2014年9月8日月曜日

考える葦よ、ネットに書いて書いて書きまくれ


前に同じことを書いた気がするが、別に構うまい。私は昔から全集とか著作集とか「セットもの」を集めてきた。文庫や新書も番号順に並べたりする。番号を揃えるためだけに、あまり興味ない本でも買う。学生寮の同室者から「きみはセットものが好きなんだね」と笑われたことを30年くらい忘れられない。

学生時代の私はなぜ「セットもの」を集めたいと思うのかを説明できなかった。でも今は少し違う。全集や著作集が出ている著者の本は、全集や著作集として「も」買うべきだと思う。全集や著作集にはやはり本としての完成形がある。少なくとも著者自身や編集者が目指してきたその本の究極進化形態がある。

加えていえば、「セットもの」を全部揃えることや、文庫や新書の同じ著者のものはできるだけ揃えることは、一人の著者の思想の全貌を可能なかぎり見通すために役に立つ。著者自身の「文脈」を知ることができる。そもそも「文脈」があることが分かる。「その本は何のために書かれたのか」が見えてくる。

私の書斎にある全集や著作集の著者は、どなたも昔の方々ばかりで、ネット時代に属する方はいない。ルターやカルヴァンの時代にtwitterやfacebookがあれば、彼らは当然利用しただろう。ネットだからといって手を抜かず、丁寧に慎重に書いただろう。ネットでも文章がうまかっただろう。

「ブログやtwitterやfacebookは一切使わない。ネットに字は書かない。だけど、紙の雑誌や本の原稿なら書く」という人は、「映画には出演するが、テレビドラマやバラエティ番組には出演しない」という俳優・女優にたぶん似ている。ご自分が高倉健レベルだとお思いなら、どうぞご自由に。

複数の著者の紙の全集や著作集を長年集めてきて分かることは、どんなに偉大な著者でも、一生の著作物は縦に積めば1メートル位までだということだ。収録作品の多くは「商品」として書店に並んだものだが、未発表のものが含まれている場合もある。しかし、それらを含めても、せいぜい1メートル位だ。

だが、ここから先が私の言いたいことだ。かつては、どんなに偉大な著者でも、一生の著作物は、縦に積めばせいぜい1メートル位だった。しかし、今はどうだ。ブログやtwitterやfacebookに一人の人が一生書く文章をすべてプリントした紙を縦に積んだら、1メートルどころじゃないだろう。

今の人は昔の人より饒舌になったのだろうか。そんなことはないだろう。昔の人だって多くのことを考え、書き、語っていただろう。ただ、それが残っていないだけだ。保存できなかっただけだ。使徒パウロが一生の間に1メートル位の紙の著作物を書いたかどうかは分からない。そう、「分からない」だけだ。

我々がブログ、twitter、facebookに書くすべてを(紙での出版なしに)指して「これが我々の著作集だ」といえば笑われるだけだろう。しかし過去の偉大な著者の著作権が切れた文章が、今やネットで無料公開されている。我々の「ネット著作集」は、途中のプロセスを省けば、それと同じだ。

思想の伝達経路のかつてと今を強引に単純化して比較すれば、かつては著者→鉛筆→紙→活字→印刷機→本屋→読者→著作権消失後はネットで永久保存、だったが、今は著者→ネット→読者(→たまに紙の本として出版)→ネットで永久保存、であろう。紙の本は「不要」とは思わないが、「ほとんど不要」だ。

考える葦よ、ネットに書いて書いて書きまくれ。字を書くことに、遠慮も躊躇も要らない。文章の価値は著者ではなく読者が決める。身近な人や今の人は評価してくれないかもしれないが、後代の人がきっと評価してくれる。我々が遺した言葉の中の価値あるものを、ネットの海の底からサルベージしてくれる。

だからこそ私は強く思う。ネットだからといって手を抜くな(ただし訂正は可能だ)。無作法するな。人をなぶるな。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、むさぼるな。文章の「品格」とは難解で典雅な言葉を多用することではない。その文章に表れる著者自身の内面的なグロテスクさの程度の問題だ。

ネットで「品格」を守る人はリアルでも重用される。リアルでの重用を目的としてネットを手段にすることは問題ない。ネットとリアルで文体が違うのは問題ない。リアルでできないことがネットはできるというのもある程度事実。しかし問題は「人なぶり」をネットならできると思いこむ人だ。これはまずい。