2013年5月8日水曜日
祈祷会でハイデルベルク信仰問答の学びを始めました
午前中は祈祷会でした。今日からハイデルベルク信仰問答の学びを始めました。
テキストは『ハイデルベルク信仰問答』(吉田隆訳、新教新書252、新教出版社)とW. ガウルーズ『ただひとつの慰め ハイデルベルク信仰問答案内』(吉川八郎訳、新教出版社)です。
ガウルーズの解説書は今でも売ってるものと思い込んでいましたが、絶版のようですね。アマゾンの「中古品」で9,979円とか高額がついてるのを見て、飛びあがりました。この本は、かぎ付きの金庫に隠すことにします(笑)。
というわけで、無事に祈祷会が終わりましたので、ハイデルベルク城を眺めながら、美味しいごはんを食べたいと思います。
幕の内弁当 398円 676キロカロリー
午後の紅茶おいしい無糖 128円 0キロカロリー
論文の原稿を雑誌の編集者に送りました
10か月の苦悶を経て、やっと今夜、2万字弱の論文原稿を、ある雑誌の編集者(某大名誉教授)に送りました。
感無量と言うべきところですが、爽快感はほとんど無いです。
調べれば調べるほど謎は深まるばかり。しらしらなぞふか、です(意味不明)。
パソコンの壁紙のテーマは「ある日のカール・バルト研究会」です。今夜開いたわけではありません。
就寝前のデトックス。
役職の責任が強まるとネットの住民を妙に攻撃しはじめる官僚牧師さんたちは、ちょっといただけないなあ。
「ネットにリアルを求める錯覚に陥るな」
「ネットの○○を安易に継ぎ接ぎするな」
「ネットで人格が変わるのは如何なものか」
そういう言葉で、ぼくが批判されたわけじゃないですよ。
言ってる人は、ぼくのことも同じように言ってるんでしょうけどね。
ぼく相手に面と向かって言える度胸のある人は、少ないみたい。
言われたら、ぼく冷静に言いますよ。
「べつに人格変わってませんから」とね。
ただ、ネットにリアルを求めることが錯覚、みたいな言い草って、どうなんですかね。
相当リアルだと思いますけどね。
どこがどう錯覚なんだろ、これとか(カール・バルト研究会のことです、笑)。
2013年5月6日月曜日
「なんでやねん」は否定の言葉じゃないですよね?
土曜日からひとりで悶々と考え込んでることは、「ボケ」と「ツッコミ」の関係はどうなってるんだろうかとか、「ノリツッコミ」ってどういう構造してるんだろうか、というようなことです。
ぼく岡山で生まれ育ちましたので、関西人ではないんですけど、子どもの頃から吉本新喜劇のテレビ観てたクチです。
その程度なので、関西文化には全く詳しくないどころか、直接の接点は無いですし、それほど深い興味をもってるわけではないので、関西系のディープネタでマニアックにからんでこられても何の反応も出来ないタイプでもあるんですけど、まあ、でも、親近感はあるほうです。敵意とかは皆無です(この段落は自己防衛本能発動)。
まあ、でも、その程度のぼくにでもわりとはっきり分かるのは、「なんでやねん」は否定の言葉じゃないということです。
あれ否定でも肯定でもないですよね?
じゃあ何なのかと聞かれてもサッとは答えられないのですが、強いて言えば「余裕」みたいなことですかね。違うのかな。
ここから先は、本場の人にご登場いただかなくては、ぼくにはなんとも分かりません。
ツッコミとボケの関係は、柔道の「剛」と「柔」の関係だろうかとか、いや、「北風」と「太陽」かなとか、「三角」と「円」かなとか。哲学的な言い方をすれば「受容」と「否認」かな、いや、ツッコミは「否認」じゃキツすぎるなとか。
ノリツッコミっていうのは、途中で加速装置がカチッと入る感じだな、とかね。
そんなことをね、ぼくはいつも考えながら生きてますよ。
こういうのも「説教黙想」の一環なのであります(たぶん)。
2013年5月5日日曜日
いまだに「アメリカの圧力」なんですかね。古くさッ!
「改憲て何なのよ?」と、今さらながらバカみたいな、というか純粋にバカな書き込みしときますけどね。
いまだに「アメリカの圧力」なんですかね。いつの話?古くさッ!昭和?
だけど、アメリカの人たちさ、
悪いけど、「一ドル360円時代」の幻想をいまだに抱いて、日本をいつまでも下に見てると間違いますよ。
え、いま、一ドルいくらよ?え、100円玉よりまだ下なの?小学生のお小遣いレベル?
金の切れ目が縁の切れ目。
カネもってない相手に屈従する人、いませんからっ!
・・・とか言ってみたい。英訳してFacebookに貼るかな(笑)。無力だ(悲報)。
2013年5月4日土曜日
日本の教会と神学は“二重否定”っぽい言葉づかいを口癖のように繰り返しています
ポジティブ言い換え教えます 「辞典」著者の授業人気
(朝日新聞デジタル2013年5月4日)
【芳垣文子】ネガティブな言葉をポジティブな表現に言い換える例を集めた「ネガポ辞典」(主婦の友社)の著者で、北海道内の大学に通う2人の女子大学生が、今年に入って学校などに招かれ、ユニークな授業を繰り広げて活動の場を広げている。
http://www.asahi.com/national/update/0504/HOK201305030009.html
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この記事というか、この辞書、興味あります。いつ買えるか分かりませんけど。
ぼくは何年か前から意識的にやってきたつもりですが、説教原稿を書き終わったら、それを二度三度読み直してみて、ネガティヴな言葉が見つかれば、その言葉をポジティヴな表現に言い換えて書きなおすだけで、説教の雰囲気がぐっと明るくなります。
逆にいえば、説教以外のことで多忙に巻き込まれ、説教原稿の読み直しさえできないヨクナイ状態になっていると、説教の言葉がどんどんネガティヴになっています。だから、その説教を聞く教会のみんなの表情も暗くなっている。
弁証法神学の影響を受けすぎた日本の教会と神学は(ぼくもいまだにどっぷり浸かったままですからね、他人事として書いてるわけではありませんよ)、まさに「弁証法的な論理」(「正→反→合」ですね)に慣れ過ぎている。
だからだと思うのですが、”二重否定”っぽい言葉づかいを、ほとんど無意識に口癖のように繰り返しているようです。
「しないわけにはいかない」とか。「○○でないわけではない」とか。
あとは、いかに人間は罪深いかをひたすらに強調する。教会は当然悪いけど、社会も悪い。目に見えるものや手で触れうるもの、要するに地上のすべては何もかも悪い、みたいな絶対的な否定を経なければ、「神」を絶対的に肯定できない、みたいな論理とか。
なんかね、そういうの暗い。キザだしね。もったいぶった言い回しっていうか。ナニかっこつけてんのって感じ。
「しないわけにはいかない」は「します」でいいんじゃないでしょうかね。
「○○でないわけではない」は「です」でいいんじゃないでしょうか。
あ、そうそう、
あのね、説教原稿とかに「○○であります」って書くの、ケロロ軍曹みたいですよ。
「です」と2文字で書けるのに「であります」と5文字も書くのは水増しですよね。
2013年5月2日木曜日
「激辛メンチカツカレー(サラダ付)330円」の時代
実際、生きるってたいへんだと思いますよ。
たとえば、これ、レトルトカレーですけどね、グリコの「リー」の20倍。からいからい。これが239円。
メンチカツは90円。サラダのコストは70円くらい。ごはんもうちで炊きました。タダじゃないですけど一合で70円くらいでしょうかね。
だから「激辛メンチカツカレー(サラダ付)」は、ちょっと丸めて「330円」ですよ。まあ、もちろんレトルトの話ですけどね。
これでも、もちろん、ある見方をされてしまえば「贅沢してる」とか見えてしまうでしょうね。
「こら!カロリーが高いぞっ」とかね。
あ、いや、それより何より、「一食に330円もかけるのはけしからんっ!」とか叱られてしまうかな。
「そのメンチカツ、そのサラダが無駄だ。まだ削れる、もっと削れる」とかね。
ほんとは一食200円くらいで抑えられるといいのでしょうけどね。
いや、200円でも贅沢ですかね。「世界の貧しい国の人たちのことを考えろ!」とか言われちゃうかな。
で、いま考えこんじゃってるのは、うちの家計の話じゃなくてね、
かなり大げさにいえば、日本の景気どうなる、みたいなことですよ。
だって、このレトルトででっち上げた「激辛メンチカツカレー(サラダ付)330円」、ほんっとに美味しいですもん。
わざわざ飲食店まで出かけなくても、これだけ美味しいものを、自分の家でパソコンとかスマホとか楽しみながら、味わえる時代なんですよ。
お店の人たちとか、ほんっとにたいへんだと思う。
だけど、ごめんなさい。うちで食べちゃいました。
あー美味しかった。ごちそうさまでした。
2013年4月30日火曜日
複数の方から「若く見える」と言われました
最近の驚き。
初対面の方や久しぶりの方複数(すべて男性)から「若く見えます」「若いですね」「若返りましたね」と言われました(汗)。
何の操作も細工もしてません(汗)。
そう言われて、ちょっとまた、うれしかったりする(汗)。
そういう、いまだかつて抱いたことがなかった自分の感覚に、二重の驚き(汗)。
状況は何も変わってないんですけどね(汗だく)。
う~ん、そうですね、強いていえば、最近わりとたくさん水(ミネラルウォーター)を飲むようになったくらいですかね。
以前は明けても暮れてもウーロン茶を飲んでましたけど、さすがに飽きました。
甘い飲み物やアルコールは元からそんなに飲まないんです。無糖のものが好きです。
紅茶もコーヒーも、ちょっと前までは、それを飲めば終わりでしたが、最近は紅茶やコーヒーのあとに、必ずたくさん水を飲みます。
他は何にもしてませんよ(汗)←あ、汗が出たら水分補給しなきゃ(笑)。
2013年4月28日日曜日
自分の父親と思って諭しなさい
テモテへの手紙一5・1~4
「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。」
こういう個所は「面白い」と思いながら読むことができる人と、必ずしもそうでないと感じる人とで分かれてしまうかもしれません。「老人」とか「やもめ」とかいう言葉がストレートに出てくることに抵抗があるという方がおられるかもしれません。
しかし間違いなく言えることは、西暦一世紀の教会の中での信徒同士の交わりの様子はこのようなものであったということです。私自身は「面白い」と思いながら読みましたし、「素晴らしいことだ」とも思いました。
教会の交わりというものが、まさに家族として、神の家族として、親子や兄弟姉妹として描かれています。そのようなものであるべきだと勧められてもいます。少なくとも、そのようなものが教会の理想的なあり方であるという思想があります。そのような理念があり、またそのような信仰があります。
しかしまた、ここで忘れてはならないことは、この手紙はやはり使徒パウロが年若い伝道者テモテに宛てて書いた手紙として読むべきだということです。その文脈から切り離して読むと、誤解されてしまう危険性があります。
この個所に書かれていることは、「若い牧師に対する先輩牧師のアドバイスの言葉」として読めば、パウロの意図をおそらく最も正確に理解することができるだろうと思います。この手紙にはすでに「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません」(4・11)と書かれていました。若い牧師が教会で大きな失敗をしないためにどういうことが大切なのかが、今日の個所に書かれているのです。
それが「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい」(1節)ということです。
この「老人」(プレスビテロス)は「長老」とも訳せる言葉です。しかし、教会役員としての「長老」には年齢の若い人がいますので、この個所の「長老」を教会役員としての長老だけに限定して考える必要はありません。それに、「長老を叱ってはなりません」と訳してしまうと奇妙な話になるでしょう。
そうでなく、この「老人」は高齢者です。若い人とは年齢が離れた、年上の教会員です。そういう相手を叱りつけてはいけませんとパウロはテモテに言っています。おそらくそのように言うパウロの意図は、高齢者の人間としての尊厳やプライドの問題です。高齢者のプライドを傷つけてはならないと言っているのです。
しかし、その一方で「自分の父親と思って諭しなさい」とも書いています。ここで用いられている場合の「諭す」(パラカレオー)という語の意味においては、教会の教師が信徒に教えたり指導したりすることを必ず含んでいますので、そもそも教えることや指導することを老人相手にしてはならないと言っているわけでもないのです。
「テモテよ、おまえは、年下の分際で、自分よりも年上である目上の人に向かって教えるだの指導するだのすること自体、たいへんけしからんことである。言語道断である」と、そのようなことを言っているわけではないのです。
つまり、ここでパウロが言っていることは、一方で若い牧師は高齢の教会員を叱りつけるようなことをしてはならないということです。しかし他方で、だからといって若い牧師は高齢の教会員を「諭す」責任を放棄してよいわけでもないということです。
それで私に思い当たるパウロの意図は、教会の牧師たちは教会員に対して“言い方を間違えてはならない”というあたりのことです。
同じことを言うのでも、厳しく冷たく吐き捨てるように叱り飛ばすようなやり方と、そうでないのとでは、伝えようとしている事柄の伝わり方や相手の反応が全く違います。
もし牧師や長老が教会員に求めることがあるとすれば、聖書のみことばに従って正しく生きるようになってもらいたいということだけです。まるで自分が権威者であるかのようにふるまい、自分の権威に従わせることが目的であるような牧師や長老では困ります。教会が完全に壊れてしまいます。
この個所を読んでいて私に伝わってくるパウロの思いがあるとしたら、それは、教会における人間関係は非常にデリケートなものだということです。そのデリケートな関係を大切に守らなければならない。土足で踏みにじるようなことをしてはならない。牧師や長老が率先して教会を壊すようなことをしてはならない。パウロがテモテに言おうとしていることは、そのようなことです。
「老人を叱ってはならない」。その意味は、何を伝えるにしても、言い方に気をつけなさい、ということです。
「自分の父親と思って諭しなさい」と書かれているところを読んで、私と父親との関係を考えさせられました。若くて元気だったころと比べると、最近はだいぶ弱っているような感じです。最近たまに電話で話すとき、ゆっくり丁寧に説明しなければ内容を理解してもらえないときがあります。落ち着いて内容を理解してもらい、十分に納得してもらえるように語る。そういうふうにすれば分かってもらえます。
しかし、わたしたちの現実の親子関係が、はたしてパウロが思い描くような理想的な関係になっているだろうかと考えると、私は心痛むものがあります。私はひどい親不孝者ですから。
しかし、ここで開き直って考え直してみる。親子の関係や家族の関係をいつでも必ず教会が模範にしなければならないだけではなく、その逆の順序もあるはずです。教会の中で培われた信頼関係を築くための方法のほうを家庭に持ち帰って、親子の関係や夫婦の関係に当てはめて生かしていくことも、わたしたちにできることです。教会と家庭との相互関係や往復運動が重要なのです。
(2013年4月28日、松戸小金原教会主日夕拝)
偶像礼拝はなぜ悪いのですか
ローマの信徒への手紙1・18~23
「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」
いまお読みしました個所に書かれていることを、今日もまた最初に一言でまとめておきます。この個所でパウロが要するに言おうとしていることは、すべての人は神を知っている、ということです。「私は神など知らない」と言い張ってもよい人は一人もいないのです。
「彼らには弁解の余地がありません」(20節)と書かれています。「彼ら」とは、全人類です。全人類には弁解の余地がないのです。
何の弁解の余地がないのでしょうか。それは次のようなことです。「私は神など知らない。見たことも触ったこともない。だから、神を知らない私は、神の教えなどというものも知らない。だから私は、神の教えに反することが罪であり、そのような罪をあなたは犯していると責められても困る。なぜなら私は神を知らないし、神の教えも知らないのだから」と言い張ることはできない。なぜなら、すべての人は必ず神を知っているからであると、パウロは言っているのです。
なぜそのように言えるのでしょうか。その理由をパウロは次のように書いています。「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです」(19節)。この「彼ら」も全人類です。神について知りうる事柄は全人類に明らかであると言っています。「神がそれを示されたのです」(19節)とあるとおり、「神について知りうる事柄」を神御自身が全人類に示されたのです。
「神について知りうる事柄」とは何でしょうか。それが次のように説明されています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(20節)。
ここでまた「造られた」と受動形の文になっています。世界は「造られた」のです。この世界は誰かが造ったのです。誰が造ったのかについては、わたしたちはよく知っています。それが神です。神が世界の創造者です。しかし、このような言い方をしても納得していただけない場合がありますので、別の言い方をしておきます。
世界、世界と、いま言っていますが、人間社会だけのことではありません。わたしたちがその上に立っている地球だけでもありません。宇宙空間を含めた天地万物です。ありとあらゆるものです。そのすべてを造ったのは少なくとも人間ではありません。それは明白です。人類が一度も行ったこともない星を人類が造れるわけがありません。世界のすべてを人間が造ったなどと言うことこそ、非科学的な言説です。人類以外の何ものかが全宇宙を造ったのです。
しかし、その「何ものか」が何ものなのかは諸説に分かれます。それを偶然と呼ぶ人もいます。自然と呼ぶ人もいます。(非人格的な)力のようなものだと考える人もいます。このように考える人たちは、全宇宙をつくった存在の中にも人間と同じような意味での「心」があって、その心の中で「この世界を造る」意志があったとか、「これを造りたい」という願いがあったとか、「これが将来どうなってほしい」という祈りがあったとか、そのようなことを基本的には認めません。
しかし、ここから先が宗教の話になります。宗教的に考える人たちは、この世界を造った存在のうちに「心」があり、その中に意志や願いや祈りがあったと信じるのです。そのような存在をわたしたちは“人格的な”存在などと表現します。神の心が、世界が創造されたときに働いたとわたしたちは信じています。この世界は偶然できたとか、自然にできたとか、意志や願いのようなものとは全く無関係にできたとか、そのようなものではない。この世界にはこれを造った存在の心が働いている。そのような心を持つ存在を、わたしたちは「神」と呼ぶのです。このような順序で考えることも不可能ではありません。
パウロが書いていることも、それとよく似たようなことであると考えていただいて構いません。世界が造られたときから「被造物」に現れているという「目に見えない神の性質」つまり「神の永遠の力と神性」の中身は、御自身がお造りになったこの世界をどんなふうにしようとか、どんなふうになってほしいと願われたり祈られたりなさった、神の意志です。
「これを通して神を知ることができます」(20節)とパウロは書いています。これは料理や芸術をなさる方には分かっていただける話ですが、「造られたもの」にはそれを造った人の思いがある。その作品を観る人たちは、その作品に込められた作者の心を読みとる。そういうことが創造者なる神と、被造物としてのこの世界と人間との関係にも当てはまります。この世界に生きている人たちは、この世界をお造りになった神の作品の中に生きているかぎり、この神の作品の仕組みをだんだん分かるようになりますので、その意味で、神の作品としてのこの世界のうちにこめられた神の意志を知ることができるのです。
もう少し分かりやすい話をしておきます。この世界には山があり、海があります。空には太陽があり、月があり、星があります。先ほども言いましたが、これらすべてのものを人間が造ったなどということはありそうもないし、そのように言うこと自体が非科学的です。しかし、人間が造ったのでなければ、だれが造ったのでしょうか。偶然や自然や(非人格的な)力が造ったのでしょうか。そのように考える人は大勢います。しかし、そのように考えるにしては、この世界にはあまりにも多くの調和があります。見事なまでの法則があります。人間には心があり、意志や感情があります。何かを愛し、人を愛し、いろんなものをいたわり、助け、育む思いがあります。そのようなわたしたち人間の心が偶然や自然や非人格的な力によってできたというふうに考えるのは、かえって難しいことです。
むしろ分かりやすいのは、わたしたち人間に心を与えた存在にも心があるという話です。そして、その存在をわたしたちは神と呼ぶのです。こういうふうな話は特別熱狂的な宗教にかぶれた人たちにしか至りえないというようなことはないのです。だれでも分かる話だし、過去の歴史の中でほとんど全人類が、一度以上は考えたことがあるし、信じたことがある、その意味で普遍的な認識であると言えるのです。
しかし、いま私が申し上げていることには明らかに限界がある、ということも分かっています。いま考えていることは、我々人間はこの世界の中でただ生きているだけで自然に神を知ることができるのかという問題です。この問題は、キリスト教会の二千年の歴史の中でずっと議論され、いまだに議論され続けている難問中の難問です。
今のところのわたしたちの結論は、そのようにして神を知ることは全くできないというわけではないが、はなはだ不十分であるということです。やはりそこで聖書を読まなければ、正しく神を知ることができないのだというのが今のところの結論です。だから、先ほど来申し上げていることには限界があるのです。そのことを私は十分に分かった上で申し上げていますので、そろそろ話の方向を変えて行かなくてはなりません。
どこに限界があるのでしょうか。その限界をパウロ自身も知っています。次のように書かれています。「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍くなったからです」(21節)。
すべての人に弁解の余地はないのです。すべての人は、「私は神など知らない」と言い張ることはできないのです。しかしそれにもかかわらず、多くの人は「私は神など知らない」と言います。それにはそれなりの理由があります。世界のどこを捜しても「ここに神がいる」と指さしたり、その存在を手で触ったり、指先でつまんだりしたことがある人はいないからです。神を自分の目で見た者はいません。触ることもなでることもできません。
そこでわたしたちの心に魔が差すのです。見たことも触ったこともない神のことは「知らない」ということにしておこう。こういう考えが出てくるのです。
たとえば、わたしたちが産まれたことをお父さんとお母さんの出会いや結婚というようなことだけで説明できるとすれば、「お父さん、お母さん、ありがとう」と、父の日と母の日に感謝のプレゼントでも贈れば済むかもしれません。しかし、それだけでは説明できないわたしたちの人生があり、この世界の存在があるのであれば、全世界を造り出し、生み出してくださった神に感謝しなくてはなりません。
ところが、そのようなことが、わたしたちにとっては面倒くさいのです。面倒くさいので、神だなんだと、大げさなことは分からないし、関心も興味もない、という話にしたがるのです。
しかし、その一方で、わたしたちは、現実の人生や難しい社会の中で生きていると、心のよりどころが欲しくなります。世界を創造された神だなんだと大げさな話は勘弁してほしい。でも、人生に行き詰まったとき、人からいじめられたとか、つらい思いになったとき、それをぎゅっと握りしめて、「助けてください」と心の中で言える、ポケットの中に入れておける小さなお守りのようなものなら持っていたいのです。
それは、神ではないのに、神の代わりにする代用品です。それ自体には何の力もありません。しかし、わたしたちは、そういうものを持ちたがります。自分の都合のよいときだけ取り出せる神さま。そのようなものに本当は納得も満足もしていないし、できていないのかもしれません。しかし、それ以上のものを求めるほどの気持ちまでは起きないのです。神を礼拝するとか、その神に感謝するという信仰にまで至らないのです。
今日の説教題に「偶像礼拝はなぜ悪いのですか」と書きました。このようなことを書きますと、教会は偶像礼拝は「悪い」ことだと鼻から決めつけているが、それが「悪い」かどうかは人それぞれの価値観であると言われてしまう時代に、わたしたちは生きています。そのことも私はよく分かっているつもりです。しかし、私はやはり「悪い」ことだと考えています。
なぜ「悪い」のでしょうか。天地万物の創造者なる神は、わたしたちが都合よくポケットから取り出して利用してもよいような存在ではないからです。偶像礼拝は、まるで神がそのようなものであるかのように人を誤解させ、人の道を誤らせるのです。こういうところが「悪い」のです。
(2013年4月28日、松戸小金原教会主日礼拝)
2013年4月26日金曜日
「第7回 カール・バルト研究会」報告
本日(2013年4月26日)21時から23時30分まで、「第7回 カール・バルト研究会」を行いました。
今日は過去最多人数である5名揃っての研究会となりました。やっぱり参加者が多いと盛り上がりますね。
「第7回」参加者名簿(五十音順、敬称略)
小宮山裕一(茨城県)
関口 康(千葉県)
中井大介(大阪府)
謎の匿名氏(住所非公開)
藤崎裕之(北海道)
今日のテキストはカール・バルト『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の「4.信仰とは告白を意味する」(§4 Glauben heisst Bekennen)の後半部分でした。
「カナンの言葉」(=聖書と教会の伝統の中で培われてきた言葉)に固くとどまることと「新聞の言葉」(=徹底的に世俗的で卑俗な言葉)へ翻訳することとの緊張関係がスリリングに語られているところなどは、我々が毎日悩まされている問題なので、バルトの意図は手に取るように分かるし、具体的な課題が次々に見えてくるような内容でした。
次回(第8回)は2013年5月10日(金)21時から23時までです。
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