2016年8月5日金曜日

平積み生活 8ヶ月目

またすぐに平積みに戻されるトレルチ
昨年末(2015年12月24日)に今の借家に引っ越して来て8ヶ月目に突入したが、多くの本が平積みのままだ。その中から久しぶりにトレルチ関係の本を引っ張りだしてみたが全部は揃わない。かなり深い地層に潜ってしまっているらしい。やれやれ。

まあべつに本は飾っておくものではなくて読むものなので、本棚が無くても平積みでもそれ自体は問題ないのだが、それって、どうせ同じお腹に入るんだからという理屈でメインディッシュのビーフステーキの上に熱いコーヒーをぶっかけて、その上にデザートのアイスクリームを乗せて食べるような感じかも。

もう少しリアルなたとえで言えば、平積み生活は、うっかり手を滑らせてノートパソコンをコンクリート床の上に落とし、ハードディスクがめちゃくちゃに壊れてしまった状態に似ている。マザーボードに破損がなくCPUやメモリーなどの調子がいくら良くても、どうしようもないというか、仕事にならない。

その意味では、もちろん私は今の平積み生活からなんとか抜け出したいと願っているし、その努力もしているが、なかなか問屋がおろさない。でもまだかろうじて毎日明るく前向きに生きていけるのは、どう言ったらいいのか、「この本は全部自分のものだ」という思いがあるからかも。古本ばかりなのだけど。

これは報告しなくては。先日落札した『現代の倫理』(山川出版社、2016年)が古書店から届いた。教科書の最新版が未使用で古書店に出回っているというのはどういうことか分からないがあえて問うまい。店長さんがとても丁寧な方で、うれしかった。
『現代の倫理』山川出版社、2016年

プロテスタントのどこがダメかを骨の髄まで

画像の岩波文庫はアンセルムス『クール・デウス・ホモ』
今日はトレルチの論文「倫理学の根本問題」(1902年)を紐解きながら聖書と倫理の歴史的関係を追跡。トレルチは学校現場で読むと彼の意図がよく分かることを実感。「聖書は倫理の代替でありうるか」という焦眉の問題の核心に迫る。

トレルチの論文「倫理学の根本問題」(Grundprobleme der Ethik. Erörtert aus Anlaß von Herrmanns Ethik, 1902)が書かれたのは100年以上前。改めて読んで、プロテスタントのどこがダメかを骨の髄まで知らされ、涙が出た。

ほら、そこ、私が今「プロテスタントのどこがダメかを骨の髄まで知らされ」と書いただけで拒絶反応を起こしているあなた、まさにそこがダメなのだ。そこをトレルチが直接指摘しているわけではないが、他者への攻撃にはめっぽう強いのに、他者から批判されたり、自己批判したりすることにめっぽう弱い。

天才というのは間違いなくいる。トレルチの文章を読みながら、そんなことまで思わされた。今の我々、いやピンポイントの私の状況を、100年以上前のドイツでぴたりと言い当てている。大雑把な占い師然とした当てずっぽうとしてでなく、徹底的な研究と厳密な学問的手続きを経て。かなわないと思った。

ありがたかったのは、トレルチ自身が前世紀初頭のドイツのプロテスタント教会のど真ん中に立ち、激しい苦悩と惨めさの中で書いた文章だと思えたことだ。なんら他人ごとではない。泣きながら書いたのではないかと感じるほどだ。外で言うなとは言わない。だが、中に立ち続けつつ言える人を私は尊敬する。

2016年8月4日木曜日

神学は理系向きの学問だと思う

Windows10「アニバーサリー・アップデート」インストール完了
バルトの神学が贖罪論中心だったのは、私見によれば、キリストが十字架で遺棄されることで万人が救いへ選ばれるという彼の思想ゆえだった。万人の救いを擁護する人は少なくないが、贖罪論中心を批判する人も増えてきた。「万人は救われるが、贖罪論は中心ではない」とする論理はどうしたら成り立つか。

というようなことを、勤務校からの帰りの車の中で考えていた。申し訳ないことに最近カーステで流す音楽はレベッカさんでもコブクロさんでもない。かつて一時期夢中で聴いてその後いったん沈静化し、長年を経て再び聴きはじめた曲への関心の再沈静化は音もなく訪れる。歳をとった証拠かも。若干寂しい。

理系クラスの中に、聖書の授業が終わると質問しに来てくれて、聖書の中のこのこととあのこととを両立させようとすると論理的な矛盾が起こるのではないかという趣旨のことを言ってくれる生徒がいる。正直アタマが下がる。そうだ、それが神学的思考というものだよ。神学は理系向きの学問だと思うよ事実。

2016年8月3日水曜日

「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」と康さんが書いて康さんが口ずさむ

昼休み中、シュールだったので記念写真(除籍本です)
まあいいや。私に教師はいなかったんだった。昔からかわいくないもんな。多くの方にお世話になった。感謝の心を失ったことはない。その意味ではその全員が私の教師だ。でもどなたかの弟子にしていただいたことはない。強いて言えばファン・ルーラー先生だな笑。私が5歳のときに亡くなられた方だけど。

考えたことがなかったが、私が幼稚園年長組だった6歳になったばかりのクリスマス礼拝で成人洗礼を受けた1971年12月26日(日)は、ファン・ルーラー先生がまだ若い62歳で突然の心臓発作で亡くなった1970年12月15日(火)のほぼ1年後だったようだ。無理やり関連づけてみただけだが。

私は自分には教師はいないと思っているし、どなたかの弟子にしていただいたことは一度もないと思っているので、私も教会や学校に自分の弟子がいると考えたことは一度もないし、今後も考えることはありえない。みんな私を友達だと思っている。いいよそれで。そのほうがお互い気楽。弟子とかキモいし笑。

とにかく夢中の数ヶ月の中で知らずにいた歌謡曲を、このところ毎日聴いている。「夢を見ることは時には孤独にもなるよ 誰もいない道を進むんだ」と康さんが書いたらしい歌詞を、康さんが口ずさむ。無理やり関連づけてみただけだが。

あらあら、もうこんな時間か。そろそろ休むとしよう、明日も勤務だ。

2016年8月2日火曜日

青春の盛夏の聖書

みんな大好きだ!
目に見える私の持ち物はといえば大多数は本だ。あとは何もないと、何ら大げさでなく言える。私の部屋は紙のにおい以外、ほとんど無臭だ。だって何もないもの。「本ばかり集めて、物欲のかたまりですよね」と言ったら大先輩の先生(地歴科)が「それは物欲とは言わないよ」と教えてくださった。

生徒の夏休み中は当然授業はない。今日はずっと職員室にこもって教科会議資料づくりに没頭。仮タイトル(変更の可能性が高い)は「聖書と進学」。誤変換ではない。「受験に関係ない」と言われる教科をどう改革していくか。「新入りなので」は黙っている理由にならない。聖書の授業は休憩時間ではない。

4年後(2020年頃)にはセンター試験が廃止され新しい入試制度が導入される流れなので、宗教科としてもそういうことをしっかり見据える必要がある。宗教と人生が関連しあっていることはかなり認知されていると思う。学校において重要なことは、それを正規の「教科」としてどのように実現するかだ。

2016年8月1日月曜日

「手引きしてくれる人がなければ」は哲学も同じだ

『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(春秋社、2015年)
先日落札した『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』が届いた。27年前(1989年)にトレルチで修士論文を書いたとき以来、日本語版の著書や研究書は極力集めてきたが、心躍る思いなどはない。どちらかというと気が重い。うっとうしいほど重苦しい。

マルクスはヘーゲルの一読者だったにすぎず、ヘーゲルはカントの一読者だったにすぎず、カントはヘーゲルの存在を知らないし、ヘーゲルはマルクスの存在を知らない。しかし、後の歴史家は「カントがドイツ観念論を確立した」と論じ、そのように高校の世界史教科書に記載される。なんとも複雑な心境だ。

今夜は高校の倫理の教科書(山川出版社)を即決で落札した。学校にあるし、うちにもたぶんどこかにあるが、自分のものが欲しかった。私は高校時代の倫理社会の授業で人生初めて哲学に興味を持った。今の高校生はどうだろう。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」は哲学も同じだ。

2016年7月31日日曜日

本日ブログで公開した神学系拙文リスト

記事とは関係ありません
昨夜から今朝にかけて過去に雑誌に掲載された神学系拙文をいくつかブログで公開しました。本日公開分リストを作りました。下記の各タイトルをクリックすると各記事にジャンプします。

【本日ブログで公開した神学系拙文リスト(2016年7月31日)】

ファン・ルーラーの三位一体論的神学と参加的思惟(1998年)

今なぜファン・ルーラーか(2002年)

オランダ改革派の伝統と日本の教会(2002年)

書評 大木英夫著『組織神学序説 プロレゴーメナとしての聖書論』(2003年)

地上における神のみわざとしての教会―A. A. ファン・ルーラーの教会論の核心(2007年)

改革派神学・長老主義・喜びの人生―ファン・ルーラーから学びうること(2007年)

オランダの戦後復興を支えた声―プロテスタント神学者A. A. ファン・ルーラーの「ラジオ説教」(2009年)

書評 渡辺信夫著『カルヴァンの教会論』増補改訂版(2010年)

新約聖書は旧約聖書の「巻末用語小辞典」か―旧約聖書と新約聖書の関係についてのA. A. ファン・ルーラーの理解(2012年)

『改革派教会信仰告白集』を絶賛する(2012年)

豊島岡教会南花島集会所の主日礼拝に出席しました

今日(2016年7月31日日曜日)は日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市南花島)の主日礼拝(開始13時30分)に出席させていただきました。説教者は豊島岡教会の濱田美也子先生でした。素晴らしいご説教ありがとうございました。

日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市南花島)

今夜は親しい友人が遊びに来てくれたので、久しぶりにラーメン横綱松戸店(千葉県松戸市)に行き、ラーメンをいただきました。サイゼリヤ柏6丁目店(千葉県柏市)に移動し、ドリンクバーを注文して歓談しました。夏休みらしいことをやっとしました。

ラーメン横綱松戸店(千葉県松戸市)の美味しいラーメン

2016年7月30日土曜日

どのみち大言壮語なら

世界一うまかったマンゴー
受け取り方によっては負け惜しみのように響く可能性があることを書くが、自分の家族や親戚など「小さな」文脈の人間関係と、国や世界など「大きな」文脈の人間関係との間に、もう一段階、ある意味で「中間的な規模の」人間関係をしっかり築ける「どこか」がないと、人は大言壮語しやすくなると思う。

ご想像のとおり、いま考えているのはインターネットへの苦言の一種だ。インターネットは「中間的な規模の」人間関係を築く手続きを割愛し、あるいはその手続きを破壊してまで、家族や親戚など「小さな」文脈の人間関係から、いきなり国や世界など「大きな」文脈の人間関係へとジャンプする性質をもつ。

なぜ負け惜しみのように響くかもしれないと思うかといえば、「大きな」人間関係に対して昨年まであれほどあれだったのに、今年はさっぱりあれでないと自覚しているからだ。変節したわけではない。新しい「中間的な規模」の人間関係をしっかり築くことなしに「大きな」あれは無理だと思っているだけだ。

しかし、「小さな」人間関係から「大きな」人間関係へジャンプできるのは画期的で素晴らしいことではある。「私の妻は世界一美しい」と躊躇なく書くことができるし、「いま食べたマンゴーは世界一うまかった」と画像付きで見せびらかすことができる。

つまらない話を長く続けるつもりはない。大言壮語しやすいのはインターネットの特質だと思うので、ある程度はやむをえないし、そういうものだと受け容れるしかない。ただ、私が思うのは、どのみち大言壮語なら他の人が楽しくなるような話のほうがいいよねというくらいのことだ。ガチの大言壮語は引く。

2016年7月29日金曜日

「聖書の授業」と「学校礼拝」のハイブリッド関係

借家から見える夕陽
聖書の歴史的批評的研究は当然必要であると私は考えているが、それによって「歴史の真実」が分かるとは考えていない。理性の場である学校教育において聖書宗教をもし「単なる理性の限界内の宗教」(カント)へと切り詰めて提示するとしたらこういう感じになるというモデルを考案しているだけだと思う。

一つ思い当たる問題は国公立学校と私立学校の違いにある。国公立学校で聖書を「単なる理性の限界内の宗教」へと切り詰めて教えても問題はない。しかし、私立でキリスト教主義を掲げる学校の場合は「学校礼拝」が行われる。その礼拝の説教や賛美や祈祷においては「理性を超える」言葉が必ず用いられる。

つまり、私立のキリスト教主義学校においては、授業では「理性の限界内の宗教」として聖書を教え、学校礼拝(単位としては「授業」)では「理性を超える」言葉を語ることになる。それが悪いわけではない。このハイブリッド感をうまく伝えられるかどうかが教員の力量にかかっていると思っているだけだ。