2015年4月12日日曜日

罪との戦い

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
マルコによる福音書12・13~27

「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。『先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか。収めてはならないのでしょうか。』イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。『なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。』彼らがそれを持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らが、『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた。『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らは、イエスの答えに驚き入った。復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。『先生、モーセはわたしたちのために書いています。「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。』イエスは言われた。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の「柴」の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。』」

今日もマルコによる福音書を開きました。先週はイースター礼拝でしたので、読む順序を変えて、イエスさまが復活される個所を読みました。結論を先に読んだ形です。しかし、今日から元の順序に戻ります。

今日の個所に出てくるのは、イエスさまの言葉じりをとらえて陥れるために近づいてきた人々です。そのような人々にイエスさまは苦しめられました。この人々がイエスさまのもとに近づいてきたのはイエスさまに救いを求めてきたのではありません。イエスさまを陥れるために来ました。イエスさまがお語りになる言葉の中に矛盾や欠点を探し出して、イエスさまを訴える口実を得るために来ました。

つまり、この人々がイエスさまにしている質問はすべて罠であるということです。そういう意図であるということを、わたしたちはあらかじめ理解しておく必要があります。この人々の言い分を真に受けてはいけません。

イエスさまだけでなく、わたしたちのまわりにも、そういう人たちがいると思います。うんうんと頷きながら話をよく聞いてくれる人だと思って信頼し、心を許していろいろ話すと、それが罠だったという経験を、わたしたちも味わってきたのではないかと思います。本当に心を許せて何でも話せる相手を見つけたいと願っても、なかなか難しいわけです。何度か痛い目に会ってみないと分からないところがあります。

しかし、イエスさまの場合は、わたしたちの場合とは違う面がありました。それではイエスさまにとって、本当に心を許せて何でも話せる相手はだれだったのか、そういう人たちが実際にいたのかということは考えてみる必要がありそうです。

先ほど申し上げたとおり先週はイースター礼拝でしたので、この福音書を読む順序を変えて結論を先に読みました。イエスさまの復活の個所を先に読みました。しかし、その読み方は飛ばし過ぎです。イエスさまの十字架上の死の場面を飛ばしてしまっています。それは、今日の個所と先週の個所の間には、決して飛ばしてはならない、省略してはならない内容があったということです。それがイエスさまの十字架上の死の場面です。

そこに至ってイエスさまは完全に孤独になられました。十字架上にはりつけにされたイエスさまには、心を許して何でも話せる相手というような意味での友達は一人もいませんでした。それどころか、イエスさまのもとに集まっていたすべての人が、その日までイエスさまがお話しになってきたことのすべてを悪く受け取りました。すべての弟子が裏切り、すべての人の心がイエスさまから離れました。しかし、それこそが父なる神の御心であり、イエスさまがお望みになったことでした。イエスさまはすべての人の身代わりに十字架にかけられることを、御自身でお望みになったのです。

弟子たちの中の一人として「イエスさまは悪くありません。イエスさまを十字架につけるのなら、代わりにこの私を十字架につけてください」と申し出る人はいませんでした。それどころか、十二人の弟子の一人のイスカリオテのユダは、自分から祭司長たちのところに出かけて行き、お金でイエスさまを売り渡す約束を取り交わしてきました。一番弟子のペトロさえ、鶏が二度泣く前にイエスさまのことを三度知らないと言いました。それらのこともすべて、イエスさま御自身が初めからご存じであり、御自身がお望みになったことです。イエスさまは弟子たちの身代わりに十字架にかけられることを、御自身でお望みになったのです。

その意味では、イエスさまは今日の個所に出てくるような、言葉じりをとらえて陥れる人々がいることは初めから分かっておられましたし、そういう人々がいるからと言って、言い方を変えたり内容を変えたりすることはなさらなかったと言えます。もちろんその人々が仕掛けてくる罠に対する警戒心はお持ちでした。しかしそれは、イエスさまが逃げ腰であられたというような意味ではありません。

イエスさまのお心をどのように表現すればよいのかは、迷うところです。いろいろ考えさせられました。それで思いついたことを言わせていただけば、その人々が仕掛ける罠にイエスさまが陥らないようにすることは、イエスさまにとっては、その人々にそれ以上に罪を犯させないようにすることを意味していたのではないだろうか、ということです。

なぜなら、人に罠をかけて陥れること自体が罪なのですから。罠に陥った人の側も悪い、不注意の罪を犯しているというように言うのはひどいことです。間違っています。それは、泥棒に遭った人を「あなたも不注意だったから悪い」と責めるのと同じです。それはひどい言い方です。しかし、イエスさまは、イエスさまを罠にかけて訴える口実を探して殺してしまおうとしている人々にもこれ以上の罪を犯してほしくないと願っておられたのです。だからイエスさまは彼らの仕掛けた罠に陥らないように注意深く対処されたのです。イエスさまが逃げ腰だったということではありません。

今日の個所に出てくる、イエスさまに仕掛けられた罠は二つです。一つは、ユダヤ人がローマ皇帝に税金を納めることは律法に反していることかどうかという質問です。もう一つは復活の問題でした。

税金の問題について、「ユダヤ人」とは記されていませんが、それ以外の意味はありません。ユダヤがローマ帝国に支配され、属国になっていた時代の話です。ユダヤ人、なかでもファリサイ派の人々は、ユダヤのナショナリストのような存在でしたので、ユダヤがローマの属国であることが不愉快でたまりません。早く自立したいと願っていました。だからとくにファリサイ派の人々はローマ皇帝に税金など納めたくありません。国民感情としてもローマ皇帝に税金など納めたくないと思っている人は大勢いました。

そのような状態の中で、もしイエスさまがローマ皇帝に税金を納めることは律法に反しているので、納めてはならないとお答えになれば、多くの人から支持され、賞賛された可能性があります。そのことを主張して選挙に出れば多くの票を集めることができたかもしれないほどです。しかし、そのように国民に対して呼びかけることは、ローマ皇帝とその支配下のユダヤ国王に対する反逆を意味するわけですから、その場で即、イエスさまを反逆罪の現行犯で逮捕できたわけです。

しかも、それはもう少し複雑な事情がありました。当時のローマ皇帝は自分は「神」であると称していました。ローマ皇帝が神であることを主張する字が、皇帝の肖像と共に、当時の貨幣に書かれていました。それは確実に律法に反します。「わたしのほか何ものをも神としてはならない」にも「自分のために刻んだ像を作ってはならない」にも反します。そのため、ユダヤ人にとってのローマ税問題は政治的・経済的な問題であるだけでなく、宗教的・信仰的な大問題だったのです。

しかし、イエスさまのお答えは、驚くべきものでした。銀貨をもって来させ、「これはだれの肖像か」とお尋ねになり、「皇帝のものです」と彼らが答えると、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。まさか冗談でおっしゃったわけではないと思いますが、顔と名前が書いてあるものをその顔と名前の人に返しなさいとおっしゃったわけです。

そのお答えはローマ皇帝に税金を納めることを肯定する意味を持ちます。しかし、「神のものは神に返しなさい」とおっしゃいました。「皇帝」と「神」を区別されました。ローマ皇帝に税金を納めることは、真の神を冒涜することにはならない。神は神だ。皇帝は神ではない。そのことをはっきりおっしゃっているのです。

もう一つの罠は復活の問題でした。復活を否定したくて否定したくてたまらない人たちがいました。サドカイ派です。だから彼らがイエスさまに質問をしているのは、復活を信じることがいかに矛盾に満ちていて滑稽であるかを言いたがっているだけです。イエスさまが矛盾したことを言おうものなら、そこに噛み付いてやれと、構えているだけです。

それで彼らが持ち出したのが、レビラート婚と呼ばれる当時のルールでした。その内容は「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」というものです。ところが、その妻が七人の兄弟全員と結婚したが、子どもをもうけることができませんでした。その妻が復活したときに、誰の妻になるのでしょうかという質問です。

この質問も真に受けてはいけません。この質問から感じられるのは真面目さのかけらもない人たちだということです。にやにや笑っているような顔を想像できます。そもそもこういうことを持ち出すこと自体が不愉快です。結婚や出産、あるいは離婚。その他いろいろな複雑な人間模様。このようなことで苦労したことがあるような人は、このようなことをたとえ話として持ち出したりはしません。

「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」。

イエスさまが問うておられるのは、信仰です。あなたがたには信仰があるのかと問うておられるのだと思います。自分が信じられないことがあると、ごちゃごちゃと屁理屈をこねて言い逃れしようとしている人たちに、イエスさまは憤っておられます。

(2015年4月12日、松戸小金原教会主日礼拝)

2015年4月11日土曜日

切り出しはいつも「セリフを読ませていただきます」です

これが浅草の「人形焼」だ(本文とは関係ありません)
私、こう見えて、小さい頃から最近まで(今も時々)けっこうひどい吃音持ちなんです。人前でしゃべるのが苦手、下手、極度に緊張、支離滅裂。原稿なしでフリートークとかありえない。だからSNSはありがたいですね。まるで流暢にしゃべっているかのようにすらすら書けちゃう。夢の中にいるようです。

なので、私、礼拝説教は完全原稿以外はありえないし、講演や研究発表のレジュメも基本的に「ですます調」の完全原稿を配布します。で、講演や研究発表の最初に言うことはいつも決まって「レジュメに書いたセリフを読ませていただきます」です。文章は、私にとっては「セリフ」なんです。吃音ゆえです。

私の場合、「間違ったことを言うと責められる。それが苦痛だから私は正しいことを言わねばならない。でもこの場面で正しいこととは何かを明確に判断できない。でも何かをしゃべれと言われている。自分の番が回ってきた。どうしよう」と逡巡しながら無理にしゃべろうとすると、たいてい吃音になります。

ですので逆に言えば、その「私が吃音になる仕組み」から解放されれば、吃音そのものから解放されるわけです。「間違ったことをわざと言って文句あるかと開き直る。何かをしゃべれと言われても、基本断る。自分の番が回ってきたら、すみません分かりませんという」。これなら私は吃音から解放されます。

いま書いたことは7割くらいは冗談ですが、3割は真面目な話です。私、ほんとに、吃音状態になったら、いまでも、どこでも、しばらく口をつぐんで黙ることにしています。流暢にしゃべれない人であることを知られても構わないというか、むしろ私のほうから知らせておきたいと思っているくらいですので。

あとは、人前でしゃべらなくてはならないとき決まって足や肩や首筋が固く緊張していることに事前に気づくことが、最近はできるようになってきました。礼拝説教の直前でもそういうときあります。それに気づいたときは、礼拝が始まっていても、緊張をほぐすためにだらっと脱力するように心がけています。

2015年4月8日水曜日

要するにduplex ordoの問題に最も関心があります

葛藤と苦悩は深まるばかりです
「いま自分が最も信頼している神学体系」の意味であれば、最も愛読している組織神学は、私はやはりファン・ルーラーのものです。私がここ何年も最も悩んでいる問題でありながらなかなか手を付けることができないのは、duplex ordoの問題です。その問題にファン・ルーラーが苦しんだのです。

ダブルスタンダードとかダブルバインドとかいえば、だいたいぴんと来る人は多いでしょう。duplex ordoを硬く訳せば「二重基準」でしょうか。ファン・ルーラーがこの概念を持ち出すとき強く考えていたのは、近現代のデモクラティックな社会の中の「国立大学神学部」の存立の意義の問題です。

日本には「国立大学神学部」そのものは存在しないわけですが、文科省が考える「科学・学問」の枠組みと代々の教会が「神学」という形でとらえてきた「科学・学問」の本来の姿との間の著しい葛藤と苦悩を伴う相互関係の問題と同じです。しかし私は、その葛藤と苦悩を肯定的にとらえたいと考えています。

葛藤が無くなってしまうことが悪い意味でのカルト化であると私は受けとめています。葛藤がない形で文科省的なるものと同化したうえで「教会の神学」の外套をまとっているだけなのもカルト化でしょうし(なぜならそれは「神学」を偽装する必然性がないのに忍び込んで来ているだけの怪しい存在なので)。

葛藤がない形で文科省的なものを全否定し、全面対決姿勢をとるのもカルト化でしょう(なぜなら「エセ科学」のくせに「神学」を名乗りたがっているだけの怪しい存在なので)。葛藤があるということは、神学のプライドはズタズタに傷つけられっぱなしですが、それを肯定的に受けとめたいという意味です。

こんなことをいくら書いてもよく分からないと思いますが、分からないようにわざと書いていますので(分かるように書くと差しさわりがある話ですので)、「何を言ってるのか分からない」という感想が正解です。ファン・ルーラーに限らず、こういう問題で葛藤しうる人、苦悩しうる人を、私は尊敬します。

フィリピの信徒への手紙の学び 05

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フィリピの信徒への手紙2・1~11

関口 康

この個所のパウロの思いを代弁していえば、次のようなことになると思われます。教会に集まる者たちは自分のことにしか関心がないようであってはならない。教会のみんなが心を一つにしなければならない。そのために求められるのは、我々がみな謙遜になることである。その謙遜の模範を示してくださったのがイエス・キリストである。キリストは我々の人生の模範であり、謙遜の模範である。キリストが示してくださった謙遜の模範に従って生きることは、教会の一致のために重要である。

しかし、残念なことに、パウロはこの個所で「教会」という字を用いていません。とはいえ、ここで考えなければならないことは、そもそもこの手紙がフィリピの教会に宛てて書かれたものであることです。この手紙に「あなたがた」とあれば、直接的にはフィリピの教会の人々のことです。加えて、当時「教会」に属していたすべての人々のことです。
さらに、もう一つの点が重要です。それは、教会はキリスト者の集まりであり、同じ信仰をもって集まっている人々の団体ではありますが、現実の教会の中にはさまざまな考え方や立場の人がいるということです。

パウロが書いていたのは、キリストを宣べ伝えることを「ねたみと争いの念にかられてする者」もいれば「善意でする者」もいるということでした。「愛の動機」からキリストを宣べ伝える人もいるが、「不純な動機」からする人もいる。「だが、それがなんであろう」とも書かれていました。「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」と。

しかし、パウロが喜んでいることと、教会の中にいろんな考え方や立場の人がいて不一致や分裂に陥ることとは、区別して考えなければならない面があります。不一致や分裂の状態を放置しておくこと自体が良いことであるとは言えないからです。

実際、パウロ自身も、不純な動機からキリストを宣べ伝える人がいることをパウロは「喜んでいる」と確かに書いていますが、喜びと同時に「苦しみ」も告白しています。パウロはまさか不一致や分裂に幸福を感じていたわけではなく、苦しんでいました。しかしこの苦しみは「神の恵み」として与えられたものなのだ、そうなのだ、そうなのだと自分に言い聞かせていた面があったに違いありません。

だからこそパウロは教会の一致の必要性を力説しています。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」と書いています。「幾らかでも」は受け取り方によっては相手を低く見る表現にもなるので要注意です。原文を見ると「幾らかでも」(ティス)は「キリストによる励まし」の前にも「愛の慰め」の前にも「“霊”による交わり」の前にも「慈しみや憐れみの心」の前にもあります。繰り返しには強調する意図があります。「幾らかでも」をパウロは強調しています。幾らかでもあれば大丈夫だ、という意味でもありますが、そのわずかなものさえないようなら危険信号だ、という意味でもあるでしょう。

しかし、そのようなものをあなたがたが「幾らかでも」持っているならば、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とパウロは書いています。「同じ思い」や「同じ愛」と言う場合の「同じ」の意味は、教会におけるキリスト者同志の中での共通性です。強く勧められていることは、教会内部の一致です。一致し、協力して伝道に励むことです。それがパウロの喜びにもなると言われているのです。

「幾らかでも」が強調されていることには、さらに別の意図があるかもしれません。あくまでも一つの可能性ですが、いわば教会の中の温度差の問題です。教会の中には、非常に熱心な人もいるし、熱心さにおいて温度が低めの人もいます。熱心でありたいという願いはあっても、今の事情がそれを許さないという人もいます。

そのような事情のすべてをパウロはよく分かっているのです。だからこその「幾らかでも」です。パウロにとっては、伝道の動機が純粋であるか不純であるかは関係ないと書いているのと同様、熱心の温度そのものも問題にしたくないのです。「幾らかでも」あれば十分である。熱心の温度が低いことが教会の一致を乱してよい理由にはなりませんが、温度が高いからと言って温度が低い人を一方的に裁いてもよい理由にもならないということになるでしょう。

しかしまた、この問題についてパウロは、今日の個所に限っては、どちらかというと温度を上げるほうではなく、下げるほうのこと、つまり冷静さを勧めているように感じられます。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって」とパウロは書いています。「互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」とも書いています。これは明らかに、信仰の熱心さに伴いやすい傲慢さに対する戒めです。私は熱心な信徒である。がんばっている。よくやっている。この思いには落とし穴があります。他の人がしていることが小さく見えます。自分よりも熱心でない人の存在に苛立ちを覚えます。わたしがこんなにがんばっているのに、誰もついてきてくれないし、理解してくれないと寂しさや孤独感を覚えたりもします。その人々の思いは、理解できないものではありませんが、落とし穴に通じる道でもあります。

教会が壊れないようにパウロが勧めていることは、イエス・キリストの模範に従うことです。「それはキリスト・イエスにもみられるものです」とある「それ」が指しているのは「へりくだって」です。謙遜であることです。つまり、「イエス・キリストの模範」とは「謙遜の模範」です。わたしたち人間が謙遜に生きるための模範をイエス・キリストが示してくださったのです。

謙遜は傲慢の反対です。矢印の方向が正反対です。「傲慢」は下から上へとのぼる道であり、「謙遜」とは上から下へとくだる道です。熱心であること、がんばることが悪いわけではありません。しかし、熱心であることの落とし穴は、熱心でない人を裁き始めることです。他人の存在が小さく見えはじめ、他人のしていることが取るに足りないものに思えることです。熱心であることはよいことでも、その中に利己心や虚栄心が混ざりはじめると厄介です。教会の中で競争心が渦巻き始めると厄介です。

イエス・キリストはそうではなかったということをパウロは訴えています。キリストは「神の身分」であられたのに、そのことに「固執」なさらず、「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。

ここでパウロが描いているのは、キリストがたどられた道です。その意図は、イエス・キリストは「人間になられた神」であるということです。本来神であられるべき方が、その立場にとどまることにこだわりをもたれないで、低きにくだられ、人間になられたのだ、と言っています。それが上から下へとくだって来る道です。傲慢が示す矢印とは正反対を向いた謙遜の道です。

パウロはこの文脈には書いていませんが、読み取ってよさそうな彼の意図は、ねたみや争いの念にかられて伝道する人々、自分の利益を求めて教会に集まる人々、利己心や虚栄心を満たすことばかり考え、わたしはあの人よりも優れた人間であると競争心を燃やす人々は、キリストがたどった道とは正反対の道、つまり、「何とかして自分自身が神になろうとする道」を進んでいるのではないかということです。

紙の本をいかにして擁護するかを考えています

「着た」のか「脱いだ」のか、それが問題だ

1年間、紙の本を「読んでいない」人が4割超える【国立国会図書館調査】
http://www.huffingtonpost.jp/2015/04/05/ndl_n_7008468.html


重要な記事が出ました。こういうのを待っていました。いい悪いの評価はともかく、趨勢をできるだけ冷静・正確に見守る必要があると思います。

これからどうなるのでしょうか。ネットの情報は速い。次々更新され、飽きない。反面、ネットは「テキストの確定」が困難であると私は考えています。「ネットのテキスト」は情報提供者側で容易に書き換えうるものです。その結果、「テキストに基づかないうろ覚えの議論」が増えるのではないでしょうか。

「とんでもない。うろ覚えの議論などするものか。すべてテキストに基づいて議論するに決まっている」と言うにしても、情報提供者側の更新頻度が高く、かつ他の情報との関連を考え始めてしまうや否や、ネット全体の情報量があまりに多いため、「テキスト斜め読みの議論」が増えるのではないでしょうか。

「テキストに基づかないうろ覚えの議論」や「テキスト斜め読みの議論」でお茶を濁している自覚がある人は聖書学者を見習うべきです。聖書に関して片言隻句と言うのは間違いですが、たとえば、パウロが書いたのはενかεκかが問題になります。意味は正反対ですので慎重かつ真剣な判断が求められます。

コリントの信徒への手紙二5章3節のことです。日本聖書協会の口語訳(1954年)の「それを着たなら、裸のままではいないことになろう」が、新共同訳(1988年)は「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」になりました。「着る」と「脱ぐ」は正反対。これがενとεκの差です。

「着たので裸でない」のは当たり前すぎて退屈な話ですが、「脱いだのに裸でない」(えっ?!)としたら尋常でない。興味津々の話になります。その違いは聖書学者の方々の緻密な研究の成果によります。ενとεκの差は、一ミリ足らずの線が引かれているかどうか。まさにミクロの世界。顕微鏡作業です。

この文脈で、なぜ聖書学者の話をしているのかといえば、「テキストの確定」に命をかけておられる方々の代表格だと思われるからです。ネットのテキストは、情報提供側で容易に書き換えうるものです。ブログでもPDFでも、黙って書き換えています。私もよくするので誰かを責めているのではありません。

「テキスト斜め読み」でなく「テキストを精読した上での議論」の場合でも、もしネットのテキストを用いるなら、情報提供者側で書き換えがなされていないかどうか、なされている場合どのヴァージョンを用いるかを徹底的に考える必要がありますが、問題は「それを聖書学者ほどまで徹底できるのか」です。

私は断然、紙の本の価値を擁護したいと思っている側です。しかし、最近買っている本は古本ばかり。著訳者や出版社や書店経営者の方々への貢献度が低すぎます。なので、かなり後ろめたいです。穴があれば入りたい。頭隠して尻隠さず。穴に詰まったクマのプーさん状態。申し訳ない気持ちでいっぱいです。


組織神学に限ってはなるべく一次資料を確認したいと願っているだけです

組織神学のテキストを読むために机上に常備している6冊の辞書

いかにもこれ見よがしっぽく机上に並べている6冊の辞書を、私は案外頻繁に用いています。語学は苦手です。だからこそすべての単語を辞書で確認します。そういう癖がつきました。左からフランス語、ドイツ語、オランダ語、英語(2冊)、ラテン語です。

聖書の言語(ヘブル語、ギリシア語)の辞書は、机の近くですが別の場所に置いています。机上に常備している6冊の辞書は、組織神学テキスト用です。オランダ語辞典(左から3番目、緑)を最初に買ったのは1997年5月ですが、使い過ぎでボロボロになったので、2006年9月に2冊めを買いました。

『オーレックス英和辞典』は無作為に買いましたが、編集方針が気に入りました。まえがきに次のように書かれています。今の時代にふさわしい姿勢であると思います。

「外国人学習者といえども、英語を使うときに、性別や人種、障害者などに関わる差別表現について無自覚でいることはもはや許されないが、一部で行き過ぎとの批判もあって、自らの立場をどこに定めたらよいのか分かりにくい時代になってきている。そこで本辞典では、性差別につながる恐れがある語には、男女一方の立場に偏しない中立的な代替表現を挙げ、人種差別などに関わる語・表現には、注記を付して注意を喚起した。」

『羅和辞典』(右端)は昔の田中秀央編も持っていますが、机上には水谷智洋編を置いています。フランス語はかすりもしないほど全く読めませんが、ファン・ルーラーのオランダ語テキストにフランス語が(ドイツ語も英語もラテン語も)説明なく突如登場することがありますので、やむをえず持っています。

私は語学は苦手です。そうであることを、ネット越しでない私を直接知っている人は、みなさんご存じです。しゃべれませんし、聞き取れませんし、書けません。使い物になりません。しかし、かろうじて「読むこと」は、辞書と首っ引きで時間かけてよいことを許していただくかぎり、なんとかしてきました。

しかし、いつも間違ってばかりで叱られることが多いので、心はとっくの昔に折れています。私は翻訳者になれると思っていないし、外国かぶれではないし、奇をてらったことを狙う気などは全くないです。ただ、組織神学に限っては、疑問を放置せずに、なるべく一次資料を確認したいと願っているだけです。

2015年4月7日火曜日

ピューリたん、いいね!

人生は面白いことだらけです。いやほんとに。

ピューリたん、かわいかったです。応援しなくちゃ。

確かに外見は変わりました

サイズが小さくなっただけです
「スマホをやめるか、大学をやめるか」。そのような時代錯誤の二者択一は愚の骨頂だというのが私の立場です。しかし私も、子どもたちの将来について心配の要素がないわけではありません。というか常に心配でイライラしています。しかし、実際に変わったのは「外見」だけだと自分に言い聞かせています。

我々の親より上くらいの世代の人たちがある時期からこぼし始めた不満は「病院に行って長い待合を経ても、医者たちは我々の顔ではなくパソコンの画面ばかり見るようになった」ということです。そのことをこぼす人たちは、その勢い「牧師たちもそうだ」と言いたげなので、耳が痛い話として私は聞きます。

確かに「外見」は変わったからです。今は教会でも、かかってくる電話といえば、セールスか迷惑ファックスくらい。ほとんどの連絡はメールかSNSかビデオ通話。説教や論文の原稿書きも。息抜きの音楽や映画も。かなり長い時間を「パソコンの画面ばかり見る」生活に置き換えられて(しまって)います。

「スマホ」はパソコンの全機能を持ちつつ、デバイスのサイズが小さくなっただけです。我々が子どもの頃は寝っころがって紙のコミックを読んでいたのが、今の子どもは寝っころがってスマホでコミックを読むように「外見」が変わっただけです。甘すぎる見方かもしれませんが。私はダメ親かもしれません。

2015年4月5日日曜日

復活の希望 イースター礼拝

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂

マルコによる福音書16・1~20

「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を来た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる」と。』婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくななこころをおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。』主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。」

今日はイースターです。わたしたちの救い主イエス・キリストの復活をお祝いする日です。教会のイースター礼拝は、毎年行っています。それはイエスさまの復活の意味を毎年思い起こすためです。

イエスさまは十字架にかかって死んだ方だ、死んだ方だという話は多くの人が知っていることです。キリスト教といえば十字架というほどに、イエスさまの十字架上の死はよく知られています。しかし、その十字架上で死んだイエスさまが三日目に復活されたということが、聖書に記されています。その聖書に記されていることに基づいて、わたしたち教会はイエスさまの復活を信じ、お祝いしています。

しかし、聖書に記されているのはそのことだけではないと言わなければなりません。イエスさまが復活されたことが、聖書に記されています。それはそのとおりですが、聖書に記されているのはそれだけではありません。聖書に記されているもう一つの重要なことは、イエスさまの復活の話を聞いた多くの人はその話を信じなかった、ということです。たとえば、先ほどお読みしました個所に「信じなかった」という語が3回繰り返されています(11節、13節、14節)。

もしかしたら、みなさんの中に、聖書の中にそういうことが書かれているのをお読みになると慰められるという方がおられるのではないかと思います。イエスさまが復活されたことを信じなかった人がたくさんいた。私もそうだ。私も信じられない。でも、私だけが信じられないわけではなかった。二千年前から信じない人はたくさんいた。ああ、よかった、ほっとした。私だけが信じられないわけではなかった。そのことに慰めを覚える方がおられると思います。

聖書の中に復活を信じなかった人のことがたくさん描かれているのは、私は大切なことだと考えています。なぜかといえば、復活は信じるか信じないかの問題であるということです。信仰の問題です。イエスさまが復活したと信じる人と信じない人とがいるということです。それは信仰の問題であり、宗教の問題です。物理の問題でも、科学の問題でもありません。STAP細胞のようにイエスさまがどのようにして復活したかを科学的に証明してみよと言われても、それは無理です。そういう話ではないからです。

こういうふうに言いましても教会の中では問題にならないと思います。しかし、信仰を持たない人たちにとっては、それならば、そういう話は我々には関係ないことであると思われるかもしれません。復活というのは、信者の心の中の出来事であって、それは現実に起こったことではないのだから我々には関係ないことなのだと。

実際にそのように考えた人たちは大勢います。それは、今の人たちは疑り深いから疑う人が多いが、昔はそうではなかったというような話ではありません。二千年前の聖書の登場人物たちの中にも信じられなかった人は大勢いたのです。弟子たちも例外ではありません。

イエスさまの復活の話を聞いても信じなかった人たちは、それではその人たちは復活のことを話す人たちの言葉をどのように聞いたのかといえば結局そういうことです。それは信者の心の中の出来事なのであって、現実に起こったことではない。いちばんストレートに言えば、単なる気休めであると考えたのです。

しかし、問題はそれでいいかどうかです。信仰は気休めだ、宗教は気休めだ。現実にはないことを、ただの気休めとして思い込んでいるだけだ。そのように考えたい人たちの気持ちも私には分かります。私も現代人の一人です。中学でも、高校でも、徹底的な無神論教育、科学教育を受けた人間です。

宗教は気休めだ。死者が復活することなどありえない。イエス・キリストの復活は現実には起こらなかった。そのようなうそを教会は二千年も教え続けてきた。そのように言いたい人たちが大勢いることを私はよく分かっているつもりです。そして、ある意味で理解できるところもあります。

しかし、そういう見方を私は受け入れることができません。教会はうそをついていません。イエス・キリストが復活したということが聖書に書かれています。だからこそ教会は復活を、聖書に基づいて信じています。そしてそれは、逆に言えば、もし聖書に書かれていなければ、教会はそれを信じることの必然性もないということでもあります。

しかし、教会はそのことを信じます。イエスさまの復活を信じます。なぜなら、ちょっと不謹慎な言い方かもしれませんが、そのほうが面白いからです。死んだ人が生き返るという話のほうが楽しいからです。それを信じることによってわたしたちは希望をもつことができます。

人が死んだらすべて終わりでしょうか。わたしたちも死ぬのです。私も死にます。それで終わりでしょうか。わたしたちはもうすぐ終わるのでしょうか。それで何もかもパーでしょうか。そんなふうに考えることが楽しいでしょうか。思い残すことはない。やりたいことはすべてやった。あとは死ぬのを待つばかり。ああ、死んだらすべて終わる。さようなら。そんなふうに考えることは、楽しいでしょうか。嫌ではないでしょうか。死んだ人が復活する。まだ生き返る。永遠に生きている。そのように考えることができるならそのほうが楽しくないでしょうか。

もちろん、それは人それぞれかもしれません。しかし、教会は、そこでずいぶん楽観的なのです。面白くて楽しいほうの考え方をします。死んだらすべてが終わりなどというような陰鬱な考え方を、教会はしないのです。

いわばそれだけです。イエスさまがどのように復活されたのかとか、具体的な詳細なことについては、よく分かりません。聖書に書いてあるとおりではありますが、聖書に書いてあることしか分かりません。

人生について、命について、面白くて楽しいほうの考え方をしているだけです。死んだ人が復活する。そのようなことがもし本当に起こるならば素晴らしいことだと思っているだけです。そのようなことが、二千年前に起こった。イエスさまが復活した。そのことが聖書に書いてある。それを信じて生きていきましょう。教会が考えていることは、いわばそれだけです。

毎年のイースター礼拝には召天者のご遺族をご招待しております。わたしたち教会の死生観はいま申し上げたようなものです。非常に楽観的なものです。召天者の皆さまもまたイエスさまと同じように復活することを、わたしたちは信じています。

実は亡くなっておられないという話ではありません。わたしたちの目の前におられたあの方は、たしかに亡くなられました。しかし、その日で終わりではない。復活する。そのようにわたしたちは信じています。

そして、わたしたち自身も、です。わたしたちも復活します。私も復活します。もう結構だよと、言わないでください。もう早く終わらせてくださいよ。早く死なせてください。復活などさせないでください。そのように言いたい方がおられるかもしれませんし、その気持ちも私には分かります。

しかし、それは駄目です。わたしたちは死ぬことによって逃げ切ることはできません。生きている間にしなければならないことがあります。死んでも、復活させられて、後始末することが求められることがあります。自分が犯した罪の処理です。逃げても無駄です。神さまが追いかけて来て、わたしたちに最後まで責任をとらせます。そういうものだと思ってください。

イースターはおめでたい日であると言いながら、最後はだんだん恐ろしい話になってしまいました。しかし、復活はわたしたちにとって恐ろしい話ではなく、喜びと希望の根拠です。召天者のご遺族の皆さまの上に深い慰めがありますように、心からお祈りいたします。

(2015年4月5日、松戸小金原教会イースター召天者記念礼拝)

2015年4月3日金曜日

「本当のイースター」を教会で味わいませんか

復活の希望に輝いています
日本の有名人が国際「キリスト教」大学に入学したとか、日本のマスコミが突然「イースター」を言い出してくれるとかでも、教会には全く追い風が吹いてくる気がしないのは、ある意味で健全なことかもしれぬなと、悲痛な負けず嫌い発言。

アメリカの日本占領政策の最終段階に入った感じなんですかね、よく分かりませんが。だって、すごい急ですよね、「イースター、イースター」。我々教会がそれに反対する理由は全くないと思っています。教会には全く影響ないです。

そーそー、クリスマスと同じですよね。クリスマスのときのように言えばいいじゃないですか。「本当のイースターを教会で味わいませんか」。そういうことをチラシとかに書くと、教会の内部から「『本当の』とはなんだ、けしからん。世間に対する見くだしだ。教会の傲慢だ」と非難されるのがオチですが。

まあ考えてみれば、「イースター」という言葉すら知らない人が国内に多い原因は、義務教育課程の教育内容から完全にシャットアウトしてきたからでもあるわけですよね。そのほうが異常でもあると思いますし、イースターは教会が占有するにはあまりにも大きすぎる普遍性を持っていると思いますけどね。

いつもなんだか皮肉っぽい言い方ですみません。実物の私は、そんなに皮肉っぽい人間ではないつもりなんですけどね。まじめに書いているつもりですが、どうも筆致が軽すぎて、よく叱られます。