2013年7月11日木曜日
ぼくらは日本をあきらめない!(勝手にあきらめないでくれよ、みんな)
その昔、プロデューサー、エディター、ライターといった人たちは
「裏方に徹する」ことを美徳みたいにとらえて、カオバレは嫌がったものだ。
でも、いまは違う。
秋元康、鈴木おさむといった人たちの名前を出すまでもなく、
かつての「裏方」たちは今、等身大の自分自身を大胆に露出し、
だれよりもアクティヴに動き回るようになった。
彼らの批判なんかするなよ。
身も蓋もないこと言わせてもらえば、
批判したければ、彼ら以上に動き回ってから言え。
キリスト教界もそうだ。
ぼくのイチオシのキリスト教系ジャーナリストと、
まさに偶然、出会う機会をえた。
松谷信司(まつたに しんじ)。この名は覚えておけ。
このイケメンはイクメンだ。
ぼくもイクメンだったけどイケメンではない。うるさいわ。
知ってるか。「ペンは剣よりも強い」(Calamvs Gladio Fortior)んだぜ。
あ、知ってるね。
ぼくたちは武器は持ってないけどね、
でもね、書き続けることはやめないよ。
しんどいときは「しんどい」と書けばいいのさ。
抗議するときは「抗議する」と書けばいい。
負けそうなときは「負けそうだ」と書く。
何にも書けないときは「何にも書けない」と書けばいい。
そうすると、何かが変わるよ。その体験あるから保証する。
「世界は変わらない。日本はダメになる。」
そんなことを確信するなよ。
脳内だけででっち上げた三段論法で、世界をあきらめるなよ。
「世界は変わる。日本はダメにならない。」
そう言い続け、書き続けてくれよ。
ぼくらは、そうするから。
少なくとも松谷信司は、世界と日本をあきらめないから。
相方のぼくは、松谷信司を追いかけるだけさ。
彼はグレートだ。ぼくが保証する。
2013年7月11日
関口 康
2013年7月10日水曜日
都心ドライブ 記念写真
グーグルプラス・ハングアウトで行っている「カール・バルト研究会」のメンバーである中井大介先生(日本基督教団千里聖愛教会牧師)とリアルでは初めてお会いしました。都心をドライブしながら、教会のこと、政治のこと、子育てのこと、あといろいろ、大いに語り合いました。
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| 東京駅前 |
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| キリスト新聞社 松谷信司氏と |
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| 奇跡のスリーショット(笑) |
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| 日本基督教団高輪教会(港区高輪3丁目) |
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| 高輪教会の中村公一牧師(右端)と |
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| 中村先生のお連れ合い(中央)と |
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| 実は初対面です |
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| 実は腐れ縁です(笑)中村先生はぼくの大先輩です |
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| 慶應義塾大学(港区三田2丁目)東門前で |
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| 日本基督教団鳥居坂教会(港区六本木5丁目) |
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| 鳥居坂教会の塔 |
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| 鳥居坂教会の中庭 |
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| 日本基督教団霊南坂教会(港区赤阪1丁目) |
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| 東京タワーです(説明不要ですね) |
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| 東京タワーです(だから説明不要だって) |
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| レインボーブリッジを渡っています |
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| 天気が良くて東京湾周辺の夜景がきれいに見えました |
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| お台場到着 |
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| お台場のガンダムを背にドクターペッパーで寛ぐ |
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| お台場のガンダムを背にドクターペッパーで寛ぐ |
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| 東京駅でお別れ |
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| また会う日まで |
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| 東京スカイツリー |
問題は「妥協」をどう評価するかです
で、
ぼくにとって、というか、
もちろんトレルチにとってもパネンベルクにとっても、なんですが
最も深刻な問題は「妥協」(Kompromiss)なんです。
以下、ちょっと長いですが、パネンベルクの文章の引用。
「宗教的な目的と世俗的な文化的諸目的との一般的両義性は、トレルチによればキリスト教においても問題にならざるを得なかった。しかし、その宗教が『すべてを包括する創造的な神の意志』から出発しているため、『その宗教的目的は、ただ単に世界内的諸目的の代替とか除去とかを意味することができない』ということが、すでに一般に通用している。『そのようにして、まさにキリスト教の神信仰が、神によって創造された世界を積極的に評価することによって、神との交わりという絶対的な目的の中に世界内的な諸目的を受け入れることを可能にせざるを得ない』。そこからトレルチは、繰り返し新たに“妥協”を見出すことを倫理的課題であると推論している。その妥協とは、『国家、法、学問、芸術といったものの職務の中』にある世界内的諸目的と、世界内的諸目的の統一化にとって不可欠であることがその力である宗教的目的の諸要求との間の妥協である。
この観点は、キリスト教会と諸集団の社会教説に関するトレルチの大著にとって基礎的な観点になったものである。(中略)
この妥協という構想は、一見してきわめてもっともなことと見える。しかしその理論的な基盤は、この研究の進行途中で繰り返し気付かされてきた不明瞭さに苦しんでいる。このことを示す最初の間接的証拠は、宗教的な目的設定とこの世的な目的設定との妥協という一方にある組織的な構想と、他方トレルチが、終末論的ラディカリズムからその後の時代における世界とその所与の積極的な受容へと到るキリスト教の歴史的発展の連続性を説明するために提供した明白な解明との間に不一致があることである。神がこの世界の創造者であり、この世界の救いを意図しておられる限りにおいて、あの発展は、キリスト教の神思想そのものに基礎づけられていた。そうであるとすると、キリスト教が、その使信が踏み入っていくところの文化世界を自己の内に統合するために、その文化世界の諸条件に関係するとしても、それはかならずしも妥協を意味するとは思われない。その統合がどのように遂行されるかということによって初めて、キリスト教信仰に対立する所与や所見との妥協を代価として支払ったかどうかという問題が決定される。しかしそうした妥協は、当然、倫理的課題として説明されることはできない。そうではなく、それは倫理的挫折、つまり眼前に見出される文化的所与をキリスト教的に『変革する』という課題に挫折したことを示すことになる。トレルチは、『妥協』という表現をより広い意味に使用して、キリスト教が文化世界の事実的諸条件と関係するそのあらゆる関与を『妥協』と呼んでいる。しかし、もしそれが神思想そのものによって要求されているならば、すでに述べたように、『妥協』という概念は惑わしを与えるものになるであろう。妥協概念は、キリスト教の歴史の中で繰り返し遂行されてきた『文化総合』に関するあまりにも外面的な描写を提供しているが、しかしその『文化総合』の信憑性は、そのキリスト教的真正性に関する確信に依拠している。」
(W. パネンベルク「エルンスト・トレルチにおける倫理学の基礎づけ」『キリスト教社会倫理』聖学院大学出版会、1992年、136~138ページ)
ここでパネンベルクが要するに言おうとしていることは、トレルチが使った「妥協」という言葉は、誤解を招きやすいので使わないほうがよい、ということです。
パネンベルクの意図を要約すれば、
「創造者」への信仰はキリスト教の神思想そのものであり、その思想は文化世界の統合という目的を包括するものなので、その目的を遂行することはなんら「妥協」ではない。
「妥協」という言葉の含意は、あくまでも倫理の挫折、すなわち、文化のキリスト教化の失敗でなければならない、というようなことになると思います。
ですが、ここでぼくは「う~ん」と考えこんでしまいます。
「妥協」という言葉をウスギタナイもののように毛嫌いし、神学的思想世界から排除する人がいるのは仕方ないとしても、
でもですね、ずっと前からぼくはしつこく言っているように、例の映画のセリフ:「正しいことをしたかったら偉くなれ」みたいなことは、もうあんまり言いたくも聞きたくもないけど、しかし、しかし、どうしようもないほど紛れもない事実だったりする。
立法・行政・司法の中枢部に入っていくことなしには、法律ひとつ、条例ひとつ、変えることもできないし、守ることもできない。
こんなことを書くと即座に「だったら、あんたが入っていけば~?」とか言われてしまうのでホントは書きたくもないんですが、
でも、「妥協」という言葉を見るだけで総毛立つものを感じるらしい人たち、あるいは「妥協」しているとその人たちの目に見えてしまった途端、排除と軽蔑の対象とみなし、徹底的に攻撃しはじめる人たちに接すると、ぼくは黙っておれなくなる。
こんなふうにして、ぼくは、「妥協」というのはキリスト教倫理の課題ではありえず、あくまでもキリスト教倫理の挫折である他はない、というパネンベルクの考えに、どうしても納得できないんです。
「妥協」という倫理的な“任務”は、我々にありうるのではないか。
結果、それは“汚れ仕事”っぽいことになるかもしれませんが、そういうことなしには、何もできずに終わってしまうだけではないか。
具体的に「何」をすることが(ポジティヴな意味での?)「妥協」なのかについては、ぼくには分かりません。
いま考えているのは、「妥協」“という言葉”をポジティヴに“使用”してもよいかどうか、という程度の話です。
ぼくにとって、というか、
もちろんトレルチにとってもパネンベルクにとっても、なんですが
最も深刻な問題は「妥協」(Kompromiss)なんです。
以下、ちょっと長いですが、パネンベルクの文章の引用。
「宗教的な目的と世俗的な文化的諸目的との一般的両義性は、トレルチによればキリスト教においても問題にならざるを得なかった。しかし、その宗教が『すべてを包括する創造的な神の意志』から出発しているため、『その宗教的目的は、ただ単に世界内的諸目的の代替とか除去とかを意味することができない』ということが、すでに一般に通用している。『そのようにして、まさにキリスト教の神信仰が、神によって創造された世界を積極的に評価することによって、神との交わりという絶対的な目的の中に世界内的な諸目的を受け入れることを可能にせざるを得ない』。そこからトレルチは、繰り返し新たに“妥協”を見出すことを倫理的課題であると推論している。その妥協とは、『国家、法、学問、芸術といったものの職務の中』にある世界内的諸目的と、世界内的諸目的の統一化にとって不可欠であることがその力である宗教的目的の諸要求との間の妥協である。
この観点は、キリスト教会と諸集団の社会教説に関するトレルチの大著にとって基礎的な観点になったものである。(中略)
この妥協という構想は、一見してきわめてもっともなことと見える。しかしその理論的な基盤は、この研究の進行途中で繰り返し気付かされてきた不明瞭さに苦しんでいる。このことを示す最初の間接的証拠は、宗教的な目的設定とこの世的な目的設定との妥協という一方にある組織的な構想と、他方トレルチが、終末論的ラディカリズムからその後の時代における世界とその所与の積極的な受容へと到るキリスト教の歴史的発展の連続性を説明するために提供した明白な解明との間に不一致があることである。神がこの世界の創造者であり、この世界の救いを意図しておられる限りにおいて、あの発展は、キリスト教の神思想そのものに基礎づけられていた。そうであるとすると、キリスト教が、その使信が踏み入っていくところの文化世界を自己の内に統合するために、その文化世界の諸条件に関係するとしても、それはかならずしも妥協を意味するとは思われない。その統合がどのように遂行されるかということによって初めて、キリスト教信仰に対立する所与や所見との妥協を代価として支払ったかどうかという問題が決定される。しかしそうした妥協は、当然、倫理的課題として説明されることはできない。そうではなく、それは倫理的挫折、つまり眼前に見出される文化的所与をキリスト教的に『変革する』という課題に挫折したことを示すことになる。トレルチは、『妥協』という表現をより広い意味に使用して、キリスト教が文化世界の事実的諸条件と関係するそのあらゆる関与を『妥協』と呼んでいる。しかし、もしそれが神思想そのものによって要求されているならば、すでに述べたように、『妥協』という概念は惑わしを与えるものになるであろう。妥協概念は、キリスト教の歴史の中で繰り返し遂行されてきた『文化総合』に関するあまりにも外面的な描写を提供しているが、しかしその『文化総合』の信憑性は、そのキリスト教的真正性に関する確信に依拠している。」
(W. パネンベルク「エルンスト・トレルチにおける倫理学の基礎づけ」『キリスト教社会倫理』聖学院大学出版会、1992年、136~138ページ)
ここでパネンベルクが要するに言おうとしていることは、トレルチが使った「妥協」という言葉は、誤解を招きやすいので使わないほうがよい、ということです。
パネンベルクの意図を要約すれば、
「創造者」への信仰はキリスト教の神思想そのものであり、その思想は文化世界の統合という目的を包括するものなので、その目的を遂行することはなんら「妥協」ではない。
「妥協」という言葉の含意は、あくまでも倫理の挫折、すなわち、文化のキリスト教化の失敗でなければならない、というようなことになると思います。
ですが、ここでぼくは「う~ん」と考えこんでしまいます。
「妥協」という言葉をウスギタナイもののように毛嫌いし、神学的思想世界から排除する人がいるのは仕方ないとしても、
でもですね、ずっと前からぼくはしつこく言っているように、例の映画のセリフ:「正しいことをしたかったら偉くなれ」みたいなことは、もうあんまり言いたくも聞きたくもないけど、しかし、しかし、どうしようもないほど紛れもない事実だったりする。
立法・行政・司法の中枢部に入っていくことなしには、法律ひとつ、条例ひとつ、変えることもできないし、守ることもできない。
こんなことを書くと即座に「だったら、あんたが入っていけば~?」とか言われてしまうのでホントは書きたくもないんですが、
でも、「妥協」という言葉を見るだけで総毛立つものを感じるらしい人たち、あるいは「妥協」しているとその人たちの目に見えてしまった途端、排除と軽蔑の対象とみなし、徹底的に攻撃しはじめる人たちに接すると、ぼくは黙っておれなくなる。
こんなふうにして、ぼくは、「妥協」というのはキリスト教倫理の課題ではありえず、あくまでもキリスト教倫理の挫折である他はない、というパネンベルクの考えに、どうしても納得できないんです。
「妥協」という倫理的な“任務”は、我々にありうるのではないか。
結果、それは“汚れ仕事”っぽいことになるかもしれませんが、そういうことなしには、何もできずに終わってしまうだけではないか。
具体的に「何」をすることが(ポジティヴな意味での?)「妥協」なのかについては、ぼくには分かりません。
いま考えているのは、「妥協」“という言葉”をポジティヴに“使用”してもよいかどうか、という程度の話です。
2013年7月9日火曜日
パネンベルクのトレルチ論を読み返している理由
いまごろになって、パネンベルクのトレルチ論(W. パネンベルク「エルンスト・トレルチにおける倫理学の基礎づけ」『キリスト教社会倫理』聖学院大学出版会、1992年、107~153ページ)を読み返していることには、理由があります。
読書マニアのつもりはないし、修論執筆の頃の郷愁にふけっているわけでもありません。
ごくざっくり言えば、
パネンベルクが紹介しているトレルチの論文「倫理学の根本問題」(ヨルダン社版『トレルチ著作集』第3巻所蔵)が直接的に扱っているのは、
カール・バルトの恩師でもあるマールブルク大学のヴィルヘルム・ヘルマンの主著『倫理学』なんですけど、
ヘルマンがアルブレヒト・リッチュルから受け継いだ新カント主義の見方に立ちつつ、
「キリスト教倫理」の主観化・内面化(権威や束縛からの自由とか自立とか)を促進しようとしたことに対して、
トレルチは、シュライアマハーの影響のもと、「キリスト教倫理」というのは、文化とか政治とかいった、もっと客観的・外面的な問題を扱う学問ではないかと言いたかったわけです。
で、トレルチは、これもごく単純にいえば、ヘルマンの「主観主義」とシュライアマハーの「客観主義」は相互補完的な関係にある、というくらいの趣旨で、両者の統合を模索しようとしました。
しかし、その「模索」たるや「言うは易し、行うは難し」なものでして、アロンアルファでくっつければ済む、みたいな話じゃないわけです。
だって、「権威からの自由や自立」(個人的主体性の確立)と「政治や文化のキリスト教化」(歴史的宗教文化の普遍化)というのは、水と油の関係でもあり、ベクトルが正反対を向いてるようでもある、でしょ。
でも、その矛盾・対立する両側面を同時に言えるようじゃなきゃプロテスタンティズムじゃない、みたいなことをトレルチ先生は考えたわけです。実に勇敢な先生だったと思います。
こんなことが今ぼくの問題になっているのは、名指しは避けますが、キリスト教倫理における主観性と客観性の関係について葛藤したことがないかのように見える人がいましてね。
その人どうも「キリスト教倫理」を語りたがっているようなんですが、
基礎づけがデタラメというか、何を言いたいのか分からない。
客観的な話にはほとんどならず、主観的な話をして終わり。
挙句の果てには「教会は政治や社会について発言すべきでない」みたいなことを言い出す。
これじゃあどうしようもないと、ぼくは思っているわけです。
もちろん、難しいんですけどね。だけど、「難しい」から「発言しない」わけには行かないんじゃないのかな。
そんなこんなの動機で、パネンベルクのトレルチ論を読み返しています。
分からず屋がいるとね、苦労しますよ。
あ、愚痴っぽくてすいません。
読書マニアのつもりはないし、修論執筆の頃の郷愁にふけっているわけでもありません。
ごくざっくり言えば、
パネンベルクが紹介しているトレルチの論文「倫理学の根本問題」(ヨルダン社版『トレルチ著作集』第3巻所蔵)が直接的に扱っているのは、
カール・バルトの恩師でもあるマールブルク大学のヴィルヘルム・ヘルマンの主著『倫理学』なんですけど、
ヘルマンがアルブレヒト・リッチュルから受け継いだ新カント主義の見方に立ちつつ、
「キリスト教倫理」の主観化・内面化(権威や束縛からの自由とか自立とか)を促進しようとしたことに対して、
トレルチは、シュライアマハーの影響のもと、「キリスト教倫理」というのは、文化とか政治とかいった、もっと客観的・外面的な問題を扱う学問ではないかと言いたかったわけです。
で、トレルチは、これもごく単純にいえば、ヘルマンの「主観主義」とシュライアマハーの「客観主義」は相互補完的な関係にある、というくらいの趣旨で、両者の統合を模索しようとしました。
しかし、その「模索」たるや「言うは易し、行うは難し」なものでして、アロンアルファでくっつければ済む、みたいな話じゃないわけです。
だって、「権威からの自由や自立」(個人的主体性の確立)と「政治や文化のキリスト教化」(歴史的宗教文化の普遍化)というのは、水と油の関係でもあり、ベクトルが正反対を向いてるようでもある、でしょ。
でも、その矛盾・対立する両側面を同時に言えるようじゃなきゃプロテスタンティズムじゃない、みたいなことをトレルチ先生は考えたわけです。実に勇敢な先生だったと思います。
こんなことが今ぼくの問題になっているのは、名指しは避けますが、キリスト教倫理における主観性と客観性の関係について葛藤したことがないかのように見える人がいましてね。
その人どうも「キリスト教倫理」を語りたがっているようなんですが、
基礎づけがデタラメというか、何を言いたいのか分からない。
客観的な話にはほとんどならず、主観的な話をして終わり。
挙句の果てには「教会は政治や社会について発言すべきでない」みたいなことを言い出す。
これじゃあどうしようもないと、ぼくは思っているわけです。
もちろん、難しいんですけどね。だけど、「難しい」から「発言しない」わけには行かないんじゃないのかな。
そんなこんなの動機で、パネンベルクのトレルチ論を読み返しています。
分からず屋がいるとね、苦労しますよ。
あ、愚痴っぽくてすいません。
ただ積んでおいただけの本を、これから読む
自慢する思いなどは持っていませんが
ぼくはもう何年になるのか分からないくらい、キリスト教書店に足を運んでいません。
最近の様子が全く分かりません。
それでも全く不自由していないので、それはそれで問題だと認識しています。
その昔に買った本ばかりを読んでいます。20年前とかに買ったものです。
当時はほとんど読む力がなく、ただ積んでおいただけの本を、これから読む。
そういう感じでしょうか。
本て、ある年齢に達するとか、ある経験を経なければ、決して理解できないものって、ありません?
逆に言えば、それを経験した瞬間に、それまで理解できなかったことが急に理解できるようになる、とか。
なんか、いま、ぼくそういう時期なんだと思います。
やっと著者たちと同じくらいの年齢になった、とでも言うのでしょうか。
偉い人と自分を並べて言うのはおこがましいかぎりですが、
今のぼくが47歳ですが、昨年46歳になったときに友人の牧師から
「カール・バルトが『教会教義学』を書き始めた年齢になられたのですね」
とか言われて、どっきりしました。
だからナニと言いたいのではありませんが(ぼくには本は書けません)、
その年齢に達して、やっと「ああそういうことか」と分かるようになった部分が、
たしかにあると言えば、ある。
「新しい本を買って情報をアップデートする」というのとは違うと思うのですが、
「これまで読めなかった本が少しは読めるようになった」というのは、
結局これまでは本を持っていても理解できていなかったということ以外に意味しえないわけだから、
新たに本屋に行くのと大差ないんですよね、実は。
でも、今日は、ダメダメ状態です。
午前中からずっと、パネンベルクの『キリスト教社会倫理』(聖学院大学出版会、1992年)の
「エルンスト・トレルチにおける倫理学の基礎づけ」という論文を久しぶりに読んでいるのですが、
(トレルチの倫理はぼくの修士論文のテーマでした)
アタマに入ってこないというか、思考停止の感じです。
気が散ってるのかな。きっとそうだな(にがわらい)。
2013年7月7日日曜日
努力や業績の追求では救われません
ローマの信徒への手紙4・1~12
「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。』では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。『アブラハムの信仰が義と認められた』のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。」
いまお読みしました個所には、先週までの個所に書かれていることとは“ちょうど正反対”のことが書かれています。そのように申し上げることができます。先週までの個所に書かれていたことは、ユダヤ人と異邦人の違いはどこにあるのか、ということでした。しかし、今日の個所に書かれていることは、その反対です。ユダヤ人と異邦人の共通点はどこにあるのかという問題です。そういう言葉や問いそのものが直接出てくるわけではありませんが、内容をよく考えてみれば、なるほどそういうことが書かれているということを、きっとお分かりいただけると思います。
何度も繰り返して申し上げてきたことですが、また繰り返しておきます。この手紙の中でパウロが「ユダヤ人」と書いているとき、その意味は幼い頃から聖書に基づく宗教教育を受けてきた人のことであると考えることができます。彼らが幼い頃からそのような教育を受けることができるのは、彼らの親や先祖が同じ信仰を受け継いできたからです。つまり、彼らは先祖代々の信仰者です。
それに対して、パウロが「異邦人」と書いているとき、その意味はユダヤ人とは異なる、ユダヤ人とは反対のタイプの人のことです。それは、幼い頃は聖書や教会に触れる機会がなく、聖書に基づく宗教教育とは無縁の生活を送ってこられたような、そういう人のことです。異邦人の信仰は、先祖代々受け継がれてきた信仰ではなく、その人自身が家族の中ではいちばん最初に与えられた信仰です。
どちらがいいとか悪いとか、どちらが上だとか下だとか、パウロ自身はそんなことを言いたいのではありません。全く違います。それどころかパウロは、両者の違いを明らかにしたうえで両者の共通点を指摘します。それは両方とも罪人であるという共通点です。どちらも罪深いと言っているのですから、ユダヤ人のほうが上だという話であるはずがないのです。神の前ではどちらも罪深いのです。
これで分かることは、どんなに幼い頃からそのような教育を受けていようとも、先祖代々の信仰を受け継いでいようとも、だからと言ってその人には罪がないということは言えないとパウロは考えていたということです。いま私は、教育には効果がないという話をしようとしているのではありません。そうではなく、教育という方法によっては、誰か一人でも、完璧に罪がない、人生で一度も罪を犯すことがありえない、そのような人間を生み出すことは不可能であるという話をしているのです。
しかし、両者の共通点はいま申し上げていることだけではありません。どちらも罪人であるということだけが共通点であるわけではありません。もう一つの共通点があります。それが、今日の個所に書かれていることです。それは、先祖代々の信仰を受け継いできたユダヤ人といえども、彼ら自身の信仰の歴史をいちばん最初までさかのぼれば、信仰を与えられた最初の人は事実上異邦人と同じ状態であった、ということです。
ユダヤ人の信仰の歴史の出発点はアブラハムです。アブラハムは先祖代々の信仰を受け継いだわけではなく、いわば彼が家族の中では初めて真の神を信じる信仰を与えられました。「『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』と書いてあるとおりです」(3節)とパウロが書いています。
アブラハムは、生後まもなく割礼を受けた人ではなく、成人してから割礼を受けた人です。それが意味することは、アブラハムにも割礼を受けていなかったときがあるということです。しかしだからといって、割礼を受けていなかった頃のアブラハムはまだユダヤ人ではなかったということにはなりません。かなり理屈っぽく聞こえてしまう話かもしれませんが、ここでパウロが言っていることは、アブラハムには「割礼を受けていないユダヤ人」だったころと、「割礼を受けたユダヤ人」だった頃とがある、というふうに、彼の人生は二つに分けることができるものである、ということです。
まさにこの点、つまりアブラハムという存在が、過去においては「割礼を受けていないユダヤ人」でもあったというその歴史的事実が、ユダヤ人と異邦人のもう一つの共通点であると言えます。このことを突き詰めて言えば、割礼を受けているかどうかという点こそが、その人がユダヤ人であるか、それとも異邦人であるかということを区別するための唯一の印であると考えることは、必ずしも正確な理解であるとは言えないということになります。そのように言える根拠は、信仰の父アブラハムの人生の中にも「割礼を受けていないユダヤ人」だった頃がある、ということです。
それで、今日の個所でパウロが問題にしていることは、アブラハムが神の義を与えられ、神の救いの恵みによって救われたのは、「割礼を受けてからですか、それとも、割礼を受ける前ですか」(10節)ということです。
この順序は重要です。アブラハムは割礼を受けたから救われたという順序であれば、割礼を受けることは人が救われるための条件であるということになります。しかし実際の順序はそれとは逆でした。アブラハムは神を信じました。だから彼は救われました。そして彼は救われた後に割礼を受けました。つまり、割礼を受けることは人が救われるための条件ではない、ということをアブラハム自身が証明したのだ、ということをパウロは言いたいのです。「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです」(11節)とパウロが書いているとおりです。
そして、パウロはこのことを異邦人の救いという問題に当てはめています。異邦人は割礼を受けていません。しかし、彼らは割礼を受けなくても、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によって神の義を与えられて、救われるのです。なぜなら、割礼は人が救われるための条件ではないからです。
そしてパウロは、まさにそのことを根拠にして、割礼を受けないまま信仰によって救われた異邦人は、アブラハムのように、あるいはユダヤ人のように、自分が救われたことの証しとして、救われた後に割礼の印を受けるということは、もはやしなくてもよいと主張しました。パウロが主張したのは、人が救われることにとっての条件ではない割礼を、まだそれを受けていない人々があえて受ける必要はないということでした。
ですから、パウロにとっては、ユダヤ人と異邦人の違いは、割礼を受けているかどうかにあるのではない、ということになります。アブラハムとは、ユダヤ人にとっての信仰の父であるだけではなく、異邦人にとっての信仰の父でもあるということになります。いま申し上げたことはパウロが次のように書いているとおりです。「こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました」(11節)。
だいぶ理屈っぽい話になっているかもしれません。しかしこれは、わたしたちにとって重要な事柄です。アブラハムまでさかのぼれば、ユダヤ人と異邦人の違いはない。少なくとも割礼の有無という点は問題ではなくなる。ユダヤ人にとっても異邦人にとっても、彼らが救われるために必要なのは信仰だけである。割礼は信仰と救いの付録のようなものだということになります。そして、その付録は絶対に必要なものではなく、無くてもよいものだという話になるのです。
その人がユダヤ人であるか異邦人であるかにかかわらず、つまり、先祖代々の信仰を受け継いできた人であるか、それともその人が家族で初めて信仰を与えられた人であるかにかかわらず、すべての人間にとっての救いの条件は信仰だけであるということになるのです。
しかも、その場合、「信仰」とは何を意味するのかが問題になります。パウロにとって信仰は「信仰」という名がついているだけの、しかし結局それは自分の行いや努力や業績であるというようなものではありません。自分ががんばって信じたとか、信仰という努力を重ねたとか、そういうことがその人を救うという話になるのであれば、結局、すべての人は自分の努力で自分を救うという話になります。神の恵みは不必要です。しかし、パウロの理解はそうではありません。信仰は神の恵みです。自分で手を伸ばして奪い取るものではなく、神から賜物として与えられるものです。それは、がんばった人への報酬ではなく、まだ何一つがんばっていない人へのプレゼントなのです。
そのことをパウロは「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(5節)という言葉で表現しています。
「不信心な者を義とされる方」とは神のことです。パウロが言っていることは、わたしたちの神は、深い信仰をもって生きている真面目な人だけを救ってくださる、そういう方ではない、ということです。順序が逆です。神を信じる信仰など全く持っておらず、信仰に基づく善き生活など全く送っておらず、真面目か不真面目か、どちらなのかと聞かれたら不真面目であると言わざるをえないような生活しか送っていない、そのような人を神は救ってくださるのです。それが正しい順序です。
「ずるい」などと言わないでください。わたしたちが教会に初めて来たときは「異邦人」の姿をしていました。パウロが描く「異邦人」は、わたしたちのことです。
もし「ずるい」と感じるとしたら、それはわたしたちがまだ元気な証拠です。しかし、やがて、病気や怪我や加齢等で体力や気力が衰え、「働きがなくなる」ときが来ます。そのとき、「働きがなくても、その信仰を義と認めてくださる」神の存在は、わたしたちの大きな慰めになるでしょう。
そして、もしそうでないならば、人が神によって変えられたということになるはずがないのです。救われる前に真面目な生き方が既にできているならば、神の力など不必要です。聖書も説教も不必要だし、教会も牧師も必要ありません。教会は真面目な人だけの集まりではありません。順序が逆です。教会の中で、人は神の力によって変えられていくのです。
(2013年7月7日、松戸小金原教会主日礼拝)
2013年7月5日金曜日
ほっと一息、すべては日常に戻る
すべては40代後半に突入してからです。
PTA会長だとか、大学のゲスト講義とか。
目立つことするのイヤ~ンなぼくが。
「遅ればせながら生まれて初めて系の仕事」
もう、死ぬまでこういうのは無い感じです。
ほっと一息、すべては日常に戻る。
幸か不幸か
生まれたときから7日刻みで人生を送ってきました。
何があろうが日曜日は教会。
こういう(単調な)リズム感覚が
骨身を粉砕する碾き臼のように感じたこともありました。
でも、この(単調な)リズム感覚のおかげで、
突発的なことや、非日常のことが襲いかかっても、
実はあんまり動じないで済んでいる。
ああ、これなのか。
プロテスタンティズムの世俗内的禁欲が
蓄財を生み出す、という理屈の根拠は。
蓄財は、無いけどね。
ぼくに無いのはそれだけだな(ちくざい)(笑)。
2013年7月4日木曜日
2013年7月3日水曜日
同じこと繰り返すだけなら初音ミクちゃんに言ってもらうほうがいいね
何年か前の高橋哲哉氏の本や、
読書会で読んでいる青野太潮先生の『十字架の神学をめぐって 講演集』や、
ファン・ルーラーの論文やで、
「贖罪論一元主義」というべきものへの批判が語られるのを読むたびに、
我が意を得たりとぼくは思う。
先日の読書会でも(問われたので)お答えしたが、
「贖罪論一元主義」になってしまうと「教会が胡散臭いものになる」と、ぼくは考えている。
個別の問題にかかわるのを面倒くさがっているだけのように見える。
宗教の欺瞞性が露骨に顔をのぞけているように見える。
どれほど涙を流しながら「贖罪」を説教していようと、ね。
教会を去る人が多いのは何故かとか、
日本の教会が広がらないのは何故かとか、
そういう言説が「流行る」今日この頃。
個別の問題に興味を持ってもらえない。
具体的な問題解決にかかわってもらえない。
不思議な話と不思議な儀式してるだけ。
ぼくもやだな。行きたくないね。時間の無駄と思うわ、たしかに。
牧師が「口動かしてるだけのヒマ人」なのは、個別の問題にかかわるためでしょ?
カラダ動かしてるかどうかは無関係。
カラダ動いてなくても、「個別の問題にかかわること」はできるから。
そもそも「偏執」や「同語反復」って、ぼくらの仕事ですかね。
同じこと繰り返すだけなら初音ミクちゃんに言ってもらうほうがいいね。
読書会で読んでいる青野太潮先生の『十字架の神学をめぐって 講演集』や、
ファン・ルーラーの論文やで、
「贖罪論一元主義」というべきものへの批判が語られるのを読むたびに、
我が意を得たりとぼくは思う。
先日の読書会でも(問われたので)お答えしたが、
「贖罪論一元主義」になってしまうと「教会が胡散臭いものになる」と、ぼくは考えている。
個別の問題にかかわるのを面倒くさがっているだけのように見える。
宗教の欺瞞性が露骨に顔をのぞけているように見える。
どれほど涙を流しながら「贖罪」を説教していようと、ね。
教会を去る人が多いのは何故かとか、
日本の教会が広がらないのは何故かとか、
そういう言説が「流行る」今日この頃。
個別の問題に興味を持ってもらえない。
具体的な問題解決にかかわってもらえない。
不思議な話と不思議な儀式してるだけ。
ぼくもやだな。行きたくないね。時間の無駄と思うわ、たしかに。
牧師が「口動かしてるだけのヒマ人」なのは、個別の問題にかかわるためでしょ?
カラダ動かしてるかどうかは無関係。
カラダ動いてなくても、「個別の問題にかかわること」はできるから。
そもそも「偏執」や「同語反復」って、ぼくらの仕事ですかね。
同じこと繰り返すだけなら初音ミクちゃんに言ってもらうほうがいいね。
2013年7月2日火曜日
価値観の違い
心晴れない事情や悩みを抱え、かつどこにも持って行く場所が無くなり、いわば最後の最後に「教会」に頼ってくださるという方は、いまでも少なからずおられる。
最近もそういう方(面識ない)からのかなり長時間の電話をいただいた。
まあぼくは、口しか動いてないヒマ人なので、けっこう付き合うことはできる。専門的と言えるレベルではないが、ある程度のカウンセリングの手ほどきは受けた。
当然守秘義務があるので、詳しいことは書けない。家庭内の問題についての悩みだ。はっきりいえば「夫婦」の問題だ。
話を聴いているうちに、両者に明確な価値観の違いがあるようだ、しかし、相談者自身はその違いに気づいていないようだ、と分かった。
そのことを率直に告げた。びっくりされたようだったが、感謝してくださった。
参考までに、個人情報に触れない範囲で書いておこう。
価値観の違いとは、お金の使い道の話だ。
どちらかが贅沢をしている、という話ではない。
なるべくお金を使わずに、あるいは、最小限の支出で済ませる方法を考えようともせずに、まるで脊髄反射のように、口を開けば「だったら病院行けば~?」「だったら薬買えば~?」と言いだすことだ。
「その治療代、その薬代は、誰が稼いでると思ってるの?」と言いたい気持ちを飲み込んでおられるのではないか。
いま何時間働いたらいくらもらえるか、分かってるよね。それを病院だ、薬だに使うくらいなら、小さな子どもと貴方のために使ってもらいたい。そう思えるから働けるのに。
仕事で疲れ果てて帰宅して、家で疲れた顔していると「病院行けば~?」「薬買えば~?」「マッサージ行けば~?」
そりゃ相手も腹立ちますよねと、ぼくには思えた。
もちろん病院や薬局が悪いわけじゃなくて(たぶんね)、不況の世の中が悪いのだろうけれど、
まるで脊髄反射的に「病院行けば~?」「薬買えば~?」「マッサージ行けば~?」と言いさえすれば、相手をいたわる善意の言葉をかけている気になれる、世の中の風潮は、何とかしなくてはならないかもしれない。
「教会」は、病院でも薬局でもないし、会社でも学校でもない。
他の牧師たちは全く違うが、ぼくは口しか動いていないヒマ人なので(関グチなだけにね)、
何の役にも立たないし、悩みを抱える人に具体的な問題解決策を提示することすらできそうもない。
ぼくに言えることといえば、病院と薬局とマッサージ室の営業妨害することくらいだな(笑)。
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