借家から見える夕陽 |
一つ思い当たる問題は国公立学校と私立学校の違いにある。国公立学校で聖書を「単なる理性の限界内の宗教」へと切り詰めて教えても問題はない。しかし、私立でキリスト教主義を掲げる学校の場合は「学校礼拝」が行われる。その礼拝の説教や賛美や祈祷においては「理性を超える」言葉が必ず用いられる。
つまり、私立のキリスト教主義学校においては、授業では「理性の限界内の宗教」として聖書を教え、学校礼拝(単位としては「授業」)では「理性を超える」言葉を語ることになる。それが悪いわけではない。このハイブリッド感をうまく伝えられるかどうかが教員の力量にかかっていると思っているだけだ。