2014年9月14日日曜日

新しいぶどう酒は新しい革袋に入れます

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂

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マルコによる福音書2・13~22

「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが集税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。』だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎ当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」(13節)と記されています。「湖」とはガリラヤ湖のことです。「再び」とありますのは、以前にもイエスさまはガリラヤ湖のほとりに行かれたからです。イエスさまがシモンと兄弟アンデレ、ヤコブと兄弟ヨハネを最初の弟子にしてくださったときです。

しかし、今回は二回目であるという意味ではありません。イエスさまはガリラヤ湖のほとりに頻繁に行かれました。このときも「また」行かれました。それが「再び」の意味です。

そのたびに群衆がイエスさまのそばに集まって来ました。イエスさまはそのたびに説教されました。しかし、曜日と集合場所を決めて定期的に行うような集まりではなかったと思われます。イエスさまとしては、とくに予定なく、ぶらっと行かれる。そこに多くの人が集まってくる。なんとなく集会が始まる。それが一種の野外礼拝のようなものになっていく。そんな感じです。

イエスさまがお出かけになったのはシモンの家からです。カファルナウムでイエスさまはシモンの家で生活なさいました。安息日にはカファルナウムの会堂で説教なさいました。そして、安息日以外の日は、いろんなところに行かれました。

ガリラヤ湖まで行く途中に「集税所」と呼ばれる場所がありました。アルファイの子レビが座っていました。集税所とは税金を集める場所です。レビは税金を集める徴税人でした。

そのレビにイエスさまは「わたしに従いなさい」と呼びかけられました。レビは立ち上がってイエスさまに従いました。こうしてマルコによる福音書によれば5人目のイエスさまの弟子に、レビがなりました。

このレビは「マタイ」とも呼ばれる人でした(3・18)。弟子の数が12人になりました。弟子たちにイエスさまは「使徒」という職名をお与えになりました(3・14)。しかし、今日はまだその話まで進んでいく途中です。徴税人のレビが5人目の弟子になったところまでです。

その後レビは、イエスさまと弟子たちを自分の家にお迎えし、食事の席を設けました。そこには、大勢のお客さんがいました。その中に「多くの徴税人や罪人」(15節)がいました。それを見た人たちの中に、不愉快な思いを抱いた人がいたというのです。

それはファリサイ派の律法学者でした。なぜ嫌な気持ちになったのでしょうか。それはわたしたちも理解できることです。

「罪人」というのは、その国の法律やルールを破って刑罰を受けたことがある人のことです。収監されていない状態ではあったようです。しかし、そういう人が社会復帰するのは簡単なことではありません。偏見や差別の目で見られる、そのように扱われる。仕方がないとかそれでいいという意味で言っているのではありませんが、時間が必要であることはたしかです。

しかし、「徴税人」と一緒に食事をすることが、なぜ咎められなければならなかったのでしょうか。それは、当時の政治状況と関係しています。

ユダヤ王国はローマ帝国の属国でした。レビを含む徴税人が集める税金は、ローマ帝国に上納するためのものでした。ローマ帝国のための税金を集める徴税人たちは自分の国を売っているようなものだ。しかも徴税人たちは、ユダヤ人たちから集めた税金の中から自分たちの利益を得ている。それがユダヤ人たちから徴税人たちが嫌われた理由です。

ところが、その「罪人」や「徴税人」とイエスが一緒に食事をしている。それはいったいどういうことなのか。イエスはユダヤ人たちが忌み嫌う人々の味方であるということは、ユダヤ人の敵であるということなのか。そのような不快感を抱いた人がいたのです。

しかし、イエスさまは全く動じられないで毅然とした態度をおとりになりました。「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」(17節)。

ここでわたしたちが考えるべきことは、イエスさまにとって「伝道」とは何なのかということです。イエスさまはどういう人たちに伝道したいと願っておられたのでしょうか。

「罪人」の反対は義人、善人です。法律やルールを守る人、聖書の戒めや掟を守る人が義人であり、善人です。そういう人たちに集まってもらいたい。社会の中で尊敬されている人や、その正しさが多くの人に認められている人。そういう人たちに集まってもらえば、我々も安心できるし、対外的な信頼を得られる。

しかし、罪人とか、人から嫌われている人とか、そういう人には来てもらいたくない。そういう人が来ると、我々が巻き込まれる。我々のことまで外の人から偏見や差別を受ける。

イエスさまの「伝道」は、こういう考え方の正反対だったということです。

ここで次の段落に進みます。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』」(18節)。

「断食」は宗教的な行為です。聖書的な根拠もあります。断食をすること自体が間違っているわけではありません。しかし、イエスさまは断食することを弟子にお命じになりませんでした。いつ何を食べることも飲むことも自由でした。食事に関して、宗教的タブーを設けられませんでした。

そして、「断食」はやはり宗教的な意味での禁欲を意味しています。逆に「断食しないこと」は禁欲の反対の意味になります。享楽や快楽を禁じないことです。積極的な意味で享楽主義、快楽主義まで言う必要はありませんが、人生にそういう要素があることを否定しないでむしろ受け容れることです。

そういうイエスさまと弟子たちの姿が、ある人々からすれば不真面目に見えたようです。禁欲しない人間は宗教家の風上にも置けない。神を信じる人は禁欲的に真面目に生きるべきだ。しかしイエスとその弟子はそうではない。そのような拒絶反応が起こったのです。

しかし、イエスさまは、ここでも毅然とした態度をおとりになりました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」(19節)。

ここで「花婿」とはイエスさま御自身のことです。だからこそ花婿が奪い去られる話にもなります。それはイエスさまの十字架上の死を意味しています。しかし今はまだそのときではない。今は結婚式の最中だとおっしゃったのです。

お祝いの席で禁欲するほど愚かなことはない。断食すること、禁欲すること自体が間違いであるわけではないが、それは結婚式が終わってからすればいいという意味になります。

神の御子なる救い主が、今ここにいる。世界が今まさに救われようとしている。今は喜びの時代である。結婚式の主催者でもある花婿が「喜んで食べてください、飲んでください」と言っているのだから、そんな場所で禁欲などしなくてもよい。

イエスさまは、ファリサイ派の律法学者、あるいはユダヤ教の祭司たちが、国民に対していろいろ設けている宗教タブーに対して、それは違うのではないかとおっしゃりたかったのだと思います。

食事の内容に至るまで宗教的タブーがあれば、何かを食べたり飲んだりするたびに人々は律法学者や祭司たちに質問に来るでしょう。国民生活のありとあらゆること、細部に至るまでのすべてを宗教家たちが支配できることになります。しかし、それは非常に窮屈で不自由な世界です。イエスさまはそのことを問題にされたのです。

ですから、ここでもわたしたちが考えるべきことは、イエスさまにとって「伝道」とは何かということです。これはわたしたちの問題として考えれば分かることです。

わたしたちは毎日の生活の中で、これは食べていいか、これはだめかといちいち考えたりしません。心配になるたびに、教会や牧師にいちいち問い合わせしたりしません。私はみなさんから、そういう電話を受けたことがありません。かけてこないでください。一切は自由です。イエスさまが新しい生き方を教えてくださいました。

しかしまた、そのような新しい自由な生き方を選びとることは、過去の古い生き方、戒律ずくめで不自由な生き方を捨てることでもあります。「過去の」と言いましたが、その古い戒律ずくめの生き方をずっと昔から守り続けて来た人たちとの関係はどうなるのかということが必ず問題になります。

その問題の答えをイエスさまは、はっきり示されました。それが21節以下に書かれていることです。

「だれも、織り立ての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(21~22節)。

このイエスさまの御言葉の意味がお分かりでしょうか。厳しい言葉です。古い戒律ずくめの生き方を守りたい人たちと、新しい自由な生き方を選びとる人たちが、無理に折り合いを付けて一緒にいることは難しい、ということです。そういうことをすれば全体が壊れてしまう。全体を壊さないために、別々の道を行きましょう、とおっしゃっているのです。

イエスさまは安息日には会堂に行かれましたが、ふだんは町のどこでも行き、そこで集会が始まる。それは場所や建物に縛られることからの自由を意味します。ユダヤ人たちから嫌われている徴税人や罪人たちに伝道する。古い戒律で人を縛り、禁欲的な断食をするようなことはもはやしない。新しい自由な生き方を選びとる人たちと共に新しい共同体を作る。そのように宣言しておられるのです。

(2014年9月14日、松戸小金原教会主日礼拝)

2014年9月9日火曜日

「バルト以降の神学者」はバルトよりスケールが小さいか



「バルト以降の神学者」と呼ばれるモルトマン、パネンベルク、ユンゲルは、バルトに比べるとスケールが小さいのだろうか(大意)という問いかけをいただきました。以下は私なりの答えです。

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「バルト以降は『これ』という神学がない」(大意)とモルトマンも1957年(31歳)まで感じていたと明言しています。なので、若いうちは安心してバルト温泉を堪能できます。じっくり味わった人だけが次のステージに進めると思います。

モルトマンの当該発言:

「私は、カール・バルトの『教会教義学』を勉強して以来、その後ずっと、バルト以後はもはや新しい体系的な神学はありえまい、という印象をもっておりました。ちょうどかつて、ヘーゲル以後はもはや哲学はありえないと考えられたように、バルトはすべてを言いつくしてしまったように思えたのです。しかしながら、1957年、オランダの伝道の神学者アーノルト・A. ファン・ルーラーは、私をそうした誤解から解放してくれました。」

(モルトマン『十字架と革命』大庭健訳、新教出版社、1974年、5ページ。)

私は、モルトマン、パネンベルク、ユンゲルがバルトよりスケールが小さいとは思いません。

バルトはゲッティンゲン大学神学部「改革派神学講座」の初代教授です。二代目はオットー・ヴェーバーで、三代目はハンス・ヨアヒム・クラウスです。モルトマンはゲッティンゲン大学で二代目ヴェーバーから教義学を学びました。

へんな話、どの世界でも「初代」というのは歴史的な意味を持つわけです。二代目以降は、初代の働きを継承する役目をどうしても負わされます。ある意味で初代よりも実力が勝っていなければ「継承」はできないと思うのですが、初代を越え出ることを控えるのを求められたりもして。

加えて『カルヴァンの神学』の著者ヴィルヘルム・ニーゼルが、実際には短期間だったゲッティンゲン大学教授時代のバルトの学生でした。ニーゼルは、バルトがスイスに帰国したあとドイツ告白教会やドイツ国内の改革派教会の強力な指導者でした。そりゃバルトを持ち上げるに決まってます。

そのようにして神学論壇的にはバルトの後継者オットー・ヴェーバーやハンス・ヨアヒム・クラウス、また教会政治的にはバルトの学生ヴィルヘルム・ニーゼルらがドイツの神学と教会をがっちり固めている中で、モルトマン、パネンベルク、ユンゲルらはバルトを超える新しい道を探ったわけです。

モルトマン、パネンベルク、ユンゲルら世代の神学教授は必死だったと思います。バルトのままでいいなら彼ら自身が新しい教科書を書く必要はなく、バルトの著作のコピーでも配って解説すればいいだけですが、場合によってはそういうことを真顔で求める学生がいたとも限りません。

しかし、モルトマン、パネンベルク、ユンゲルからすれば、バルトの神学でいいわけありません。バルト(1886年生まれ)との年齢差は、モルトマン(1926年生まれ)40才、パネンベルク(1928年生まれ)42才、ユンゲル(1934年生まれ)48才です。ほぼ半世紀差です。

しかも、モルトマン、パネンベルク、ユンゲルがドイツの神学部の第一線で活躍するようになったのは1960年代です。日本の60年安保だとか全共闘だとかの頃。ドイツの神学部も荒れまくっていたようです。デモクラシーの政教分離原則と国立大学神学部の両立は難しいですからね。

そんな感じでしたから、モルトマン、パネンベルク、ユンゲルらの世代の神学的課題は、バルトやボンヘッファーのような「デモーニッシュな国家を倒す」というテーマよりも、むしろ「国家のかけらをカオスの中から拾い出して再建する」というテーマでなければならなかったはずです。

しかし、「国家のかけらをカオスの中から拾い出して再建する」というのは私なりの表現ですが、このテーマに「神学」が取り組むとはどういうことか。それが、モルトマンなら「希望の神学」、パネンベルクなら「歴史の神学」、ユンゲルなら実存論的神学のようなものになったといえます。

彼らの営みを最も単純化して言うとしたら、現在の欧米や日本の大学で「これがサイエンスだ」とされている認識や価値観を「イエス・キリストの名のもとに」全否定せず、むしろ重んじること。哲学、歴史学、政治学、数学、医学、物理学等と神学のポジティヴな関係を探ること、です。

1946年であればまだ「世界の創造者はイエス・キリストですからね!」とバルトがボン大学の教室で笑顔で講義しても感動の涙を誘うことができたかもしれませんが、1960年代のドイツで同じことを言う教授がいたら、「この非科学的教員を徹底糾弾する」とつるし上げられたでしょう。

1970年代になれば「アポロが月に行く時代に神だ宗教だ言ってやがる連中が国立大学の中にいる」呼ばわりです。そういう周囲の目を恐れて迎合したのが「神の死の神学」でしょう。「神は死んだ。だから我々はもはや神なしで生きられるよう成熟しなくてはならない」と神学者が率先して言う。

そういうことを言い出すヨーロッパの国立大学神学部教授やアメリカの著名神学部・神学校教授の言説を嫌がり、「正統的な神学」を求めた神学者たちは、少数精鋭の小規模教団の小規模神学校に拠点を移したりしましたが、それはそれで先細りの一途をたどることにもなったように思います。

そろそろまとめます。バルト以降に「これ」という組織神学がない理由は、第二次大戦後の欧米の伝統大学神学部が衰退したからです。聖書学、キリスト教学、キリスト教史学なら大学のサイエンスだが、組織神学はサイエンスにあらず。文科省を持つ国では特にそうだったと思います。

全体的な衰退過程の中で(それは今も続いている)モルトマン、パネンベルク、ユンゲルの世代の神学は、バルトと比べて「分かりにくく」なったはずです。加速度的に乖離していく「教会の常識」と「社会の常識」のどちらにとっても中途半端で、風見鶏のように見えるものかもしれません。

「教会の常識」か「社会の常識」かのどちらか一方に立ち、一方から他方を全否定する言説は時と場合によっては聴く者に強烈な快感を与えるものとなります。どっちつかずの曖昧な言説は、唾棄されるか無視される。しかし、それこそが我々にとっての最凶・最悪の罠なのだと私は思います。

「組織神学」にせよ「教義学」にせよもともと地味なサイエンスです。バーフィンクが『改革派教義学』の序文(1895年)に「教義学は今日重んじられていない。キリスト教の教えは時代に疎んじられている。時おり感じることは(中略)見捨てられた寂しさと孤独感である」と書いています。

バルトの世界的ヒットで「組織神学」が突如好景気になりましたが、一種のバブルです。「組織神学バブル」です。しかし18世紀以降は、基本的にほぼずっと底辺進行で来たサイエンスだったと言ってよいと思います。

なので、現代の組織神学に「これ」は必要ない。これが私の結論です。

2014年9月8日月曜日

考える葦よ、ネットに書いて書いて書きまくれ


前に同じことを書いた気がするが、別に構うまい。私は昔から全集とか著作集とか「セットもの」を集めてきた。文庫や新書も番号順に並べたりする。番号を揃えるためだけに、あまり興味ない本でも買う。学生寮の同室者から「きみはセットものが好きなんだね」と笑われたことを30年くらい忘れられない。

学生時代の私はなぜ「セットもの」を集めたいと思うのかを説明できなかった。でも今は少し違う。全集や著作集が出ている著者の本は、全集や著作集として「も」買うべきだと思う。全集や著作集にはやはり本としての完成形がある。少なくとも著者自身や編集者が目指してきたその本の究極進化形態がある。

加えていえば、「セットもの」を全部揃えることや、文庫や新書の同じ著者のものはできるだけ揃えることは、一人の著者の思想の全貌を可能なかぎり見通すために役に立つ。著者自身の「文脈」を知ることができる。そもそも「文脈」があることが分かる。「その本は何のために書かれたのか」が見えてくる。

私の書斎にある全集や著作集の著者は、どなたも昔の方々ばかりで、ネット時代に属する方はいない。ルターやカルヴァンの時代にtwitterやfacebookがあれば、彼らは当然利用しただろう。ネットだからといって手を抜かず、丁寧に慎重に書いただろう。ネットでも文章がうまかっただろう。

「ブログやtwitterやfacebookは一切使わない。ネットに字は書かない。だけど、紙の雑誌や本の原稿なら書く」という人は、「映画には出演するが、テレビドラマやバラエティ番組には出演しない」という俳優・女優にたぶん似ている。ご自分が高倉健レベルだとお思いなら、どうぞご自由に。

複数の著者の紙の全集や著作集を長年集めてきて分かることは、どんなに偉大な著者でも、一生の著作物は縦に積めば1メートル位までだということだ。収録作品の多くは「商品」として書店に並んだものだが、未発表のものが含まれている場合もある。しかし、それらを含めても、せいぜい1メートル位だ。

だが、ここから先が私の言いたいことだ。かつては、どんなに偉大な著者でも、一生の著作物は、縦に積めばせいぜい1メートル位だった。しかし、今はどうだ。ブログやtwitterやfacebookに一人の人が一生書く文章をすべてプリントした紙を縦に積んだら、1メートルどころじゃないだろう。

今の人は昔の人より饒舌になったのだろうか。そんなことはないだろう。昔の人だって多くのことを考え、書き、語っていただろう。ただ、それが残っていないだけだ。保存できなかっただけだ。使徒パウロが一生の間に1メートル位の紙の著作物を書いたかどうかは分からない。そう、「分からない」だけだ。

我々がブログ、twitter、facebookに書くすべてを(紙での出版なしに)指して「これが我々の著作集だ」といえば笑われるだけだろう。しかし過去の偉大な著者の著作権が切れた文章が、今やネットで無料公開されている。我々の「ネット著作集」は、途中のプロセスを省けば、それと同じだ。

思想の伝達経路のかつてと今を強引に単純化して比較すれば、かつては著者→鉛筆→紙→活字→印刷機→本屋→読者→著作権消失後はネットで永久保存、だったが、今は著者→ネット→読者(→たまに紙の本として出版)→ネットで永久保存、であろう。紙の本は「不要」とは思わないが、「ほとんど不要」だ。

考える葦よ、ネットに書いて書いて書きまくれ。字を書くことに、遠慮も躊躇も要らない。文章の価値は著者ではなく読者が決める。身近な人や今の人は評価してくれないかもしれないが、後代の人がきっと評価してくれる。我々が遺した言葉の中の価値あるものを、ネットの海の底からサルベージしてくれる。

だからこそ私は強く思う。ネットだからといって手を抜くな(ただし訂正は可能だ)。無作法するな。人をなぶるな。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、むさぼるな。文章の「品格」とは難解で典雅な言葉を多用することではない。その文章に表れる著者自身の内面的なグロテスクさの程度の問題だ。

ネットで「品格」を守る人はリアルでも重用される。リアルでの重用を目的としてネットを手段にすることは問題ない。ネットとリアルで文体が違うのは問題ない。リアルでできないことがネットはできるというのもある程度事実。しかし問題は「人なぶり」をネットならできると思いこむ人だ。これはまずい。

2014年9月7日日曜日

主イエスは罪を赦す権威を持っておられます

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂

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マルコによる福音書1・40~2・12

「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と行った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。』しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、イエスにおられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。『なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に言われた。『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」

今日お読みしました個所の最初に「重い皮膚病を患っている人」と書いてある聖書をお持ちの方と、「らい病を患っている人」と書いてある聖書をお持ちの方とがおられるかもしれません。

私が持っている何冊かの新共同訳聖書を調べてみました。1993年に発行されたものには「らい病を患っている人」と書いてありますが、2006年に発行されたものには「重い皮膚病を患っている人」と書いてあります。

いつ変更されたのか正確なことを私は知りませんが、解釈が変更されました。皮膚の病気であることには変わりありませんが、病気の種類を「らい病」と特定しないのが現在の新共同訳聖書の立場です。

その人が、イエスさまのもとに来て、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。「御心ならば」とは「もしあなたがそのことを願ってくださるならば」という意味です。この人自身も自分の病気が治ることを願っていました。しかしその願いがきかれない。他に頼る相手がいない。だからイエスさま助けてください。そのような切実な思いがこもった「御心ならば」です。

その願いをイエスさまがかなえてくださいました。「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」と書かれています。

これは奇蹟です。イエスさまがその人の体に触ってくださるだけで、その人の病気がいやされました。そのようなことは普通の人にはできません。イエスさまは特別なお方です。神の御子であり、救い主です。そのことをマルコはもちろん知っています。

しかし、続きに書かれていることが気になります。「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい』」。

イエスさまがおっしゃったのは他言無用ということです。口止めをなさいました。なぜイエスさまは口止めをなさったのでしょうか。この人自身が願い、またイエスさまが願ってくださって、この人の病気がいやされたのです。とてもうれしいことです。多くの人に知ってもらい、喜んでもらいたいことです。それなのに、イエスさまは口止めなさいました。なぜでしょうか。これは謎です。

謎はもう一つあります。重い皮膚病がいやされたこの人にイエスさまがおっしゃったことは、祭司に体を見せなさいということでした。この意味は何でしょうか。これは今のわたしたちには、ぴんと来ないことですが、当時の祭司の仕事と関係しています。我々に理解可能な言葉でいえば、市民権の問題であるといえます。

祭司の役割は、その人が清いかどうかを判断することです。清くない人は、市民権が保留されて他の人から遠ざけられていました。もちろん今でも、伝染病の場合は自宅待機、あるいは場合によっては隔離が必要です。しかし、当時で言う清いとか清くないというのは、医学的な意味というより宗教的な意味です。

当時の考え方として、病気の人は汚れているとされていました。罪の罰として病気になっていると考えられていました。それは宗教的な意味です。それは今でも同じようなことを言う人がいると思います。「罰があたった」というあれです。それは宗教的な意味です。その意味での清い人か清くない人かを判断するのが、祭司の仕事でした。

ですから、その意味では、重い皮膚病がいやされる前のその人がイエスさまのもとに来たこと自体が問題にされる可能性がありました。鍵のついた部屋に閉じ込められてはいなかったからこそイエスさまのところに来ることができたのだと思います。しかし、来る途中で他の人に見つかると大問題にされた可能性があります。それで、イエスさまはこの人が他の人から責められないように、口止めをなさったのかもしれません。

しかし、問題はそれだけではありません。ある意味でもっと大変な問題がありました。それはこの人がイエスさまのところに来たことの問題のほうではなく、イエスさまが御自分のところに来たこの人に触ったことの問題です。イエスさまがその人に触ることは禁じられていたことだったからです。

その人が清いかどうかを判断するのは祭司でした。祭司の許可なしに、その人に触ることは許されていませんでした。しかし、イエスさまがその人に触ったとき、当然のことながら祭司の許可など得ていません。ですから、イエスさまがその人に触ったことを、もし祭司に知られたら大問題になります。

我々の許可を得なければできないことをイエスはした。それは祭司の権威を否定することに等しい。そのような怒りを引き起こすことになったに違いありません。

事実、ここから先そういう展開になっていきます。イエスさまはこの人に「誰にも何も言うな」と口止めしたのですが、この人は黙っていることができません。

この人は口が軽い人だったというよりも、うれしかっただけです。その病気にかかっているかぎり、祭司の許可がなければ、人と付き合うことができない状態でした。とても寂しい気持ちを抱いていたに違いありません。そのような、ただ体が病気であるだけでなく、心に寂しさを抱えている人をイエスさまは憐れんでくださり、近づいてくださり、触ってくださったのです。

その人に触ることのために祭司の許可を得ることなど、イエスさまはお考えになりませんでした。そんなことはくそくらえだとお考えになったのです。そんなことよりも、この孤独な人に近づいてくださること、この人に触って病気をなおすことのほうを優先してくださったのです。

数日後、本質的には同じようなことが起こりました。

「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」と書かれている中の、カファルナウムの「家」はシモンの家です。

シモンの家にイエスさまが寝泊まりされるようになって以来、この家が一躍有名になりました。シモンの家に行けば、そこにイエスさまがおられ、いろんな病気を治していただけると多くの人が期待するようになりました。

それで「イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」というのです。

とんでもないことをする人たちが現れました。他人の家の屋根をはがすと、今なら器物破損の現行犯で逮捕です。当時はそうすることが許されたのでしょうか。そんなわけがありません。むちゃくちゃです。

しかし、イエスさまはその人たちのむちゃくちゃな行為に「信仰」を感じとってくださいました。これが重要です。

シモンの家はその日以来しばらくの間、屋根に穴が開いた状態になりました。そのこと自体は大問題です。しかし、このようなめちゃくちゃなことをしてでも、イエスさまのところに連れていきたい人がいる。その人の病気を治していただきたい。イエスさまに触れていただきたい。

熱烈な願いと祈り、そして信仰を、彼らの行為の中に、イエスさまは感じとってくださったのです。だからこそ、イエスさまは、その人たちの「信仰」を見て、中風の人に「あなたの罪は赦される」とおっしゃったのです。

しかし、それがどういう意味なのかが分からない、なぜイエスさまがそういうことをおっしゃったのかが分からないと感じた人たちが、そこにいた人たちの中にいました。数名の律法学者たちでした。

イエスさまの言葉を聴いた彼らは、それは神を冒瀆する言葉であると受け取りました。罪を赦すとか赦さないとか、そういうことを普通の人は言ってはならない。「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と彼らは考えました。

実はわたしたちにもイエスさまがこのときおっしゃったことの真意は分かりません。はっきりしているのは、「あなたの罪は赦される」とイエスさまがおっしゃった相手は、シモンの家の屋根を壊して病気の人をイエスさまのもとへつり降ろした四人の男の人たちではないということです。「あなたがたが他人の家の屋根を壊した罪は赦される」という意味ではありません。イエスさまがこのことをおっしゃった相手は、重い皮膚病にかかっていたその人です。

そのことは、律法学者たちも分かっていました。だからこそ、彼らは腹を立てたのです。そして、そのようなことを律法学者が考えたという点が重要です。イエスさまの言葉に限らず人が語る言葉が「神を冒瀆する言葉」であるかどうかを判断するのは律法学者の仕事だったからです。聖書の御言葉に照らし合わせ、それは神の御心にかなっているかどうか、神を冒瀆する言葉であるかどうかを判断するのが、彼らの仕事でした。

だからこそ、彼らはイエスさまの言葉を聴いて、すぐに不愉快になったのです。自分たちの権威を否定していると感じたのです。我々の許可も判断も得ないで、「あなたの罪が赦される」という言葉を口にするイエスの存在が赦せなかったのです。

そのようなことを律法学者たちが考えているということを、イエスさまはすぐに見抜かれました。というよりも、おそらくイエスさまは初めから分かっておられました。

祭司も然り、律法学者も然り、自分たちの権威が否定されたとか、自分たちが無視されたとか、そのようなことにはだれよりも敏感な人々でした。プライドが高いのです。だれの許可を得てそういうことをするのか、そういうことを言うのかと、すぐに腹を立てる。自分たちの領域がおかされることをだれよりも嫌う。イエスさまは、こういうことを言えば必ず彼らが起こすであろう反応を、初めから分かっておられたのです。

しかし、それでは、祭司たちが、律法学者たちが、病気の人をいやすことができたのかというと、そうではなかったわけです。イエスさまに文句を言いたいなら、自分たちが病気の人をいやしてから言え、と言いたくなるほどです。しかし、それはできないわけです。自分たちはその人をいやすことも助けることもできもしないのに、イエスさまが彼らの権威を否定するようなことをしたということばかりに敏感である。

イエスさまは、おっしゃいました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。これはどちらが易しいのでしょうか。これは、この個所を読むたびに、必ず問題になることです。正解はどこにも書いていません。どちらであると考えることもできます。

ただし、見落とされやすい点がありますので、注意しなくてはなりません。それは、イエスさまが比較しておられるのは「『あなたの罪は赦される』と“言う”こと」と「『起きて、床を担いで歩け』と“言う”こと」であるという点です。イエスさまがおっしゃっているのは、どちらの言葉を“言う”ことのほうが易しいかという問いかけです。「人の罪を赦すこと」と「その人の病気をいやして歩けるようにすること」との比較ではありません。

これはわたしたち自身のこととして考えてみれば分かることだと思います。

わたしたちは、だれかの病気を治すことができるでしょうか。病気で寝込んでいる人に「起きて、歩きなさい」と言うだけなら簡単かもしれません。しかし、そのように言えるだけの健康な状態にしてあげることができるでしょうか。医師の方ならできることかもしれませんが、みんなが医者になれるわけではありません。

しかしまた、イエスさまがなさったのは奇蹟です。現代の医療行為とは異なることです。わたしたちは奇蹟を起こすことができるでしょうか。それは難しいことではないでしょうか。

病気をいやしたり、奇蹟を起こしたりすることよりも、「あなたの罪は赦される」と言うことのほうが、はるかに易しいことではないでしょうか。それも言ってはいけないでしょうか。それは神を冒瀆することでしょうか。

今日も礼拝の中で先ほど「罪の告白と赦しの宣言」をしました。一同で「罪の告白」をし、牧師が「罪の赦しの宣言」を読み上げました。あんな牧師の口から「罪の赦しの宣言」など聴きたくないと思われる方がおられると思います。牧師は罪人です。私は罪人です。「あなたの罪は赦される」などと言える立場にはありません。口にするのも畏れ多い言葉であることは確実です。

しかし、「あなたの罪は赦される」という言葉をわたしたちは言ってはいけないでしょうか。それは神への冒瀆でしょうか。それほど目くじらを立てなくてはならないことではないのではないでしょうか。もしその言葉を聞くと慰めを感じるという方がおられるのであれば、あまり遠慮せずにどんどん言ってあげたらいいのではないでしょうか。

イエスさまは、家よりも、祭司や律法学者の権威よりも、人の命を優先されました。しかしイエスさまの前には逆の人たちがいたようです。人の命よりも、家のほうが大事。人の命よりも祭司や律法学者の権威のほうが大事。そのような人たちにイエスさまは挑戦的に立ち向かっておられるのです。

(2014年9月7日、松戸小金原教会主日礼拝)

2014年8月27日水曜日

牧師が一生の間に書きのこすことは何か

だれでもカール・バルトになれるわけではないし、なる必要もないが、日本語版『カール・バルト著作集』と『教会教義学』(いずれも新教出版社)を見ると、一人の牧師・神学者が一生の間に書きのこすことにはどのようなことがあるかについて、そのほぼ全貌を知ることができる。これは大いに参考になる。

日本語版『カール・バルト著作集』は次のような構成になっている。教義学論文集(第1~3巻)、神学史論文集(第4巻)、倫理学論文集(第5巻)、政治・社会問題論文集(第6~7巻)、単行本として出版されたもの(第8~15巻)、説教集(第16~17巻)。第18巻書簡集は刊行されなかった。

『カール・バルト著作集』の第8~15巻を「単行本として出版されたもの」と書いたが、ざっくりまとめすぎたかもしれない。第8~10巻が教義学関係、第11~13巻が神学史関係、そして第14~15巻が聖書注解。このように日本語版著作集は論理的に美しく整理されている。編集者の腕の見せ所だ。

しかし、今書いていることの趣旨は神学の中身を詳細に分類することではない。むしろ逆にできるだけ大づかみに考えたい。『カール・バルト著作集』の教義学論文集、神学史論文集、倫理学論文集、また単行本の教義学関係、神学史関係、聖書注解までをすべて「神学論文」の一言でまとめておくことにする。

ここで考えるべき問題は、第6~7巻の「政治・社会問題論文集」と第16~17巻の「説教」をどのように分類すればよいかだ。「説教」が「神学論文」とは区別されることは大方の了解は得られると思うが、難しいのは「政治・社会問題論文集」と「神学論文」の関係だ。区別すべきか、すべきではないか。

異論はあるだろうが、結論を早めていえば、「政治・社会論文集」と「神学論文」は区別するほうがいいだろうと私は考えている。また、日本語版著作集では刊行されなかったので忘れそうになるが、第18巻「書簡集」もカテゴリー的に区別されて然るべきだろう。

さらに、巨大なる『教会教義学』のすべても「神学論文」に数えてしまうことにする。今しているのは大雑把な話だ。したがって、カール・バルトの生涯全著作は、ざっくり分ければ四種類になると私は考える。第一は「神学論文」、第二は「政治・社会論文」、第三は「説教」、そして第四は「書簡」である。

カール・バルトの「神学論文」と「政治・社会論文」を区別すべきかどうかが難しいのは、どちらの問題を考えるときもバルトの発想方法は一貫しているからだ。神学論文を書くときのバルトが「神学的に考えている」のは当然だが、政治・社会論文を書くときのバルトも、同じように「神学的に考えている」。

しかし私はやはりバルトの「神学論文」と「政治・社会論文」は区別するほうがよいと考える。理由は日本語版著作集「政治・社会問題論文集」(第6~7巻)の内容をご覧になると、ある程度理解していただけるはずだ。すべてではないが、かなり多くが「手紙」として書かれている。内容は時事問題である。

「時事問題」を軽んじる意図は私には皆無である。それだけは言っておきたい。しかし、実際には「時事問題」を扱っているバルトの「政治・社会論文」と「神学論文」(教義学、神学史、倫理学、聖書注解など)は一緒くたにしないほうがいい。ごちゃ混ぜにすると、まぎらわしいし、ややこしい。

バルトの場合、「神学的に考えている」という点では「説教」も「書簡」も同じだ。神学論文も、時事問題(政治・社会問題論文)も、説教も、そして(私的)書簡も、どれを書くときのバルトも常に「神学的に考えている」。それほど一貫した発想方法の持ち主だった。それだけは間違いない。

しかし、今書いているのはカール・バルトの場合に限った話だ。彼の全著作を四つに分類できる、第一は神学論文、第二は時事問題(と言い換えよう)、第三は説教、第四は(私的)書簡であると、このような順序で整理するのは、大学教授としてのバルトを考えているからだ。

バルトには、大学教授になる前、教会の牧師だった時代がある。牧師時代のバルトも、神学論文も、時事問題も、説教も、書簡も書いていた。しかし、「重要度」を言いたいのではないが、牧師の働きとしての「優先順位」をあえて言うとしたら、説教、書簡、時事問題、神学論文の順ではないだろうか。

そろそろまとめよう。バルトの生涯著作は雑に分ければ四種類になるという話をしてきた。最後に書いた「牧師的順序」でいえば、説教、書簡、時事問題、神学論文を書いた。それはバルトだけではなく、多くの牧師・神学者が同じようなことを書いてきた。昔から今に至るまで、そしてこれからも。

今の牧師・神学者は、かなり多くの人がネットを利用している。説教と時事問題はブログで、書簡はメールで、神学論文はPDFで書いたりしている。メールは原則非公開だが、各情報がばらばらにならないように、FacebookやTwitterのタイムラインに貼り付けて、時系列的に整理している。

牧師がネットを利用することに違和感を表明されることがいまだにあるのは私にとっては残念なことだが、こればかりは理解していただくほかはない。今の牧師たちが書いている内容は、過去の多くの牧師・神学者が書いてきたことと基本的に全く同じなのだ。説教、書簡、時事問題、神学論文である。

私の文体がしばしば「ちゃらい」のは、以前も書いたことがあるが、意図的な文体研究上の工夫をしているだけであって他意はない。いばるわけではないが、私はTPOに合わせて文体を使い分けることが苦手ではないほうだという自負がある。読者を想定しながら、できるだけ読みやすい文章を心がけている。

いちばん困るのは、今の高校生や大学生くらいの世代の方々に読んでもらえないかと自分で工夫して書いたつもりの文章を、70代80代くらいの人たち(私の親の世代ですな)が見て「牧師のくせにこんなふざけた文章を書くとは、けしからん」とか言い出されることだ。マジで参ります。やめてください。

最後は私の愚痴になりました。まあお許しください。

2014年8月21日木曜日

「日曜学校好景気」の理由は何だったのか

私は社会学を専門的に勉強したことがないので研究方法が分からないが、戦後から1970年代初頭までの日本の教会の日曜学校に子どもが大勢集まっていた理由を正確に知りたい。当時の「日曜学校好景気」との比較で、今の教会の「不振」がずっと責め続けられてきた。もう40年以上前のことなのに。

「あの頃の日曜学校は毎週100人以上いた(のに、今は...)」という話を何度聞かされたことか。私は40年前の「日曜学校好景気」を覚えている。忘れられるわけがない。あれほどたくさん集まっていた日曜学校と教会から、一人また一人と、去っていく人の後ろ姿を40年以上ずっと見てきたからだ。

私は牧師の子弟ではないので、牧師になる前は基本的に、日曜日と水曜日の夜の教会しか知る由もなかった。しかし、だからこそはっきり分かる面もある。40年かけて、教会と日曜学校からだんだん人がいなくなった。特定の教会の話ではない。日本国内の「社会現象」として、そういう流れがあった。

私は40年前は日曜学校の生徒だったので、来なくなった子どもたちの気持ちや理由は、わりと手にとるように分かる。塾、そろばん、習い事、町内会の野球、サッカー、学校のクラブ、部活。そしてとにかくテレビ。特撮ヒーロー、アニメ。これでもかこれでもかと日曜日に「お楽しみ」が集中する。

級友たちが日曜日を「楽しく」過ごしているのを横目で見ながら教会に行く間、しきりと考えていたことは、「何が悲しくて私は教会に行くのか」ということだった。これは後からとってつけた話ではなく当時の本心だ。だから日曜学校に来なくなった子どもたちの気持ちや理由はかなり分かっているつもりだ。

だけど、今の私が知りたいのは当時の子どもたちの気持ちの側ではない。戦後から1970年代初頭までの日本の教会の「日曜学校好景気」の正確な理由を知りたい。いやらしい言い方をお許しいただけば、政治的誘導はあったような気がする。しかし、それが無くなった。そのあたりの事情を知りたいと思う。

2014年8月17日日曜日

主イエスは漁師たちを弟子にしました

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
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マルコによる福音書1・16~28

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。』イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広がった。」

先週からマルコによる福音書を読みはじめました。

この福音書にはイエスさまがお生まれになったときのことや子どもの頃のことが書かれていません。いきなり大人のイエスさまが登場します。他の福音書のように、結婚する前のマリアからお生まれになったとか、そのことを天使が知らせたというような、出生についての神秘的な説明はありません。ヨハネから洗礼を受けて、神の国の福音を宣べ伝える伝道者になられたところから始まっています。

その理由を考えてみました。あくまでも一つの可能性です。マルコはわたしたちと同じ人間としてのイエスさまを描こうとしています。わたしたちと同じ普通の人間としての、伝道者としてのイエスさまを描こうとしています。

もう一つのことを申し上げておきます。わたしたちが伝道の働きに就くときにも「模範」とすべき存在が必要です。だれを模範にするかは自由です。身近な教師や長老かもしれませんし、外国人かもしれませんし、歴史上の偉人かもしれません。しかし、教会の歴史を最後までさかのぼって、イエスさまを模範にすることも可能です。

イエス・キリストは神の御子であり、御子なる神であり、救い主である。その方を模範にすることは神の御子を人間的な次元に引きおろすことになるのではないかという心配は御無用です。マルコはイエスさまをわたしたちと全く同じ地平に立つ人間存在として描いています。そのように描くことができるのは、イエスさまとわたしたちには共通点があるからです。もし共通点があるのなら、わたしたちはイエスさまを「模範」にしてもよいのです。

今日お読みした個所に記されているのは、伝道者になられたイエスさまが最初になさった仕事です。それは御自分と一緒に働く伝道仲間を集めることでした。

もちろん彼らはイエスさまの弟子になりました。彼らは弟子です。しかし、彼らはイエスさまと一緒に伝道しました。それが大事です。彼らは見ていただけではありません。彼らも働きました。その意味で彼らはイエスさまの伝道仲間なのです。

しかしまたそれは、すべての福音書の結末を先取りして言えば、イエスさまが十字架におかかりになって地上の生涯を終えられた後、伝道を続ける人を選ぶことでもあったと考えることができます。これは大げさな言い方ではありません。イエスさまの弟子集めの理由は、御自身が死ぬためでした。イエスさまは死んで彼らに伝道を任せる。イエスさまは伝道の後継者をお選びになったのです。

イエスさまが最初に声をかけたのはガリラヤ湖の漁師たちでした。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」(16節)。「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(19節)と記されています。

最初に出てくる「シモン」が、後のペトロです。ペトロはイエスさまがお付けになった名前です。他の書物に出てくる「ケファ」も同一人物です。「ペトロ」も「ケファ」も、その意味は「岩」です。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16・18)とイエスさまがおっしゃった、教会の土台となる固い岩です。

このようにしてイエスさまは、ガリラヤ湖の漁師たちを伝道仲間にしました。イエスさまは彼らの姿を御覧になったのと同時に、彼らの漁師としての仕事ぶりを御覧になりました。そのイエスさまが彼らに次のように言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)。

もちろん人間は魚ではありません。人間は人間です。そのことはイエスさまも分かっておられます。イエスさまがおっしゃったことは、あくまでもたとえです。あなたがたはいま、漁をしている。そのあなたがたの力と技術を、伝道のために用いてください、とおっしゃっているのです。

シモンとアンデレは、イエスさまの呼びかけにすぐに応じました。「二人はすぐに網を捨てて従った」(17節)と記されているとおりです。潔い決断だったという印象を受けます。彼らが決断したことは、転職です。仕事を変えること。漁師の仕事をやめて伝道の仕事に就くことです。

彼らが転職する決断に至った理由はひとえに、イエスさまの呼びかけに応じたいと思ったからです。漁師の仕事に不満があったとか、別の仕事をしたいと願っていたということではありません。

ただ、イエスさまは、漁師の仕事と伝道の仕事との間に共通点を見出しておられます。だからこそイエスさまは彼らに「人間をとる漁師にしよう」とおっしゃったのです。彼らのほうも、イエスさまからそのように言われて納得したのです。イエスさまの言葉を聞いて、漁師の仕事と伝道の仕事との間には共通点があるということに気づいたのです。だから、すぐにイエスさまに従うことができたのです。仕事上の経験や技術が応用できる。そのことを、彼らが理解したのです。

どこが似ているのでしょうか。手がかりは聖書に書かれていることだけです。それはイエスさまが彼らに言われた「人間をとる漁師にしよう」という言葉です。しかし、原文を見ますと、「をとる」は新共同訳聖書による補足だと分かります。原文には「人間の漁師」(ハリエウス・アントローポーン)と書かれているだけです。

それではイエスさまはやはり、人間は魚に過ぎないとおっしゃっているのでしょうか。人間などは、網を張り、罠を仕かけてごっそりかき集めるだけの獲物だとおっしゃっているのでしょうか。

もちろん違います。イエスさまはそのようなことをお考えになる方ではありえません。別の意図を考えなくてはなりません。しかし手掛かりは聖書に書かれていることだけです。聖書の中をいろいろと探してみる必要があります。

見つかりました。旧約聖書の次の御言葉です。「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる」(エレミヤ書16・16)。

考えられることは、イエスさまはこのエレミヤ書16・16の御言葉を念頭に置かれながらガリラヤ湖の漁師たちに声をおかけになったということです。その可能性は十分あります。イエスさまはいつも旧約聖書の御言葉を心にとめておられました。

そして、このエレミヤ書の御言葉で重要なのは、漁師の働きについては「彼らを釣り上げること」と言い、狩人の働きについては「彼らを狩り出すこと」と言っていることです。この「彼ら」とは、神の民イスラエルのことです。神が、御自身の御国を与えると約束された民です。

新共同訳がとても上手に訳しているのは「釣り上げる」とか「狩り出す」という言葉です。「釣る」と「上げる」、また「狩る」と「出す」を複合した言葉で訳しています。これによって複合的な動きを表現できます。「釣る」だけではなく「上げる」のだ。「狩る」だけではなく「出す」のだ。

そして、この「釣り上げる」とか「狩り出す」という言葉でエレミヤが言おうとしているのは、人を罪と悪の中から救い出すことです。「救出」です。

「人間をとる漁師にしよう」とイエスさまがおっしゃったとき、このエレミヤ書の御言葉を念頭に置いておられたと考えることができます。その意味は、人を罪から釣り上げる、救い出す、救出する漁師にしよう、ということです。

今日は次の段落まで読みました。イエスさまと弟子たちがカファルナウムに到着し、安息日に会堂で説教されたときのことが書かれています。そのとき、会堂にいた一人の男性が大声でイエスさまに向かって叫んだというのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(24節)。

わたしたちならどうでしょうか。この人は「汚れた霊に取りつかれた男」(23節)と呼ばれています。会堂でイエスさまが説教しておられる最中に大声で叫び、集会を妨害しました。他にも人が集まっている場所です。そのような人は出て行ってもらうべきでしょうか。そうしなければ他の人々の迷惑になります。集会の秩序が保てません。もしかしたら私もそのように考えてしまうかもしれません。

しかし、イエスさまはこの人を会堂から追い出されませんでした。「黙れ、この人から出て行け」と、この人に取りついていた汚れた霊をお叱りになりました。すると、汚れた霊はこの人から出て行った、というのです。

この場にいた人々は皆、驚きました。「これはいったいどういうことなのか。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(27節)。イエスさまの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まりました。

イエスさまがなさったことは何でしょうか。この人の中から汚れた霊を追い出すことでした。霊が出て行った後、その人はどうなったでしょうか。もちろん、正気に戻ったのです。

実は、これが「救い」です。そして「救出」です。

今日、二つの段落を続けて読んだのは、両者が関係していると思えたからです。「人間をとる漁師」の仕事は、人間を罪と悪から救い出すことです。「人間を罪と悪から救い出す」とは、人間の中にすみついている汚れた霊を追い出すことです。これは同じことを意味しています。

そして、罪と悪が出て行った後の人間は、正気に戻るのです。「人間」そのものは、罪でも悪でもないのです。

イエスさまの「伝道」とは、人間を罪と悪の中から救い出すことでした。その仕事をイエスさまは伝道仲間と一緒にお始めになったのです。

(2014年8月17日、松戸小金原教会主日礼拝)

2014年8月11日月曜日

うちの岩波文庫が292冊になりました


「面白くない」とか言いながら、また落札してしまった。岩波文庫、292冊目。まだまだ。

関口康蔵書 岩波文庫一覧(2014年8月11日現在)

うちの岩波文庫が292冊になり、他にも大量に本がある中で考えさせられるのは「現代はたくさん本がある」ということだけではない。2千年前の人にも、その人にとっての2千年前の人たちがいたし、それ以降の人たちがいた。その人たちが考え、話し、書いた言葉は、残ってないが、大量に存在したのだ。

もちろん本を書く人たちの、はっきり言えば実力差は、歴然としてある。これは否定しないでおく。字を書き、本としてまとめることをなめてはならないと思うからだ。時間とお金があれば本の形にすることはできよう。しかし、駄作は確実に淘汰される。ただ、本の形でなくても、思想の伝達は可能である。

脱線しそうになった。我々にとっての過去の人たちが書き残した大量の字と本の中に、読み継がれるべき重要なものと、あまり価値のないものとがある、と言いたかった。キリスト教史にも古代ではこの人、中世ではこの人、宗教改革期ならこの人、現代ではこの人と名指されるキーパーソンは間違いなくいる。

だが、錯覚の罠にかからないようにしよう。そんなトラップ踏みは私だけかもしれないが、歴史のキーパーソンだけの本を読んで、あたかも歴史のすべてが分かったかのような気になってしまう罠。有名人の本だけを読むことが悪いとは言えない。しかし歴史は有名人だけのものではない。無名な苦労人もいた。

人の存在の貴賎を言いたいのではない。本を書く人たちに実力差が歴然とあることは否定できないと言いたいだけだ。その意味での(その意味だけでの)主役と脇役が歴史にはいたと言える。うまく書ける人と、そうでない人がいた。うまく書ける人は、歴史の事実を(その人の観点や価値観から)書き残す。

私は何を言いたいのか。2千年前の人にも、その人にとっての2千年前やそれ以降の人がいた。その人たちの思想や言葉は、本の形でなくても伝達可能。私が考えるのはたとえば使徒パウロ。パウロの家に書斎があったら、パウロの手元にネットがあったら多種多様で大量の情報があったに違いないと思うのだ。

紙媒体の本を購入し、リアルの書斎のリアルの本棚に並べ、背表紙を毎日見ながら生活することは、それらの本を書いた人たちのリアルプレゼンスを実感できるきっかけにはなる。私の部屋の中に、多くの神学者や聖書学者、哲学者や社会学者がいる。そう言い切るとかえって怖いが、そうだと感じなくもない。

2014年8月6日水曜日

日記「ジンメルの『哲学の根本問題』がアツい!」


ゲオルク・ジンメル[1858-1918]の論文「哲学の根本問題」(1910年)を読んでいます。

いやもう、これはホントに「かゆいところに手が届く哲学」です。まるで十把一絡げの大雑把な議論で構成された「分かりやすい」売れ筋系の哲学を、鬼の形相で睨みつけていた人ではないかと空想します。

以下、引用。

「このような意味に解すれば、自己保存衝動によってわれわれのすべての意欲を統合することは、人間のいわゆる幸福衝動による統合よりもはるかに深いもののように私には思われる。人間は結局のところ快楽以外のものを求めはしないという主張は、ごく浅薄なシニシズムから生じてくることもあるし、またすぐれて社会的、否、社会主義的な性格のきわめて高貴な道徳の根底として利用されてもきたということは、興味のないことではない。おそらく、幸福主義的心理学のこの二つの担い手が合致するということは、この心理学が心的事実の個別的本質を見逃しているということを示唆しているのであろう。というのは、社会主義的教義が少なくともいまここで問題となっている形ではそうであるように、シニシズムの決定的思想傾向も一つの平準化的傾向であるからである。シニシズムは、諸事物の差異はみなひとしく無価値であり無意味であるとして、諸事物の本来的差異を否定してしまう。差異を認めることは不可避的に価値の差別を認めることになるというのである。シニシズムはいかなる価値をも認めないのだから、どうして価値の差別などを認めることができよう。しかしながら、心的諸事実の個別性に対する徹底的な無関心なしには、これらの事実をそれ自体無差別な幸福衝動ないし快楽衝動に還元することは不可能である。けれどもまた、そのような無関心をもってしては、この還元はまったく無内容なものとなる。なぜなら、学問的な、あるいはその他の客観的目標への労苦多い献身と気楽な享楽生活が、また政治的ないし宗教的な信念のための殉教的行為ときわめて卑怯な悪意や奸計が、また限りない犠牲と無際限な我意が、とにかくみなただ快楽という唯一究極の目標を追いかけていると言うのは、まことに抽象的な言い分であり、このように対立しているものすべてに対して同じ態度をとるためには、個々のものを高く超え出てゆかねばならず、かくしてもはや特殊な内容はまったく見えないことになるからである。」(「哲学の根本問題」『ジンメル著作集』第6巻p. 176-178

私なら「人間をバカにするのもいいかげんにしろ!」と声を荒げてしまいそうな場面で、ジンメルはぐっとこらえて、あくまでも理詰めで反論している。しかし、内なる情熱を隠さずにはいない。そのような文章だと思いながら読んでいます。

引用したジンメルの言葉を噛み砕くのは難しいですが、真面目に生きている人と不真面目に生きている人を「差別はいけない」の殺し文句で均等扱いしたうえで、「結局人間は快楽のために生きてんだよ」的に嘯く、キザと言えばキザ、バカと言えばバカなことを言う連中と対決している文章だと思います。

2014年8月5日火曜日

日記「ジンメルの『哲学の根本問題』を読みはじめました」


ゲオルク・ジンメル[1858-1918]への関心が私にあるのは、神学者ファン・ルーラー[1908-1970]がヒムナシウム時代に(!)カントの「純粋理性批判」やジンメルの「哲学の根本問題」を友人ザイデマと一緒に読んでいたという事実を、ファン・ルーラーの側の伝記で知らされたからだ。

それで昨日とうとう、ジンメルの「哲学の根本問題」日本語版(生松敬三訳)を入手した。ファン・ルーラーの伝記を最初に読んだのは1997年だ。お恥ずかしながら17年前どころか最近まで日本語版『ジンメル著作集』の存在すら知らなかった。にわかと言うなかれ。私の関心はファン・ルーラーにある。

しかし、昨夜から読みはじめたジンメルの「哲学の根本問題」(生松敬三訳)が面白い。哲学書にこれほど興奮するのは初めてかもしれない。実感するのは「かゆいところに手が届く哲学」だということだ。またファン・ルーラーへの影響関係もわりとはっきり分かる気がする。これはすごいことになってきた。

ジンメルの生い立ちや活動などはネットに書いてあることくらいしか私は知らない。深入りしたいとはあまり思わない。しかし、だらだら無駄話をしているようでは決してない硬質で簡素な哲学の文面に、哲学者としてというよりむしろ生活者としての「苦労」が滲み出ている。こんな哲学を読むのは初めてだ。

ジンメルはたとえば次のように書いている。

「芸術への長い献身的な求愛はあの芸術作品の内面的な追創造(ナッハシャフェン)による理解でもってはじめてむくいられるのと同じく、哲学体系の抽象的で硬直した概念は、長いこと哲学体系に心を砕き、その深部での興奮を求めて努力した者の眼にのみ、概念内部の激しい動き、そこに息づいている世界感情の広がりを開いて見せてくれる。こうした内部的過程の生動性は哲学にあっては概念という結晶形態をとっているわけだが、哲学をこの内部的過程から理解すること―このような理解を容易ならしめるという仕事を、もし私の思いちがいでないとすれば、これまでの哲学史叙述はあまり問題としていない。むしろ、ふつう哲学史は思考の諸成果の最終的な、いちばん明確なものを叙述している。ところが、そうした論理的に完結した形態は、創造過程の生き生きと連続した流れからはもっとも遠くはなれたものなのである。」『ジンメル著作集』第6巻p9-10

私は哲学に関心はあるが、深いことは分からない。神学のことなら少し分かる。神学はもっとひどい。そのように上のジンメルの言葉を読んで思った。「聞きたいのは結論だけだ。プロセスの長い説明は時間の無駄だ。正解を簡潔に述べよ」。他ならぬ教会が、神学にその程度の期待しかしなくなっている。

ファン・ルーラーの神学は違う。徹底的にプロセスとディティールにこだわる神学だ。講義中のファン・ルーラーはいつも輝くような笑顔で話していたらしい。しかしそれでも学生にとっては鬼のように怖い、小うるさい先生だったようだ。体系を守るためにディティールを犠牲にするようなことを嫌ったからだ。

そのようなファン・ルーラーのスタンスにジンメルの影響がどれくらいあるかは分からない。ファン・ルーラーの伝記に書いてあるのは、ヒムナシウム時代にジンメルの「哲学の根本問題」を読んでいた、ということだけだ。しかし、ジンメルとファン・ルーラーは同一の方向を向いていると私は思う。