ローマの信徒への手紙1・16~17
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
ローマの信徒への手紙の学びは、今日で三回目になります。今日お読みしました個所は短いですが、ここにこの手紙の核心部分があると多くの人が指摘しています。この手紙の中でパウロが述べようとしていることのすべてがこの個所に要約されているというのです。
パウロは次のように書いています。「わたしは福音を恥としない」(16節)。もちろんこれは「わたしにとって福音は恥ではない」という意味です。しかし、もう少し言葉を付け足して言えば、彼は聖書に基づいて福音を宣べ伝える伝道者としての働きをしているのですから、「わたしは福音を恥としない」ということは、福音を宣べ伝える自分の仕事としての伝道を恥としないということでもあります。
しかしまた、さらに言葉を加えるとしたら、パウロは個人で仕事をしているのではなく、教会の中で、教会と共に福音を宣べ伝える使命を担っているのですから、「福音を恥としない」ということは、福音宣教の働きを担う教会を恥としないということでもあります。福音と伝道と教会はワンセットで考える必要があります。ばらばらに切り離して考えることはできません。
なぜパウロは「福音を恥としない」というようなことを言わなければならないのでしょうか。いろいろ考えてみることができます。私が思い当たるのは、根拠の問題です。福音が根拠としていることが、なんとなく人前で言いにくいことのように感じられる場合があるのです。
「福音」の定義のようなことが、この手紙の冒頭部分に記されていました。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです」(1・2~6)。
「福音」のこの定義の内容については、第一回目の学びのときにお話ししました。私が申し上げたことは、すべてのことが受動形で書かれているということでした。「約束された」、「ダビデの子孫から生まれた」、「力ある神の子と定められた」、「恵みを受けて使徒とされた」、「イエス・キリストのものとなるように召された」。すべて受動形です。パウロは自分で何かを「した」というよりも、何ものかによって何かを「された」のです。イエス・キリストでさえ、御自分で何かを「した」というよりも、何ものかによって何かを「された」のです。
その「何ものか」は何ものなのか、ということについては、わたしたちはもちろん分かっています。最初に「神が」(2節)と書かれています。つまり、これらすべてのことをなさったのは「神」です。イエス・キリストの父なる神です。神が存在しなければすべては成り立ちません。福音も伝道も教会も成り立ちません。パウロの仕事も成り立ちませんし、彼の生活も成り立ちません。
一切の根拠は「神」です。福音と伝道と教会の存在は「神」に全体重を乗せています。しかしこの点こそが難しい面をはらんでいます。それはわたしたちにも身に覚えのあることです。それは、神の存在は人間の目で見ることができないし、手で触ることもできないし、理論や実験によって客観的に証明することができない存在であるという点です。「中世」と呼ばれる時代の教会で「神の存在証明」を行う哲学議論が盛んに営まれたことがありますが、そのような議論を今のわたしたちはもう信じていませんし、信じることができません。
あるいは、わたしたちはイエス・キリストが死者の中から復活したと信じています。しかし、その根拠は「そのように聖書に書かれている」ということだけです。復活の根拠は聖書だけです。しかも、イエス・キリストの復活の事実には、現代の科学者が重んじる「再現性」というものがありません。同じ条件のもとで同じ理論に基づいて同じ実験を繰り返せば、何度でも同じ結果が出るというような仕方で、その事実を証明することができません。なぜなら、死者の復活は、いまのところ、歴史の中でただ一度だけ、神の力によって起こった出来事だからです。
そのように「神」だけが根拠であるとか、科学的再現性のない歴史的事実が根拠であるとかいうことを信頼することに対して疑問や躊躇を持つ人がいるのは無理もないことです。「ありそうもないことだ」と突き放す人がいるのは当然です。笑ったり蔑んだりする人がいるのも当然です。
そして、そのことは現代に始まることではなく、パウロの時代も同じです。ピタゴラス(前6世紀)もアルキメデス(前3世紀)も、パウロが生まれるよりもはるか昔に活躍した哲学者であり、数学者です。古代ローマの教養ある人たちは、キリスト教が宣べ伝えられるよりもはるか昔から、緻密な哲学や数学や物理学や天文学を学び、信頼しています。
しかし、彼らは「神」を信じていなかったわけではありません。彼らなりの「神」がいます。しかし、すべてはパウロの目から見れば厭うべき「偶像」以外の何ものでもありません。パウロがアテネを訪ねたとき、「この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した」(使徒言行録17・16)と書かれているとおりです。
しかしパウロは、そのような古代ローマの状況を十分に把握しながら、それでもなお「福音を恥としない」と言っているのです。わたしたちが宣べ伝えている福音の根拠は「神」です。イエス・キリストの父なる神です。「神」に基づく福音をわたしたち教会は信じているし、宣べ伝えています。そのことを「恥としない」とパウロは言っているのです。
今の日本ではどうでしょうか。
最近、公立の学校でも「宗教」についてかなり教えるようになったようです。公立の大学には「宗教学」という講座が昔から設けられています。しかし、学校の授業の中で「神」や「信仰」を根拠にして試験の答案を書くとおそらく罰点をつけられます。「もっと客観的に書いてください」と注文をつけられます。入学試験や就職試験なら不合格にされます。唯一違うのは、神学校の入学試験と教会の牧師になるための就職試験だけです。「神」や「信仰」に基づいて何かを言ったり書いたりすることで、学校の成績があがったり、就職に有利に働いたりすることはありません。
ですから、たとえば、そういう状況の中では、「神」は無意味であり、無価値であると判断されることが十分ありえます。このような感覚はわたしたちにとって決して他人事ではありえないはずです。
そのようなことは、パウロはよく分かっているのです。そういうことを知らずに言っているわけではないのです。「福音を恥としない」というのは、「福音を恥とする感情を全く理解できない」という意味ではありません。むしろ彼は痛いほど分かっているのです。しかし、その感情を押しのけてでも言わなければならないことがあると信じているのです。
パウロは、何を言わなければならないのでしょうか。それは次に書かれていることです。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(16節)。最初と最後をつなぎあわせれば、「福音は神の力である」ということになります。しかし、途中の部分も大事です。「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」、それが「福音」です。
これはどういう意味になるでしょうか。「ユダヤ人をはじめ」とは「ユダヤ人だけでなく」と言っているのと同じです。それは、イエス・キリストの福音によって救われる必要があるのは、信者の家庭に生まれ、幼い頃から聖書に基づく信仰教育を受けてきたユダヤ人のような人々だけに限られているわけではないと言っているのと同じです。
そして、次に名指しされている「ギリシア人」は広い意味です。ギリシア語を話す人たちのすべてを含んでいます。古代ローマの全住民を指していると思われます。しかし、それだけではありません。「信じる者すべて」とも言っています。国境も時代も完全に越えています。昔の人には宗教が必要であったが、現代人には必要ないということにはなりません。また、ヨーロッパ人には必要であるが、アジア人には必要ないということにはなりません。福音は国境と時代を越えたすべての人を救う神の力なのだと言っているのです。
しかしまたパウロは「信じる者すべて」と書いています。「信じない者」の定めについては論理的にははっきりしています。その人々には救いはもたらされない、ということになります。しかし、そのことについては今日はただ触れておくだけにしておきます。この手紙の学びが進んで行く中で次第に明らかになっていくことです。
そのことよりも今日お話ししたいことは、「福音は神の力である」とはどういう意味なのかということです。そのことに絞ってお話しします。
はっきり分かることは、パウロが言っていることは、人が救われるためには「力」が必要であることを意味しているということです。福音こそが人の救いを実現する力だと言っているのです。そして、そのように言う場合の「救い」の意味は、「罪から救い出されること」です。罪深い思いにとらわれ、罪の行為を続けてしまう、そのような連鎖の中から解放されることです。
罪は他人を傷つけ、自分を傷つけます。社会を破壊し、自分自身が孤立を余儀なくされます。そのような罪の思いと言葉と行為から解放され、自由になり、イエス・キリストにおける神の教えに従うこと、それが「救い」です。
しかし、そのすべてが実現するために「力」が必要です。それは暴力でも国家権力でもありません。神の力です。神の力学です。
先ほどアルキメデスの名前を出しました。てこの原理を発見した人です。支点、力点、作用点。彼は「私に支点を与えてくれれば、地球を動かしてみせる」と言ったそうです。わたしたちが罪の中から救い出され、新しい人生を始めるまでの流れを、てこの原理で説明できるかもしれません。
「支点」はイエス・キリストです。「力点」は福音です。そして「作用点」はわたしたち自身です。神の力によって、わたしたちが、わたしたちの体にべっとり粘着し、心の奥底まで浸潤している罪から剥がされ、切り離され、取り外されるのです。
そのことがわたしたちに必要であるし、可能であるとパウロは信じています。人は罪から救われるべき存在であり、かつ救われうる存在です。私が罪から救われることはありえないと、そういうふうに諦めるべきではありません。
人を罪から救い出す「力」が福音です。「福音」はわたしたちにとって恥ずかしいものではありません。罪の中にとどまり続けることこそが、恥ずかしい人生なのです。
(2013年4月21日、松戸小金原教会主日礼拝)