2016年7月30日土曜日

どのみち大言壮語なら

世界一うまかったマンゴー
受け取り方によっては負け惜しみのように響く可能性があることを書くが、自分の家族や親戚など「小さな」文脈の人間関係と、国や世界など「大きな」文脈の人間関係との間に、もう一段階、ある意味で「中間的な規模の」人間関係をしっかり築ける「どこか」がないと、人は大言壮語しやすくなると思う。

ご想像のとおり、いま考えているのはインターネットへの苦言の一種だ。インターネットは「中間的な規模の」人間関係を築く手続きを割愛し、あるいはその手続きを破壊してまで、家族や親戚など「小さな」文脈の人間関係から、いきなり国や世界など「大きな」文脈の人間関係へとジャンプする性質をもつ。

なぜ負け惜しみのように響くかもしれないと思うかといえば、「大きな」人間関係に対して昨年まであれほどあれだったのに、今年はさっぱりあれでないと自覚しているからだ。変節したわけではない。新しい「中間的な規模」の人間関係をしっかり築くことなしに「大きな」あれは無理だと思っているだけだ。

しかし、「小さな」人間関係から「大きな」人間関係へジャンプできるのは画期的で素晴らしいことではある。「私の妻は世界一美しい」と躊躇なく書くことができるし、「いま食べたマンゴーは世界一うまかった」と画像付きで見せびらかすことができる。

つまらない話を長く続けるつもりはない。大言壮語しやすいのはインターネットの特質だと思うので、ある程度はやむをえないし、そういうものだと受け容れるしかない。ただ、私が思うのは、どのみち大言壮語なら他の人が楽しくなるような話のほうがいいよねというくらいのことだ。ガチの大言壮語は引く。