2016年11月3日木曜日

久しぶりの休日に、ただ祈り続ける

今日は久しぶりの休日なので、目覚ましアラームをセットしないでねたのに、いつもと同じ時刻に目が覚め、いつもと同じようにゴミ出しをする。生活のリズムが崩れるとかえって負担になる気がする。生活のリズムなどあったためしがない教会の牧師をしていたときとはずいぶんな様態変化。モードチェンジ。

私が日本キリスト改革派教会教師だったのは17年半。その間、神戸改革派神学校の紀要『改革派神学』に掲載された拙文は4(論文2、研究ノート1、書評1)。日本基督教団改革長老教会協議会が発行する『季刊教会』に掲載された拙文は7(小論2、講演録1、書評3、翻訳1)。後者のほうが多かった。

前者『改革派神学』に掲載された拙文4のうちの論文2は、こちらから持ち込んで載せていただいた。後者『季刊教会』に掲載された拙文7の中の翻訳1を除く6は、同誌編集部から執筆依頼をいただいて書いた。自分で強く意識していたわけではない。しかし、ふり返ってみれば私の当時の立ち位置が分かる。

誤解されたくないのは、日本キリスト改革派教会に教師として在籍していたときの私は、いざとなったらいつでも日本基督教団に戻ることができると考えていたわけではないということだ。出入り自由だと思っていたわけではない。しかし、押し戻された。神に戻れと命ぜられた。そうとしか表現しようがない。

鋭い方向けに書くが、牧師たちが自分の進退について神の名を持ち出すのは、権威づけや事実隠蔽の場合がないわけではない。私の場合は全くそうでないとは言わない。ただ、それ以上問われても困る場合、深く掘り下げないでほしい場合、第三者的好奇心をもつ人々の前に、神が敢然と立ちはだかってくれる。

しかし、これも誤解されたくないが、私は日本基督教団に「嫌々ながら」戻ってきたわけではない。そんな失礼な話があるか。教団に対しても失礼だし、私に対しても失礼だ。どなたかが私のことをそう言ったと怒っているのではない。「嫌々ながら」教会の牧師は務まらないし、学校の教務教師も務まらない。

このように書くとヨナとニネベの関係を思い出す方がおられるかもしれないことも、なんとなく察しがつく。しかし、私はヨナではないし、日本基督教団はニネベではない(それは教団に失礼だ)。大きな魚の腹に飲み込まれたこともない。なんでも聖書のどこかに当てはめて考えればいいというものでもない。

ただ、いま強く深く私の神に祈っていることは、「あともう少し時間をください」ということだ。できればあと数年。その時間を神が与えてくださるかどうかは分からない。軟着陸であったとは言えず、私自身もまだリハビリ中でもある。もう少し、あと少し。ザードさんの歌のような話にだんだんなってきた。

2016年11月2日水曜日

流行りものと宗教の関係(Ⅱ)

ほぼ同じことを別の言葉で言い換えただけだが、流行りもので宗教を表現する手段を英雄的に行使することが悪いわけがないが、それというのは自分の推しメンを強く推しているだけという面がないとは言えないわけだし、それというのはガチの楽屋落ちだし、きつくいえば「内輪の私物化」と言えなくもない。

ほんの一例、ほんのたとえば、今の高校生は「新世紀エヴァンゲリオンの比喩」を用いても「え、知らない。なんですかそれ。昔のアニメかなあ。何言われているか分からない放送事故」であることを、流行りもので宗教を表現したいと願っておられる宗教アーティストがたはお気づきになっているのだろうか。

「我々は宗教を『今』へと翻訳しえている。我々と比べて古ぼけた教会は淘汰されよ」とまるで勝ち誇ったことを言う人の古ぼけ感がぱねえ。口真似しているだけで中身変わらないなら(流行りもので「我々にきみたちへの敵意などない。ないない」と単に偽装した護教論を展開しているだけなら)意味はない。

息の長いアニメやマンガならいいのでは、という趣旨の意見をいただいたが、ドラえもんやサザエさんやアンパンマンやクレヨンしんちゃんなど、挙げられた例を見て思ったのは、「何十年も人気が続いている」素材はいわば必ず「何十年もアンチの人がいる」という裏面を背負っていたりもするということだ。

「見ていて当然」「知らないと恥ずかしい」と言われるほどの著名度になっていればいるほど、「だったら見ない」「見てたまるか」「同調圧力やめて」という反発を感じる人がおそらく必ずいる。NHKの連ドラも同じ。私は連ドラを見たことがない。「知っていて当然」のように引用されると困ってしまう。

それと、息の長いものを引用するといっても、実際の場面では、直近に放送されたテーマを引用するか、大昔に放送(マンガの場合は雑誌等に掲載)されたテーマを引用するかになるので、前者の場合は「見ていて当然」という同調圧力を感じる人が出てくるし、後者の場合は「知らない」「なにそれ」になる。

また、大規模な自然災害や凶悪事件などは別の扱いかもしれないが、時事問題や社会問題を「引用」する場合も、ある意味で同じことが言える。そもそもそれらは「引用」の対象なのかどうかという点がひとつ。ネタやマクラの扱いをすると当事者や当事者に近い人々から激怒される可能性があるという意味で。

「知っていて当然」「え、なんで知らないの」という態度で語られると「それ同調圧力」と嫌がる人々が出てくるという点が、ふたつめ。みっつめは、それらをとらえる観点や解釈の多様性にどこまで配慮できるか。「聖書的・キリスト教的解釈」を教会の説教に期待するというニードがあったのは、大昔の話。

教会に長年かかわってきた者は、老若男女の「人生プロセス」を「俯瞰」しうる。今の高校生を見ると、彼女/彼らが乳幼児だったころの姿を想像できるし、そのころどういうテレビやマンガを自分の子どもと一緒に見ていたかを思い出せる。「当時のそれ」を今の高校生がリアルタイムで見ていたわけがない。

ちなみに1965年11月生まれの私が初めて自分の目で見た記憶が残っているウルトラシリーズは「セブン」(1967年10月から放送開始。私は1歳11ヶ月)から。私と「セブン」の関係は、今の高校生(1年生は2001年生まれ)にとっての2003年以降のテレビドラマやアニメとの関係になる。

「とっとこハム太郎」は今の高校生が「生まれる前」。リアルタイムで見た記憶が残っているガンダムは「シード」(2002年)以降。ポケモンが低年齢向けかどうかは難しい問題。今の30歳前後の人たちが最初期ポケモン世代。その彼らは今でも「ポケモンのまま」。低年齢向けとか言うとたぶん怒り出す。

ビーロボカブタック(1997年)に出てくるキャプテントンボーグのセリフ「ひとつ、ひいきは絶対せず。ふたつ、不正は見逃さず。みっつ、見事にジャッジする」などはもちろん知らず、「なにそれ」という反応。『聖☆おにいさん』あたりですら今の高校生にとってはおそらく「昔」に属するものの感覚。

私が言いたいのは、流行りもので宗教を表現しようとする宗教アーティストの皆さまへの批判ではない。明らかにネットの影響で、流行りものの消費スピードが加速しているので、追いかけるならどこまでも付き合う必要がありそうだということ。あっという間に現在が過去になり、「なにそれ知らん」になる。

2016年10月31日月曜日

ハイブリッドのすすめ(千葉英和高等学校)

フィリピの信徒への手紙4章8~9節

関口 康

「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」

今日も聖書を学びたいと思います。ただ今日は、宗教科の先輩が、チャペルの礼拝の説教でいつもご自分のご家族のお話をなさるので、私も先輩を見習って家族の話をします。

私にはとても美しい妻と、とてもかわいい子どもが2人います。子どもと言っても、2人とも高校を卒業しています。1人は女の子で、もう1人は男の子です。

今日はその男の子の話をします。高知県で生まれました。私が初めて牧師の仕事を始めたのが高知県の教会だったからです。

息子が1歳のとき福岡県に引っ越しました。私が福岡県の教会の牧師になったからです。2歳のとき兵庫県神戸市に引っ越しました。私が神戸の学校に入学したからです。家族寮で生活しました。3歳のとき山梨県に引っ越しました。私が山梨県の教会の牧師になったからです。9歳のとき千葉県松戸市に来ました。私が松戸市の教会の牧師になったからです。それ以降は千葉県民です。

息子が高校生だった頃、ふと聞いてみたくなったことがあって質問しました。「お前は今、教会とか聖書とかキリスト教のことをどう思ってんの」。

家族ですからずっと行動を共にしてきましたが、お互いの距離があまりに近すぎて、そういう質問をしたことがありませんでした。

おやじから唐突に変なことを質問された息子から「どゆ意味?」という返事がかえってきました。それで私は続けました。「いや、だってさ、生まれたときから教会にいて、聖書とかキリスト教とか否応なく押し付けられて、腹立つこととかなかったのかな、と思ってね」。

もう少し続けました。「だって、ほら、お前がこれまで通った学校はキリスト主義じゃなかったし、学校で教えてもらうことと、おやじから聞く聖書の話が矛盾してるとか、そういうことで悩んだこととかなかったのかな、と思ってね」。

返事がありました。「ああ、そういうときもあったよ」。「おれが幼稚園のころ教会でもらった聖書の絵本を読んで、それに書いてあるとおりだと思ってた。だけど小学校に入ってから全部崩壊した。がらがら崩れ去った」。

「そうか。そりゃ悪いことしたな。すまんすまん」と謝りました。そして、また聞きました。「それなら今はどうなの。聖書に書いてあることと、学校で教えてもらうことと、どっちが大事とか、どっちが正しいとか、そういうこと考えることないわけ」。

ほんの少しだけ間がありました。「考える時間くれ」みたいな顔をしました。しかし、さほど待たずに答えがかえってきました。

「どっちも、でいんじゃね」。

その答えを聞いて、私はとても安心しました。

今日、私が皆さんにお話ししたいのも、それと同じことです。今日の礼拝プログラムに書いた私の説教のタイトルは「ハイブリッドのすすめ」ですが、言いたいことは「どっちも、でいんじゃね」です。

礼拝プログラムに載せた説教要旨にうんとややこしいことを書きましたが、詳しい説明はしません。あとで読んでみてください。

今日開いていただいているのは、二千年前のキリスト教伝道者、使徒パウロが書いた手紙の一節です。そのパウロが書いている「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(8節)の「すべて」は、文字通りのすべてです。

それは、聖書に書かれていることのすべて、とか、キリスト教の教会が教えていることのすべて、という意味ではありません。そのような制限がない「すべて」です。百科事典的な「すべて」です。

その「すべて」は、皆さんがこれまで、そしてこれから、学校や社会で勉強してきたし、することのすべてです。キリスト教主義の学校だからといって、キリスト教だけ勉強しているとか、聖書だけ勉強しているということはありません。あらゆる知識、教養、体力、生活力を、わたしたちは学んでいます。もちろん人によって、どれは得意で、どれは苦手ということはあるかもしれません。でも、どれは大事で、どれは大事でないということはありません。

それで今日、私が皆さんにお願いしたいのは、その「すべて」の中に、もしよろしければ「聖書」も加えていただけませんでしょうか、ということです。この学校に「聖書」の授業があります。一方的に押し付ける気持ちは全くありません。

私が皆さんにお願いしたいのは、いろいろとたくさんある中の目立たない隅っこで構わないので、「聖書」のことも考えることができる心のすきまを、ほんの少しだけでいいので空けていただけませんでしょうかということです。

「聖書」が何の役に立つのかを説明するのは難しいことです。今日はひとつだけ言っておきます。また家族の話になって申し訳ありませんが、先ほど紹介した息子の言葉です。「幼稚園のとき読んだ聖書の絵本に書いてあることをそのまま信じていた。でも、小学校に入って、がらがらと崩れ去った」と息子は言いました。

この話には逆のケースがあります。「すべて」の知識が「がらがらと崩れ去る」ときがあります。新しい研究や発見で、ひとつの学説が完全に否定されることがあります。「これが正しい」と多くの人が信じていたことが一瞬で消え去ることがあります。信頼していたことや、それを教えていた人に「裏切られた」と感じるとき、人は完全に絶望することがあります。

そのようなとき、「もうひとつの知識」が頼りになることがあります。「聖書」の教えとはそういうものだと私はとらえています。この世の知識が崩れ去り、ついでに「聖書」の教えまでもが崩れ去ったとき、「神」がわたしたちの心が折れないように、下のほうでしっかり支えてくれています。

いばるわけではありませんが、「聖書」の教えには、いろんな時代を乗り越えて何千年も生き延びてきた実績があります。「すべて」の知識と共に「聖書」の知識を重んじる人は「ハイブリッドな人」になることができると、私は信じています。

皆さんにはぜひ、そのような人になってほしいと願っています。

(2016年10月31日、学校礼拝)

2016年10月30日日曜日

空の鳥をよく見なさい(習志野教会)

マタイによる福音書6章26節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」

習志野教会の皆さま、はじめまして。今日は皆さまの大切な礼拝の説教者としてお招きいただき、感謝いたします。

皆さまとお会いするのは初めてですので、短く自己紹介をさせていただきます。今年(2016年4月)から千葉英和高等学校で聖書を教える仕事を始めた日本基督教団教務教師です。東京教区千葉支区のメンバーです。千葉支区だより『しののめ』第36号に、斜め45度の顔写真付きで私の自己紹介文が掲載されていますので、お読みいただけますと幸いです。

『しののめ』に書きましたが、私は東京神学大学大学院の26年前(1990年3月)の卒業生です。日本基督教団の教師を、補教師の時期と合わせて7年しました。その後、兵庫県神戸市にある神戸改革派神学校で1年半学び、その後17年6ヶ月は日本キリスト改革派教会の教師でした。日本基督教団に戻ってきたのは半年前(2016年4月)です。

すべて合わせれば、教会の牧師として働いたのは25年になります。しかし、日本基督教団の中では「新人」ですので、『しののめ』の自己紹介文のタイトルを「新人教師挨拶」としました。

なぜ日本基督教団を離れたのか、なぜ戻ってきたのかと多くの人から何度となく尋ねられるのですが、どなたにもはっきりお応えすることができないままです。意味不明のことをむにゃむにゃ言っているだけです。それでも教団の教師転入試験と面接に合格しましたので、それ以上はご勘弁いただきたく願っています。ただ神の御心、ただ神の導きですとしか表現できません。

さて、そろそろ本題に入ります。初めての習志野教会の礼拝で、どの聖書箇所で説教をさせていただくかで少し迷いましたが、すぐに心が定まりました。先ほど朗読していただいた箇所に決めました。マタイによる福音書6章26節です。

実を言いますと、この箇所は千葉英和高等学校の今年度の「年間主題聖句」なのです。毎週月曜日に全校生徒による学校礼拝を行っています。明日もあります。宗教科職員が当番で説教をしています。明日の説教者は私です。

学校礼拝の中で、この箇所を全校生徒で声に出して読んでいます。この箇所を読みながら高校生が何を考え、何を感じているかは、教室でひとりひとりに尋ねたことがありませんので分かりませんが、みんな真剣に受けとめてくれています。そのように私は信じています。

もちろん私も学校礼拝のたびに読んでいます。書かれていることの意味を考えながら噛みしめています。その箇所を習志野教会の皆さまと共に読ませていただこうと思いました。やや個人的な理由であることをお許しください。

「空の鳥(とり)をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥(とり)を養ってくださる。あなたがたは、鳥(とり)よりも価値あるものではないか。」

今お読みしましたのは、マタイによる福音書が伝えるイエスの言葉です。しかし、いきなり初対面の皆さんを面倒な話に巻き込んで申し訳ありませんが、ルカによる福音書の12章24節に、これとよく似ている言葉でありながら内容が異なることが書かれているということをお伝えいたします。

「烏(からす)のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏(からす)を養ってくださる。あなたがたは鳥(とり)よりもどれほど価値があることか」。

高等学校の聖書の授業では、このように、マタイによる福音書が伝えるイエスの言葉とルカによる福音書が伝える言葉が食い違っているといった場合、どちらがよりリアルなイエスの言葉に「近い」と考えることができるかについて、その考え方や理解の仕方を教えています。

極度に専門的な議論を教えることまではしていません。「ここから先は大学で勉強してください」ということで。しかし、聖書の中に違いや矛盾があるという事実は率直に教えています。避けて通ろうとしたり、ごまかそうとしたりすれば、高校生たちは必ず見破ります。毎日が真剣勝負です。

はい、それでは、これから聖書の授業を始めます。レジュメを作ってきましたので配布してください。

[ここをクリックするとレジュメをダウンロードできます]

《新共同訳聖書に基づく比較》

【マタイ 6章26節】       【ルカ12章24節】
・空の鳥(とり)         ・烏(からす)
・よく見なさい         ・考えてみなさい
・倉に納めもしない       ・納屋も倉も持たない
・あなたがたの天の父      ・神
・鳥(とり)を養って        ・烏(からす)を養って
・価値あるものではないか    ・どれほど価値があることか

この比較で分かるのは次のようなことです。ぜひ皆さんもご自分で比較してみてください。

(1)マタイでは「鳥」の種類が《特定されていない》が、ルカでは「烏(からす)」に《特定されている》。「烏(からす)」は、旧約聖書のレビ記11章13~15節では「汚らわしいもの」とされている。

(2)マタイでは「よく見ること」が求められているが、ルカでは「考えること」が求められている。前者は《客観的観察》、後者は《主体的思考》を求めている。「空の鳥」を「よく見ること」のためには《見上げる》必要があるが、「考えること」のためにはその必要はない。

(3)マタイでは「空の鳥」の性質を「倉に納めないこと」としているが、ルカでは「烏(からす)」の性質を「納屋も倉も持たないこと」としている。前者は《自発性の欠如》を、後者は《所有の欠如》を示唆している。

(4)マタイでは「あなたがたの天の父」と呼ばれているが、ルカでは「神」と呼ばれている。前者は《見上げる》存在をイメージさせるのに対し、後者は必ずしもそうではない。

(5)マタイでは「価値あるものではないか」と言われているが、ルカでは「どれほど価値があることか」と言われている。前者は「価値がある」と《断定する調子》が、後者は「価値があるかどうか」の《熟考を求める調子》が感じられる。

マタイとルカのどちらが、よりリアルなイエスの言葉に「近い」と考えることができるでしょうか。細かい議論を省略して結論だけを言えば、ルカによる福音書のほうが「近い」と言えます。

ルカによる福音書が伝えるイエスの言葉の趣旨は次のようなことです。

旧約聖書においては「汚らわしい」とされ、忌み嫌うべき存在とみなされている「烏(からす)」を神は心から愛しておられ、価値ある存在としてくださっている。「烏(からす)」は自分の納屋も倉も所有していないという点で、物質的な貧しさを象徴する存在でもある。

もしそうであるなら、たとえ物質的に貧しいからといって忌み嫌われたり蔑まれたりしてもやむをえないなどと言われなければならない人間がどこにいるのだろうか、いるはずがないではないか。

あなたがたは「自分には価値がない」と自分で思い込んでみたり、そのようなひどいことを他人から言われたりすることがあるかもしれないが、それは事実だろうか、事実であるはずはない。そのことをよく考えてみなさいと、イエスが語ったと考えることができます。

別の言い方をすれば、ルカによる福音書が伝えるイエスの言葉の趣旨は、物質的な貧しさの中にいるという理由で差別や偏見の対象になっている人々への祝福、そして擁護です。逆の視点からいえば、そういう人々を差別したりあざ笑ったりする人々への抗議です。

そしてそれは「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」(ルカによる福音書6章20~21節)とイエスが語られたことの言い換えです。

物質的な貧しさの中にいることで差別や偏見を受けている人の心が折れないように、いつも傍らにいて支え、慰め、励ますことに尽くされたイエスの姿をより鮮明に想像することができるのは、ルカによる福音書が伝えるイエスの言葉のほうです。

しかし、今申し上げたことを確認したうえで、それではマタイによる福音書が伝えるイエスの言葉のほうには価値がないのかというと、決してそうではありません。マタイによる福音書は聖書の中から切り離して捨ててしまうほうがよいのかといえば、全くそうではありません。両方大事です。伝え方は違いますが、どちらも代々の教会が伝えてきたイエスの言葉です。千葉英和高等学校が今年度の「年間主題聖句」として選んでいるのも、マタイによる福音書が伝えるイエスの言葉です。

マタイによる福音書が伝えるイエスの言葉の特徴は、「見上げる」ことを求めることにあります。「空の鳥をよく見る」ためには、少なくとも「空を見上げる」必要があります。地面をいくら眺めても、自分の心の中をいくら見つめても、「空の鳥」は見えません。「空」を見上げなければ!

そしてマタイは、「神」を「天の父」と呼ぶことで人々の目線を「天」へと、すなわち「上」へと向けさせようとしています。地面をいくら眺めても、自分の心の中をいくら見つめても、「天の父」は視野に入りません。「天」を見上げなければ!

皆さんはどうでしょうか。鳥(とり)や烏(からす)と比較されて「あいつらより価値があるから、お前は大丈夫だ」と言われても、それで慰められることはあまりないのではないでしょうか。鳥や烏と比べられても困るのではないか。そして、そのような《相対評価》で救われる人は、あまりいないのではないでしょうか。

《相対評価》も大事です。しかし、それより大事なのは《絶対評価》です。人間の評価を決めるのは人間自身ではないし、地上のいかなる存在でもありません。地上に住んでいない「天の父」が我々の価値を決めてくださいます。その意味での《絶対評価》が重要です。

マタイが伝えるイエスの言葉が教えているのは、「人と自分を比較するな。自分で自分を評価するな。あなたの価値は神が決める。神はあなたを必ず高く評価しておられる」ということです。

(2016年10月30日、日本基督教団習志野教会主日礼拝)

2016年10月28日金曜日

流行りものと宗教の関係(Ⅰ)

相当賛同し、応援しているつもりなので、残る問題は、子どもはいつまでも子どものままでなく、若者はいつまでも若者のままではないということくらいか。あとは、入り口の敷居が低いと感じて入った人は、中でも出口でもずっと同じ低さであることを求めることが少なくないが、それでいいかという問いか。

前世紀65年生まれの私の子どもの頃の記憶はアニソンで満ち満ちている。まもなく51歳の今でも時々鼻歌状態。大人になれば演歌が好きになるのだろうかと思っていたが全くそうならない。このままだと80になろうが90になろうがアニソン鼻歌のままの可能性が高い。アニソンおじいさんになりそうだ。

今考えているのは宗教の問題だ。流行語や流行音楽ジャンルで宗教を表現することが悪いわけがない。ただ、流行は廃れる。死語を使い続けると萎えられる。同世代の内輪で懐かしがる対象にでもなれば御の字。それはそれで内輪受け、楽屋落ち。汎用性がないとも期待できないとも言わないが、低い、少ない。

アニメにしてもマンガにしても、自分自身が夢中で見たものと、自分の子どもたちと一緒に見たものは分かるが、時代や世代がちょっとでもずれると分からない。宇宙戦艦やマジンガーやサイボーグは分かるし、ワンピースやおジャ魔女は分かるが、ドラゴンボールもスラムダンクもジョジョも私は分からない。

セブンからタロウまでと、ティガと(ひとつ飛んで)ガイアは分かるが、あとは分からない。ツェッペリンやピストルズは分かるが、ビートルズやディープ・パープルは分からない。私が思うのは、流行もので宗教を表現することが悪いわけがないが、世代差が少しでもあると伝わらない気がするということだ。

2016年10月27日木曜日

史的絶叫の問題

「見捨てられた」と絶叫した点ばかり強調されると詩22との関係の逆質問でパランスをとりたくなる。世的生殺与奪権者を批判したうえであわよくば自分も生き残ろうとして叶わなかったというある意味「分かりやすい」シナリオでいいかどうか。違うのではないかと言いたくなる。自分に引き寄せ過ぎでは。

少なくともマルコが詩22を知らなかったとは考えにくいので、「史的絶叫」の内容が何かはともかく、マルコが詩22を読者に想起させようとしているとは言えるのでは。その筋の方々の口ぶりを真似ていえば「マルコが詩22を言わせた」。「神なき絶望」でなかったと言いたいからではないか。違うのか。

サンヘドリンを極悪非道な「異常会議」として描くか、そうでなければ、死刑へと追いつめられた側の人の「異常性」を強調して描くか、そのどちらかしかないとは思えない。どう考えればよいかでずっと迷い、今も迷ったままだが、どちらも「普通の人」である中(仲)で起こる狂気が最も恐ろしいとは思う。

「扇動」された「群衆」とは何人くらいだったのだろう。「群衆」といえば何人くらいを指すというような定義があるのか。何か決まった数え方があるのか。俯瞰して数えられたのか、それとも声量の印象か。そもそもだれが数えたのか。実際は数人だったという可能性はないのか。いろいろ疑問がわいてくる。

いずれにせよ思い当たるのは、三位一体をたたえる讃美歌をうたい、祈祷することを必然化するキリスト教的礼拝と、受肉・奇跡・復活等を「狂信」や「心理現象」等の産物へと還元する教説を共存させる困難さは熾烈をきわめるということである。一方で礼拝しながら同時に他方で好き勝手なことは言えない。

史的絶叫を想像(想起は不可能)しつつ、外面的には黙しつつ、内面的に私的絶叫。おどけたことでも言っていないと持ち堪えられないところがないこともない。祭壇上で粉々にされる贖いの小羊の気持ちを合わせて想像(想起は不可能)。「分かりやすい」教説で生きてやると心に誓えればある意味すっきり。

2016年10月23日日曜日

「若者の教会」を生み出すのは終末論的行為である

その意味では(どの意味かの説明省略)「献」金というのは、前世紀神学の流行語を用いて言えば「終末論的な」(エスカトロジカル)行為であると言える。どれほど回っても献げた本人の利益として戻ってくることはないが、世界と教会の「将来」のために献げる。親が子どもたちに投じる教育費に似ている。

違うだろうか。親が子どもに投じる教育費は、将来的に親自身の利益として戻ってくることを期待して投じるものだろうか。微妙な問題はある。子どもの活躍や出世は親の名誉になる面がある。教育費その他でひどい負担を負わせた親への恩返しをしなければ、一生面倒を見なければ、と覚悟する子どももいる。

子どもの活躍や出世が親の名誉になることや、お世話になった親への感謝の思いは尊いものなので、けなされるべきではないし、第三者がえらそうに禁じるようなことではない。ただ、私自身も二児の親である者として自戒してきたのは、子どもの教育費は子どもに対する親の貸しではありえないということだ。

教会の「献」金はどうだろう。「献」げた人自身にとって居心地のよい建物や土地、自分が満足しうる説教や講演や音楽を確保するためなら「献」げるが、そうでないならそうでないという人はたぶんいない。このようなことを問うこと自体ですでに「ばかにしているのか」と反発され、不快に思われるだろう。

しかし、私がいま書いていることの趣旨は、自分自身はまだ見たことがないし、一生見ることができないかもしれないし、たぶん見ることができないであろう「将来」のために自分の資財を投じるという意味での(終末論的な)「献」金がささげられないかぎり、「教会」の「将来」はありえないということだ。

厳しすぎる言い方かもしれないが、今や「少子高齢化時代の教会」であることを自覚しておられるはずの高齢教会員がなんだかいつまでも子どもじみた刹那的な態度や発言をなさるのに接するたびに、「(教会全体の平均年齢との比較において)いつまで経っても若い牧師」は、絶望に近い危機感を覚えるのだ。

しかし、このくらいで止めておく。書きはじめるときりがない。だれか特定の個人の悪口を言っているつもりはないが、そうであるかのような気分になってくる。私の祈りは大それたことではない。ごく小さな望みにすぎない。教会の歴史を途絶えさせないようにしよう。二千年続いてきたからとかは関係ない。

新松戸幸谷教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年10月23日日曜日)も先週と同じく日本基督教団新松戸幸谷教会(千葉県松戸市)の主日礼拝に出席しました。借家から車で13分(3.6キロ)。吉田好里牧師は東京神学大学の大先輩ですが、初めて説教を拝聴しました。本当に素晴らしく、これまで出会った最高の説教だと思いました。

2016年10月22日土曜日

追い払われそうになった子どもたちはいつまでも憶えている

いま考えたことだが、イエスのもとに子どもたちを連れて来た人々を叱った弟子たちにイエスが憤ったという記事(マルコ10章13節以下)の子どもたちは、マルコ福音書が書かれた頃(1世紀後半)は高齢者だ。子どもはいつまでも子どものままではない。あのとき追い払われていたらどうなっただろうか。

何の根拠もないので検証できないが、もしイエス死後の教会に、弟子たちに追い払われそうになったがそれをイエスが制し、イエスに抱き上げられ祝福された当時の「子どもたち」が残っていたとしたらどうだろう。その人々の心に「弟子たちに追い払われそうになった」記憶が残っていたとしたらどうだろう。

そういうことをされた幼いころの記憶というのは、いつまでも残っているものだ。「追い払う側」の大人たちは記憶していなくても、「追い払われそうになった側」の子どもたちは、それを忘れはしない。そして、自分たちをかばってくれた大人のこともよく憶えている。抱き上げてくれた手のぬくもりまでも。

いま書いたことは、まだつい先ほど思いついたばかりなので、もう少し練ったり温めたりする必要がありそうだ。そのうち説教の題材として取り上げてみたい気がする。説教のタイトルは何にしよう。「追い払われそうになった子どもたちはそのことをいつまでも憶えている」にしようか。ちょっと長すぎるか。

「若い人を教会に」という祈りを実現するための提案

「若い人を教会に」という祈りを実現するためのひとつの方策として、20代以下の信徒のみで構成された伝道所を生み出し、その中で教会役員を選び、その伝道所の牧師は彼/彼女らの親の世代か、あるいは親の親の世代の人にし、土地・建物・伝道資金は親教会がすべて負担するというあり方はどうだろう。

日本プロテスタント教会史の最初期の「横浜バンド」「札幌バンド」「熊本バンド」の各教会の状況は上記のようなものだったはずだ。このようなことを書く私には、長老がたに忍耐を強い続けてきた「少子高齢化時代の教会」における「いつまで経っても若い牧師」を代表してお詫びしたいという思いがある。

会社の株主になることと教会の献金をすることは似ている面があるかもしれないが、もちろん全く違う。「前者は人に、後者は神に」とか言いたいのではない。献金の「献」をどこまで字義通りとらえるかだ。回り回って自分の利益(名誉など)として返ってくるのを腹の底で求めているようで何が「献」金か。

20代で教会の牧師になったばかりの頃、当時60代だったか70代だったかの教会の人(どこの教会かの詮索無用)が、自分より若い人を「ねぎらう」言葉として「私の手足となってよく働いてくださった」と言うのを聞いて、げっそりしたことがある。そういう感覚が入り込むと、教会は早晩壊れるだろう。

私が何度も繰り返し「教会は会社でも学校でもない」と説教で語ってきたのは、理論の帰結ではなく、こういう過去の実際の体験と記憶にすべて結びついている。会社や学校をおとしめる意図で言うのではないが、教会の建物と組織を利用して会社ごっこや学校ごっこをするのはやめてもらいたい。全く別物だ。

このように言うと、会社や学校のあり方のほうを常識だととらえている人々から、教会は非常識だと反発されてきた。会社や学校のあり方のままで教会に来、教会に違和感を覚え、反発を感じたら、教会のほうに近寄ってもらえなくなった。残念だが、そこは譲れない。教会は教会なのだ。他の何ものでもない。

「会社や学校のあり方」と「教会のあり方」とを峻別することは、会社や学校に不利益をもたらさず、かえって利益になると思う。会社も学校も教会ではない、すなわち宗教団体ではない。各組織においてどれほど厳しい上下関係があろうと、その関係は崇拝・信仰の関係ではないし、そうであってはならない。

そして、いま書いた点は教会も同じだし、教会こそが声を大にして言ってきたことだ。教会の中に会社や学校などの組織の中にあるような意味での上下関係はないし、あってはならないし、たとえ形式的に類似する要素があるとしても、その関係は崇拝・信仰の関係ではないし、断じてそうであってはならない。

「献金」の話に戻す。「献」げたのであれば、自分のものではない。引っ張ればいつでも戻ってくるひもをつけて何が「献」金か。見栄張りや恩着せの身ぶりつきで何が「献」金か。回り回っても自分の利益として戻ってはこないが、世界と教会の将来のためにささげるという動機を取り戻すことはできないか。

教会と会社や学校との峻別、そして今書いた意味の「献」金がないかぎり、先に書いた「20代以下の信徒のみで構成され、土地・建物・伝道資金は親教会が負担する伝道所」を生み出すことは夢のまた夢だ。「若い人を教会に」という祈りは正しい。しかし「若い人」は高齢教会員の部下でも舎弟でもない。

高齢教会員を疎んじる意図は皆無である。むしろ正反対である。心から敬意を表し、尊重する思いゆえに書いている。思う存分、同世代の人々との会話を楽しんでいただきたいし、何の気兼ねもなく昔の言語感覚や価値観の中で生きていただきたい。こんなこと言われなくてもすでにしておられるに違いないが。

ただ、ご自分たちのあり方を変えるつもりはないという点については一切お譲りにならないのに「若い人を教会に」とお祈りになることがいかに矛盾しているかということにはぜひお気づきいただきたいと願っている。ご自分たちが敷いたレールの上を「若い人」が走らないのは「若い人」が悪いわけではない。

かつては「外国」(とくにアメリカ)の教会が、1ドル360円の力で日本国内に伝道所を作り、土地・建物・伝道資金をプレゼントしてくれたので「若者の教会」ができた。稼ぎが乏しく、思うように献金できなくても、教会役員として選んでもらえ、若者らしい発想をもって教会運営に積極的に参加できた。

これからは「外国の資金力」ではなく「高齢者の資金力」で「若者の教会」を生み出すしかないだろう。「我々の二軍候補者が教会に来てくれないか」と指をくわえていても、そんなことを願われている時点で、若者は教会に近づかない。手下にされるのを嫌がる。現今の「伝道不振」の最大の原因ではないか。