2013年2月6日水曜日

今週金曜日は「第3回 カール・バルト研究会」です

今週2月6日(金)午後5時から7時まで、「第3回 カール・バルト研究会」をスカイプで行います。二週に一度の勉強会が待ち遠しくなってきました。

スカイプの性能上、参加者を5人くらいに抑えなくてはならないのですが、ほんとは300人くらいに参加してほしいと思っています。間違いなく紛糾すると思いますけど(笑)。

読んでいるテキストは『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック)ですが、まだ最初の「1、課題」(Die Aufgabe)をやっと読み終えたところです。今週は「2、信仰とは信頼を意味する」(Glauben heisst Vertrauen)です。

以下、ちょっぴりネタばらし。

「1、課題」の中でバルトが書いている「教義学の主体はキリスト教会である」(Das Subjekt der Dogmatik ist die christliche Kirche.)というおそらく非常に有名な主張については、これまでの2回のスカイプのやりとりの中で反芻され、面白がっていることの一つです。

バルトはこのように言いながら、そのすぐあとに「われわれが教義学の主体は教会であると規定する場合、それは決して、学問としての教義学の概念を制限したり、傷つけたりすることを意味しない」(Es kann also keine Einschraenkung und keine Schaedigung des Begriffs der Dogmatik als Wissenschaft bedeuten, wenn wir konstatieren: das Subjekt dieser Wissenschaft ist die Kirche.)とも述べていますので、バルトは事実上「教会は学問をおこなう場所でもある」と言っていることになります。

バルトにとって「教義学は学問」(Dogmatik ist eine Wissenschaft)だからです。

この主張については、今のメンバーとしては、ぼく自身を含めて、バルトに賛成できる点だと思っています。

そして、このことについて、ある人からの受け売りとして、ぼくが言ったことは、次のようなことです。

「逆にいえば、教義学というのは、教会という檻の中に閉じ込めておかないかぎり、凶悪なものとして暴走しかねない魔物である。牧師の説教とか、教会の礼拝とか、そのような愚直としか言いようがない方法でしか広がることも伝わることもないくらいで、ちょうどよい。教義学がヘーゲルの絶対哲学みたいになっちゃって、教会の枠を超えた普遍性などを主張しはじめたらエライことになる。」

「学問をおこなうのは大学であって、教会ではない。教会に難しい話を持ち込まないでくれ」というような区分をしてしまいますと、ぼくたちは、教会の中から「教義学」を締めだしてしまうことになります。そして、「難しいこと」は、大学の先生たちに任せきりになる。

だけど、大学の側としては、そんなふうに教会から丸投げされても困る。大学は学生の確保をしなくてはならないし、人気のない学問は採算が合わないので切り捨てざるをえない。

そのようなときに、ヘーゲルみたいなのが、いつの間にか教会の中で、教義学の位置に置き換えられてしまうときがくる。「教義学」を教会も大学も厄介もの扱いして遠巻きにしてしまうと、いつの間にか、我々を不当に支配する「絶対的なるもの」が、教会にしのびこんでくるのです。

というふうな話をしています。

「バルト主義者にならないこと」を唯一の入会条件に掲げている我々「カール・バルト研究会」ですが、バルトの本は読むとハマりますね(笑)。