「もう寝ます!」と宣言してからが長い!
ウダウダなう...。
バルトの『教義学要綱』予習してました。
日本語版:
「われわれは、確かに混乱せしめられたり、疑ったりすることがありうる。しかし、一度信ずる人は「消えざる印章」(character indelebilis)のようなものを、持つのである。信じる人は、自分が支えられているという事実に、恃(たの)むことができる。不信仰と戦わねばならぬすべての人に対して、『あなたは自分の不信仰を余り重大に考えてはならない』と、勧めなければならない。信仰だけが、重大視さるべきである。そして、もしわれわれに芥子種(からしだね)一粒ほどの信仰があるならば、悪魔が敗北するには、それで十分なのである。」
(バルト『教義学要綱』新教出版社、新教セミナーブック、1993年、23ページ)
英語版:
One may, of course, be confused and one may doubt; but whoever once believes has something like a character indelibilis. He may take comfort of the fact that he is being upheld. Everyone who has to contend with unbelief should be advised that he ought not to take his own unbelief too seriously. Only faith is to be taken seriously; and if we have faith as a grain of mustard seed, that suffices for the devil to have lost his game.
(Karl Barth, Dogmatics in Outline, Harper & Row, 1959, p. 20-21)
ドイツ語版:
Man kann gewiss verwirrt sein und man kann zweifeln, aber wer einmal glaubt, der hat so etwas wie einem character indelebilis. Er darf sich dessen getrösten, dass er gehalten i s t . Es ist Jedem, der mit dem Unglauben zu ringen hat, zu raten, dass er seinen eigenen Unglauben nicht zu ernst nehmen solle. Nur der Glaube ist ernst zu nehmen, und wenn wir Glauben haben wie ein Senfkorn, so genuegt das, dass der Teufel sein Spiel verloren hat.
(Karl Barth, Dogmatik im Grundriß, Theologischer Verlag Zürich, 1947, S. 23)
超訳:
「まあね、もちろんさ、アタマ混乱、ワケ分からんくなったり、『んなことありえねー』と思ったりすることくらい、だれでもありますよ。だけどさ、もうね、いったん信じた人には『不滅の焼き印』(character indelebilis)みたいなのを押してもらえるのよ。そしたらね、『もうぼくは何があってもガチッと守られてるんだから大丈夫だぜ』と安心してもいいのね。不信仰っつーかね、そういうのはダメだと葛藤してる人がいたら、『え、不信仰?んなの、べつに大したことじゃないっすよ』と言ってあげてくださいね。『信仰ってすげえもんなんだよ』とね。パンとかに塗るマスタードあるじゃん、あの中のちっちゃい黒い粒あるでしょ、あれの一粒くらいの信仰があれば、悪魔の口はまっかっか。ブーッと噴き出して血相変えて逃げちゃうからね(笑)。だから安心していいんです、はい。」
えっと、ですね、「はしがき」を読むと分かるのですが、
バルトの『教義学要綱』って、いわゆる「トークライブ」だったらしいんです。
だから、それ風に(笑)。
2013年2月6日水曜日
今日の午後は「編集」に没頭していました
今日は午前中は祈祷会、午後は「編集」に没頭していました。
あ、いえ、「編集」といっても、将来の日本語版『ファン・ルーラー著作集』刊行に備えて、オランダ語版(現在第4巻まで配本済み。全9巻の予定)のとおりに訳文を並べ替えてファイルして、ファイルの題字を付けただけですけどね(汗)。
少しでも見栄えをよくするために、コピーが重複している場合はひとつだけ残してあとは捨てるとか、古くなったり汚れていたりするコピーは新しく印刷しなおすとか、訳はできているのに印刷してなかった分を印刷するとか。
大したことなさそうなのに、シロウトがやると、たったそれだけのことに、半日もかかってしまいました。
各巻ごとにファイルしてみると、すでにある程度の分量になりそうな巻もあると思えば、まだタテに立ちもしない「薄い」巻もあるなと気づかされます。
道なお遠し。
あ、でも、まさか、ぼくひとりで全部やれるとかは思ってませんからね(汗だく)。
「ファン・ルーラー研究」というタイトルを付けたファイルには、ぼくが過去に発表した論文やそのために調べたことだけを綴じました。
あ、いえ、「編集」といっても、将来の日本語版『ファン・ルーラー著作集』刊行に備えて、オランダ語版(現在第4巻まで配本済み。全9巻の予定)のとおりに訳文を並べ替えてファイルして、ファイルの題字を付けただけですけどね(汗)。
少しでも見栄えをよくするために、コピーが重複している場合はひとつだけ残してあとは捨てるとか、古くなったり汚れていたりするコピーは新しく印刷しなおすとか、訳はできているのに印刷してなかった分を印刷するとか。
大したことなさそうなのに、シロウトがやると、たったそれだけのことに、半日もかかってしまいました。
各巻ごとにファイルしてみると、すでにある程度の分量になりそうな巻もあると思えば、まだタテに立ちもしない「薄い」巻もあるなと気づかされます。
道なお遠し。
あ、でも、まさか、ぼくひとりで全部やれるとかは思ってませんからね(汗だく)。
「ファン・ルーラー研究」というタイトルを付けたファイルには、ぼくが過去に発表した論文やそのために調べたことだけを綴じました。
まあ、新教出版社の『カール・バルト著作集』全17巻の完成までに40年(1967年~2007年)かかったという偉大なる前例がありますので(笑)、ぼくはもう焦らないことにしました(笑)。
いまパソコンの壁紙は、ライデン大学の校舎です。「壮麗なゴシック建築もひとつひとつのレンガから」と自分に言い聞かせながら過ごしてきたつもりです。ぼくにはデカイ仕事はできません。せめてレンガを何個か遺して死ねたらと願っています。
いまパソコンの壁紙は、ライデン大学の校舎です。「壮麗なゴシック建築もひとつひとつのレンガから」と自分に言い聞かせながら過ごしてきたつもりです。ぼくにはデカイ仕事はできません。せめてレンガを何個か遺して死ねたらと願っています。
今週金曜日は「第3回 カール・バルト研究会」です
今週2月6日(金)午後5時から7時まで、「第3回 カール・バルト研究会」をスカイプで行います。二週に一度の勉強会が待ち遠しくなってきました。
スカイプの性能上、参加者を5人くらいに抑えなくてはならないのですが、ほんとは300人くらいに参加してほしいと思っています。間違いなく紛糾すると思いますけど(笑)。
読んでいるテキストは『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック)ですが、まだ最初の「1、課題」(Die Aufgabe)をやっと読み終えたところです。今週は「2、信仰とは信頼を意味する」(Glauben heisst Vertrauen)です。
以下、ちょっぴりネタばらし。
「1、課題」の中でバルトが書いている「教義学の主体はキリスト教会である」(Das Subjekt der Dogmatik ist die christliche Kirche.)というおそらく非常に有名な主張については、これまでの2回のスカイプのやりとりの中で反芻され、面白がっていることの一つです。
バルトはこのように言いながら、そのすぐあとに「われわれが教義学の主体は教会であると規定する場合、それは決して、学問としての教義学の概念を制限したり、傷つけたりすることを意味しない」(Es kann also keine Einschraenkung und keine Schaedigung des Begriffs der Dogmatik als Wissenschaft bedeuten, wenn wir konstatieren: das Subjekt dieser Wissenschaft ist die Kirche.)とも述べていますので、バルトは事実上「教会は学問をおこなう場所でもある」と言っていることになります。
バルトにとって「教義学は学問」(Dogmatik ist eine Wissenschaft)だからです。
この主張については、今のメンバーとしては、ぼく自身を含めて、バルトに賛成できる点だと思っています。
そして、このことについて、ある人からの受け売りとして、ぼくが言ったことは、次のようなことです。
「逆にいえば、教義学というのは、教会という檻の中に閉じ込めておかないかぎり、凶悪なものとして暴走しかねない魔物である。牧師の説教とか、教会の礼拝とか、そのような愚直としか言いようがない方法でしか広がることも伝わることもないくらいで、ちょうどよい。教義学がヘーゲルの絶対哲学みたいになっちゃって、教会の枠を超えた普遍性などを主張しはじめたらエライことになる。」
「学問をおこなうのは大学であって、教会ではない。教会に難しい話を持ち込まないでくれ」というような区分をしてしまいますと、ぼくたちは、教会の中から「教義学」を締めだしてしまうことになります。そして、「難しいこと」は、大学の先生たちに任せきりになる。
だけど、大学の側としては、そんなふうに教会から丸投げされても困る。大学は学生の確保をしなくてはならないし、人気のない学問は採算が合わないので切り捨てざるをえない。
そのようなときに、ヘーゲルみたいなのが、いつの間にか教会の中で、教義学の位置に置き換えられてしまうときがくる。「教義学」を教会も大学も厄介もの扱いして遠巻きにしてしまうと、いつの間にか、我々を不当に支配する「絶対的なるもの」が、教会にしのびこんでくるのです。
というふうな話をしています。
「バルト主義者にならないこと」を唯一の入会条件に掲げている我々「カール・バルト研究会」ですが、バルトの本は読むとハマりますね(笑)。
スカイプの性能上、参加者を5人くらいに抑えなくてはならないのですが、ほんとは300人くらいに参加してほしいと思っています。間違いなく紛糾すると思いますけど(笑)。
読んでいるテキストは『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック)ですが、まだ最初の「1、課題」(Die Aufgabe)をやっと読み終えたところです。今週は「2、信仰とは信頼を意味する」(Glauben heisst Vertrauen)です。
以下、ちょっぴりネタばらし。
「1、課題」の中でバルトが書いている「教義学の主体はキリスト教会である」(Das Subjekt der Dogmatik ist die christliche Kirche.)というおそらく非常に有名な主張については、これまでの2回のスカイプのやりとりの中で反芻され、面白がっていることの一つです。
バルトはこのように言いながら、そのすぐあとに「われわれが教義学の主体は教会であると規定する場合、それは決して、学問としての教義学の概念を制限したり、傷つけたりすることを意味しない」(Es kann also keine Einschraenkung und keine Schaedigung des Begriffs der Dogmatik als Wissenschaft bedeuten, wenn wir konstatieren: das Subjekt dieser Wissenschaft ist die Kirche.)とも述べていますので、バルトは事実上「教会は学問をおこなう場所でもある」と言っていることになります。
バルトにとって「教義学は学問」(Dogmatik ist eine Wissenschaft)だからです。
この主張については、今のメンバーとしては、ぼく自身を含めて、バルトに賛成できる点だと思っています。
そして、このことについて、ある人からの受け売りとして、ぼくが言ったことは、次のようなことです。
「逆にいえば、教義学というのは、教会という檻の中に閉じ込めておかないかぎり、凶悪なものとして暴走しかねない魔物である。牧師の説教とか、教会の礼拝とか、そのような愚直としか言いようがない方法でしか広がることも伝わることもないくらいで、ちょうどよい。教義学がヘーゲルの絶対哲学みたいになっちゃって、教会の枠を超えた普遍性などを主張しはじめたらエライことになる。」
「学問をおこなうのは大学であって、教会ではない。教会に難しい話を持ち込まないでくれ」というような区分をしてしまいますと、ぼくたちは、教会の中から「教義学」を締めだしてしまうことになります。そして、「難しいこと」は、大学の先生たちに任せきりになる。
だけど、大学の側としては、そんなふうに教会から丸投げされても困る。大学は学生の確保をしなくてはならないし、人気のない学問は採算が合わないので切り捨てざるをえない。
そのようなときに、ヘーゲルみたいなのが、いつの間にか教会の中で、教義学の位置に置き換えられてしまうときがくる。「教義学」を教会も大学も厄介もの扱いして遠巻きにしてしまうと、いつの間にか、我々を不当に支配する「絶対的なるもの」が、教会にしのびこんでくるのです。
というふうな話をしています。
「バルト主義者にならないこと」を唯一の入会条件に掲げている我々「カール・バルト研究会」ですが、バルトの本は読むとハマりますね(笑)。
2013年2月3日日曜日
聖餐式には何の意味があるのですか
マタイによる福音書26・17~30
「除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、『どこに、過越の食事をなさる用意をしましょうか』と言った。イエスは言われた。『都のあの人のところに行ってこう言いなさい。「先生が、『わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする』と言っています。」』弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。『わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。』イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことでは』と言うと、イエスは言われた。『それはあなたの言ったことだ。』一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」
いまお読みしました個所に記されているのは、イエスさまが十字架にかけられる前の夜、弟子たちと最後の食事をなさったときの様子です。その食事はいわゆる「最後の晩餐」と呼ばれるものです。それは、旧約聖書に定められている過越の食事でした。
過越について旧約聖書に最初に出てくるのは出エジプト記12章です。次のように記されています。
「イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である』」(出エジプト記12・3~11)。
なぜ「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる」のでしょうか。このあとイスラエルの民はエジプトを脱出するからです。過越の食事は、彼らにとっては出かける前の準備としての腹ごしらえという意味を持っていたのです。
なぜ「小羊の血を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」のでしょうか。その血が塗られている家の前を神が過ぎ越してくださるためです。そして、それ以外の家の人々、つまりエジプト人たちに神が裁きをおこなってくださるためです。
そして、イスラエルの民がエジプトから脱出することは、彼らにとっての救いを意味していました。彼らはエジプトの地で奴隷状態にありました。その奴隷状態から解放され、イスラエルの民の先祖の故郷であるパレスチナの地に帰ることが、彼らの救いだったのです。
先ほど読んだ出エジプト記12章の続きに次のように記されています。
「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(出エジプト記12・13~14)。
イエスさまが十字架にかけられる前の夜に弟子たちとなさった最後の食事は、過越の食事でした。ただし、小羊も山羊も用意されませんでした。どこにもいなかったからではありません。お金がなくて買えなかったからでもありません。実はちゃんと用意されていました。ただしそれは、わたしたちが通常それを小羊とか山羊とか呼んでいる動物ではありません。動物の代わりに用意されたのは、イエスさま御自身でした。イエスさまの肉と血、それがその日の過越の祝いのために用意された犠牲の供え物だったのです。
しかし、まさか弟子たちは、イエスさまをその場で殺して食べるわけには行きません。そのことはイエスさまも分かっておられました。イエスさまはパンとぶどう酒を用意されました。そして、パンを裂くときに「これはわたしの体である」と言われて弟子たちにお与えになりました。同じように、ぶどう酒の杯をとり、「これはわたしの血である」と言われました。弟子たちはイエスさまのみことばを聞きながら、パンを食べ、ぶどう酒を飲みました。そのようにしてイエスさまは、小羊でも山羊でもなく、イエスさま御自身を食べるように、弟子たちにお命じになったのです。
そしてそれは、旧約聖書の過越祭が持つ意味と同じように、出かける前の準備としての腹ごしらえの意味を持っています。イエスさまが弟子たちに願われたことは、わたしを食べて、力を与えられて出かけなさいということでした。実際に彼らが食べたのはパンであり、ぶどう酒です。しかしそれはイエスさまが語られる御言葉と共に食べたのです。このパンはイエスさまの体であり、このぶどう酒はイエスさまの血であるという信仰をもって食べたのです。
イエスさまが配られたパンはどれくらいの大きさだったか、ぶどう酒はどれくらいの量だったかなどは分かりません。しかし、そのようなことはあまり重要なことではありません。イエスさまにとって重要なことは、弟子たちが御自分の肉を食べ、血を飲むことでした。それはイエスさま御自身がお使いになった言葉づかいです。変な意味でとらないでほしい。それは、イエスさまの御言葉を聞き、信仰をもって生きることを意味しています。それ以上の意味も、それ以下の意味も無いのです。
さて、ここでもう一度、旧約聖書の過越の定めの個所に戻りたいと思います。次のように記されています。
「あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と」(出エジプト記12・24~27)。
この個所に書かれていることは、エジプトから脱出した当事者であるイスラエルの民にとってよりも、彼らの子孫にとって重要な定めです。「あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるとき」が来るというわけです。
どのような儀式でも、それが最初に行われたときの様子や状況を覚えている世代がだんだん少なくなり、やがていなくなってしまうときが来ます。そのとき、その儀式は形骸化してしまう恐れが無きにしもあらずです。そのとき子どもたちが親や大人に「この儀式にはどういう意味があるのですか」と素朴な疑問を投げかけてくる。そのことが前もって想定されているのです。
考えてみれば、そのような疑問を子どもたちが持つことは、ある意味で当然のことでもあるのです。いま自分たちは何をしているのか、その意味が分からないと彼らが感じるのは当然です。「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べなさい」と言われる。エジプトから脱出した世代のイスラエルの民にとっては、なぜそうしなければならないのかは分かります。しかし、あとの世代の人にとっては意味が分かりません。
ですから、その疑問を子どもたちがもったときが、その意味を説明するチャンスでもあるわけです。「この儀式にはどういう意味があるのですか」という質問が出てきたときこそが、それを説明することができるチャンスなのです。
それと同じことが、わたしたちの教会でおこなっている聖餐式にも当てはまるのです。今日はこのあと、聖餐式を行います。そのとき私がお読みする式文には「聖餐式は、主イエスが、十字架に架けられる前の夜、弟子たちと最後の食事をしたときに制定された礼典です」と記されています。つまり、わたしたちが行う聖餐式は、イエスさまと弟子たちとの最後の晩餐から始まったものであると、わたしたちは理解しています。
しかし、わたしたちが聖餐式でしていることの意味は、もしかしたら、子どもたちには分からないことかもしれません。あるいは新来者や求道者にとっても意味不明かもしれません。「何をやっているのだろうか、さっぱり分からない。奇妙な儀式だなあ」と疑問や不満を感じるかもしれません。
でも、そのような疑問を抱いていただけたら、それがチャンスなのです。私の願いは、子どもたちや新来者や求道者の方々には、ぜひともそのような疑問を感じてほしい、遠慮なく質問してほしいということです。「聖餐式には何の意味があるのですか」と。そのときこそが、わたしたちのチャンスだからです。逆にいえば、わたしたちがどれだけ多くの言葉で語ろうとも、自分自身の中に疑問や不満が無い人には、興味が無い話かもしれません。疑問がわいてきたときがチャンスなのです。
そのときわたしたちは説明いたします。聖餐式というのは、イエスさまが十字架に架けられる前の夜に定められた礼典です。その中でイエスさまは、「これはわたしの体です」「これはわたしの血です」とおっしゃりながらパンとぶどう酒を弟子たちにお渡しになりました。イエスさまの肉と血を食べるとは、イエスさまの御言葉を聞き、信仰をもって生きることです。そして罪のないイエスさまを十字架に架けてしまうほどに罪深いわたしたち人間の罪を悔い改めることです。自分の生き方を根本的に見つめ直すことです。イエスさまの教えに従って生きる新しい人生を始め、続けることです。それが聖餐式の意味です。
しかし、私にとっては残念なことなのですが、そういう質問をしてくれる人がほとんどいません。宗教に対する関心が薄いです。いっそ反発してくれるほうがまだ手ごたえがあります。しかし、最近の傾向はとにかく無関心です。のれんに腕押し、糠に釘。手ごたえがありません。
聖餐式のやり方を変えても、おそらく問題は解決しません。どうすればよいのかは分かりません。しかし、わたしたちにできることは、イエスさまが定められたとおりに、これからも聖餐式を続けていくことです。たとえマンネリ化していると思われたとしても。いや、むしろマンネリ化こそがチャンスなのです。教会がしている一つ一つのことについて「これには何の意味があるのですか」という質問を教会は待っているのです。
(2013年2月3日、松戸小金原教会主日礼拝)
2013年1月27日日曜日
世界はまだ終わりません
マタイによる福音書24・3~14
「イエスはお答えになった。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがメシアだ」と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。』」
イエスさまのところに弟子たちがやって来て「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と言いました。
イエスさまの弟子たちは、この時点ではすでにイエスさまの教えを深く学んでいたとはいえ、彼らの宗教の根本を支えていたのは依然としてユダヤ教でした。
ユダヤ教の教えの中に、世界が終末の日を迎えるとき、人類を救いに導いてくれる救い主メシアが来てくださるという教えがありました。その信仰に基づいて、イエスさまの弟子たちも生きていました。しかし、彼らはイエスさまと出会い、この方こそが世界の終わりに人類を救ってくださる救い主メシアであると信じはじめていたのです。
しかし、彼らは「世の終わり」とは何かということまではよく分からずにいました。その日は、まだ来ていなかったからです。この世界はまだ終わっていないからです。自分の目で見たことも体験したこともないことを、きちんと説明できる人はいません。
そして、もう一つ、イエスさまは普通の人間ではないと弟子たちは信じていました。それは正しい信仰です。イエスさまは普通の人間ではありません。神の御子であり、救い主です。
しかし、その同じイエスさまは一人の人間でもあられます。ところが、弟子たちがイエスさまに対して抱いていた信仰は、普通の人間ではない、特別なお方であるイエスさまこそが世界を終わらせる力をもっておられるお方であるというものだったと考えられます。
だからこそ、彼らはイエスさまに「そのことはいつ起こるのですか。あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と尋ねているのです。
そして、「世の終わりに救い主が来てくださる」という信仰も、彼らにありました。しかもそれは、とても悲惨で恐ろしい結末の中で、ただ救い主を信じて生きている人々だけが救われ、その後、世界が終わるという信仰です。
世界が終わるのに救われた人たちだけが生きているというのは、どうなっているのでしょうか。救われた人たちは、「終わった世界」の中に生き残っているということでしょうか。それはおかしな話です。世界は終わっているのですから、そこに生き残ることはできません。その後も生きているというならば、「世界の外」へと飛び出すしかありません。
世界の外にある楽園で、救われた人たちだけが永遠に生きているというような信仰を彼らは持っていた。そのように考えるほかはないと思います。
何はともあれ、彼らが信じていたことは、「イエスさまは世界を終わらせる存在である」ということに変わりありません。それは「イエスさまは世界を滅ぼす存在である」という意味です。イエスさまひとりに全世界を葬り去る力があるということです。
しかし本当にそうでしょうか。そういう信仰には非常に危険な面があるということをわたしたちは考えざるをえません。
たとえばそのような話をわたしたちが耳にするとたぶんすぐに思い出すのは、凶悪なミサイルのスイッチを握った軍事的独裁者の姿です。イエスさまはそのような存在なのでしょうか。ぜったい違います。そもそも聖書が教えている「世界の終わり」の様子は、世界の“破滅”でも“滅亡”でもないし、まして“消滅”でもないからです。
はっきり言います。そもそもイエスさまに対してこのような質問を投げかけている弟子たちの抱いていたその信仰そのものが間違っているのです。
イエス・キリストは、「世界を滅亡させる」という意味で「世界を終わらせる」ために来られたお方ではないのです。
全く正反対です! 聖書が教える「世界の終わり」の意味は、“破滅”でも“消滅”でもなく、「世界の完成」なのです。
イエスさまは「世界を完成させる」ために来てくださったお方なのです。それが、わたしたちキリスト教会の信仰です。この質問をイエスさまに投げかけている時点で、イエスさまの弟子たちの信仰は、根本的に間違っていたのです。
だからこそ、イエスさまは、彼らに「人に惑わされないように気をつけなさい」と厳しく注意しておられるのです。
「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」(6節)、「飢饉や地震」(7節)、「偽預言者」(11節)、「不法」(12節)などが次々に起こるであろう。「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(6節)とイエスさまは語っておられます。「世の終わり」は、破滅でも消滅でもないからです。そういう考え方そのものが間違っているのです。
わたしたちの教会の信仰的な立場からいえば、わたしたち一人一人の死も“破滅”でも“消滅”でもありません。わたしたちの死にゆく姿は「人生の完成」の姿です。
年齢を重ねることや、体力が衰えること、若い頃の姿を失うことなどを、わたしたちはどうしても、悪いこととしてしか受けとめることができません。しかし、ひとりの人間は生まれたときから死ぬまで同じ人間です。時間の軸において一本線でつながるひとつの人生です。
もしそうだとしたら、わたしたちが生まれたときがスタートで、死ぬときがゴールです。そして、ゴールは完成です。人生の終わりは「人生の完成」なのです。
世界も同じです。イエスさまが来られ、イエスさまの福音が宣べ伝えられ、多くの人々に信じられ、世界中に教会が生み出されることなしに、世界は完成しないのです。世界にとって信仰は余計なものではないし、そえものでも、おまけでもないからです。
この世界というジグソーパズルの中に、父なる神と、イエス・キリストと、聖霊に満たされた教会が必要です。「教会」というピースがなければ「世界」というジグソーパズルは完成しません。つまり、教会なしに、「世界が終わる」ことはないのです。
(2013年1月27日、主日礼拝説教、要約)
2013年1月25日金曜日
「第2回 カール・バルト研究会」報告
本日(2013年1月25日)午後5時から7時まで、「第2回 カール・バルト研究会」をスカイプ(プレミアム)で行いました。
テキストは、カール・バルト『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)です。
本日は「1.課題」(Die Aufgabe)まで読みました。次回は「2.信仰とは信頼を意味する」(Glauben heisst Vertrauen)を読みます。
第2回の参加者は、第1回と同じく4名でした。参加者のうち3名の実名公開の許可を得ることができましたので、メンバーを紹介させていただきます。1名は「政治的理由」で非公開です。
「カール・バルト研究会」メンバーズリスト(五十音順、敬称略)
小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)
匿名氏(住所非公開)
次回(第3回)は2013年2月8日(金)午後5時から7時まで、パソコン前です。
スカイプ(プレミアム)の「グループビデオ通話」は最大10人のユーザー間で行うことができますが、「最良の品質を実現するには、参加者を5人までに抑えることをお勧めします」とスカイプ社のサイトに書いてあります(http://www.skype.com/intl/ja/prices/premium/)。
ですので、まだあと1人は参加可能ですので、お志のある方はご連絡いただけますとうれしいです。
参加の条件は「バルト主義者にならないこと」です。よろしくお願いいたします。
テキストは、カール・バルト『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)です。
本日は「1.課題」(Die Aufgabe)まで読みました。次回は「2.信仰とは信頼を意味する」(Glauben heisst Vertrauen)を読みます。
第2回の参加者は、第1回と同じく4名でした。参加者のうち3名の実名公開の許可を得ることができましたので、メンバーを紹介させていただきます。1名は「政治的理由」で非公開です。
「カール・バルト研究会」メンバーズリスト(五十音順、敬称略)
小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)
匿名氏(住所非公開)
次回(第3回)は2013年2月8日(金)午後5時から7時まで、パソコン前です。
スカイプ(プレミアム)の「グループビデオ通話」は最大10人のユーザー間で行うことができますが、「最良の品質を実現するには、参加者を5人までに抑えることをお勧めします」とスカイプ社のサイトに書いてあります(http://www.skype.com/intl/ja/prices/premium/)。
ですので、まだあと1人は参加可能ですので、お志のある方はご連絡いただけますとうれしいです。
参加の条件は「バルト主義者にならないこと」です。よろしくお願いいたします。
2013年1月22日火曜日
「組織を動かしたことがない」とはヒドイ
毎日新聞 2013年01月22日 11時34分(最終更新 01月22日 11時57分)より引用。
橋下徹大阪市長は22日、文部科学省の義家弘介政務官が市教委の調査態勢を批判していることについて、「駄目ですね。組織を動かしたことがない国会議員は。もっと勉強してから言ってもらいたい」と、こき下ろした。
記事の全文は以下URL。
http://mainichi.jp/select/news/20130122k0000e040194000c.html
ぼく自身に義家さんをかばう意図はないけど、大阪市の市長の言う「組織を動かしたことがない国会議員」というのは、相当ヒドイ言い草だ。
選挙事務所だって立派な「組織」だろうし、選挙そのもので国民の意思決定にかかわることだって、「組織を動かすこと」と何ら遜色ない。
まして、義家さんは高校や大学の教員をして来られた人だ。教員は「組織を動かしたことがない」だろうか。
牧師たちも似たようなことをしょっちゅう言われるので、大阪市長さんの言うことがどうも引っかかる。牧師は「組織を動かしたことがない」だろうか。
学校だって教会だって「組織」なしに、どう動くというのだろうか。
橋下徹大阪市長は22日、文部科学省の義家弘介政務官が市教委の調査態勢を批判していることについて、「駄目ですね。組織を動かしたことがない国会議員は。もっと勉強してから言ってもらいたい」と、こき下ろした。
記事の全文は以下URL。
http://mainichi.jp/select/news/20130122k0000e040194000c.html
ぼく自身に義家さんをかばう意図はないけど、大阪市の市長の言う「組織を動かしたことがない国会議員」というのは、相当ヒドイ言い草だ。
選挙事務所だって立派な「組織」だろうし、選挙そのもので国民の意思決定にかかわることだって、「組織を動かすこと」と何ら遜色ない。
まして、義家さんは高校や大学の教員をして来られた人だ。教員は「組織を動かしたことがない」だろうか。
牧師たちも似たようなことをしょっちゅう言われるので、大阪市長さんの言うことがどうも引っかかる。牧師は「組織を動かしたことがない」だろうか。
学校だって教会だって「組織」なしに、どう動くというのだろうか。
2013年1月20日日曜日
謙遜な生き方をイエスさまから学ぼう
マタイによる福音書23・1~12
「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。『律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、「先生」と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは「先生」と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を「父」と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。「教師」と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」。
今日もマタイによる福音書を開いていただきました。この福音書に基づいてイエスさまのご生涯を改めて追いかけています。しかし今日の個所にもたいへん難しいことが書かれています。何が難しいのでしょうか。あくまでも私の感覚ですが、ここでイエスさまがおっしゃっていることをわたしたちがどのような意味で理解し、受け容れるべきかを説明するのが難しい。そのように思いました。
しかしまた、いま申し上げたこととはちょうど正反対のことも、同時に考えさせられました。この個所に書かれていることは難しいどころか、非常によく分かる話であるとお感じになる方も多いのではないでしょうか。
この個所に記されているイエスさまの御言葉の内容は、終始一貫、まさに最初から最後まで、ある人々に対する痛烈な批判です。イエスさまが批判しておられるのは、当時のエルサレム神殿を中心に働いていたユダヤ教の指導者たちです。
この後の展開を読みますと、結果的にイエスさまを逮捕し、十字架につけて殺したのは彼らであることを聖書は証言しています。実際にイエスさまを逮捕したり、イエスさまの裁判をしたりしたのはローマの軍隊や総督だったということはあるにしても、その裏側でこそこそと動き回っていたのはユダヤ教の指導者たちでした。彼らがイエスさまを憎み、ローマの軍隊や政治家たちを動かして、イエスさまを殺したのです。そのように聖書は教えています。
この当時、この人々はユダヤ社会のまさに最高権力者でした。宗教的な権力を持っていただけではなく、政治的な権力をも持っていました。社会的に地位が高い、エライ人たちでした。しかし、そのエライ人たちが、イエスさまの目からご覧になっても、一般の市民の目から見ても、問題を感じる態度に見えたのです。
エライ人がエラそうにすることは、その人自身は当たり前の権利だと思っていることなのかもしれません。しかし、その人たちの姿が周囲の人々を不快な思いにしているとしたら、どうでしょう。なぜ彼らの存在は不快なのか、その原因はどこにあるのかということを、イエスさまがずばり指摘しておられるのです。
ですから、今日の個所のイエスさまのみことばは、イエスさまから批判されているユダヤ教の指導者たちの側にではなく、その反対の一般市民の立場に立って読めば、非常によく分かる話だということになると思います。自分の言えないことを代わりに言ってくれた、スカッと爽やか、胸のすく思いで読むことができる話であるとさえ言えるかもしれません。
しかし、ここで私は急ブレーキをかけたくなる気持ちを隠すことができません。正直言いますと、私にとっては読むのがつらいのです。なぜ私がつらいのでしょうか。「律法学者たちやファリサイ派の人々はモーセの座に着いている」(2節)とイエスさまがおっしゃっています。この「モーセの座」の意味は「神の言葉を語る立場」のことです。それは結局「聖書を解釈する立場」のことです。つまり、イエスさまがおっしゃっていることのすべては普通の意味でのエライ人への批判ではなく、宗教的な意味で「聖書を解釈する立場にいる者たち」が陥る傲慢さに対する批判なのです。
もしそうであるならば、現時点において、今の教会の中で、日本の中で、世界の中で「聖書を解釈する立場」にあるのは牧師たちです。それは私です。「だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」(3節)とイエスさまが言っておられる「彼ら」は私です。「言うだけで、実行しない」私のことをイエスさまは激しく批判しておられるのです。
ですから、このイエスさまのみことばは、私にとっては心臓が止まりそうです。言い逃れはできません。イエスさまのおっしゃるとおりと言わざるをえません。自分とは無関係の赤の他人の話であると思うことができれば気が楽なのですが、実際はそうではありません。「モーセの座」に着いていながら「言うだけで、実行しない」人たちをイエスさまは批判しておられるからです。それは、二千年前の律法学者たちやファリサイ派の人々だけのことではありません。すべての時代の神の言葉の説教者たち、教会の牧師たちを含んでいます。
イエスさまの批判はまだ続いています。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである」(4~5節)。このことを完全に否定できる教師はいないと思います。
「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」(5節)というのは、説明が必要でしょう。私はユダヤ教のことはよく知らないので詳細な事情を完璧に説明する力はありませんが、「聖句の入った小箱」というのは、比喩ではなく実物がありました。そういう木の箱が実際にあって頭にひもでくくるのです。その箱の中に入っていた聖句が「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」であったと言われています。
そのような聖句が入った箱を頭につけて歩き回るのです。それによって神さまを近くに感じるとか、神さまの言葉が頭の中によく入るとか、考えられたようです。しかも、その箱は大きければ大きいほど目立ちます。大きさの違いそのものが何らかの意味を持っていたのかもしれません。
イエスさまは、そのような当時のユダヤ教の指導者たちがしていたことを、その人々が他の誰よりも神さまに近い存在であるということを多くの人に見せようとする行為であるとご覧になりました。衣服の房を長くすることも、宴会の上座、会堂の上席を好むことも、彼らに限って言えば、すべては宗教的な意味を持つ行為でした。
自分は誰よりも神さまに近い存在だ。だれよりも熱心に神を信じているし、神に仕えている。そういう印象を人々に与えることが目的で行っている。そのようにイエスさまはご覧になったのです。
そして、そのきわめつけは、彼らが「先生」とか「父」とか「教師」と呼ばれたがることに対してイエスさまが厳しく非難しておられることです。これも同じです。とくに「先生」と訳されているのはラビのことです。ユダヤ教の律法学者がラビと呼ばれました。それは尊称です。「牧師」というのは尊称ではありません。職業の名前です。教師も職業の名前です。しかし、「先生」は尊称です。
私は、本当は「先生」と呼ばれたくないのです。「私を先生と呼ばないでください」とわざわざ言うのも意識しすぎだと思われるかもしれませんので、あえて何も言わないできました。良い機会ですので、今日から私を「先生」と呼ぶのをやめてもらいたいと言いたいところですが、変に混乱するようでも困ります。自然なのがいいです。
しかし、ここでイエスさまがおっしゃっていることは、わたしたちが日本語の意味での「先生」と呼ばれるべきかどうかではありません。重要なことは、神の御言葉である聖書を解釈するラビとしての権威を持っているかどうか、です。神はこのように語っておられる。そのことを断言し、宣言する。そのようなことをしてよいかどうかの問題です。
ラビと呼ばれる人々は大勢いたのです。その中で聖書の解釈権をめぐる競争があったのです。その中でだれもが「我こそが真のラビである」と主張したがっていたのです。このように考えてみますと、イエスさまが指摘しておられる、彼らが「先生と呼ばれたがる」ことも、結局、自分はいかに神さまに近い存在であるか、神さまの御心をいかに正しく知っているかを主張したがることを意味していると考えることができます。
聖書の勉強をほかの人と競い合って続けることが互いの向上につながるということはありうることかもしれません。また、礼拝の出席者の人数とか、教会の会員数とか、献金の金額とか、そのようなことも、他の教会と競い合って、互いの向上をめざすというようなことも、全く無いとは言えないかもしれません。
しかし、そのようなことが次第に変質していく。何を競い合っているのか、何を目指しているのかが分からなくなっていく。規模の大きな教会を率いる偉大な牧師とか、偉大な長老とか、そういう話がいつの間にか独り歩きし、世間ずれしはじめる。何かの名誉や肩書きのように思いこむ、勘違いが起こる。
そのような宗教の指導者たちの姿がイエスさまの目には非常に傲慢なものとして映っていたのです。私は自己弁護をするつもりはありませんし、教会の牧師や教師や長老をかばうつもりもありません。イエスさまのおっしゃるとおりであると認めざるをえません。ごめんなさいとお詫びしなければなりません。
それではわたしたちはどうすればよいのでしょうか。イエスさまがはっきりと結論を出しておられます。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11~12節)。これも書いてあるとおりです。間違ってはいけないのは、これも宗教の話であり、教会の話であるということです。教会の中で「いちばん偉い人」は「仕える者になりなさい」ということです。
わたしたちは、真に謙遜な生き方を、教会の中で、イエスさまから学ぶことができるのです。
(2013年1月20日、松戸小金原教会主日礼拝)
2013年1月19日土曜日
ハイデルベルク信仰問答制定450周年
日本時間で昨夜オランダの古書店から送られてきたメールを読んで気づきました。
本日(2013年1月19日)は「ハイデルベルク信仰問答制定450周年」の記念日です。
明日(1月20日)、オランダのハウダ(Gouda)で記念式典が行われるそうです。
ハイデルベルクはドイツなのに、なぜオランダで記念式典なのでしょうか。
ベルギー(またはオランダ)信仰告白、ハイデルベルク信仰問答、ドルトレヒト信仰規準の三つは、17世紀以来、オランダ改革派教会の教理規準だからです。
ユトレヒト大学図書館には、450年前のハイデルベルク信仰問答のドイツ語版原著とオランダ語版が所蔵されているらしいです。
また、今年中にドイツとオランダ両国でハイデルベルク信仰問答の特別豪華版(!)を出版する計画が進んでいるそうです。
日本の(プロテスタント)教会では、ハイデルベルク信仰問答は、教派・教団の壁を越えて、かなり普及し、愛読されてきたものだと思います。
松戸小金原教会では、毎週日曜日の朝の礼拝の中で、ハイデルベルク信仰問答(吉田隆訳、新教新書)の交読をおこなっています。
たとえば、明日(1月20日)は2013年の第三の日曜日ですので、ハイデルベルク信仰問答の「第三主日」の箇所を読みます。
交読の方法は、礼拝の司式者が質問を読み、礼拝出席者全員で答えを読みます。
2013年1月18日金曜日
金子晴勇先生、ありがとうございます!
本日、石川県在住のGさんから、ちょっと(いや、かなり)うれしいお電話をいただきました。
Gさんによると、
昨年末(2012年12月)に出版されたばかりの金子晴勇先生の最新著『キリスト教霊性思想史』(教文館、2012年、5670円)の中に、
私・関口康がアジア・カルヴァン学会日本支部編『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』(久米あつみ監修、キリスト新聞社、2009年)に寄稿した論文「カルヴァンにおける人間的なるものの評価」が、
(肯定的に)引用されている、とのこと。
これは相当うれしい知らせです。
ぼくの書いたものを学術書の中に引用していただけたのは初めてのことです。
金子先生、ありがとうございます!
お知らせくださったGさん、ありがとうございます!
苦労した甲斐がありました。
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