2016年7月29日金曜日

「聖書の授業」と「学校礼拝」のハイブリッド関係

借家から見える夕陽
聖書の歴史的批評的研究は当然必要であると私は考えているが、それによって「歴史の真実」が分かるとは考えていない。理性の場である学校教育において聖書宗教をもし「単なる理性の限界内の宗教」(カント)へと切り詰めて提示するとしたらこういう感じになるというモデルを考案しているだけだと思う。

一つ思い当たる問題は国公立学校と私立学校の違いにある。国公立学校で聖書を「単なる理性の限界内の宗教」へと切り詰めて教えても問題はない。しかし、私立でキリスト教主義を掲げる学校の場合は「学校礼拝」が行われる。その礼拝の説教や賛美や祈祷においては「理性を超える」言葉が必ず用いられる。

つまり、私立のキリスト教主義学校においては、授業では「理性の限界内の宗教」として聖書を教え、学校礼拝(単位としては「授業」)では「理性を超える」言葉を語ることになる。それが悪いわけではない。このハイブリッド感をうまく伝えられるかどうかが教員の力量にかかっていると思っているだけだ。