2013年11月7日木曜日

「現代人に納得できる教義学」を求めて(1)

ぼくくらいの年齢になれば、全く新しいことを考えて書くことよりも、「事実上長年それを続けてきたが、しかし、それを字に書いてまとめたことはまだない」というようなことを、字に書いてみるという感じのことのほうが多くなってくるのではないかと思います。

実は、また新しい論文を書こうとしています。

具体的にどのような論文を書こうとしているかについては、まだ十分には考え抜いてはいませんが、キリスト教の教義学の方法論に関することになるだろうと言っておきます。

早い話にしてしまえば、「現代人に納得できる教義学」です。キリスト教の教義をビジュアルに表現するとどうなるか、というあたりが特にツボです。

というようなことを、若い友人の牧師と夜遅くまで話していました。ぼくが気になるのは「天使」とか「キリストの昇天」などです。「復活」は微妙です。

ぼくの問題意識は、たとえば映画やアニメでそれらを表現する場合、わりと従来なされてきたように、SFチックな描き方で本当によいのだろうかということです。

古い教義学は聖書の出来事を「超自然」(スーパーナチュラル)と表現します。しかし、それを映画やアニメで表現すると、やたら荒唐無稽になります。そういう映画やアニメを見れば見るほど、あまりにもアホらしく感じて愛想をつかす人が続出します。スペクタクルな描き方であればあるほど信仰の対象になりにくいです。

「『復活』は微妙です」と書いたのは、復活の事実性を否定したくないからです。だけど、キリストの復活や人類の復活を、ゾンビのように墓穴からズズズと這い出てくる血まみれの死体のようなものをイメージすべきとは、たぶんだれも考えていない。だけど、だったら何をイメージすればいいのでしょうか。

ぼくのイメージする「現代人に納得できる教義学」の20世紀的前例はブルトマンの「非神話化」です(ブルトマンは教義学者ではなく聖書学者ですが)。聖書は古代の神話的表象で書かれているが、現代人はそれを受け継いでいない。現代人に固有の表象へと聖書を「翻訳」しなおすことが「非神話化」です。

しかし、どうでしょう、20世紀においてブルトマンの「非神話化」は聖書学の枠内にとどまってしまい、教義学の刷新には至らなかったのではないでしょうか。「聖書学VS教義学」という不幸な対立図式もありました。しかし、今は21世紀です。「非神話化された教義学」が求められていないでしょうか。

一例:「イエスは聖霊によって、肢である私たちに、天の賜物を注いで下さいます。聖霊降臨は、イエス昇天後の神の恵みの第一の現われです」。

これは、ある文章を分かりやすく解説するのを目的として書かれた文章です。しかし今日では、この解説文を分かりやすく解説する文章が必要であることは明白です。

平たく言えば、言葉が足りていないと言わざるをえません。解説が解説になっていない。今日では意味不明の文章の解説文を、今日では意味不明の単語やセンテンスを用いて書いている。それを読んだり聞いたりする側の人に理解できないことは当然であるばかりか、おそらく語る者も意味を理解していない。

英英辞典というのがありますよね。オランダ語にも蘭蘭辞典あります。日本語で言えば、国語辞典。同じ言語の中でより難解なほうの言葉をより平易な言葉で解説している辞書。どれもとても便利なものです。しかし、時々「解説になっていない解説」がありますよね。ちょっと笑ってしまうようなケースです。

「A」という単語があり、その意味解説のところに「B」と書いてある。つまり、「AはBである」と説明されている。しかし、「B」の解説内容がイマイチよく分からない。それで同じ辞書の「B」の項をめくってみると、その解説文に「BはAである」と書いてある。つまり、何の解説もできていないのだ。

同じようなことが、従来のキリスト教教義学の中で繰り返されてきたと、ぼくは考えています。一方に「AとはBである」と書いてある。そのBの意味が分からないのでBとは何かを同じ本の中で調べてみると、「BとはAである」と書いてある。結局AもBも意味不明のままである。ケムに巻くとはこのことを言うのです。

意味不明の言葉で意味不明の言葉を解説すべきではありません。それは読者を迷路に陥れるのを楽しむタイプの人の趣味かもしれませんが、それは一種の異常心理のようなものです。そんなのは「解説」ではありません。それは当たり前のことなのだけど、そういうことを堂々とやっている人を見ると、ぼく的にはぞっとします。

「解説」というのは、読者に理解できない言葉を、理解できる言葉へと置き換えることでなければ、無意味ですよね?

教会の説教が「聖書の解説」という側面を持ち、教義学が「古代宗教思想の現代語での解説」という側面を持つのであれば、それは現代人に理解できる言葉で書かれる必要がありますよね?

「神学者の哀歌」というタイトルの本を書いてみたいです

嗚呼、堂々めぐり。

神学者の生涯とか、その神学者の著作を紹介しようとする場合、

「本がたくさん売れた!」とか「時代を動かした!」とかみたいな

サクセスストーリーっぽいのなら、ある意味で書きやすいわけです。

サクセスでなくても、アンサクセスストーリーであっても、

とにかく「動き」があると紹介しやすいです。

ですが、神学者は思想家なのだと思います。

「実践を伴わない思想」は見向きもされないのかもしれませんが、

その批判にあまりにも強迫観念を持ちすぎて、

「書斎に不在の思想家」ばかり増えてしまうのは、どうなのでしょうか。

「他人の本を読まない神学者」とか、ちょっと笑ってしまいます。

神学者は書斎に引きこもることを恥じるべきではないでしょう。

あなたがそれを恥じると、他のだれも書斎に引きこもれなくなりますよ。

しかし、「思想」でサクセスするというのは、よほどのことです。

「思想家のサクセスストーリー」というのは、世にも恐ろしい話です。

ファン・ルーラーのことを考え続けています。

彼にはサクセスストーリーがないんですよ。だから困っています。

ヨーロッパのキリスト教国家体制がどんどん崩壊していく最中で

オランダの国立大学神学部教授として「神学」を守るため奮闘しました。

しかし、それは

全体的で長期的で不可逆的な下降線の中での最終防衛戦のようなもので、

結果は敗北でした。彼の最期の思いは無念ではなかったかと思います。

こういう敗者の紹介というのは、どのようにしたらよいのでしょうか。

「神学者の哀歌」というタイトルの本を書いてみたいです。

2013年11月3日日曜日

ぼくは、好きな人の批判しかしません

ずっと、どうしようか迷ってましたが、

やっぱり書いておきます。

ぼく、ですね、

他人が書いたブログ記事を批判することはありますけど、

その「記事」(テキスト)を批判することと、

その記事を書いた「人」(パーソン)を批判することは、

別のことだと思っています。

ぼくは、嫌いな人の批判はしないんです。面倒だから関わりたくない。

ぼくは、好きな人の批判しかしません。

そゆことすると、その相手からは嫌われるんですけどね(大粒の涙)。

いま書いた原理からいえば、

ぼくが「記事」(テキスト)を批判するときは、

それを書いた「人」を尊敬している、または尊重しているときです。

こんなにエライ人がこんなヒドイ文章を書いているのは、脇が甘すぎる。

こんなボロボロの穴だらけの文章を書いているようでは、

悪意ある敵対者からどんどん攻め込まれて、

せっかく続けている尊い働きが続けられなくなりますよ、

というようなことを言いたいときに、

他人の文章(テキスト)を叩きたくなります。

それは、その文章の書き手(ライター)に対する、

ぼくなりの尊敬と愛の証しなのです。

牧師も「教師」ですからね、

つい赤ペン添削を始めてしまうのは、職業病です。

そうそう、

あとね、ぼく、「弱い者いじめ」もしないんです。

自分より弱い相手だと思ったら、その人のことは批判しません。

ぼくが批判する相手は、ぼくより強い人だと、ぼくが認める相手です。

ぼくの批判の対象になった方は、

ぼくが最強の相手だと認める存在だと自覚してください。

なんちゃって。

2013年11月1日金曜日

「聖おにいさん」について初めてコメントします

「聖おにいさん」についてぼくは一度もコメントしたことがない、ということに、ふと気づきました。

うちに全巻ありますよ。家族はよく読んでいます。でも、ぼくが最後まで読んだのは第一巻だけだと思います。

腹が立つとか反発したくなるとかは全くないのですが、ぐっと引き込まれて読みふけってしまうような感じでもない。それで、コメントしようと思い立つほどまでのモチベが生まれてこなかったのでしょうね。

そのモチベは今もないです。かろうじて目を通したはずの第一巻をもう一度手にとって開いてみようという気にもなれない。

とか書くと、すぐにでも「趣味・嗜好の違いってことでいいんじゃないの?」と指南されそうですけど、そういうのはイイや(笑)。まあ、そういうことなんでしょうけどね。

ただ、それって、どういう生理反応なんだろうなと、考えてみているだけです。ぼくが「聖おにいさん」に、それほどの興味を持てない理由。

画風も関係しているのでしょうけど、かなり気温低いですよね、あの漫画の世界って。「さむ~い」感じ。いや、「つめた~い」、かな。二人とも汗流したりしているような絵もあったはずですが、それでも寒そう。

全く当てずっぽうですが、それが作者の体温なのかもしれません。

イエスとブッダでしたっけ(どんな呼び方されてましたっけ)、両者を友達付き合いさせて、その二人の姿を、やや遠くから俯瞰する絵を描き続けているわけですよね。どちらにもコミットしない、というスタンスで。

なんかそのへんかなあという気が、今しました。

その、「自分自身はどちらにもコミットしようとしないで、両方を並立的に俯瞰できるスタンスって何なの?」みたいな気持ちが、読んでいるあいだじゅう、ぼくの胸中で騒ぎ続けた感じを、なんとなく思い出しました。

話は飛躍しますが「ワンピース」って、やたら気温高いじゃないですか、コミットメント感ばりばり、という意味で。

あっ、そうか、

「ワンピース」読んでサウナ感味わって、「聖おにいさん」読んで水風呂感を味わえばいいのか。

面白いことをひらめきました。

でも、たぶん、当分の間は、どちらのマンガも読みません。一生読まないかもしれないな。

さすがに、ちょっと年老いすぎました。

2013年10月26日土曜日

「第18回 カール・バルト研究会」報告


「ろくろ回し」と言うそうですね。 ぼくは今夜初めて知りました。 

「第18回 カール・バルト研究会」、盛り上がっています。


神学は深夜に営むものです。 深い真理と共に、深い眠りにつけそうです。

「第18回 カール・バルト研究会」、楽しいです。


2013年10月25日金曜日

「第18回 カール・バルト研究会」(10月25日)にご参加ください(宣伝動画)

2013年10月25日(金)午後9時~11時(日本時間)「第18回 カール・バルト研究会」を行いますので、ぜひご参加ください。詳しくは動画をご覧ください。

2013年10月24日木曜日

ぼくの目標は「牧師になること」です

「何をやりたいのか」

目標は、初めから、はっきりしているんですけどね。

高校3年の夏休み、昨日出てきた証拠資料によれば「1983年8月9日」に、ぼくは「牧師になること」にしました。

「1983年8月9日」は火曜日だったようです。教会主催の「高校生修養会」の最中だったことは間違いありません。火曜日は、おそらく修養会の初日です。

時刻までは特定できません。開会礼拝の最中か、その後かです。その前日までは思い浮かぶことがありえなかった思いが、突然わき起こって来たという感覚でした。

しかしそれは、一時の気の迷いとか、ただの思いつきという感じでもなくて、謎解きの「たねあかし」のようなものでした。

だから、そのとき「あっ」と声をあげたかどうかは記憶にありませんが、まさに「あっ」でした。「謎はすべて解けた」という思いに満たされ、ただちに牧師に相談しました。どうすれば牧師になれるかを教えてもらいました。

「1983年」というと、ちょうど30年前だったのですね。そういうキリ番のようなことは、すぐ忘れてしまいます。

30年前から、ぼくは一日も迷ったことはありません。

ぼくの目標は「牧師になること」です。

それ以上でもそれ以下でもありません。

こういう答えではダメなのでしょうね。

あと一味、何かが足りないのかな。

真剣に考えてみます。

わたしの小羊を飼いなさい(19歳の証し)


驚くものが出てきました。

東京神学大学の学部1年のとき、奉仕教会だった日本基督教団桜ケ丘教会(東京都杉並区下高井戸)の教会学校のクリスマス会でおこなった「証し」の原稿です。

19歳になったばかり。読み返すと恥ずかしい。文章は下品だし、今なら決して使わない言葉づかいが出てきます。だけど、変わってないなと思うところ多々あり、進歩の無さにがっかりしました。

以下、全文を書き写しました。ジョン・ウェスレーばりの「回心記念日」の記述がありますが、あまり気にしないでやってください。

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「わたしの小羊を飼いなさい」

ヨハネによる福音書21・15

こんにちは。ここにははじめての人とはじめましてでない人がいらっしゃいますね。僕がこの教会にお世話になってはや9カ月が過ぎようとしています。

僕の方があなたたち、この教会の人たちから学ぶべき立場としてやってきたのに「先生」とか呼ばれて何だかヘンな気持がして、なんとなく妙な居心地だったのですが、あんまり「フニャフニャ」した「先生」だと、あなたがたのつまづきになるから、「先生」と呼ばれた以上、「はい」と答えるようにしています。

そのせいだか何だか知りませんが、ここに来たばかりの時、ここの人たちは、誰ひとりとして僕をミセイネンだと信じてなかったようでしたね。「しっかりしてる」と思ってくれているのだか、「オッサン」だと思っているのだか、思わずちょっと悩んぢゃいそうになりました。

そんなこんなで、「東京神学大学」という大学にいって、「学生」の上にずうずうしくも「神様」の「神」の字をつけてあるくようになったわけですが、この大学を卒業して、僕はいったい何になるのでしょうか。そうです、牧師になるのです。

ここには大先生の子女もおられますが、牧師という仕事がどんな仕事か、どんなに大変か、どんな喜びがあるのか、よくご存じだと思います。決して楽ではありません。ではそんなことを知っていて、この関口はどうしてそんなものになろうとしているのか、こんなアホに牧師なんかつとまるのかよと思っている人もいるはずです。

僕は、小さい時から牧師になろうと夢見てきたわけではありません。驚くなかれ、去年の8月9日に何の予告もなく、神様が、僕に「牧師になれ。私の羊を飼いなさい」とご命令なさったのです。そんなバカなと思う人は、聖書をもう一度ひらいてみてください。びっくりするようなことが、決して人間の力ではなく、神様の力によって行われているということが分かるようになるでしょう。

僕の中学、高校時代は、両親に教会に連れて来られていたにもかかわらず、教会がきらいでした。友達には、ぼくが教会にいっていることを内緒にしたりなんかしていました。何だか照れくさくって、偽善者っぽくて、かっこ悪いような気がしたからです。

日曜日、友達はみんな朝どころか昼ごろまで寝ているのに、朝っぱらから僕は何しに教会にいかなければならないのか、と思っていました。ここがポイントです。「いかなければならない」ということが、私にとってつまづきでした。あなたがたの中にも、そのような人がいるでしょう。

聖書でも、うそみたいな信じられない話を見つけると、教会にいきたくない言い訳のために、「聖書なんてうそっぱちだ」といって親に反抗していた、ものの本質のわからない人間が、このようにして変えられたのは、祈りの力によるものでした。

僕が「牧師になること」を母親に話した時、確かに初めて母親に打ち明けた時、「わかっていたよ」との返事が返ってきて不思議に思ったいきさつに、これからちょっとふれたいと思います。

かつて私の母が若かりしころ、一度は本気で献身の決心をしたということなのです。しかし、その頃の時期的背景も関係するのですが、母はその決意を折ってしまったのです。そして、その意志を自分の息子にかけたのだそうです。黙ってひたすら祈っていたのだそうです。そのことを母は一言も私に言ったことがありませんでした。一言も「牧師になってほしい」という言葉を聞いたことがありませんでした。ただ祈りにささえられて、私は成長してまいりました。これらのことを知って私は主を賛美し、感謝し、本当に私は(生きているのではなく)生かされているのだ(!)ということを感じました。

これからも、あなたたちとのおつきあいがあると思いますが、どうぞよろしく。私の願いは、みんなが牧師になるようにとかいうことでは決してなく、心からクリスチャンとしての自覚を持ってくださるようにということなのです。それが僕たちにとっていちばんうれしいことであります。

たくさん友達を教会にさそってきましょうね。この位で証しを終ります。

(1984年12月22日、日本基督教団桜ケ丘教会CS中学科クリスマス会)

2013年10月22日火曜日

吉村昇洋さんの『気にしなければ、ラクになる。』(幻冬舎、2013年)がついに届きました


昨年(2012年)の「いのりフェスティバル」で吉村昇洋さんとぼくとオタキングさんが鼎談することになっていたのですが、ぼくの都合がつかなくなりました。 

ぼくは教会員の葬儀による出演キャンセルでしたので後悔も未練も持っていませんが、吉村さんとは事前の打ち合わせのときに一度お会いして、とても素晴らしい方だと分かりましたので、その吉村さんとご一緒できなかったことは残念に思っています。 

しかし、その後、吉村さんとはFacebookでお友達になっていただき、また最近はTwitterでもフォローし合う関係になったりしまして、実際にお会いしたのは一年以上前のたった1時間の打ち合わせのときだけなのに、なんだかとても親しい気持ちになれる方だと、こちらで勝手に思っています。

その吉村さんの最新著、『気にしなければ、ラクになる』(幻冬舎、2013年)がバカ売れしているらしいと、風の便りで知りました。

これはぜひ読ませていただきたいと思いながら、「圧倒的な強敵」と立ち向かうだけの自信が無くて、買うのを躊躇していましたが、

昨日ついにAmazonでポチッと押してしまいました。

吉村さん、

確かに届きましたので、これから読ませていただきます。

ファン・ルーラーにおける「体験主義」への関心について

いま手元にあるのは、一昨年2011年に刊行されたばかりの『ファン・ルーラー著作集(Verzameld Werk)第四巻 下(Deel IV-B)』です。下巻だけで825ページもある、まるでお化けのような本です。この巻の目次の紹介くらいなら、疲れていてもなんとかできそうです。

『ファン・ルーラー著作集 第四巻 下』には次の論稿が収録されています。

「福音の愚かさ」
「神学概念としての『実現』」
「福音とニヒリズム」
「救いのプロセスにおける人間の役割」
「救いがあるということ」
「救いの実現における多様性と矛盾」
「義認について」
「義認論講義」
「信仰の本質」
「信仰の教理史的考察」
「赦し」
「回心と再生」
「再生について」
「創造と再生」
「和音を解せないロバのように」
「パワフルなのかアクティヴなのか」
「召命論講義」
「ハイデルベルク信仰問答 第86問答」
「道徳は部分的なものではあっても星座のようなものではない」
「研究と模倣」
「禁欲」
「美徳の賛歌」
「福音としての隣人」
「正義と義認」
「正義の起源」
「教会と神学における神体験」
「説教と個人の信仰生活」
「神体験、その神学的探求」
「説教における神体験」
「体験主義の光と影」
「確かさ、内省、しるし」
「神体験のいくつかのパターン」
「神体験」
「内面生活における学び」
「ウルトラ改革派とリベラル派」
「神秘主義と宗教」

以上が『ファン・ルーラー著作集 第四巻 下』に収録されているファン・ルーラーの論稿のタイトルです。

たぶんすぐお気づきになることは、「神体験」とか「体験主義」とか「神秘主義」というタイトルの多さです。

私がファン・ルーラーが用いている言葉を「神体験」とか「体験主義」と訳しているわけですが、暫定的にそうしているだけです。翻訳が難しい言葉です。「神体験」はbevinding、「体験主義」はbevindelijkheidです。これはオランダ改革派教会内部に17世紀に発生した流れです。

ファン・ルーラーのbevindingを「神体験」と訳すことについて、彼の英語版論文集(J, ボルト訳、全一巻)ではexperienceと訳されていますので、体験も経験も誤訳ではないでしょう。しかし誤訳の指摘を恐れることより重要なことは、その訳で読者が意味を理解できるかどうかです。

オランダ改革派教会に17世紀に発生した「体験主義」(bevindelijkheid)の流れは、16世紀宗教改革への批判や対立の意図はないものの、修正や補完の意図はありました。20世紀の教会史家はそれをオランダの「第二次宗教改革」(Nadere Reformatie)と呼びました。

ファン・ルーラーが扱ったテーマに神体験(bevinding)や体験主義(bevindelijkheid)というのが多い理由は、彼の出自にあります。彼の出身地アペルドールンは「体験主義」の流れをくむ改革派信仰の影響が強い地域なのです。彼もそれを世襲的に、しかし批判的に継承しました。