テモテへの手紙一5・1~4
「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。」
こういう個所は「面白い」と思いながら読むことができる人と、必ずしもそうでないと感じる人とで分かれてしまうかもしれません。「老人」とか「やもめ」とかいう言葉がストレートに出てくることに抵抗があるという方がおられるかもしれません。
しかし間違いなく言えることは、西暦一世紀の教会の中での信徒同士の交わりの様子はこのようなものであったということです。私自身は「面白い」と思いながら読みましたし、「素晴らしいことだ」とも思いました。
教会の交わりというものが、まさに家族として、神の家族として、親子や兄弟姉妹として描かれています。そのようなものであるべきだと勧められてもいます。少なくとも、そのようなものが教会の理想的なあり方であるという思想があります。そのような理念があり、またそのような信仰があります。
しかしまた、ここで忘れてはならないことは、この手紙はやはり使徒パウロが年若い伝道者テモテに宛てて書いた手紙として読むべきだということです。その文脈から切り離して読むと、誤解されてしまう危険性があります。
この個所に書かれていることは、「若い牧師に対する先輩牧師のアドバイスの言葉」として読めば、パウロの意図をおそらく最も正確に理解することができるだろうと思います。この手紙にはすでに「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません」(4・11)と書かれていました。若い牧師が教会で大きな失敗をしないためにどういうことが大切なのかが、今日の個所に書かれているのです。
それが「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい」(1節)ということです。
この「老人」(プレスビテロス)は「長老」とも訳せる言葉です。しかし、教会役員としての「長老」には年齢の若い人がいますので、この個所の「長老」を教会役員としての長老だけに限定して考える必要はありません。それに、「長老を叱ってはなりません」と訳してしまうと奇妙な話になるでしょう。
そうでなく、この「老人」は高齢者です。若い人とは年齢が離れた、年上の教会員です。そういう相手を叱りつけてはいけませんとパウロはテモテに言っています。おそらくそのように言うパウロの意図は、高齢者の人間としての尊厳やプライドの問題です。高齢者のプライドを傷つけてはならないと言っているのです。
しかし、その一方で「自分の父親と思って諭しなさい」とも書いています。ここで用いられている場合の「諭す」(パラカレオー)という語の意味においては、教会の教師が信徒に教えたり指導したりすることを必ず含んでいますので、そもそも教えることや指導することを老人相手にしてはならないと言っているわけでもないのです。
「テモテよ、おまえは、年下の分際で、自分よりも年上である目上の人に向かって教えるだの指導するだのすること自体、たいへんけしからんことである。言語道断である」と、そのようなことを言っているわけではないのです。
つまり、ここでパウロが言っていることは、一方で若い牧師は高齢の教会員を叱りつけるようなことをしてはならないということです。しかし他方で、だからといって若い牧師は高齢の教会員を「諭す」責任を放棄してよいわけでもないということです。
それで私に思い当たるパウロの意図は、教会の牧師たちは教会員に対して“言い方を間違えてはならない”というあたりのことです。
同じことを言うのでも、厳しく冷たく吐き捨てるように叱り飛ばすようなやり方と、そうでないのとでは、伝えようとしている事柄の伝わり方や相手の反応が全く違います。
もし牧師や長老が教会員に求めることがあるとすれば、聖書のみことばに従って正しく生きるようになってもらいたいということだけです。まるで自分が権威者であるかのようにふるまい、自分の権威に従わせることが目的であるような牧師や長老では困ります。教会が完全に壊れてしまいます。
この個所を読んでいて私に伝わってくるパウロの思いがあるとしたら、それは、教会における人間関係は非常にデリケートなものだということです。そのデリケートな関係を大切に守らなければならない。土足で踏みにじるようなことをしてはならない。牧師や長老が率先して教会を壊すようなことをしてはならない。パウロがテモテに言おうとしていることは、そのようなことです。
「老人を叱ってはならない」。その意味は、何を伝えるにしても、言い方に気をつけなさい、ということです。
「自分の父親と思って諭しなさい」と書かれているところを読んで、私と父親との関係を考えさせられました。若くて元気だったころと比べると、最近はだいぶ弱っているような感じです。最近たまに電話で話すとき、ゆっくり丁寧に説明しなければ内容を理解してもらえないときがあります。落ち着いて内容を理解してもらい、十分に納得してもらえるように語る。そういうふうにすれば分かってもらえます。
しかし、わたしたちの現実の親子関係が、はたしてパウロが思い描くような理想的な関係になっているだろうかと考えると、私は心痛むものがあります。私はひどい親不孝者ですから。
しかし、ここで開き直って考え直してみる。親子の関係や家族の関係をいつでも必ず教会が模範にしなければならないだけではなく、その逆の順序もあるはずです。教会の中で培われた信頼関係を築くための方法のほうを家庭に持ち帰って、親子の関係や夫婦の関係に当てはめて生かしていくことも、わたしたちにできることです。教会と家庭との相互関係や往復運動が重要なのです。
(2013年4月28日、松戸小金原教会主日夕拝)