2015年5月7日木曜日

喜びこそが人生の目的です(ファン・ルーラー)

金週最終日は、深井智朗先生からプレゼントしていただいたブルトマン著『ブルトマンとナチズム―「創造の秩序」と国家社会主義―』(深井智朗[訳・解説]、新教出版社、2014年)の読書。深井先生の実力が遺憾なく発揮されている解説に魅了され中。

『ブルトマンとナチズム』
読んでいる本の内容は面白いのに目を開けていられないほど眠くて仕方がないときはどうしたらいいのか。目をつぶって本を読めるようになればいいわけだ。もうダメっぽい。毛布が欲しい。気づくと朝だな。ねむいねむい。本を読みたい。ねむいねむい。読みたい読みたい。ねむいねむい。読みたい読みたい。

(直後に寝落ち、一夜明けて)

【今日の一皿】ひるごはんは「五目チャーハン」を作りました。「鶏もも肉のスイートチリソース炒め」と「パプリカとレタスととうもろこしのサラダの胡麻と香味野菜ドレッシングがけ」を添えました。メニューを詳しく書くだけで不思議な気分になれます。

五目チャーハン
連休中は家の大掃除もしましたし、今日も買い物、炊事、洗濯、皿洗い三昧の贅沢さ。気持ちいいし、美味しいし、楽しくてしょうがない。あとはメールとか電話とかですけど、めだまと指先くらいしか動いてないんだから。カチカチカチ~だって。音しょぼいし。家事の音は豪快ですよ。ボーとかジャーとか。

でも、家事三昧の反面、勉強のモチベは減退しまくりだし、ほぼ空っぽ状態。何言っても何書いても何しても無駄。頽廃的な気分にすっかり支配されています。15年半続けたファン・ルーラー研究会も昨年解散しました。神学やる気なし。皆さんが書いてくださる本を読んで余生を過ごそうかと思っています。

悔しさはありますよ。私がブログやSNSに書くのをやめれば喜ぶ人がいそうだし。書いているときは辞書も引くし、難しい文献を読む努力もする。お支払いしたことも面識もない著名な学者が無料で「査読」してくれたりするのもネット。書くのをやめればそれもなくなる。課金界に行かねば何も得られない。

どうしてでしょうか、こういう悪い気分のときは80年代の洋楽をつい聴いてしまう。「おやじ説教するなよ」(Papa Don't Preach)というマドンナさんの曲とか、「お祈りとかやめろよ」(Save A Prayer)というデュラン・デュランの曲に引きこまれてしまう。深刻すぎる。

追い詰められているときは追い詰められなくてはならないんですよね本当は。それは分かっているつもりです。バランス取りとかしないほうがいいのかもしれない。でも、一向に凹まないんです、わがたましいが。挑戦の気力はないです。ガードはおろしてます。スウェーも下手。だけど、まだ立っていられる。

最後は真面目に。

「聖書は、私たちが最期の息を引き取る日まで私たちを長く喜ばせるために、命をもたらしてくれます。喜びこそが人生の目的です。事実、喜びはその中で魂が命を得る唯一の要素でもあります。これ以上喜ぶべき何もない。そのときは、すでに死に至っているのです」(ファン・ルーラー)。

2015年4月21日火曜日

メカやロボでもできることを自分でやるから価値があるんじゃないか

特定秘密保護法案の採決に抗議しに行った日(2013年12月3日)
うう、最近パターンが同じ。朝風呂入って、洗濯機回して、前夜の残りを朝食べて、食器洗って、洗濯もの干して、パソコンいじって、キットカット食べて、日が暮れて、大学生と高校生が帰ってきて、妻を職場に迎えに行って、帰りにスーパーで買い物して、夕食後あとちょっとだけパソコンいじってねるだ。

まあでも、ここでやたら道徳くさいっぽいことを書いてしまえば、「今から40年前的まんが世界」の中では、炊事も洗濯も皿洗いもぜんぶやってくれるロボかメカが欲しい、くださいという話のパターンがあったけど、ほんとにメカとロボが手に入った今は「ヒマすぎて死にそう」と言い出す人がいるという。

「もちろん」とかは言わなくてもいいと思いますが、まあでも「もちろん」面倒くさいですよ、毎日毎日、炊事、洗濯、食器洗い、買い物。だけど最近はロボにもメカにも負けない自信、とかはないですけど(ないない)、月並みにいえば慣れますよ的ではありますし、そもそもそれ自分のことでしょーにと。

自分の下着くらい自分で洗えよ、自分の茶碗くらい自分で洗えよ、そりゃそうですよねと気づいたのがかなり遅かったので、エラそうなこととかは全く言えないレベルですけどね。でも、まあなんかね、ある時期に悟りました。これも月並み系ですが、自分のことくらい自分でしましょうねの喜びを悟りました。

あとの問題は、それが「価値ある行為」だと自分で本気で思えるかどうかですよね。その問いはたしかに最後まで残り続けるでしょう。「そんなこと」はメカやロボでもできる。だから「価値がない」のか、それとも、だから「価値がある」のか。私は「価値ある」と思えるので、続けることができています。

ですし、おしなべてあらゆることに当てはめることは無理でしょうし、かなりの部分で想像の域を超えられないことではありますが、世で「脚光」を浴びている方々のしていることを多少の比喩をまじえて要約すれば、要するに、炊事、洗濯、皿洗い、買い物、掃除「のようなこと」をしているんじゃないかと。

イエスさまのお言葉で「小事に忠実な者は大事にも忠実である」というのがありましてね。いえべつに、お説教しようと思って書いていたわけではないのですが、ふと思い出しました。毎日の家事に忠実な者は世を動かすデカイ仕事にも忠実であるということですよね。自分のパンツくらい自分で洗いましょう。

2015年4月17日金曜日

いわゆる放蕩息子のたとえをめぐる一私見

持って行きどころがない父は甘いモノに逃避
今日ブログに書いたこと(聖書「も」一生かけて学ぶ価値があります)のfacebook版のほうに、貴重なコメントをたくさんいただきました。ほんとのほんとの、ただの思い付きで、忘れないうちにメモっておこうと思っただけでした。でも、反応していただけて、うれしいです。ありがとうございます。

私が思い至った「謎」は、「放蕩息子のたとえ」をイエスが話したとルカが、この文書が流布され読まれた時期・時代の教会(?)と社会のニードとの関連で、(他の福音書に見当たらない)このたとえを、「イエスが言った」という形式で福音書に書き込んだ《動機》は何かというあたりから出発しています。

ですから、山口里子先生のご解説(『イエスの譬え話1』2014年、新教出版社、139頁、注46)は、なるほどこういうことを考えることができる可能性は十分あるなと思いました。ですから、トンデモ解釈というようなことは全く感じませんでしたし、面白いなあと思いながら読ませていただきました。

そして、山口先生のご解説を読ませていただいて思いましたことは、私の考えたことと矛盾しないようだということです。山口先生がおそらくフェミニズムのお立場から指摘なさっているのと同じ「現象」を、自己弁護なしに「父親」の側から見ると、私が考えたようなことになるのではないかということです。

それが「自分に似ている子どもを親は裁けない」ということです。あの父親はなぜ弟息子にも兄息子にも甘いのか。自分に似ていると感じているからではないかということです。そうです、まさに。あのたとえ話は、山口先生のご表現を一部お借りして言えば「崩壊家庭の父親のたとえ」なのだと私も思います。

そして、あのルカ福音書に描かれている「崩壊家庭」を生み出した第一原因者としての(もしかしたらなるほどDV的な)「父親」としての「神」の話であると言われれば、なるほど確かにそのように言えなくもないようだと、気づかされるものがあります。それがトンデモ解釈だなんて、とんでもないです。

これは私が、山口先生のお言葉を読ませていただいた後で、後出しじゃんけんのように取って付けた話ではないことをご理解いただきたいので書きますが、前稿の最初の段落の「一神教うんぬん」のくだりは、そういうことをイメージしながらも明快な言葉が見つからなくて困っていたことの痕跡です、じつは。

しかし、山口里子先生のおかげで、私のイメージしたことにやっと言葉が与えられました。それは、「教会」も含めた人類社会という崩壊家庭を生み出した第一原因者としての神のイメージです。「一神教」は、それを否定することはできないはずです。どんな問題も「ほかの神」のせいにできないのですから。

父が子を虐待、夫が妻を虐待。家庭崩壊の一切の原因者は男性にある。その事実は枚挙にいとまがないでしょう。しかしまた、一切の混乱と崩壊の原因者たる男性は、事実を指摘されるがままで持って行きどころがない。家庭と社会(と教会)から「なんとかしろ」「なんとかしろ」と連日連夜突き上げられる。

そういう状況になれば、ひたすら黙って耐えるしかない。自分の子どもの頃にそっくりの子どもたちの傍若無人さに付き合いながら。「一神教」の神は、そういう神さまかもしれないなと思い至ったというのが、とくに最初の段落のフラグメントの趣旨です。皆さま、なんらかのお答えになりましたでしょうか。

聖書「も」一生かけて学ぶ価値があります

世界の歴史が無数の書物を生みました
一神教というまとめに馴染めたことはありませんが、なるほど我々は一神教。それで行けば「創造の源泉」は単線化します。不条理や犯罪を含む世と宇宙のすべての事象を「ほかの神」のせいにすることはできない。自分の親のような神に「なんとかしろ」と腹を立てながら訴える宗教だということになります。

子どもたちの要求をどこかしら弱腰で聞き、だいたい子どもたち側の願いどおりを実現してあげてしまう微妙な父親の姿で「神」をたとえているのは、新約聖書のルカ福音書15章の「放蕩息子のたとえ」です。何度も説教してきた箇所ですが、私が今まで考えたことがなかった問いがあることに気づきました。

「放蕩息子のたとえ」に「母親」は登場しませんが、あのたとえ話の解釈にジェンダーの問題がどうかかわるかはよく分かりません。私が気づいたのは、あの弱腰の微妙な父親が、やたら要求がましい自分の二人の子どもたちに見ていたのは、もしかしたらかつての自分の姿だったのではないかということです。

親子とはそういうものです。親はかつて子どもでした。自分の子どもは自分が子どもだった頃にそっくり。同じ顔して、同じことを言い、同じことしていたりします。「放蕩息子のたとえ」を遺伝や血縁の話に還元する意図は皆無ですが、親子が単純に似ているという話は、ある程度お許しいただけるでしょう。

親の生前に遺産の半分の受け取りを要求し、すべてを遊びで使い果たす。ふところが寒くなったので、あったかい父親のもとに帰ればなんとかなると思い込んでいる弟息子と、「なんなんだあいつは。残りは全部おれのもんだろうが。おれの分が減っては困るから、いまさら戻ってくるな」と思っている兄息子。

そんな二人の息子のどちらに対しても、どこかしら譲歩的で、おどおどしているとまで言うのは言い過ぎかもしれませんが、平たく言えば甘い態度しか取れない父親。この父はなんなんだ、「子どもに対する親の愛の深さ」ということだけでは説明できないものがあるよなと、ずっと前から実は感じていました。

正解は分かりませんし、ハズレかもしれません。ですが、さっき気づいたのは、「放蕩息子のたとえ」のツボは「子どもに対する親の愛の深さ」が神と人間との関係に当てはまるということだけではなく(この点を否定する意図はないです)「自分に似ている子どもを親は裁けない」ということもあるのかなと。

聖書のことばも、視点や入射角を換えて読み直してみると、新しい問いや謎が生まれ、興味がわいてくるということは十分ありうると思います。どの問題についても最終的な結論はまだ出ていないわけですから(世の終わりまで謎は続く)、新規参入は常時可能です。聖書「も」一生かけて学ぶ価値があります。

「いわゆる『放蕩息子のたとえ』をめぐる一私見」に続く

2015年4月16日木曜日

「現場」にいるだけでは全く分からないので仕方なく「書斎」に引きこもらざるをえないことがあります

神学デフレ底値なし
本日、私の『ウェスレー著作集』(新教出版社)が3冊増えました。第1巻(新約聖書註解上)、第4巻(説教中)、第7巻(神学論文下)です。まだ全部は揃いませんが、一番のお目当ての「神学論文」の上下を入手できましたので、かなり満足しています。

立て続けに『ボンヘッファー選集』全9巻、『標準ウェスレイ日記』全4巻、そして『ウェスレー著作集』を4巻買いました。ひどく派手に散財していると思われるかもしれませんが、これだけ買ってやっと2万円くらいですからね。神学デフレ底値なし。長年願っても手が届かなかった者としては福音ですが。

著作集などの連番ものをどういうふうに本棚に並べるかは人によると思うのですが、私は番号が若い順に左から右に並べていくのがいちばん心が落ち着きます。逆の人いますよね。右から左の人。まあべつに全く個人の自由ですけど。でも私は落ち着かないです。そういう本棚見ると全部並べ替えたくなります。

それと、完璧に実行するのは無理だと思っていますが、大雑把にであれば、著者の年齢というか活動年代の古い順に、上から下に、そして左から右に並べていくようなことも実はしています。ウェスレーは18世紀の人で、ボンヘッファーは20世紀の人ですから、ウェスレーが左で、ボンヘッファーは右です。

ジャンルの区別も、できるだけしています。特に「神学」の場合、その中の4つの部門である「聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学」は「過去・現在・未来」の順、つまり時系列順であると考えられますので、古いほうから左から右に並べています。聖書神学はいちばん左で、実践神学はいちばん右です。

神学以外のジャンルの区別方法については、私には精密な知識がありませんので、私の本棚を専門家の方々がご覧になると笑われてしまうかもしれませんが、著者の年齢や活動年代が分かる本は、とにかく古い順に左から右に並べています。哲学、社会学、政治学などの本を、そんなふうな感じに並べています。

私の書斎の本棚はそんなふうになっていますので、書斎の中にいるかぎり必要な本を見つけるのはわりと簡単です。正確に覚えていなくても、「あの本はあのあたりにある」と予測できます。連番ものは番号の若い順に、またそれ以外は著者の年齢か活動年代の古い順に、それぞれ左から右に並んでいますので。

その分、書斎を一歩出るとダメです。何も分からなくなります。私が読む本や論文に引用されている他の本や論文を置いている図書館はほとんどないし、本屋もないです。スマホやタブレットで電子書籍を読むのが嫌いなので、読むなら紙の本になります。なので、本を読み始めると、引きこもってしまいます。

まして、自分の論文を書くことになれば自分の書斎以外のところで書くことはありえない状態です。脚注も引用文も全く付けることができません。もちろんそれは私だけの話ではないと思いながら書いています。多くの方々がそれぞれの「自分の書斎」を作って自分の文章を書いておられるのだと思っています。

もうなんだか古典の部類になった感さえある「事件は会議室で起きているのではなく、現場で起きている」という意見には私も基本的に賛成なのですが、「現場」にいるだけでは全く分からないので仕方なく「書斎」に引きこもらざるをえないことがありますので、そのときはご容赦いただきたく願っています。

書斎の本棚について自分で決めているもう一つのルールを書き忘れました。単純な話です。著者別で並べている本に関しては、左から右に(1)その著者の著作集・全集がある場合はそれ、(2)その著者「の」(of)単著ないし共著、(3)その著者「についての」(on)単著ないし共著を並べています。

2015年4月15日水曜日

牧師ってどんな仕事

今日はいい天気で良かったです
「牧師ってどんな仕事」シリーズを企画したいのですが、三日坊主(三日牧師)なのでシリーズものが成立しません。午前中は祈祷会でした。昼食後、ホーム入所中の教会員の荷物運びのお手伝いをしました。ホームで不要になったものを家まで運びましたが、ご自宅が団地4階なので、いい運動になりました。

帰り道、別の教会員の方と偶然お会いしましたので、公園のベンチで10分談笑しました。客待ち中のタクシー運転手の方にお願いして私のケータイで記念写真を撮っていただきました。「あらやだ先生、恥ずかしい」と笑っておられるいい写真になりました。

牧師ってこういう仕事です。大好きなコンビニ店のお弁当をSNSで見せびらかしたり、人の荷物を運んだり、公園のベンチでおしゃべりしたりする仕事です。あとはだいたい毎日、ブログとかツイッターとかfacebookに字を書いています。日曜日の礼拝で毎週説教しています。とても楽しい仕事です。
デイリーヤマザキ松戸小金原店で買いました

2015年4月13日月曜日

牧師は転勤族です

山梨県甲斐市の教会で(1998年11月29日撮影)
いまは千葉県松戸市の教会の牧師であるが、高知県南国市の教会でも、福岡県北九州市の教会でも、山梨県甲斐市(当時は中巨摩郡敷島町)の教会でも牧師であった。こうした移動は多くの牧師が経験する。「牧師さんにも転勤があるんですか」と驚かれることがあるが、「あるんです」としか答えようがない。

教会の牧師に転勤があるのは、教会が地上的・時間的存在であることの証しである。一人の牧師は永遠には生存しない。弱りもするし、死にもする。老若の交代をせざるをえないときは、どのみち来る。純粋に縁故・世襲で教会を守っているところもあれば(それが悪いわけではない)そうでないところもある。

そして次のようなことが起こる。A教会のX牧師が辞職または死去した場合はB教会のY牧師を招聘する。A教会とB教会の距離が近ければ両方の教会の牧師でありうるが、遠ければY牧師はB教会を辞職してA教会の牧師になる。するとB教会に牧師がいなくなるので、B教会はC教会のZ牧師を招へいする。

いま書いたことは「牧師さんにも転勤があるんですか」と驚かれることがあるので説明しているだけだが、字にすればだれでも理解できる当たり前のことだ。しかし、驚く人が悪いわけではないし、説明が億劫なわけでもないので、尋ねられれば何度でも同じことをお答えする。納得していただくまで説明する。

ちなみに私は、過去・現在合わせた4つの教会のうち、1つを除く3つの教会で「二代目牧師」だった。事柄を詳細に言えば「教会」になる前の「伝道所」の時期にはもっと多くの教師がかかわっていた。しかし「教会」になってからの「牧師」としては私が「二代目」であるという教会を3つも経験してきた。

私が「二代目牧師」であったのが多かったことの意味は、私は「若い教会」の牧師だったということだ。具体的には「戦後生まれの教会」を指す。太平洋戦争後、日本国憲法で信教の自由が保障されるようになった後に設立された教会だ。それを「若い教会」と言い、戦前生まれの教会と区別されることがある。

だからどうだと言いたいわけではない。日本の(プロテスタント)教会の中には150年を超える歴史を持つ教会がある。しかし最初の一つの教会がその後のすべての教会の産みの親であるわけではない。江戸時代の「鎖国」が解かれたのち、海外から多種多様な教派・教団の宣教師が来て教会を作ったからだ。

一人の教師が一つの教会の牧師を150年続けた例はない。もしかしたら私が不勉強で知らないだけで、そういう例があるのかもしれないが。一度も牧師交代を経験していない教会や、二代目、三代目くらいの教会はすべて「若い教会」である。戦前から存在する「古い教会」は多くの牧師交代を経験してきた。

なんでこんなことを書いているのかについては、特に理由や脈絡はない。強いていえば、繰り返しになるが、「牧師にも転勤があること」を驚かれることが実際にあるので、そろそろ周知されてもいいかなと思って書いているだけである。現時点では他意はない(ということにしておこうと要らぬ思わせぶり)。

私自身の過去3回(4回目はまだ)の辞任・辞職の体験から得た印象としては、「嫌われて辞めるほうが正解」。そのほうが、次の牧師さんがやりやすいはずだ。「偉大な先生」の後任者はやりにくいに決まっている。まあ、私の場合はどこから見ても偉大さのかけらもないので、何の心配もなかったわけだが。

『どうすれば売れるキリスト教の本を書けるようになるか』という本があれば読んでみたい

よく売れたキリスト教の本がいまだかつてあったのかは別問題
「どうすれば売れるキリスト教の本を書けるようになるか」というテーマの本があれば読んでみたい。熟考に価する問題だ。調査の手順はなんとなく分かる。やはり学ぶべきは「過去」。過去によく売れたキリスト教の本の「売れた理由」を突き止めることは不可能ではないはずだ。それが分かればヒントになる。

著者の筆力の問題は当然大きいし、それがすべてだと言いたくなるほどだが、嫌な言い方をすれば、政治・社会の現実が「組織票」と無関係でないのと同じようなことを、どこからどう見ても「宗教の本」でしかありえないキリスト教の本の「売れるような書き方」を問う際に考慮せざるをえないのではないか。

でも、私がいま、心理的に耐え切れずに「嫌な言い方をすれば」とひとこと断りを入れてしまう(そう書かざるをえないと自分で感じてしまう)ことに、キリスト教の本の「売れるような書き方」を拒む力(それは外圧というよりも自分の中の心理的規制として)が働いているのではないかと、ふと思い当たる。

何年か前に『純粋理性批判 まんがで読破』というのを買って読んでみた。悪いとは思わなかったが、女性の教授キャラの人が板書しながら学生に講義するまんが。教授キャラの人の口元につながる吹き出しの中に、ほぼ難解なままの「カント哲学」が移し置かれただけの状態にすぎないと、私には感じられた。

字に書くときつくなってしまうが、思想・宗教を「売れる本」にするために試みられる「サブカル偽装」は、なんら解決策にならないどころか逆効果ではないかという思いをわりと前から抱いてきた。誤解されたくないのは、私は「サブカル」を問題にしているのではなく「偽装」を問題にしているという点だ。

装丁やプレゼンの方法は斬新に「サブカル化」するが、思想・宗教の「ドグマ」は変えない。それは思想・宗教のポテンシャルの放棄、ひいては敗北を意味するのではないかと書くのは、きつすぎるだろうか。松戸市お得意のサブカルキャラの警察署ポスターや、トップアイドルの自衛官募集ビデオと大差ない。

でも、いま言いたいのは、ここから先(この吹き出しがクライマックス)。キリスト新聞新連載の「ピューリたん」は、あの『純粋理性批判 まんがで読破』のベクトルの逆を向いていると思えたので嬉しかった(マジです)。「思想・宗教のサブカル偽装」ではなかった。初回を読ませていただいて安堵した。

世代や年齢の話に還元するのは失礼だし思考停止の罠かもしれないが、今年50の中年男子のたわごとをお許しいただけば、「ピューリたん」の描き手の方とその世代の方々こそが「これからの思想・宗教」の新しい可能性を切り開いてくださるに違いないと期待できましたというのが連載初回の読後感想です。

2015年4月12日日曜日

罪との戦い

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
マルコによる福音書12・13~27

「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。『先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか。収めてはならないのでしょうか。』イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。『なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。』彼らがそれを持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らが、『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた。『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らは、イエスの答えに驚き入った。復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。『先生、モーセはわたしたちのために書いています。「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。』イエスは言われた。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の「柴」の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。』」

今日もマルコによる福音書を開きました。先週はイースター礼拝でしたので、読む順序を変えて、イエスさまが復活される個所を読みました。結論を先に読んだ形です。しかし、今日から元の順序に戻ります。

今日の個所に出てくるのは、イエスさまの言葉じりをとらえて陥れるために近づいてきた人々です。そのような人々にイエスさまは苦しめられました。この人々がイエスさまのもとに近づいてきたのはイエスさまに救いを求めてきたのではありません。イエスさまを陥れるために来ました。イエスさまがお語りになる言葉の中に矛盾や欠点を探し出して、イエスさまを訴える口実を得るために来ました。

つまり、この人々がイエスさまにしている質問はすべて罠であるということです。そういう意図であるということを、わたしたちはあらかじめ理解しておく必要があります。この人々の言い分を真に受けてはいけません。

イエスさまだけでなく、わたしたちのまわりにも、そういう人たちがいると思います。うんうんと頷きながら話をよく聞いてくれる人だと思って信頼し、心を許していろいろ話すと、それが罠だったという経験を、わたしたちも味わってきたのではないかと思います。本当に心を許せて何でも話せる相手を見つけたいと願っても、なかなか難しいわけです。何度か痛い目に会ってみないと分からないところがあります。

しかし、イエスさまの場合は、わたしたちの場合とは違う面がありました。それではイエスさまにとって、本当に心を許せて何でも話せる相手はだれだったのか、そういう人たちが実際にいたのかということは考えてみる必要がありそうです。

先ほど申し上げたとおり先週はイースター礼拝でしたので、この福音書を読む順序を変えて結論を先に読みました。イエスさまの復活の個所を先に読みました。しかし、その読み方は飛ばし過ぎです。イエスさまの十字架上の死の場面を飛ばしてしまっています。それは、今日の個所と先週の個所の間には、決して飛ばしてはならない、省略してはならない内容があったということです。それがイエスさまの十字架上の死の場面です。

そこに至ってイエスさまは完全に孤独になられました。十字架上にはりつけにされたイエスさまには、心を許して何でも話せる相手というような意味での友達は一人もいませんでした。それどころか、イエスさまのもとに集まっていたすべての人が、その日までイエスさまがお話しになってきたことのすべてを悪く受け取りました。すべての弟子が裏切り、すべての人の心がイエスさまから離れました。しかし、それこそが父なる神の御心であり、イエスさまがお望みになったことでした。イエスさまはすべての人の身代わりに十字架にかけられることを、御自身でお望みになったのです。

弟子たちの中の一人として「イエスさまは悪くありません。イエスさまを十字架につけるのなら、代わりにこの私を十字架につけてください」と申し出る人はいませんでした。それどころか、十二人の弟子の一人のイスカリオテのユダは、自分から祭司長たちのところに出かけて行き、お金でイエスさまを売り渡す約束を取り交わしてきました。一番弟子のペトロさえ、鶏が二度泣く前にイエスさまのことを三度知らないと言いました。それらのこともすべて、イエスさま御自身が初めからご存じであり、御自身がお望みになったことです。イエスさまは弟子たちの身代わりに十字架にかけられることを、御自身でお望みになったのです。

その意味では、イエスさまは今日の個所に出てくるような、言葉じりをとらえて陥れる人々がいることは初めから分かっておられましたし、そういう人々がいるからと言って、言い方を変えたり内容を変えたりすることはなさらなかったと言えます。もちろんその人々が仕掛けてくる罠に対する警戒心はお持ちでした。しかしそれは、イエスさまが逃げ腰であられたというような意味ではありません。

イエスさまのお心をどのように表現すればよいのかは、迷うところです。いろいろ考えさせられました。それで思いついたことを言わせていただけば、その人々が仕掛ける罠にイエスさまが陥らないようにすることは、イエスさまにとっては、その人々にそれ以上に罪を犯させないようにすることを意味していたのではないだろうか、ということです。

なぜなら、人に罠をかけて陥れること自体が罪なのですから。罠に陥った人の側も悪い、不注意の罪を犯しているというように言うのはひどいことです。間違っています。それは、泥棒に遭った人を「あなたも不注意だったから悪い」と責めるのと同じです。それはひどい言い方です。しかし、イエスさまは、イエスさまを罠にかけて訴える口実を探して殺してしまおうとしている人々にもこれ以上の罪を犯してほしくないと願っておられたのです。だからイエスさまは彼らの仕掛けた罠に陥らないように注意深く対処されたのです。イエスさまが逃げ腰だったということではありません。

今日の個所に出てくる、イエスさまに仕掛けられた罠は二つです。一つは、ユダヤ人がローマ皇帝に税金を納めることは律法に反していることかどうかという質問です。もう一つは復活の問題でした。

税金の問題について、「ユダヤ人」とは記されていませんが、それ以外の意味はありません。ユダヤがローマ帝国に支配され、属国になっていた時代の話です。ユダヤ人、なかでもファリサイ派の人々は、ユダヤのナショナリストのような存在でしたので、ユダヤがローマの属国であることが不愉快でたまりません。早く自立したいと願っていました。だからとくにファリサイ派の人々はローマ皇帝に税金など納めたくありません。国民感情としてもローマ皇帝に税金など納めたくないと思っている人は大勢いました。

そのような状態の中で、もしイエスさまがローマ皇帝に税金を納めることは律法に反しているので、納めてはならないとお答えになれば、多くの人から支持され、賞賛された可能性があります。そのことを主張して選挙に出れば多くの票を集めることができたかもしれないほどです。しかし、そのように国民に対して呼びかけることは、ローマ皇帝とその支配下のユダヤ国王に対する反逆を意味するわけですから、その場で即、イエスさまを反逆罪の現行犯で逮捕できたわけです。

しかも、それはもう少し複雑な事情がありました。当時のローマ皇帝は自分は「神」であると称していました。ローマ皇帝が神であることを主張する字が、皇帝の肖像と共に、当時の貨幣に書かれていました。それは確実に律法に反します。「わたしのほか何ものをも神としてはならない」にも「自分のために刻んだ像を作ってはならない」にも反します。そのため、ユダヤ人にとってのローマ税問題は政治的・経済的な問題であるだけでなく、宗教的・信仰的な大問題だったのです。

しかし、イエスさまのお答えは、驚くべきものでした。銀貨をもって来させ、「これはだれの肖像か」とお尋ねになり、「皇帝のものです」と彼らが答えると、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。まさか冗談でおっしゃったわけではないと思いますが、顔と名前が書いてあるものをその顔と名前の人に返しなさいとおっしゃったわけです。

そのお答えはローマ皇帝に税金を納めることを肯定する意味を持ちます。しかし、「神のものは神に返しなさい」とおっしゃいました。「皇帝」と「神」を区別されました。ローマ皇帝に税金を納めることは、真の神を冒涜することにはならない。神は神だ。皇帝は神ではない。そのことをはっきりおっしゃっているのです。

もう一つの罠は復活の問題でした。復活を否定したくて否定したくてたまらない人たちがいました。サドカイ派です。だから彼らがイエスさまに質問をしているのは、復活を信じることがいかに矛盾に満ちていて滑稽であるかを言いたがっているだけです。イエスさまが矛盾したことを言おうものなら、そこに噛み付いてやれと、構えているだけです。

それで彼らが持ち出したのが、レビラート婚と呼ばれる当時のルールでした。その内容は「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」というものです。ところが、その妻が七人の兄弟全員と結婚したが、子どもをもうけることができませんでした。その妻が復活したときに、誰の妻になるのでしょうかという質問です。

この質問も真に受けてはいけません。この質問から感じられるのは真面目さのかけらもない人たちだということです。にやにや笑っているような顔を想像できます。そもそもこういうことを持ち出すこと自体が不愉快です。結婚や出産、あるいは離婚。その他いろいろな複雑な人間模様。このようなことで苦労したことがあるような人は、このようなことをたとえ話として持ち出したりはしません。

「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」。

イエスさまが問うておられるのは、信仰です。あなたがたには信仰があるのかと問うておられるのだと思います。自分が信じられないことがあると、ごちゃごちゃと屁理屈をこねて言い逃れしようとしている人たちに、イエスさまは憤っておられます。

(2015年4月12日、松戸小金原教会主日礼拝)

2015年4月11日土曜日

切り出しはいつも「セリフを読ませていただきます」です

これが浅草の「人形焼」だ(本文とは関係ありません)
私、こう見えて、小さい頃から最近まで(今も時々)けっこうひどい吃音持ちなんです。人前でしゃべるのが苦手、下手、極度に緊張、支離滅裂。原稿なしでフリートークとかありえない。だからSNSはありがたいですね。まるで流暢にしゃべっているかのようにすらすら書けちゃう。夢の中にいるようです。

なので、私、礼拝説教は完全原稿以外はありえないし、講演や研究発表のレジュメも基本的に「ですます調」の完全原稿を配布します。で、講演や研究発表の最初に言うことはいつも決まって「レジュメに書いたセリフを読ませていただきます」です。文章は、私にとっては「セリフ」なんです。吃音ゆえです。

私の場合、「間違ったことを言うと責められる。それが苦痛だから私は正しいことを言わねばならない。でもこの場面で正しいこととは何かを明確に判断できない。でも何かをしゃべれと言われている。自分の番が回ってきた。どうしよう」と逡巡しながら無理にしゃべろうとすると、たいてい吃音になります。

ですので逆に言えば、その「私が吃音になる仕組み」から解放されれば、吃音そのものから解放されるわけです。「間違ったことをわざと言って文句あるかと開き直る。何かをしゃべれと言われても、基本断る。自分の番が回ってきたら、すみません分かりませんという」。これなら私は吃音から解放されます。

いま書いたことは7割くらいは冗談ですが、3割は真面目な話です。私、ほんとに、吃音状態になったら、いまでも、どこでも、しばらく口をつぐんで黙ることにしています。流暢にしゃべれない人であることを知られても構わないというか、むしろ私のほうから知らせておきたいと思っているくらいですので。

あとは、人前でしゃべらなくてはならないとき決まって足や肩や首筋が固く緊張していることに事前に気づくことが、最近はできるようになってきました。礼拝説教の直前でもそういうときあります。それに気づいたときは、礼拝が始まっていても、緊張をほぐすためにだらっと脱力するように心がけています。