もう眠いのでナニも考えられない状態なのですが
書かずにはおれない気持ちです。
自慢じゃないですが、ぼくはこの年齢になるまで
つかみ合いの喧嘩って、したことがないです。
売られたこともない。
喧嘩、弱いのにね。筋肉無いし。
殴ったことも、殴られたこともない。
勝ったこともないけど、負けたこともない。
ぼくをコワモテと思う人はたぶんいないけど
喧嘩する気にはなれないのかも。
のれんだし、ヌカだし。ヤナギかな。
柔道やってたことがあると書きました。
「柔よく剛を制す」
足は遅いけど、ヒラヒラかわすのは得意かも。
ぼくを嫌いな人は多いかもしれませんけど
ぼくに恨みを持っている人は、いないんじゃないかな。
恨まれるようなことしないもん。
かすりもしない人間を、だれが恨むのよ。
ナニを言いたいんでしょうね、ぼく。
ねます。もうダメ。
2013年8月3日土曜日
いまの「権力者」の最大の誤算(かもしれないの)は、 彼らの脅迫や恫喝がゼンゼンこわくないことです
幹事長の「軍法会議に逆らったら死刑」発言も、
副総理の「ナチスの手口に見習え」発言も、
報道が英雄的なリークをしているのか、
それとも与党と報道が結託して「小出し」にしているだけなのか、
たぶんどちらかですね。
ぼくは今回の「ナチス発言」については、
テレビもツイッターも、なるべく追っかけないようにしています。
発言された事柄そのものは何だったのかを、
書かれたテキストを読んで考えています。
純粋に「反与党ビジネス」を営む職業的政治家たちの発言を見聞きしては
一喜一憂するのも、体に毒です。
ともかく、もう少し様子を見ましょう。
だれがナチスを手本にしようと、
どんな権力が暴走しようと、
今の日本がオートマティックにナチス化していくわけではありません。
そういう「脳内の三段論法」は棄てる必要があります。
歴史は繰り返しませんよ。人間には学ぶ力があるんですから。
いまの「権力者」の最大の誤算(かもしれないの)は、
彼らの脅迫や恫喝がゼンゼンこわくないことです。
中学生たちあたりまでネットでネタにして笑ってますよ。
落ち着いてください。大丈夫ですから。
美味しいざるそばでも食べて、セミの鳴き声を聴きながら過ごす
夏の昼下がりを楽しむのもいいですよ。
一般市民にバカにされるような作文しかできない人たちをどうしたら尊敬できるのか
でも、なんかちょっと面白い...というのは不適切な言い方ですけど、
「実に興味深い」というか何というかなのは、
橋下さんの暴言だか失言だかも、あれで全く無問題で通るわけでもなく、
それなりのダメージが、あの人自身や党にあった、ということですよね。
正直それは意外でした。
「へえ、ダメージあったんだ」と微笑できるものがありました。
「軍法会議に逆らったら死刑」「ナチスの手口に見習え」
こういうのを、
発言者自身の瞬間的な思いつきが、口からほとばしり出たと考えるか、
熟議するシンクタンクの徹底的な推敲を経たシナリオの朗読と考えるか。
後者だろうと思っていたのですが、どうもそうでもなさそうな気もする。
いずれにせよ、
いま「権力」の座を掌握している人たちが
(作文を朗読する人も、シンクタンクも)
一般市民にバカにされるような作文しかできない人たちであることは、
どうやら確からしい。
だれも尊敬してないよ。ていうか、尊敬できないよ。そんなんでは。
大丈夫なのか、おい。
言わずもがなですが、
東大や早慶出たから尊敬されるんじゃないですよ。
ちゃんとした日本語を書けるかどうか、だと思うけどね、ぼくは。
「実に興味深い」というか何というかなのは、
橋下さんの暴言だか失言だかも、あれで全く無問題で通るわけでもなく、
それなりのダメージが、あの人自身や党にあった、ということですよね。
正直それは意外でした。
「へえ、ダメージあったんだ」と微笑できるものがありました。
「軍法会議に逆らったら死刑」「ナチスの手口に見習え」
こういうのを、
発言者自身の瞬間的な思いつきが、口からほとばしり出たと考えるか、
熟議するシンクタンクの徹底的な推敲を経たシナリオの朗読と考えるか。
後者だろうと思っていたのですが、どうもそうでもなさそうな気もする。
いずれにせよ、
いま「権力」の座を掌握している人たちが
(作文を朗読する人も、シンクタンクも)
一般市民にバカにされるような作文しかできない人たちであることは、
どうやら確からしい。
だれも尊敬してないよ。ていうか、尊敬できないよ。そんなんでは。
大丈夫なのか、おい。
言わずもがなですが、
東大や早慶出たから尊敬されるんじゃないですよ。
ちゃんとした日本語を書けるかどうか、だと思うけどね、ぼくは。
2013年8月2日金曜日
ほとんど「犯行予告」のようにしか、ぼくには思えないんですけどね
どうも腑に落ちないというか、分かんないのは、
前に書いたことのほとんど繰り返しなのですが、
「軍法会議に逆らったら死刑」とか「ナチスの手口に見習え」とか、
そういう言葉をうれしそうに聞いて心から感謝して支持する、みたいな人が
今の日本にどれくらいいるんだろうか、
そんなに多くないんじゃないだろうか、
ということなのですが、
ぼくの見立てが誤っているだけかもしれません。
しかし、もしぼくの見方が間違っていないとしたら、
このたびの副総理の「ナチス発言」も、
国民感情を”意図的に”逆なでするものですよね。
分かってて言ってる。失言じゃないですよ。周りもゲヘゲヘ下卑た笑い方だし。
「炎上政治」かな。不快ですね。
ナチスに憧れがあるんだか、なんなんだか知りませんが、
「過去の犯罪政党の手口に見習え」と煽る与党ナンバーツーさんの「ナチス発言」は
ほとんど「犯行予告」のようにしか、
ぼくには思えないんですけどね。
こんなことブツブツ言ってても仕方ないんだけど。
前に書いたことのほとんど繰り返しなのですが、
「軍法会議に逆らったら死刑」とか「ナチスの手口に見習え」とか、
そういう言葉をうれしそうに聞いて心から感謝して支持する、みたいな人が
今の日本にどれくらいいるんだろうか、
そんなに多くないんじゃないだろうか、
ということなのですが、
ぼくの見立てが誤っているだけかもしれません。
しかし、もしぼくの見方が間違っていないとしたら、
このたびの副総理の「ナチス発言」も、
国民感情を”意図的に”逆なでするものですよね。
分かってて言ってる。失言じゃないですよ。周りもゲヘゲヘ下卑た笑い方だし。
「炎上政治」かな。不快ですね。
ナチスに憧れがあるんだか、なんなんだか知りませんが、
「過去の犯罪政党の手口に見習え」と煽る与党ナンバーツーさんの「ナチス発言」は
ほとんど「犯行予告」のようにしか、
ぼくには思えないんですけどね。
こんなことブツブツ言ってても仕方ないんだけど。
2013年8月1日木曜日
「鍵」が壊れている今の教会に「権威ある真理」を求められても、そりゃ無理な話ですよ
ぼくは
「信教の自由」を”信じて”いるとか「民主主義の原則」を”信じて”いるわけではなくて、
「神」を”信じて”いるわけですけど、
近代以降の民主化というか個人主義化というかは歴史の不可逆進行だと思うので、
いま「教会」に「権威ある真理」を求められても、「そりゃ無理だ」と答えざるをえません。
いま書いている意味の「権威ある真理」とは、
「キリスト者とはこうあるべき」ということを
全キリスト教会が異存なく納得できる言説と行動の規範のようなもの
を想定しているつもりです。
「教会」が「権威ある真理」なるものを語ろうものなら、バカを見るような目で見られる時代に
(ていうか、そういうことができると思っている時点で相当バカだし)
何が悲しくて、そういうことを言っているふりができる「教養ある教会」があるのよと、ぼくは思う。
それでも「教会」が
そういう何か(「権威ある真理」なるものの断片)を必死で守ろうと努力していても、
教会に与えられていると言われる「鍵の権能」なるものがメタメタに壊れていて、
完全に出入り自由な、セキュリティゼロの状態になっているわけで、守るべきものを守れない。
どうしようもないですよ。
「鍵の務め」ないし「鍵の権能」については、
ハイデルベルク信仰問答の第82問の答えに書かれている言葉の意味で用いています。
「民主主義」の中で「教会」という建物と組織を乗っ取るのは簡単ですよ。
多数でおしかけて、聖書の話より自分の身の上話で盛り上がって、
気に入らないことがあれば聖書と牧師を容赦なく批判して、
多数決で勝てば、建物と組織はその人たちのものになる。
「そんなの教会じゃない」とか言っても後の祭り。
牧師と年配信者が「共依存関係」にあるのは、これどうしたらいいんですかね。
牧師にも家庭があったり、生活があったりするんで、
しっかり献金してくださる方々を「優先」する思いは無くても、
その人たちを怒らせてしまったら困るとは思う。
教会の「鍵」が壊れていて、出入り自由になってしまっているんで。
日本の神学者とかキリスト教学者とか名乗る人たちが、
教会のことを「ヴォランタリー・アソシエイション」だとかのたまわったときは、
正直こけそうになりました。
「自発的」(ヴォランタリー)に集まる集団なんだから、
そりゃ「出入り自由」だと勘違いする人、続出しますわね。
ぼくが言いたいことは、
「戒規」という制度を持っているかどうかということよりも、それが「壊れている」ことの問題です。
どの教団・教派には戒規制度があるが、それが無い教団・教派もある、という話ではありません。
全キリスト教会に「鍵の権能」は与えられているのです。
急に不機嫌ぽい書きっぷりですいません。
べつに何かあったというわけではなくて、20数年の積年の思いが出てきた感じです。
これは愚痴というより、厳粛なる抗議です。
だけど、この抗議文を送るべき宛て先が分からない。
「民主主義の皆さまへ」でしょうか。
そんなバカな抗議文もないので、書いては捨て、書いては捨てのボツ稿です。
「信教の自由」を”信じて”いるとか「民主主義の原則」を”信じて”いるわけではなくて、
「神」を”信じて”いるわけですけど、
近代以降の民主化というか個人主義化というかは歴史の不可逆進行だと思うので、
いま「教会」に「権威ある真理」を求められても、「そりゃ無理だ」と答えざるをえません。
いま書いている意味の「権威ある真理」とは、
「キリスト者とはこうあるべき」ということを
全キリスト教会が異存なく納得できる言説と行動の規範のようなもの
を想定しているつもりです。
「教会」が「権威ある真理」なるものを語ろうものなら、バカを見るような目で見られる時代に
(ていうか、そういうことができると思っている時点で相当バカだし)
何が悲しくて、そういうことを言っているふりができる「教養ある教会」があるのよと、ぼくは思う。
それでも「教会」が
そういう何か(「権威ある真理」なるものの断片)を必死で守ろうと努力していても、
教会に与えられていると言われる「鍵の権能」なるものがメタメタに壊れていて、
完全に出入り自由な、セキュリティゼロの状態になっているわけで、守るべきものを守れない。
どうしようもないですよ。
「鍵の務め」ないし「鍵の権能」については、
ハイデルベルク信仰問答の第82問の答えに書かれている言葉の意味で用いています。
「民主主義」の中で「教会」という建物と組織を乗っ取るのは簡単ですよ。
多数でおしかけて、聖書の話より自分の身の上話で盛り上がって、
気に入らないことがあれば聖書と牧師を容赦なく批判して、
多数決で勝てば、建物と組織はその人たちのものになる。
「そんなの教会じゃない」とか言っても後の祭り。
牧師と年配信者が「共依存関係」にあるのは、これどうしたらいいんですかね。
牧師にも家庭があったり、生活があったりするんで、
しっかり献金してくださる方々を「優先」する思いは無くても、
その人たちを怒らせてしまったら困るとは思う。
教会の「鍵」が壊れていて、出入り自由になってしまっているんで。
日本の神学者とかキリスト教学者とか名乗る人たちが、
教会のことを「ヴォランタリー・アソシエイション」だとかのたまわったときは、
正直こけそうになりました。
「自発的」(ヴォランタリー)に集まる集団なんだから、
そりゃ「出入り自由」だと勘違いする人、続出しますわね。
ぼくが言いたいことは、
「戒規」という制度を持っているかどうかということよりも、それが「壊れている」ことの問題です。
どの教団・教派には戒規制度があるが、それが無い教団・教派もある、という話ではありません。
全キリスト教会に「鍵の権能」は与えられているのです。
急に不機嫌ぽい書きっぷりですいません。
べつに何かあったというわけではなくて、20数年の積年の思いが出てきた感じです。
これは愚痴というより、厳粛なる抗議です。
だけど、この抗議文を送るべき宛て先が分からない。
「民主主義の皆さまへ」でしょうか。
そんなバカな抗議文もないので、書いては捨て、書いては捨てのボツ稿です。
2013年7月27日土曜日
論文、完成しました
かれこれ一年くらい前から大騒ぎしてきた論文が、今朝やっと完成し、編集の方にお送りしました。
初めての投稿先です。しかし、ぼくからの持ち込み原稿ではなく、先方からオファーをいただきました。
神学部や神学校の紀要ではなく、一般向けの学術誌です。
ひとつ肩の荷がおりて、地味にほっとしています。
2013年7月25日木曜日
目標(ゴール)が定まれば、「逆算」が可能になる
予備校講師の「いつやるの?今でしょ!」もそうですが
他の学習塾・予備校の同種のCMも、その主旨は「逆算」でしたよね。
目標(ゴール)または目的(パーパス)が定まれば
そこから「逆算」して、いまやらねばならないことは何かが分かる。
ぼくの話で恐縮ですけどね、
時々「ぶれないやつだ(良くも悪しくも)」と言ってもらえたりするのは
目標(ゴール)だけは(「だけは」ね)はっきりしているからです。
ぼくの目標(ゴール)は
「○○○・○○○○著作集の出版」、じゃないですよ。それは手段。
でも、抽象的なことではないです。
「抽象的」とか言うと怒られるかもしれませんが
「一千万救霊!」とかいう感じのスローガンやイデオロギーではない。
「どうせ最後は天国だ」みたいな、途中のプロセスをすっとばかした話でもない。
もっと身近で、実現可能なことです。でも、自己目的的なことではない。
目標(ゴール)が定まれば、「逆算」が可能になる。
それは、ほんとのことですよ。「今でしょ!」の兄さんの言うとおりだ。
2013年7月24日水曜日
ぼくの意図の中心は「いかにカネを使わずに政治に関与するか」です
ブログにぼくが
「職業的政治家と、共依存の関係にある資産家たち『よりも』幸せな生き方を提示すること」
と書いたことについて、
「でも、それって政治的無関心を援護し助長しませんか?」
とご質問をいただきましたので、下記のようにお応えしました。
「答えになっていない」と思われるかもしれない内容であることは自覚しておりますが、
“言葉を濁している”結果であると申し上げておきます。
----------------------------------------------------
擁護も助長もしません。
言葉を選びながら書きますが、
「職業的政治家」と「共依存の関係にある資産家たち」とぼくが書いているとき、
今の与党関係者だけのことを考えていません。
与党に対する永遠のアンチであることを「職業」とする人たちのことも含めています。
「不安ビジネス」のようなもので人やカネを集めようとする人たちのことも含めています。
これ以上のことは今は書かないでおきますが、
「政治的関心」を煽るビジネスもあるので、
そういうのにも気をつけなければ丸裸にされてしまうと、ぼくは考えています。
しかし、先生がお書きくださったような疑問は、ぼくも自分で文章を書いているときから、
「出てくるだろうな」と予想していましたので「やっぱり出たか」という気持ちです。
ありがとうございます。
話は飛躍しますが、
ぼくはファン・ルーラーという神学者が語った命題、
「共産主義はキリスト教よりもブルジョア的である」を、
おかしくて腹を抱えながら受け容れているものです。
共産党をことさらに敵視する意図はぼくにはありませんが、
左翼は左翼で「左翼ビジネス」のようなものがあるのだと思っています。
教会は例外だと言いたいのではありません。
教会だってすぐにでも
「不安ビジネス」「救済ビジネス」「結婚式ビジネス」「葬式ビジネス」をやりはじめます。
「何が悪いんだよ」と開き直る向きも少なからずあるのかもしれませんが、
やってることは「彼ら」と同じだという自覚があるかどうかで、
救いようがあるかどうかが決まるのだと思います。
そして、ぼくが言いたかったことの最初からの最も重要なポイントは
「政治のシロウトである者たちは、いかにカネを使わずに政治に関与するか」であり、
「人とカネを使って権力を掌握する『よりも』幸せな生き方があることを、どうしたら提示しうるか」
ということにあります。
「そんなのは無い」と言ってしまった時点で、我々の負けです。
「ある」と言い続けなくちゃ、希望も救いもありません。
「職業的政治家と、共依存の関係にある資産家たち『よりも』幸せな生き方を提示すること」
と書いたことについて、
「でも、それって政治的無関心を援護し助長しませんか?」
とご質問をいただきましたので、下記のようにお応えしました。
「答えになっていない」と思われるかもしれない内容であることは自覚しておりますが、
“言葉を濁している”結果であると申し上げておきます。
----------------------------------------------------
擁護も助長もしません。
言葉を選びながら書きますが、
「職業的政治家」と「共依存の関係にある資産家たち」とぼくが書いているとき、
今の与党関係者だけのことを考えていません。
与党に対する永遠のアンチであることを「職業」とする人たちのことも含めています。
「不安ビジネス」のようなもので人やカネを集めようとする人たちのことも含めています。
これ以上のことは今は書かないでおきますが、
「政治的関心」を煽るビジネスもあるので、
そういうのにも気をつけなければ丸裸にされてしまうと、ぼくは考えています。
しかし、先生がお書きくださったような疑問は、ぼくも自分で文章を書いているときから、
「出てくるだろうな」と予想していましたので「やっぱり出たか」という気持ちです。
ありがとうございます。
話は飛躍しますが、
ぼくはファン・ルーラーという神学者が語った命題、
「共産主義はキリスト教よりもブルジョア的である」を、
おかしくて腹を抱えながら受け容れているものです。
共産党をことさらに敵視する意図はぼくにはありませんが、
左翼は左翼で「左翼ビジネス」のようなものがあるのだと思っています。
教会は例外だと言いたいのではありません。
教会だってすぐにでも
「不安ビジネス」「救済ビジネス」「結婚式ビジネス」「葬式ビジネス」をやりはじめます。
「何が悪いんだよ」と開き直る向きも少なからずあるのかもしれませんが、
やってることは「彼ら」と同じだという自覚があるかどうかで、
救いようがあるかどうかが決まるのだと思います。
そして、ぼくが言いたかったことの最初からの最も重要なポイントは
「政治のシロウトである者たちは、いかにカネを使わずに政治に関与するか」であり、
「人とカネを使って権力を掌握する『よりも』幸せな生き方があることを、どうしたら提示しうるか」
ということにあります。
「そんなのは無い」と言ってしまった時点で、我々の負けです。
「ある」と言い続けなくちゃ、希望も救いもありません。
2013年7月23日火曜日
職業的政治家と、共依存の関係にある資産家たち「よりも」幸せな生き方を提示すること
「国民主権」であるとはいえ、ぼくらが政治のシロウトであることは間違いないわけで、
職業的政治家とがっぷり四つに組んだら負ける。
そのために注ぎ込む人とカネの使い方が違うわけですし。
だったら直接対峙したりすべきでない。
職業的政治家と、共依存の関係にある資産家たち「よりも」幸せな生き方を提示すること。
それだけが突破口ではないだろうかと、夜遅い時間に考えこんでいました。
学校が夏休みに入り、デカイ子どもがうちにいることは、親としてはちょっと安心だったりします。
早起きして朝食作ったりしてやらなくて済むし。
そういう精神的余裕からでしょうか、家の中の片付けもわりとできる。
あ、でも、今朝は掃除はりきりすぎて、もう疲れちゃった。すぐバッテリー切れるスマホみたいだ。
ぽんこつ47歳。ぼくはガラケーですけどね。
今日の午後は「東関東中会設立10周年委員会」(於 船橋高根教会)に出席してきました。
伝道の熱情がわき上がりました。
2013年7月22日月曜日
キーワードは「嫉妬」です
パウロっぽい考え方をするとしたら、
「おれの身内」を回心させるために「よそさま」に伝道する、
というわけですよね。
そうすれば、
やがては「おれの身内」が「よそさま」の姿を見る日が来るだろう。
そのとき、「おれの身内」は、自分と「よそさま」を比較するだろう。
そして、必ずや「よそさま」に対して「嫉妬」を抱くだろう。
で。
話は飛躍するし、ぴったり合っている話でもないのですが、
「おれの身内」を本気で回心させたければ、
その人たちの目から見たぼくの姿が、
「嫉妬」をもってしか見られないようなものになっていなきゃね、と思う。
ちっとも幸せそうでないぼくが、だれを回心させることができるんだろ、と思う。
「批判」なんかいくらしても、日本は変わらないですよね。
「嫉妬」させなきゃ。
登録:
コメント (Atom)