「もう寝ます!」と宣言してからが長い!
ウダウダなう...。
バルトの『教義学要綱』予習してました。
日本語版:
「われわれは、確かに混乱せしめられたり、疑ったりすることがありうる。しかし、一度信ずる人は「消えざる印章」(character indelebilis)のようなものを、持つのである。信じる人は、自分が支えられているという事実に、恃(たの)むことができる。不信仰と戦わねばならぬすべての人に対して、『あなたは自分の不信仰を余り重大に考えてはならない』と、勧めなければならない。信仰だけが、重大視さるべきである。そして、もしわれわれに芥子種(からしだね)一粒ほどの信仰があるならば、悪魔が敗北するには、それで十分なのである。」
(バルト『教義学要綱』新教出版社、新教セミナーブック、1993年、23ページ)
英語版:
One may, of course, be confused and one may doubt; but whoever once believes has something like a character indelibilis. He may take comfort of the fact that he is being upheld. Everyone who has to contend with unbelief should be advised that he ought not to take his own unbelief too seriously. Only faith is to be taken seriously; and if we have faith as a grain of mustard seed, that suffices for the devil to have lost his game.
(Karl Barth, Dogmatics in Outline, Harper & Row, 1959, p. 20-21)
ドイツ語版:
Man kann gewiss verwirrt sein und man kann zweifeln, aber wer einmal glaubt, der hat so etwas wie einem character indelebilis. Er darf sich dessen getrösten, dass er gehalten i s t . Es ist Jedem, der mit dem Unglauben zu ringen hat, zu raten, dass er seinen eigenen Unglauben nicht zu ernst nehmen solle. Nur der Glaube ist ernst zu nehmen, und wenn wir Glauben haben wie ein Senfkorn, so genuegt das, dass der Teufel sein Spiel verloren hat.
(Karl Barth, Dogmatik im Grundriß, Theologischer Verlag Zürich, 1947, S. 23)
超訳:
「まあね、もちろんさ、アタマ混乱、ワケ分からんくなったり、『んなことありえねー』と思ったりすることくらい、だれでもありますよ。だけどさ、もうね、いったん信じた人には『不滅の焼き印』(character indelebilis)みたいなのを押してもらえるのよ。そしたらね、『もうぼくは何があってもガチッと守られてるんだから大丈夫だぜ』と安心してもいいのね。不信仰っつーかね、そういうのはダメだと葛藤してる人がいたら、『え、不信仰?んなの、べつに大したことじゃないっすよ』と言ってあげてくださいね。『信仰ってすげえもんなんだよ』とね。パンとかに塗るマスタードあるじゃん、あの中のちっちゃい黒い粒あるでしょ、あれの一粒くらいの信仰があれば、悪魔の口はまっかっか。ブーッと噴き出して血相変えて逃げちゃうからね(笑)。だから安心していいんです、はい。」
えっと、ですね、「はしがき」を読むと分かるのですが、
バルトの『教義学要綱』って、いわゆる「トークライブ」だったらしいんです。
だから、それ風に(笑)。