2013年1月27日日曜日

世界はまだ終わりません


マタイによる福音書24・3~14

「イエスはお答えになった。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがメシアだ」と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。』」

イエスさまのところに弟子たちがやって来て「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と言いました。

イエスさまの弟子たちは、この時点ではすでにイエスさまの教えを深く学んでいたとはいえ、彼らの宗教の根本を支えていたのは依然としてユダヤ教でした。

ユダヤ教の教えの中に、世界が終末の日を迎えるとき、人類を救いに導いてくれる救い主メシアが来てくださるという教えがありました。その信仰に基づいて、イエスさまの弟子たちも生きていました。しかし、彼らはイエスさまと出会い、この方こそが世界の終わりに人類を救ってくださる救い主メシアであると信じはじめていたのです。

しかし、彼らは「世の終わり」とは何かということまではよく分からずにいました。その日は、まだ来ていなかったからです。この世界はまだ終わっていないからです。自分の目で見たことも体験したこともないことを、きちんと説明できる人はいません。

そして、もう一つ、イエスさまは普通の人間ではないと弟子たちは信じていました。それは正しい信仰です。イエスさまは普通の人間ではありません。神の御子であり、救い主です。

しかし、その同じイエスさまは一人の人間でもあられます。ところが、弟子たちがイエスさまに対して抱いていた信仰は、普通の人間ではない、特別なお方であるイエスさまこそが世界を終わらせる力をもっておられるお方であるというものだったと考えられます。

だからこそ、彼らはイエスさまに「そのことはいつ起こるのですか。あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と尋ねているのです。

そして、「世の終わりに救い主が来てくださる」という信仰も、彼らにありました。しかもそれは、とても悲惨で恐ろしい結末の中で、ただ救い主を信じて生きている人々だけが救われ、その後、世界が終わるという信仰です。

世界が終わるのに救われた人たちだけが生きているというのは、どうなっているのでしょうか。救われた人たちは、「終わった世界」の中に生き残っているということでしょうか。それはおかしな話です。世界は終わっているのですから、そこに生き残ることはできません。その後も生きているというならば、「世界の外」へと飛び出すしかありません。

世界の外にある楽園で、救われた人たちだけが永遠に生きているというような信仰を彼らは持っていた。そのように考えるほかはないと思います。

何はともあれ、彼らが信じていたことは、「イエスさまは世界を終わらせる存在である」ということに変わりありません。それは「イエスさまは世界を滅ぼす存在である」という意味です。イエスさまひとりに全世界を葬り去る力があるということです。

しかし本当にそうでしょうか。そういう信仰には非常に危険な面があるということをわたしたちは考えざるをえません。

たとえばそのような話をわたしたちが耳にするとたぶんすぐに思い出すのは、凶悪なミサイルのスイッチを握った軍事的独裁者の姿です。イエスさまはそのような存在なのでしょうか。ぜったい違います。そもそも聖書が教えている「世界の終わり」の様子は、世界の“破滅”でも“滅亡”でもないし、まして“消滅”でもないからです。

はっきり言います。そもそもイエスさまに対してこのような質問を投げかけている弟子たちの抱いていたその信仰そのものが間違っているのです。

イエス・キリストは、「世界を滅亡させる」という意味で「世界を終わらせる」ために来られたお方ではないのです。

全く正反対です! 聖書が教える「世界の終わり」の意味は、“破滅”でも“消滅”でもなく、「世界の完成」なのです。

イエスさまは「世界を完成させる」ために来てくださったお方なのです。それが、わたしたちキリスト教会の信仰です。この質問をイエスさまに投げかけている時点で、イエスさまの弟子たちの信仰は、根本的に間違っていたのです。

だからこそ、イエスさまは、彼らに「人に惑わされないように気をつけなさい」と厳しく注意しておられるのです。

「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」(6節)、「飢饉や地震」(7節)、「偽預言者」(11節)、「不法」(12節)などが次々に起こるであろう。「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(6節)とイエスさまは語っておられます。「世の終わり」は、破滅でも消滅でもないからです。そういう考え方そのものが間違っているのです。

わたしたちの教会の信仰的な立場からいえば、わたしたち一人一人の死も“破滅”でも“消滅”でもありません。わたしたちの死にゆく姿は「人生の完成」の姿です。

年齢を重ねることや、体力が衰えること、若い頃の姿を失うことなどを、わたしたちはどうしても、悪いこととしてしか受けとめることができません。しかし、ひとりの人間は生まれたときから死ぬまで同じ人間です。時間の軸において一本線でつながるひとつの人生です。

もしそうだとしたら、わたしたちが生まれたときがスタートで、死ぬときがゴールです。そして、ゴールは完成です。人生の終わりは「人生の完成」なのです。

世界も同じです。イエスさまが来られ、イエスさまの福音が宣べ伝えられ、多くの人々に信じられ、世界中に教会が生み出されることなしに、世界は完成しないのです。世界にとって信仰は余計なものではないし、そえものでも、おまけでもないからです。

この世界というジグソーパズルの中に、父なる神と、イエス・キリストと、聖霊に満たされた教会が必要です。「教会」というピースがなければ「世界」というジグソーパズルは完成しません。つまり、教会なしに、「世界が終わる」ことはないのです。

(2013年1月27日、主日礼拝説教、要約)