2013年4月28日日曜日

偶像礼拝はなぜ悪いのですか


ローマの信徒への手紙1・18~23

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」

いまお読みしました個所に書かれていることを、今日もまた最初に一言でまとめておきます。この個所でパウロが要するに言おうとしていることは、すべての人は神を知っている、ということです。「私は神など知らない」と言い張ってもよい人は一人もいないのです。

「彼らには弁解の余地がありません」(20節)と書かれています。「彼ら」とは、全人類です。全人類には弁解の余地がないのです。

何の弁解の余地がないのでしょうか。それは次のようなことです。「私は神など知らない。見たことも触ったこともない。だから、神を知らない私は、神の教えなどというものも知らない。だから私は、神の教えに反することが罪であり、そのような罪をあなたは犯していると責められても困る。なぜなら私は神を知らないし、神の教えも知らないのだから」と言い張ることはできない。なぜなら、すべての人は必ず神を知っているからであると、パウロは言っているのです。

なぜそのように言えるのでしょうか。その理由をパウロは次のように書いています。「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです」(19節)。この「彼ら」も全人類です。神について知りうる事柄は全人類に明らかであると言っています。「神がそれを示されたのです」(19節)とあるとおり、「神について知りうる事柄」を神御自身が全人類に示されたのです。

「神について知りうる事柄」とは何でしょうか。それが次のように説明されています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(20節)。

ここでまた「造られた」と受動形の文になっています。世界は「造られた」のです。この世界は誰かが造ったのです。誰が造ったのかについては、わたしたちはよく知っています。それが神です。神が世界の創造者です。しかし、このような言い方をしても納得していただけない場合がありますので、別の言い方をしておきます。

世界、世界と、いま言っていますが、人間社会だけのことではありません。わたしたちがその上に立っている地球だけでもありません。宇宙空間を含めた天地万物です。ありとあらゆるものです。そのすべてを造ったのは少なくとも人間ではありません。それは明白です。人類が一度も行ったこともない星を人類が造れるわけがありません。世界のすべてを人間が造ったなどと言うことこそ、非科学的な言説です。人類以外の何ものかが全宇宙を造ったのです。

しかし、その「何ものか」が何ものなのかは諸説に分かれます。それを偶然と呼ぶ人もいます。自然と呼ぶ人もいます。(非人格的な)力のようなものだと考える人もいます。このように考える人たちは、全宇宙をつくった存在の中にも人間と同じような意味での「心」があって、その心の中で「この世界を造る」意志があったとか、「これを造りたい」という願いがあったとか、「これが将来どうなってほしい」という祈りがあったとか、そのようなことを基本的には認めません。

しかし、ここから先が宗教の話になります。宗教的に考える人たちは、この世界を造った存在のうちに「心」があり、その中に意志や願いや祈りがあったと信じるのです。そのような存在をわたしたちは“人格的な”存在などと表現します。神の心が、世界が創造されたときに働いたとわたしたちは信じています。この世界は偶然できたとか、自然にできたとか、意志や願いのようなものとは全く無関係にできたとか、そのようなものではない。この世界にはこれを造った存在の心が働いている。そのような心を持つ存在を、わたしたちは「神」と呼ぶのです。このような順序で考えることも不可能ではありません。

パウロが書いていることも、それとよく似たようなことであると考えていただいて構いません。世界が造られたときから「被造物」に現れているという「目に見えない神の性質」つまり「神の永遠の力と神性」の中身は、御自身がお造りになったこの世界をどんなふうにしようとか、どんなふうになってほしいと願われたり祈られたりなさった、神の意志です。

「これを通して神を知ることができます」(20節)とパウロは書いています。これは料理や芸術をなさる方には分かっていただける話ですが、「造られたもの」にはそれを造った人の思いがある。その作品を観る人たちは、その作品に込められた作者の心を読みとる。そういうことが創造者なる神と、被造物としてのこの世界と人間との関係にも当てはまります。この世界に生きている人たちは、この世界をお造りになった神の作品の中に生きているかぎり、この神の作品の仕組みをだんだん分かるようになりますので、その意味で、神の作品としてのこの世界のうちにこめられた神の意志を知ることができるのです。

もう少し分かりやすい話をしておきます。この世界には山があり、海があります。空には太陽があり、月があり、星があります。先ほども言いましたが、これらすべてのものを人間が造ったなどということはありそうもないし、そのように言うこと自体が非科学的です。しかし、人間が造ったのでなければ、だれが造ったのでしょうか。偶然や自然や(非人格的な)力が造ったのでしょうか。そのように考える人は大勢います。しかし、そのように考えるにしては、この世界にはあまりにも多くの調和があります。見事なまでの法則があります。人間には心があり、意志や感情があります。何かを愛し、人を愛し、いろんなものをいたわり、助け、育む思いがあります。そのようなわたしたち人間の心が偶然や自然や非人格的な力によってできたというふうに考えるのは、かえって難しいことです。

むしろ分かりやすいのは、わたしたち人間に心を与えた存在にも心があるという話です。そして、その存在をわたしたちは神と呼ぶのです。こういうふうな話は特別熱狂的な宗教にかぶれた人たちにしか至りえないというようなことはないのです。だれでも分かる話だし、過去の歴史の中でほとんど全人類が、一度以上は考えたことがあるし、信じたことがある、その意味で普遍的な認識であると言えるのです。

しかし、いま私が申し上げていることには明らかに限界がある、ということも分かっています。いま考えていることは、我々人間はこの世界の中でただ生きているだけで自然に神を知ることができるのかという問題です。この問題は、キリスト教会の二千年の歴史の中でずっと議論され、いまだに議論され続けている難問中の難問です。

今のところのわたしたちの結論は、そのようにして神を知ることは全くできないというわけではないが、はなはだ不十分であるということです。やはりそこで聖書を読まなければ、正しく神を知ることができないのだというのが今のところの結論です。だから、先ほど来申し上げていることには限界があるのです。そのことを私は十分に分かった上で申し上げていますので、そろそろ話の方向を変えて行かなくてはなりません。

どこに限界があるのでしょうか。その限界をパウロ自身も知っています。次のように書かれています。「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍くなったからです」(21節)。

すべての人に弁解の余地はないのです。すべての人は、「私は神など知らない」と言い張ることはできないのです。しかしそれにもかかわらず、多くの人は「私は神など知らない」と言います。それにはそれなりの理由があります。世界のどこを捜しても「ここに神がいる」と指さしたり、その存在を手で触ったり、指先でつまんだりしたことがある人はいないからです。神を自分の目で見た者はいません。触ることもなでることもできません。

そこでわたしたちの心に魔が差すのです。見たことも触ったこともない神のことは「知らない」ということにしておこう。こういう考えが出てくるのです。

たとえば、わたしたちが産まれたことをお父さんとお母さんの出会いや結婚というようなことだけで説明できるとすれば、「お父さん、お母さん、ありがとう」と、父の日と母の日に感謝のプレゼントでも贈れば済むかもしれません。しかし、それだけでは説明できないわたしたちの人生があり、この世界の存在があるのであれば、全世界を造り出し、生み出してくださった神に感謝しなくてはなりません。

ところが、そのようなことが、わたしたちにとっては面倒くさいのです。面倒くさいので、神だなんだと、大げさなことは分からないし、関心も興味もない、という話にしたがるのです。

しかし、その一方で、わたしたちは、現実の人生や難しい社会の中で生きていると、心のよりどころが欲しくなります。世界を創造された神だなんだと大げさな話は勘弁してほしい。でも、人生に行き詰まったとき、人からいじめられたとか、つらい思いになったとき、それをぎゅっと握りしめて、「助けてください」と心の中で言える、ポケットの中に入れておける小さなお守りのようなものなら持っていたいのです。

それは、神ではないのに、神の代わりにする代用品です。それ自体には何の力もありません。しかし、わたしたちは、そういうものを持ちたがります。自分の都合のよいときだけ取り出せる神さま。そのようなものに本当は納得も満足もしていないし、できていないのかもしれません。しかし、それ以上のものを求めるほどの気持ちまでは起きないのです。神を礼拝するとか、その神に感謝するという信仰にまで至らないのです。

今日の説教題に「偶像礼拝はなぜ悪いのですか」と書きました。このようなことを書きますと、教会は偶像礼拝は「悪い」ことだと鼻から決めつけているが、それが「悪い」かどうかは人それぞれの価値観であると言われてしまう時代に、わたしたちは生きています。そのことも私はよく分かっているつもりです。しかし、私はやはり「悪い」ことだと考えています。

なぜ「悪い」のでしょうか。天地万物の創造者なる神は、わたしたちが都合よくポケットから取り出して利用してもよいような存在ではないからです。偶像礼拝は、まるで神がそのようなものであるかのように人を誤解させ、人の道を誤らせるのです。こういうところが「悪い」のです。

(2013年4月28日、松戸小金原教会主日礼拝)