いはもたらされない、ということになります。しかし、そのことについては今日はただ触れておくだけにしておきます。この手紙の学びが進んで行く中で次第に明らかになっていくことです。

そのことよりも今日お話ししたいことは、「福音は神の力である」とはどういう意味なのかということです。そのことに絞ってお話しします。

はっきり分かることは、パウロが言っていることは、人が救われるためには「力」が必要であることを意味しているということです。福音こそが人の救いを実現する力だと言っているのです。そして、そのように言う場合の「救い」の意味は、「罪から救い出されること」です。罪深い思いにとらわれ、罪の行為を続けてしまう、そのような連鎖の中から解放されることです。

罪は他人を傷つけ、自分を傷つけます。社会を破壊し、自分自身が孤立を余儀なくされます。そのような罪の思いと言葉と行為から解放され、自由になり、イエス・キリストにおける神の教えに従うこと、それが「救い」です。

しかし、そのすべてが実現するために「力」が必要です。それは暴力でも国家権力でもありません。神の力です。神の力学です。

先ほどアルキメデスの名前を出しました。てこの原理を発見した人です。支点、力点、作用点。彼は「私に支点を与えてくれれば、地球を動かしてみせる」と言ったそうです。わたしたちが罪の中から救い出され、新しい人生を始めるまでの流れを、てこの原理で説明できるかもしれません。

「支点」はイエス・キリストです。「力点」は福音です。そして「作用点」はわたしたち自身です。神の力によって、わたしたちが、わたしたちの体にべっとり粘着し、心の奥底まで浸潤している罪から剥がされ、切り離され、取り外されるのです。

そのことがわたしたちに必要であるし、可能であるとパウロは信じています。人は罪から救われるべき存在であり、かつ救われうる存在です。私が罪から救われることはありえないと、そういうふうに諦めるべきではありません。

人を罪から救い出す「力」が福音です。「福音」はわたしたちにとって恥ずかしいものではありません。罪の中にとどまり続けることこそが、恥ずかしい人生なのです。

(2013年4月21日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年4月19日金曜日

東京基督教大学(千葉県印西市)を心から応援いたします

今日は東京基督教大学(千葉県印西市)の鳥海祥さんが松戸小金原教会をお訪ねくださり、大学の案内をしてくださいました。

とても素晴らしい大学だと思いました。心から応援させていただきます。

鳥海さん、ありがとうございました!

東京基督教大学のホームページ
http://www.tci.ac.jp/


「視座」はブレなかったと思う


キリスト教の洗礼を受けて、昨年12月で41年。

ほぼ毎週教会に通った。途中から牧師になった。

覚えていることといえば、

小学生の頃は、毎週の日曜学校に三ケタの生徒が集まっていたのに、

高校の頃までに同級生はほとんどいなくなった。

そのことくらい。

ぼく、逃げ遅れたのかな(笑)。まあ、いいや(笑)。

Wikipediaは便利だ。その41年間の総理さんの名前が一覧できる。

佐藤栄作
田中角栄
三木武夫
福田赳夫
大平正芳
(伊東正義)
鈴木善幸
中曽根康弘
竹下 登
宇野宗佑
海部俊樹
宮澤喜一
細川護熙
羽田 孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森 喜朗
小泉純一郎
安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
鳩山由紀夫
菅 直人
野田佳彦
安倍晋三

こんなにいる。

与党さんは自民党、日本新党、新生党、社会党、自民党、民主党、自民党と変遷。

まあでも、ぼくの「所属先」は、国というより教会だったな。

教会は、あんまり変わらない。

いいのか、悪いのか(笑)。

「視座」はブレなかったと思う。それだけは言えるね(笑)。

ためいき(笑)。

2013年4月16日火曜日

「今週の説教」を再構築するために「関口康日記」から説教をサルベージしています


「今週の説教」サイトを再開することにしましたので、「関口康日記」の中にぐちゃぐちゃに(といっても自動的に時系列順に並べてくれてはいますが)混ぜ込んでしまっていた説教原稿をサルベージして新しいサイトに引っ越しする作業を続けています。

とりあえず100本の原稿を移しましたが、とても疲れたのと、90本目を超えたあたりから、サイトのサーバーからの自動応答らしきメッセージとして「一日のアップ数が多いので人の手による作業かどうかを確認させてください」とか言って一回一回パスワードを打ち込まなければアップできなくなったりしてきてクソメンドクサイ状態になってきましたので、本日の作業はこれにて終了。

あと221本、残っています。ぜんぶ手作業で引っ越ししています。

もう少し落ち着いたら、未公開の説教もアップしていきたいと願っています。

今週の説教
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/