2015年7月22日水曜日

フィリピの信徒への手紙の学び 12

松戸小金原教会の祈祷会は毎週水曜日午前10時30分から12時までです
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フィリピの信徒への手紙3・17~4・1

関口 康

前々回申し上げたとおり、パウロはこの手紙を「では、私の兄弟たち、主において喜びなさい」(3・1)という言葉で締めくくろうとした可能性があります。「では」は手紙などを締めくくるときに用いられる言葉だからです。

しかしパウロはそこで筆をおきませんでした。おそらくパウロはこの手紙を「喜び」を語ることだけで済ますことに躊躇を覚えたのです。「あの犬どもに注意しなさい」(3・2)と続けました。キリスト教信仰に敵対する人々がいるということを語りはじめました。

あからさまに書かれているのは当時のユダヤ教徒のことです。しかし、キリスト教信仰に敵対してきた人々はユダヤ教徒だけではありません。あらゆる国の、あらゆる時代の、あらゆる宗教の人々、あるいは無神論者が、キリスト教信仰に敵対してきました。

私が子どもだった頃には「アーメン、ソーメン、冷ソーメン」だのと、まだ言われていました。ものすごく嫌でしたが、多勢に無勢でしたので黙っていました。その手のことに巻き込まれるのが面倒だったので、教会に通っていることを学校では隠していました。

私の場合は、だからこそ牧師になろうと決心した面があります。牧師にならなければ、教会に通っている人間であるということを公表することすら憚られる、という思いがあったからです。私の故郷の岡山が中途半端な田舎だったからかもしれません。こういう理由で牧師になることが不純な動機かどうかは分かりませんが、いまだにこれ以外に表現のしようがないと思っています。

この個所をパウロは文字どおり泣きながら書いています。そのようにはっきり書いています。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」。これは大げさな言葉ではありません。このあたりの字が涙でにじんでいたのではないでしょうか。

しかし、パウロが泣いていたのは、自分が信じている宗教を否定されたからであるとか、自分のしていることをけなされたからというようなこととは違うと思われます。続きを読みますと「彼らの行き着くところは滅びです」とあります。「彼らは腹を神とし、恥ずべきことを誇りとし、この世のことしか考えていません」。

ここでパウロが考えていることは、救い主としてのイエス・キリストに、あるいは宗教としてのキリスト教に敵対する人々の先行きを案じている、というのが最も近いです。要するにパウロは彼らの心配をしているのです。

「腹を神とする」と同じ意味の「腹」を、パウロはローマの信徒への手紙でも用いています。「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです」(ローマ16・18)。

「腹」の意味が同じであるだけでなく、「自分の腹に仕える」と「腹を神とする」が同じ意味です。自分のお腹をあたかも神であるかのように礼拝することです。これは比喩ですし皮肉です。パウロが書いている意味の「腹」は欲望の象徴です。食欲に限らず、すべての欲望が含まれます。

欲望を満たすことのすべてが悪いわけではありません。欲も望みもなくなれば、人生の活力は消え失せるでしょう。しかし、問題は、自分の腹(欲望)と神を引き換えにすることです。自分の腹を選ぶか、それとも神を選ぶかという二者択一を迫られる場面で迷わず腹を選ぶということになるならば、それは自分の腹と神とを引き換えにすることです。

しかし、よく考えれば、わたしたちが自分の欲望を満たすことと、神を信じて教会に通うことは激しく対立することではないはずです。このように言うと驚かれるかもしれませんが、わたしたちが教会に通うことに強制や脅迫の要素があるならばともかく、自由と喜びのうちに自発的に教会生活を送っている人は、そのことが自分の満足にもなっているはずです。

わたしたちが神を信じて生きるとは、神の祝福のもとに置かれることであり、神の恵みが豊かに注がれることを意味しています。それは言葉の正しい意味での幸福な人生であり、満足できる人生です。満足することと、欲望ないし欲求が満たされることは、矛盾することでも対立することでもありません。

ところが、両者があたかも対立するものであるかのようにとらえ、神か腹か、宗教か欲望か、教会か社会かというような二者択一を考え、神と教会とを切り捨てる選択肢をえらんでいくときに、パウロの言う意味での「自分の腹を神とする」という批判の言葉が該当しはじめるのです。

もちろん、どの宗教を信じても同じというわけではありません。どの登山口から登り始めても頂上は同じという考え方(それを宗教多元主義といいます)はパウロにはありません。彼はただ心配しているのです。真の救い主イエス・キリストを知る者として。イエス・キリストへの信仰によってしか決して赦されえない深く大きな罪をもっていることを自覚している者として。自分は弱い人間であることを知る者として。

「わたしたちの本国は天にあります」(3:20)はとても有名な言葉です。文脈的には唐突ではありますが、パウロの意図は分かります。「本国」と訳されているギリシア語(ポリテューマ)は「コロニア」というラテン語に訳されて、コロニー(植民地)の語源になりました。しかし、このパウロの言葉を「わたしたちの植民地は天にあります」と訳すのは誤解を招くだけでしょう。

とはいえ、この手紙の最初の読者、フィリピの教会の人々はローマ帝国の植民地(コロニア)に住んでいたという歴史的な事実は勘案されて然るべきでしょう。彼らがローマ帝国に逆らうことは反逆罪であり、ただちに死を意味していました。ローマ帝国は支配下の人々に対し、独裁者たるローマ皇帝を神のごとく崇拝すること、皇帝礼拝を行うことを強制しました。キリスト教に敵対していたのはユダヤ教徒たちだけではなく、こうしたローマ帝国の皇帝礼拝を強制する人々でもありました。

しかし、「キリスト者のコロニアは天にある」。このパウロの信仰告白には、ローマ帝国が強制する皇帝礼拝に対する明確な拒否があります。わたしたちの真の支配者は、父なる神と、救い主イエス・キリストだけであって、ローマ皇帝ではない。真の神がわたしたちを愛してくださり、守ってくださる。そのことを信じて生きていこうではないか。神の他に何も恐れるものはない。そのようにパウロは彼らを励ましているのです。

(2015年7月22日、松戸小金原教会祈祷会)

2015年7月21日火曜日

大げさに言えば宗教と政治

本文とは関係ありません
私は純粋かつ客観的に無党派層の一員であり、日本国内の何党の党員でも支持者でもない。「事実上」とか「隠れ」とかでない明示的な公党としてのキリスト教政党が日本に誕生すれば支持しますと(ネタでなく)ずっと前から公言しているのだが、一向にその動きはないので「支持政党なし」の状態のままだ。

だから「九条の会」とか今の学生たちのデモに、特定既成政党の党勢拡大の意図を少しでも感じたら、私は即日身を引く。べつにリベンジではないが、教会が信者獲得(我々はそれを「伝道」と呼ぶ)を意図した行動をとることへの社会的白眼視や警戒心と、たぶんよく似ている。お互いさまだと思ってほしい。

お察しの通り教会という団体は「神を信じる」などということを口にするだけあって、きわめて自尊心の強い集団だ。他の団体に利用されることを最も苦手とする。外部からの支配や制御を少しでも感じると即刻抵抗する。下品な言葉は意図的に避けようとする人が多いが、心中では「なめるな」と思っている。

だからこそ、日本国内でキリスト教というか教会が急激に「流行る」ことはないのかもしれない。波に乗るとか、風に乗るとかが苦手な者たちだ。だけど、いったん一つの視座や土台を得ると、相当辛抱強い、人と社会の何かが健全なものであるように持続的に支え続けうる集団になる。これもたしかなことだ。

ふとそういうことを考えたので、忘れないうちにメモしておく。もう一度書く。日本に限らずキリスト教の教会は外部のいかなる団体からの支配や干渉もおそらく拒否する。票田のようなものにはたぶんならない。たとえそれが「政治的に良いこと」であっても、教会は距離を置く。自主判断で何事も決断する。

デモの話

国会議事堂
たしかに私も「デモ」なるもの/ことにはかなり長年偏見があった。70年安保が5歳。父の膝の上に座って、白黒テレビで、ヤスダコードーとかアサマサンソーとかヨドゴーとかの「事件」を見ていた記憶がなぜかいまだにはっきりある。ホースイとかテッキューとかヨーギシャとかの映像が焼き付いている。

それ系統の一連の記憶と、やはりまだ白黒テレビだった頃からのウルトラマンシリーズ、仮面ライダーシリーズ、あとはオバQとかゲゲゲとかバカボンとかハクション大魔王とか、ドリフとか、なんかそんな感じの、言ってみれば支離滅裂な情報が、私の脳内にいまだに散乱し、ぐちゃぐちゃのまま残っている。

70年安保が5歳なら45年前。その記憶がそれほど褪せもしないで、そのまま残っている。当時のウルトラマンだライダーだアニメだの主題歌は、歌手の微妙な節まわしまで覚えている。アタックNo.1だってキャンディキャンディだって覚えている。いま80代くらいの人にとっての軍歌みたいなものか。

「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものだ。こんなの精神論でもなんでもない。幼児期の脳にインプットされたことは死ぬまで影響し続けるということだろう。私は何歳まで生きるか分からないが、よぼよぼのじいさんになっても、キャンディキャンディの主題歌を節まわしまで正確にうたえる可能性が高い。

そういう頃に「テレビ」で「デモはこわい」というイメージを植え付けられた可能性が、私の場合、非常に高い。でも、なんのことはない。こわくもなんともない。実際に国会議事堂前や総理官邸前に「デモのために」行ってみて分かったことだが、え、こんな狭いところだったの、ということに、まず驚いた。

国会議事堂や総理官邸前に立っている警察の人たちも、だいたいうちの子どもくらいの世代かなというくらいの子たちだ。べつにこわくもなんともない。私がこわいというか心底から不気味だと感じるのは迷彩服だ。草むらなどどこにもないアスファルトの街中でカモフラ着る必然性がどこにあるんだよと思う。

私が5歳のときに白黒テレビで見て「こわい」と思ったデモと、今行われているデモが、どう違うのか、どこも違わないのかは、私には分からないし、その比較に興味はない。ただ、いまはっきり分かるのは、デモはこわくないということだ。スーツでもなんでも着て、行って立っていればよい。ただそれだけ。

あと、不謹慎で申し訳ない。今の政治状況というか「デモ状況」を観ていると(傍観しているという意味じゃないからね!)ハリー・ポッター思い出すことあります。もちろんSEALDsさんたちがハリポタ側。闇側はネトウヨか。親世代に原因があるゴタゴタに「ち、しょうがねえ」と子世代が立ち上がる。

2015年7月20日月曜日

いっそ神学書もすべてツイッターで書けば

2年前(2013年)の写真です。まだ元気だったなあ(遠い目)
ツイッター公式サイトの「140字枠」を利用して説教原稿を書くことに慣れてきました。このままツイートボタンを押して拡散してもよさそうだと思えるほど、不特定多数の方々の目を意識しながら書いています。まだまだですが、分かりやすさと上品さを兼ね備えた文体を追求するようになったと思います。

換言すればそれは、教会の言葉としての説教の言葉がより多くの「社会性」を獲得することを意味するはずです。私はかねてから説教の改善のためには「塾」に通うより原稿をブログに貼り付けて公衆の面前に晒すほうがはるかに有効だと主張し続けてきましたが、今書いているのはその「ツイッター編」です。

いっそ神学書もすべてツイッターで書くといいのかもしれません。もしそれが「人間の言葉で」かつ「日本語でも」表現されるべきものであるならば、「社会性」を身につける必要があります。ツイッターに書く言葉が「何を言っているか分からない」人は、教室でも「何を言っているか分からない」はずです。

ウケを狙う必要はありません。ウケ狙いの内容や文体はすぐバレますので、かえって信頼を失う原因になります。ただ、実際に始めると分かりますが、心身を集中して説教原稿として30ツイート分を書き下ろすのは重労働です。ハタ目から見ると「ツイッターしかしていない人」に見えますが、それはご愛嬌。

しかし、私がツイッターを説教原稿を書くために利用しているというのは、実際の説教を行う前に原稿をツイッターで流してしまうという意味ではありません。重要なことは「140字枠」と「不特定多数の読者」を意識しながら書くことだけです。仕上がった原稿は、説教終了後、ブログに貼り付けています。

2015年7月19日日曜日

ペトロの裏切り

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
マルコによる福音書14・66~72

「ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。『あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。』しかし、ペトロは打ち消して、『あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない』と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペトロを見て、周りの人々に、『この人は、あの人たちの仲間です』とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。『確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。』すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。」

使徒ペトロがイエスさまを裏切ったことについては、これまでに何度も学んできましたし、マルコによる福音書の学びの中でも繰り返し触れてきました。最後にペトロは涙を流しました。マタイ(26:25)とルカ(22:62)は「激しく泣いた」と記しています。ヨハネはペトロの涙を描いていません。

ペトロはなぜ泣いたのでしょうか。ペトロの涙を描いている三つの福音書はその理由を「鶏が鳴く前にあなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」というイエスさまの言葉を思い出したからだとしています。つまり彼はイエスさまに自分の弱さを見抜かれていたことを思い知らされたから泣いたのです。

つまりペトロはとても悔しかったのです。彼は自分のことをもっと強い人間であると思い込んでいたし、そう思いたかったのです。しかし現実はそうでなかったということを思い知らされたのです。そしてその弱さをイエスさまに見抜かれていたことが分かったのです。だから、彼の目から涙が出てきたのです。

ペトロはイエスさまと他の弟子たちの前で次のように断言していました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(14:29)。また、こうも言っていました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(14:31)。

しかし、ペトロはつまずきました。みんなと一緒につまずきました。つまずくことにおいては、他の人と変わりがありませんでした。イエスさまと一緒に死ぬことはできませんでした。死の覚悟などすっかり忘れて、イエスさまのことを三度も「知らない」と言ってしまいました。だからペトロは泣いたのです。

しかし、彼が泣いたのは、イエスさまに責められたからではありません。イエスさまは、ペトロの裏切りを責めておられません。イエスさまはただ、「あなたは裏切るだろう」と事実を述べられただけです。自分は他の弟子より強いとか、死ぬことを恐れないなどと言い張るペトロをたしなめられただけです。

少し厳しい言い方をすれば、できもしないことをできると言うな、自分の命を粗末にするようなことを口にするなと、イエスさまはペトロを戒められただけです。しかしそれはペトロの裏切りを責める意味ではありません。そうではなくて、自分が弱い人間であることを認めなさいと言っておられるだけです。

しかしそのように言われたとき、ペトロはイエスさまの言葉を受け容れることができなかったのです。私のことを馬鹿にするな、イエスさまの目は節穴だと言いたかったのです。ところが、それが現実になったとき、何もかもイエスさまがおっしゃったとおりであったということが分かって涙が出てきたのです。

しかし私は、ペトロについては、もう少し深いところまで踏み込んで考えなければならないことがあると思えてなりません。なぜなら彼は「みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と、わざわざ他の弟子たちと自分を比較した上で、他の弟子たちを見下げるようなことを言ってしまっていたからです。

しかし、現実の彼は他の弟子たちと全く同じでした。そうであることが分かった以上、ペトロは他の弟子たちに謝罪しなければなりません。「皆さんのことを見下げるような偉そうなことを言ってたいへん申し訳ありませんでした。私は皆さんと同じようにつまずいてしまいました。どうかお許しください」と。

まだあります。ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても」とイエスさまに言いました。それは少し工夫して読むと、イエスさまが抱いておられる死の覚悟と自分の死の覚悟は同じですと言っているのと同じであることが分かります。しかし現実の彼は違いました。死の覚悟などありませんでした。

そうであることが分かった以上、ペトロはイエスさまにも謝罪しなければなりません。「イエスさま、私にはあなたと一緒に死ぬ覚悟などありませんでした。偉そうなことを言って申し訳ありませんでした」と。ペトロはとにかく自分は強い人間だと思い込んでいました。しかしそうは問屋は卸しませんでした。

このような思い込みや勘違いは、なぜ起こったのでしょうか。考えられる理由は、自分はみんなのリーダーだという思いでしょう。だから自分は一番偉い。一番勇気ある人間だ。しかし、現実は全くそうではありませんでした。だから、彼の目から涙が出てきたのです。悔しくて悲しくて仕方がなかったのです。

しかし、そういうことの一切を含めてのペトロの弱さをイエスさまは見抜いておられました。いざとなったらうそをつく。いざとなったらとぼける。いざとなったら逃げる。いざとなったら泣く。そういう人たちを集めてイエスさまは弟子にされたのです。そういう弟子を選んだ責任はイエスさまにあります。

ですからイエスさまはどの弟子の裏切りをもお責めになりませんでした。一緒に死んでくれる弟子をお求めになりませんでした。それはイエスさまにとってはかえって迷惑なことでした。父なる神の御心は救い主メシアがひとりで十字架で死ぬことであり、犠牲の小羊、贖いの供え物になることだったからです。

教会でも同じようなことが起こりうると思うところがありますので、このようなことを申し上げています。教会の中で自分の順位を考えてしまう。私はあの人よりは強いけれども、この人よりは弱い、など。しかし、教会は、そういうところではありません。教会は、自分の強さを競い合う場所ではありません。

教会の頭はイエスさまです。教会はイエスさまによって呼び集められた仲間です。そのイエスさまはわたしたちに、どちらかといえば「無理しなくていい」とおっしゃる方です。イエスさまが教会にお求めになることは、争い合うことではなく、互いに謙遜であることです。教会とはそのようなところなのです。

今日の個所で、ペトロが大祭司の女中や他の人々とのやりとりの中で「あなたが何を言っているのか分からないし、見当もつかない」(68節)ととぼけたり、彼らからペトロが「確かにお前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と断定されたりしていることには、方言の問題が明らかに関係しています。

ペトロがしたのは、方言の違いがあるから相手の言っていることの意味が分からないととぼけることだったと思われます。しかし、そのすぐ後に、方言の違いがあるからこそペトロは追い詰められてしまいました。お前はガリラヤ地方の方言でしゃべっている。ナザレのイエスの仲間に違いないと言われました。

日本国内でも、方言やなまりの違いで、相手が何を言っているのかが本当に分からないことが実際にありますし、またその人がしゃべる言葉をひとことふたこと聞くだけで、その人がどこの地方の出身者かが分かるということもよくあります。方言の違いは感情の行き違いが起こる原因になることさえあります。

多少余談になりますが、自分ではキツイことを言っているつもりがないのに相手にそう思われ、相手の感情を害してしまったというようなことが起こった場合、もしかしたら方言の違いの問題が関係あるかもしれないと考えてみることは必要です。それだけが原因だとすることはできないかもしれませんが。

方言というのは自分がなまっていることに自分では気づかないところに方言たる所以があります。だからこそ動かぬ証拠になります。自分でどうすることもできないものだからです。しかしそれを突き付けられても否定し続けたというのですから、ペトロの否定の勢いは相当激しいものだったに違いありません。

しかし、ペトロが自分の方言を否定するところまで追い詰められたことは、あとで彼自身が深く傷ついた原因になったかもしれないというようなことを考えさせられもしました。方言と言っても、ただの方言ではなかったからです。イエスさまと共に過ごし、共に伝道した思い出がぎゅっと詰まった方言です。

ペトロにとって自分の方言を否定することは、イエスさまとの関係を否定することを意味するだけでなく、イエスさまと共に伝道したガリラヤ地方の人々を否定するに等しいという思いが、彼の中に起こったかもしれません。家族や友人、そして自分の人生そのものを否定するに等しいと感じたかもしれません。

方言というのは、それくらい重い意味を持つことがありえます。同時にこの個所から、イエスさまはガリラヤ地方の方言で話しておられたことが分かります。それは、洗練された都会の言葉ではなく、田舎なまりの方言です。イエスさまという方は、田舎なまりの言葉で説教する救い主だったということです。

そのように自分の故郷の言葉まで否定せざるをえなかったことまで考えますと、ペトロのことがだんだんかわいそうになってきます。自分という人間はなんと大それたことをしてしまったのかと肩を落とし、背中を丸めて、涙を流しているペトロの姿が浮かんできます。彼の姿は決して他人ごとではありません。

(2015年7月19日、松戸小金原教会主日礼拝)

2015年7月18日土曜日

私はこんなふうにネットを使っています

LINEのアカウントは持っていますが、友達はいません
ずっと前からのことですが、アイティー関係に限らず「最新のもの」は、どうも私は慎重になってしまいます。石橋を叩いてもなかなか渡らない性格なんですかね。アイフォンとかいまだに触ったこともないですし、サーフェスもです。だいたい騒がれはじめて5年くらい経ってから、恐る恐る近づく感じです。

だって初号機の多くはたちまち欠陥が見つかって、すぐ弐号機、参号機が出るじゃないですか。改良と普及が進んでいくにつれて値段も安くなるのを見て、初号機に飛びつくのはヤバイ(損する)という気持ちがしみついた感じです。自分で痛い目に遭ったというより他の人を見ていて、そう思ったわけですが。

かなり負け惜しみも含まれていますけどね。ケータイですか。そもそもスマホ使ってない(ケータイに戻した)わけですが、買う時点で1年以上は古くて在庫処分的に安くなったのを買います。水没するか、充電不可能になったときは、無料交換を期待し、無理だった場合は機種変。その時点でズタボロですね。

たったいま確認しましたところ、今の私のケータイの使用期間は3年1ヶ月ですね。これでfacebookもツイッターもできるし、写メは撮ってもそのままは使わないで、パソコンに取り込んで必ず修正かけますので、問題ないですし。あとは目覚まし時計に使っているだけなので、当分もつと思いますよ。

でも、スマホ業界がケータイ撲滅運動をしているのかどうだか、facebookもツイッターも、つい最近まではできていた、ケータイから直接写メをアップするということが、できなくされてしまいました。ケータイの終末までの残りの日数のカウントダウンをしなくてはならないようです。がっかりです。

LINEは使っていないですね。だからスマホ要らないんだな。LINEのアカウント持ってますが、友達は一人もいません。ケータイでは、LINEは無理です。なので、LINEをする必然性が起こったら、スマホの必然性が同時に起こるというわけです。家族との連絡は、SMSかたまにメールだけです。

LINEは使ったことがないので恨みはありませんが、既読表示が嫌いです。こっちはこっちで自分のペースでやっている仕事あるんだよと言いたいですよね。重い内容の連絡ならばこそ、既読ついてすぐ返信とか、かえってできないですよ。内容をよく読んでよく考えないと、どう返信していいか分からない。

既読ついたのに他の書き込みしてるじゃないか、私への返信を後回しにしやがって、みたいな怒られ方されるかもしれませんが、そんなにすぐ返事が必要なら電話ください。だからfacebookのメッセージも苦手。既読表示あるので。読んでるじゃないか、なんで返事ないんだとイライラされるのが苦手。

家族とのSMSのやりとりは「はい」「いまちょっと無理」「了解」「お疲れさま」「よろしく」「あと5分待って」くらいです。それならすぐ返信できますけどね。それ以上は即答できないです。そこから先は「信頼関係」というやつでしょうね。ネット上のやりとりだけでは、どうしても限界がありますよ。

相手が牧師とか教会関係の人なら直接会うのは簡単です。前日にアポとって行けば「会いに行ける人」です。呼ばれれば行くし。一度でも会ったことがあれば、ああこの人は返事しなくても許してくれそうだとか、親指スタンプ貼っときゃいいやとか、それではダメっぽい人だとか、だいたい分かる感じですね。

ちなみに私は、facebookの自分の壁の自分の書き込みのコメントは、自分のところで終わるのが「礼儀?」かなと思っているところがありますので、私で終わらないと延々と続きますからね。笑。そういうわけですので、みなさま、これからもネット上の「健全な」お付き合いをよろしくお願いします。

そうそう。別の職種がそうでないという意味ではないですが、牧師の場合、ネット上の連絡に即答すると、怪訝な目で見られたり皮肉を言われたりします。「牧師さんはいつもネットに張り付いておられるんですね」とか「もっと人の顔を見てください」とか。それ言われるのが嫌で即答しないこともあります。

2015年7月16日木曜日

ウルトラマンの敗北を見せつけられれば、もはや人類は絶望するしかない

ウルトラマンガイア第50話(1999年8月)より

「安保関連法案、衆院可決。野党は退席や欠席」。朝日と毎日のデジタル版の写真を大きく拡大して見たが、みんな勝ち誇ったような大喜びのニヤニヤ顔で拍手。本当にうれしいんだろうな。おめでたいわけだ。心は日本晴れ。今夜あたりは祝勝会かな。ヒャアヒャア言いながらビールかけとかするんだろうか。

「ッ」を入れて「ヒャアッ、ヒャアッ言いながら」のほうが活き活きとした描写かも。「走り回って」も加えたい。「ヒャアッ、ヒャアッ言いながら走り回ってビールかけとかするんだろうか。」で行くか。それにしても血圧下がらない。血圧降下剤、服用7日目。じわじわでも下がってくれれば助かるのだが。

NHKが国会中継を再開したらしい。テレビ観ていないので分からないが。勝利感に満ちた顔を国民に見せつけて怒りと絶望をあおる心理作戦だな。ウルトラマンガイアの最終話あたりでそういうのあったぞ。ガイアとアグルが息絶えたところだけ放送できるようにして人類の絶望をあおる。ラスボスの手口だ。

怒りと絶望は人の心身を蝕みます。戦意を喪失し、立てなくされてしまいます。果たしてラスボス登場かどうかはまだ分かりませんが(もっとヤバイのが出てきそう)、ヤバイのとやり合うためには、怒りと絶望をカバーして余りある喜びと希望が必要なのだと思います。基本は食って寝て遊ぶです。マジです。

当該番組は、ウルトラマンガイアの第50話(1999年8月)「地球の叫び」でした。いま見てボロ泣きしました。以下、書き起こしました。

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〈キャスト〉

石室コマンダー 渡辺裕之
千葉参謀     平泉 成
ガード幹部    赤星昇一郎
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幹部「よろしいですね、シグも武装を解いてもらう。」

石室「お断りする。」

―シグの女性隊員、ガード幹部、青ざめる。

石室「破滅招来体がとざしたのは、太陽の光だけではありません。」

千葉「人の心です。」

石室「なぜ敵がテレビ回線だけを残したのか。ウルトラマンの敗北を見せつけられれば、もはや人類は絶望するしかない。そういう情報操作で、世界を闇に包み込むためです。」

―ガード幹部、息を飲む。

石室「我々にはまだ戦う力が残っています。いや、戦う意志を、戦う誇りを持っています。」

幹部「シグはガードの指揮から離れるというのかね。それは造反だ!」

石室「我々が守るのはガードという組織ではありません。地球の人々です。」

絶望禁止

今の人たちよりかつてのほうが威圧感があったのは、派閥がいくつもあって一つ倒れても次々にわいてくるので結局全体を倒すのは無理だと思わせる様相があったからではないか。今はそういうのを感じないので、アルキメデス点さえ確立できれば、支点・力点・作用点で一気にひっくり返せる気がするのだが。

しかし、人は忘れてしまう。うん、それも分かる。たしかに今までは、ずっとそうだった。だけど、今回はどうかなと思う。たとえば、三原じゅん子さんとか生き残れるだろうか。あと、結局与党の補完勢力でしかないことがよく見えた次世代とか維新とか言っている人たちが消えるとか。あとは、公明の行方。

代わりの選択肢がない。今のままならそうだけど、今回の騒ぎで有名になった人たちは考えに入れていいかもしれない。これまではキングメーカーとして一歩下がって教えていた憲法学者たち。早稲田の長谷部さんとか、慶應の小林節さんのような人たちが自ら選挙に出てネオナチっぽいのを倒しにかかるとか。

参議院にはテレビ的有名人だからという理由だけで出ている人がけっこういる。とくに比例区。谷亮子さんとか、丸山和也さんとか、橋本聖子さんとか、猪木とか。あの手の人たちが今後どうなるか。あと、ワタミ社長。これからはネットがある。ネット有名人がテレビ有名人を倒しはじめる可能性が出てくる。

日本国内の戦争アレルギー、ハンパないレベルだと思う。徴兵とか想像もつかない人多いだろう。でかくて有名な建物が多い首都圏だと同時多発テロの標的にされることを連想する人多いと思うし。戦争だけはヤバイからやめよう、そっち方向だけは行かないようにしようと脊髄反射的に反応する人多いと思う。

忘れる・忘れないの話で今思い出したことだが、松下政経塾っていうのを名乗ってた人たちがいま見る影もない状態だが、これからどうなるか。あと、テレビ的有名人が出ていた番組。アイドルとかスポーツ選手は別格として、朝まで生テレビ、TVタックル、行列のできる法律なんちゃら、あとは爆笑問題か。

関西の事情は分からないが、タカジンとか、探偵ナイトスクープだろうか。それ系の人たちが今回ことごとくネオナチっぽくなってしまったわけで。かつてなら昼のワイドショー番組に出ればテレビ的有名人になれて、ゆくゆくは立候補。だけど、共働き当たり前の時代にワイドショー番組見てる人どれほどか。

ワイドショー番組の司会をやってるらしいホンジャマカさんとか、ロンドンブーツさんとか、あとだれだろ。その手の人たちにはゆくゆくは立候補、のような野心があると聞いたことがあるが、どうだろう。言っちゃ悪いけど出れば出るほど逆効果なんじゃないか。嵐の桜井くんなら応援するかもしれないけど。

ていうか、私のような地上で最も世事に疎い部類の人間が政治を云々すること自体、かつては考えようがなかった。本気で独裁考える国は真っ先にネット遮断する。だけど日本では絶対不可能。全世代で暴動が起きる。ネットつなぎっぱで独裁とか、笑うしかない状況の「ナチスにならえ政権」なのだとも思う。

でも「アルキメデス点さえ確立できれば」と書いたのは(弱めの)希望でもあるが(強めの)懸念でもある。「野党という職業、批判者というなりわい」の人たちが気がかりだ。アルキメデス点は頑丈な一点じゃないとまずいんじゃないの。柔道の背負投でいえば投げる側の肩骨。そこが弱くちゃ投げられない。

でも、それ難しいに決まっている。「自由でありたい」という願いがあるからこその「野党という職業、批判者というなりわい」なのだろうし、「自由であること」と「頑丈な一点になること」「アルキメデス点を形成すること」とは、あまり深く考えなくても、互いに矛盾するだろうなと分かるようでもある。

最近も、強行採決間近みたいな状況になって、「今それやる?」と言いたくなるようなSEALDsさん批判のようなのがあったのをまるで遠い昔のことのように思い出す。将来ある学生たちをアルキメデス点にするわけにはいかないよ。彼らに夢ある将来を残すためにおっさんおばさんが肩骨にならなくちゃ。

テレビに洗脳されず、「野党という職業、批判者というなりわい」の人たちに依存せず、将来ある若者を犠牲にしないで彼らに夢ある将来を残すために取り組めるのはネットしかないんじゃないかというのが私の忸怩たる思い。たかがネット、されどネット。「ネットしか」ではなく「ネットこそ」。絶望禁止。

2015年7月15日水曜日

これからも変わりなく遠慮なくジョークを書き続けよう

σκυβαλαと書かれています(フィリピ3:8)
誘導の意図はないし、できる気がしないので、しませんが、私も含めたノンポリとか無党派の人たちの言動を伺うかぎり、真面目で反戦的な自立したキリスト教政党があれば支持してくれそうな気がするのは私だけでしょうか。持論に従えば、あと200年後くらいの日本に誕生することになっているのですが。

このタイミングでは何を書いても不謹慎なことを述べているような気持ちになってしまうので、私なりに抑え気味で書いているつもりです。でも絶望がいちばん良くないです。楽しんでよい。自由の喜びを享受し続けてよい。人の喜びの要素を奪い、「陰うつな秩序」に組み込もうとする力に抵抗するためです。

これからも変わりなく遠慮なくジョークを書き続けようではありませんか。せいぜい家系だか財産だかくらいしかプライドの根拠を持てない人たちなど怖くもなんともないことを態度で示すために。教育や感化など後天的な要素は尊いと思いますが、血だの家柄だのなんぞ、その人の「属性」ですらないと思う。

高度にプライベートなことでもありますので、ネットのような場所には絶対に書きませんが、家系のことをもし言うのであれば、そんなに負けていない可能性がありますね。私ではないですけどね。まあこれ以上は書かないでおきます。岸信介さんとか鳩山一郎さんあたりの古い生写真がたくさんあるんですが。

キリスト教は使徒パウロの影響をかなり決定的に受けていますからね。自分の血だの家柄だの言い出せば最もプライドを持つことができる立場にあったパウロが「そんなのくそくらえだ(糞土だ)」と書いた言葉が聖書に残っているわけで。血だ家柄だしかプライドの根拠がない人にぜひ聖書読んでほしいです。

2015年7月14日火曜日

不安な夜でもぐっすり眠ろう

レオンハルト・ラガツ著『ブルームハルト父子の神の国のための戦い』(1925年)
昨夜スカイプで若い牧師としゃべっていた。そのとき私が言ったのは「過去と現在の人間存在へネガティヴな評価を言い渡すときはミクロの視点に立つべきだ。マクロの視点に立ちうるのは将来の人間存在へポジティヴな展望を語るときだけだ」ということだった。大雑把な全否定はやめようねと言いたかった。

「要するに人類は罪深い」「要するに社会は悪い」「要するに教会はだらしない」と言い放つのは痛快ではあるが、激怒を買うか聞き流されるだけだ。全否定すべきでないと言いたいのではないが、全否定するにも丁寧な手続きが必要だ。しかも、全否定する対象の中に、自己の存在は必ず含めることが大切だ。

今の社会は、死刑執行者や無人戦闘機(ドローン)操縦者や積極的安楽死に携わる人のPTSDを緩和する対策を考えようとする。躊躇も葛藤もなく人の命を奪う仕組みを生み出そうとする。宗教はそれではまずい。どれほど精密な対策がなされていても、そこに躊躇があり葛藤があることを言い続けるべきだ。

明日は報道をシャットアウトして投票ボタンを押させることで強行採決の罪悪感を緩和しようとするのか。顔と名前をさらして政権批判を行う若者たちを匿名で叩くネトウヨと大差ない。匿名の国会議員は概念矛盾ではないか。国民の代表者でも何でもない。そのやり方に妥当する形容詞は「卑怯」ではないか。

実際どうするつもりだろう。丸腰のデモ隊に戦車かマシンガン隊でも差し向ける気なのか。戒厳令でも発令するのか。国際世論に耐えられるのか。天につば吐く行為だろう。連休明けたらみんな忘れるだって。本気でそう思うのか。それは希望的観測ならぬ希望的妄想だ。地下シェルターに潜り続ける気なのか。

私が考え過ぎなのか。いっそそうであってほしい。宗教者らしく奇跡を期待しよう。いっそそうしたいものだ。「結局何も起こらなかったね。なーんだあはは」と笑えるようならありがたい。頭痛と胃痛がまたひどいので、そろそろ休む。ぐっすり眠れるだけの神経が残っているのは、かろうじて幸せではある。