2013年1月20日日曜日

謙遜な生き方をイエスさまから学ぼう


マタイによる福音書23・1~12

「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。『律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、「先生」と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは「先生」と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を「父」と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。「教師」と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」。

今日もマタイによる福音書を開いていただきました。この福音書に基づいてイエスさまのご生涯を改めて追いかけています。しかし今日の個所にもたいへん難しいことが書かれています。何が難しいのでしょうか。あくまでも私の感覚ですが、ここでイエスさまがおっしゃっていることをわたしたちがどのような意味で理解し、受け容れるべきかを説明するのが難しい。そのように思いました。

しかしまた、いま申し上げたこととはちょうど正反対のことも、同時に考えさせられました。この個所に書かれていることは難しいどころか、非常によく分かる話であるとお感じになる方も多いのではないでしょうか。

この個所に記されているイエスさまの御言葉の内容は、終始一貫、まさに最初から最後まで、ある人々に対する痛烈な批判です。イエスさまが批判しておられるのは、当時のエルサレム神殿を中心に働いていたユダヤ教の指導者たちです。

この後の展開を読みますと、結果的にイエスさまを逮捕し、十字架につけて殺したのは彼らであることを聖書は証言しています。実際にイエスさまを逮捕したり、イエスさまの裁判をしたりしたのはローマの軍隊や総督だったということはあるにしても、その裏側でこそこそと動き回っていたのはユダヤ教の指導者たちでした。彼らがイエスさまを憎み、ローマの軍隊や政治家たちを動かして、イエスさまを殺したのです。そのように聖書は教えています。

この当時、この人々はユダヤ社会のまさに最高権力者でした。宗教的な権力を持っていただけではなく、政治的な権力をも持っていました。社会的に地位が高い、エライ人たちでした。しかし、そのエライ人たちが、イエスさまの目からご覧になっても、一般の市民の目から見ても、問題を感じる態度に見えたのです。

エライ人がエラそうにすることは、その人自身は当たり前の権利だと思っていることなのかもしれません。しかし、その人たちの姿が周囲の人々を不快な思いにしているとしたら、どうでしょう。なぜ彼らの存在は不快なのか、その原因はどこにあるのかということを、イエスさまがずばり指摘しておられるのです。

ですから、今日の個所のイエスさまのみことばは、イエスさまから批判されているユダヤ教の指導者たちの側にではなく、その反対の一般市民の立場に立って読めば、非常によく分かる話だということになると思います。自分の言えないことを代わりに言ってくれた、スカッと爽やか、胸のすく思いで読むことができる話であるとさえ言えるかもしれません。

しかし、ここで私は急ブレーキをかけたくなる気持ちを隠すことができません。正直言いますと、私にとっては読むのがつらいのです。なぜ私がつらいのでしょうか。「律法学者たちやファリサイ派の人々はモーセの座に着いている」(2節)とイエスさまがおっしゃっています。この「モーセの座」の意味は「神の言葉を語る立場」のことです。それは結局「聖書を解釈する立場」のことです。つまり、イエスさまがおっしゃっていることのすべては普通の意味でのエライ人への批判ではなく、宗教的な意味で「聖書を解釈する立場にいる者たち」が陥る傲慢さに対する批判なのです。

もしそうであるならば、現時点において、今の教会の中で、日本の中で、世界の中で「聖書を解釈する立場」にあるのは牧師たちです。それは私です。「だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」(3節)とイエスさまが言っておられる「彼ら」は私です。「言うだけで、実行しない」私のことをイエスさまは激しく批判しておられるのです。

ですから、このイエスさまのみことばは、私にとっては心臓が止まりそうです。言い逃れはできません。イエスさまのおっしゃるとおりと言わざるをえません。自分とは無関係の赤の他人の話であると思うことができれば気が楽なのですが、実際はそうではありません。「モーセの座」に着いていながら「言うだけで、実行しない」人たちをイエスさまは批判しておられるからです。それは、二千年前の律法学者たちやファリサイ派の人々だけのことではありません。すべての時代の神の言葉の説教者たち、教会の牧師たちを含んでいます。

イエスさまの批判はまだ続いています。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである」(4~5節)。このことを完全に否定できる教師はいないと思います。

「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」(5節)というのは、説明が必要でしょう。私はユダヤ教のことはよく知らないので詳細な事情を完璧に説明する力はありませんが、「聖句の入った小箱」というのは、比喩ではなく実物がありました。そういう木の箱が実際にあって頭にひもでくくるのです。その箱の中に入っていた聖句が「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」であったと言われています。

そのような聖句が入った箱を頭につけて歩き回るのです。それによって神さまを近くに感じるとか、神さまの言葉が頭の中によく入るとか、考えられたようです。しかも、その箱は大きければ大きいほど目立ちます。大きさの違いそのものが何らかの意味を持っていたのかもしれません。

イエスさまは、そのような当時のユダヤ教の指導者たちがしていたことを、その人々が他の誰よりも神さまに近い存在であるということを多くの人に見せようとする行為であるとご覧になりました。衣服の房を長くすることも、宴会の上座、会堂の上席を好むことも、彼らに限って言えば、すべては宗教的な意味を持つ行為でした。

自分は誰よりも神さまに近い存在だ。だれよりも熱心に神を信じているし、神に仕えている。そういう印象を人々に与えることが目的で行っている。そのようにイエスさまはご覧になったのです。

そして、そのきわめつけは、彼らが「先生」とか「父」とか「教師」と呼ばれたがることに対してイエスさまが厳しく非難しておられることです。これも同じです。とくに「先生」と訳されているのはラビのことです。ユダヤ教の律法学者がラビと呼ばれました。それは尊称です。「牧師」というのは尊称ではありません。職業の名前です。教師も職業の名前です。しかし、「先生」は尊称です。

私は、本当は「先生」と呼ばれたくないのです。「私を先生と呼ばないでください」とわざわざ言うのも意識しすぎだと思われるかもしれませんので、あえて何も言わないできました。良い機会ですので、今日から私を「先生」と呼ぶのをやめてもらいたいと言いたいところですが、変に混乱するようでも困ります。自然なのがいいです。

しかし、ここでイエスさまがおっしゃっていることは、わたしたちが日本語の意味での「先生」と呼ばれるべきかどうかではありません。重要なことは、神の御言葉である聖書を解釈するラビとしての権威を持っているかどうか、です。神はこのように語っておられる。そのことを断言し、宣言する。そのようなことをしてよいかどうかの問題です。

ラビと呼ばれる人々は大勢いたのです。その中で聖書の解釈権をめぐる競争があったのです。その中でだれもが「我こそが真のラビである」と主張したがっていたのです。このように考えてみますと、イエスさまが指摘しておられる、彼らが「先生と呼ばれたがる」ことも、結局、自分はいかに神さまに近い存在であるか、神さまの御心をいかに正しく知っているかを主張したがることを意味していると考えることができます。

聖書の勉強をほかの人と競い合って続けることが互いの向上につながるということはありうることかもしれません。また、礼拝の出席者の人数とか、教会の会員数とか、献金の金額とか、そのようなことも、他の教会と競い合って、互いの向上をめざすというようなことも、全く無いとは言えないかもしれません。

しかし、そのようなことが次第に変質していく。何を競い合っているのか、何を目指しているのかが分からなくなっていく。規模の大きな教会を率いる偉大な牧師とか、偉大な長老とか、そういう話がいつの間にか独り歩きし、世間ずれしはじめる。何かの名誉や肩書きのように思いこむ、勘違いが起こる。

そのような宗教の指導者たちの姿がイエスさまの目には非常に傲慢なものとして映っていたのです。私は自己弁護をするつもりはありませんし、教会の牧師や教師や長老をかばうつもりもありません。イエスさまのおっしゃるとおりであると認めざるをえません。ごめんなさいとお詫びしなければなりません。

それではわたしたちはどうすればよいのでしょうか。イエスさまがはっきりと結論を出しておられます。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11~12節)。これも書いてあるとおりです。間違ってはいけないのは、これも宗教の話であり、教会の話であるということです。教会の中で「いちばん偉い人」は「仕える者になりなさい」ということです。

わたしたちは、真に謙遜な生き方を、教会の中で、イエスさまから学ぶことができるのです。

(2013年1月20日、松戸小金原教会主日礼拝)