いろいろ考えながら書いていますので、途中のツッコミがあるとありがたいです。
宇野常寛氏が『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)の中で書いておられることは、「碇シンジ」と「夜神月」の対比です。
そして、それはそのまま、氏の言うところの「1990年代後半の想像力」の代表者なる前者と「2000年代の想像力」の代表者なる後者との対比です。私自身は、フィクションを全否定したいわけではないです(んなの言ったら「碇シンジ」もフィクションです)。
で、もちろん(言うまでもなく)「エヴァンゲリオン」もフィクションなわけで(というか絵だし) 、そういうのをひっくるめて否定する論理は私の中には無いですよ。そういう片づけ方は、それこそ文学の否定にさえなるでしょ。それは私には無いから安心(?)してください。
宇野氏が書いておられることは、夜神月こそは2000年代の正義の象徴であるというような乱暴な展開ではありません。宇野氏の名誉を守る責任は私にはありませんが(たぶんね)、さすがにそこまで乱暴ではないです。「碇シンジのように引きこもっていては自分が殺されるので、決断主義的に行動する」(大意)のが夜神月だそうです。
私の読み方でも、「しょうがないから戦う」碇シンジと、「自分から仕掛ける」夜神月は確かに違うと分かります。今の私に芽生えている思いは、強いて言えば「碇シンジ型(または旧式)引きこもり」の擁護かもしれません。
しかし、宇野氏は、碇シンジのありさまから「しょうがないから戦う」というモチーフをほとんど引き出していないようにも見えます(まだ読了しえていない現段階では)。その代わりに「何が正しいかが分からないゆえに、間違いを犯したくないから何もしない」(大意)少年像としての碇シンジを強調したうえで、夜神月の決断主義と対比させています。
ところで、私(45歳)がようやく昨年(ウェブ上で)見た「エヴァンゲリオン」のどこが面白いと感じたのかといえば、あのロボット(じゃないんですよね、「拘束具」でしたっけ)が、それほど長くもない電源コードにつながっていたこと。そして、そのコードが外れると、残り数分しか動けなかったこと、でした。
あとは、なんだろう、碇シンジが葛城ミサトの部屋で同居することになった初日の、部屋の散らかりようとか、ゴミのほとんどがYEBISUビールの空き缶で埋め尽くされていたとか、掃除当番をじゃんけんで決めるとか。単純に「面白い」と思いました。夢見心地な所がまるでない感じ。
しかし、劇中で使用されるノートパソコンや携帯電話のデザインは「2015年」(でしたっけ。あと四年後ですね)という年代設定の割には古臭いものでしたね。 とくに携帯電話はデカすぎる。授業中の教室内で行われたチャットも「Y/N」とかキューハチ時代のパソコンみたいで笑いました。
で、宇野氏は「碇シンジでは夜神月を止められない」という命題を提示なさったわけですが、私の関心から言わせていただけば、碇と夜神とでは、道具の質があまりにも違いすぎて、比較が成り立たないと感じるのです。まあ、まだ結論めいたことを言いきる段階にはありませんが。
あるいは、かなり陳腐で古臭い言葉を持ち出せば「世界観の違い」でしょうか。私の見るかぎり(隈なく見抜いたわけではありませんが)、エヴァンゲリオンの世界は「ただ物だけの世界」(徹底的なマテリアルワールド)。空中にフワフワ浮かんでいる「死神」など出てきえない時空です。
そして、エヴァンゲリオンは「電源コード」につながれている。ロボット(じゃないことは知っています)に電力を集めるために、全国を「停電」にする作戦あたりまで描かれる。モノや、それを動かすためのデンキ(これもモノの一種)というような要素を、スキップしようとしないんです。
それに対して、DEATH NOTEの世界は、羽根の生えた「死神」(名前忘れました)が空中にふんわ、ふんわでしょ?「世界観」が違うというより「世界」が違う。「碇シンジでは夜神月を止められない」も何も、そもそも「碇シンジは夜神月に出会うことができない」んです。
2011年5月26日木曜日
今のところ「碇シンジは夜神月を止める必要はない」だと思っている
なるほど、こういう図になるのかと分かった(試してみたい気持ちもいくらかあったことは否定しないでおくが、特定の人々に対する能動的な挑戦的意図などは皆無である)。
ブログに「宇野常寛氏」という名前を書き込んだとたんに、検索で見つけられたようで、宇野常寛氏関連のとある掲示板に、私のプロフィールつきでデカデカと貼り出された。どうりで、ふだんよりアクセスカウンターのまわりが速いわけだ。
はは、いやいや、私は別に宇野氏に「反論」したいわけではないです。「碇シンジでは夜神月を止められない」という命題を見て「違うよ」とは思ったが、初めから書いているとおり、宇野氏の本はまだ読んでる最中なので、書評めいたことを開始しうる段階ではない。読書中のメモにすぎないと、初めの初めから言っている。
それでも、たしかに、宇野氏の本をたまたま読んで(そもそも宇野氏に関心があったわけではなく、「ゼロ年代」という単語の意味を知りたくて、それこそ検索で「ゼロ年代」で引っかかった本を買っただけだ)、その本の中に書いてあった命題を見て、「違うよ」と思った、と書きはした。それだけで、私は何かある人々の神聖な領域を侵したことになるのだろうか。
そうね、強いて言えば、「宇野氏」への反論ではなく、『DEATH NOTE』への違和感、いやほとんど嫌悪感のようなものであれば、あるかもしれない。あの空中にフワフワ浮かんだやつ・・・なんだっけ、「死神」でしたっけ、固有名詞ありましたっけ、あれがダメですね。ああいうのが「いる」前提でなければ成立しない話。そういうのに反吐が出ます。
あとは、DEATH NOTEなるものそれ自体が存在しない。そこに誰かの名前を書いただけで、名前を書かれたその人が死ぬというノート。そういうものは、この地上には存在しない。そういうのが「ある」前提でなければ成立しないような話が、私は苦手です。とても耐えがたい。
宙にフワフワ浮かんだ感じのやつも、DEATH NOTEなるものも、どこにも存在しないし、ありえない。この二者が存在しないかぎり、夜神月なる登場人物は「無力」なのだから、そもそも「恐怖すべき夜神月」なる何者かは「存在しない」と考えたまでだ。
そこで至った(今のところの)帰結はこうだ。
問 「碇シンジでは夜神月を止められない」か。
答 「碇シンジは夜神月を止める必要はない。なぜなら、夜神月の犯行を成立させる前提としての死神(だっけ)も、なんとかノートも、そんなものはこの地上にはどこにも存在しないから」。
��いくらなんでも、ここでは終われないので、たぶんもう少し続く。)
ブログに「宇野常寛氏」という名前を書き込んだとたんに、検索で見つけられたようで、宇野常寛氏関連のとある掲示板に、私のプロフィールつきでデカデカと貼り出された。どうりで、ふだんよりアクセスカウンターのまわりが速いわけだ。
はは、いやいや、私は別に宇野氏に「反論」したいわけではないです。「碇シンジでは夜神月を止められない」という命題を見て「違うよ」とは思ったが、初めから書いているとおり、宇野氏の本はまだ読んでる最中なので、書評めいたことを開始しうる段階ではない。読書中のメモにすぎないと、初めの初めから言っている。
それでも、たしかに、宇野氏の本をたまたま読んで(そもそも宇野氏に関心があったわけではなく、「ゼロ年代」という単語の意味を知りたくて、それこそ検索で「ゼロ年代」で引っかかった本を買っただけだ)、その本の中に書いてあった命題を見て、「違うよ」と思った、と書きはした。それだけで、私は何かある人々の神聖な領域を侵したことになるのだろうか。
そうね、強いて言えば、「宇野氏」への反論ではなく、『DEATH NOTE』への違和感、いやほとんど嫌悪感のようなものであれば、あるかもしれない。あの空中にフワフワ浮かんだやつ・・・なんだっけ、「死神」でしたっけ、固有名詞ありましたっけ、あれがダメですね。ああいうのが「いる」前提でなければ成立しない話。そういうのに反吐が出ます。
あとは、DEATH NOTEなるものそれ自体が存在しない。そこに誰かの名前を書いただけで、名前を書かれたその人が死ぬというノート。そういうものは、この地上には存在しない。そういうのが「ある」前提でなければ成立しないような話が、私は苦手です。とても耐えがたい。
宙にフワフワ浮かんだ感じのやつも、DEATH NOTEなるものも、どこにも存在しないし、ありえない。この二者が存在しないかぎり、夜神月なる登場人物は「無力」なのだから、そもそも「恐怖すべき夜神月」なる何者かは「存在しない」と考えたまでだ。
そこで至った(今のところの)帰結はこうだ。
問 「碇シンジでは夜神月を止められない」か。
答 「碇シンジは夜神月を止める必要はない。なぜなら、夜神月の犯行を成立させる前提としての死神(だっけ)も、なんとかノートも、そんなものはこの地上にはどこにも存在しないから」。
��いくらなんでも、ここでは終われないので、たぶんもう少し続く。)
2011年5月24日火曜日
「疎開ビジネス」や「線量計詐欺」にも警戒すべきだ
「松戸市は独自に23日から小中学校などで松戸市は23日以降、市内の保育所、小中学校、公園などで簡易測定器による放射線量を測定して、その結果をホームページなどで公表すると発表した」。放射線量、測定地点増やします(朝日新聞千葉版、2011年5月21日)
いま起こっている危機的な緊急事態に対しては、突き詰めて言えば「一家に一台、線量計」しか打開策は無いような気がしています。「データをもっていない素人に発言の資格は無い」と言われる国ですから。ただ、そのためには、線量計が値崩れするのを待つしかない。松戸市の迅速な動きは、誇らしく思っています。
「風評被害」も「安全デマ」も、そのすべての原因は(十分すぎる意味で「被害当事者」である)一般市民がデータをもちえていないこと、つまり線量計の値段が高すぎて買えなかったこと(そんなものが普通に市販されているとも知らなかったこと)にあると思います。値段が体重計(?)くらいになれば、みんな買いますよね?
とはいえ、放射能の影響からの退避ということをもし本気で考えるとしたら、一時的な疎開では済まず、最終的には転居を考えざるをえない(私が転居したがっているという話ではありませんからね)。まさに人生をかけた、重大な決意が伴う。その決断に耐えうる線量計は、ある程度高性能のものであってほしいとは思います。高性能であるが、一般市民の手に届く範囲内の価格のものがあるといいですね。我々のパソコンにUSBでつないで簡単に使えるようなものがいい。
線量計を一般人には買えない値段にし、データを公表せず、かつデータを素人には判読不可能な難解なものにするなどのやり方で、「企業防衛」というか、「既得権益の保護」というか、あるいはもっと戯画的にいえば「原発インペリアリズムの砦」にしてきたのでしょうけど、彼らの城門は、もはや守りきれないでしょうね。
文系人間と理系人間との違いという問題は(その二分法自体が無意味であるという意見があることも知りつつ)、私もずっと考えてきました。文系人間に線量計を扱うことはできないだろうと、理系の人たちから言われてしまうかもしれません。しかし、線量計を「開発する」ためには理系の知識が必要だと思いますが、線量計を「利用する」ためには数学や物理ができなくても大丈夫ではないでしょうか。パソコンでも携帯でも電子レンジでも、みな同じことが言えるでしょう。
ともかく、世の中の理系の人たちを責めないであげましょうよ。もしかしたら、いま、彼らは自分たちが国民全体から責められていると感じて、必要以上に身構えておられるかもしれません。理系の人たちの中の原発に反対してきた人たちは学会等で徹底的に虐げられてきたようですから、そういうのを目の当たりにして、表立って反対できなかった理系人は多かったと思います。
原発推進に消極的だったとか批判的だったとかの理由で、学会の中であからさまな妨害や非難を受けた良心的な学者たちもいたということを知るにつけ、私などは「犯罪」の二文字を思わずにいられません。ここから先は、法学者たちの出番ではないでしょうか。今回の事故が「天災」や「運命」や「想定外」の面だけではなかったことは今や誰の目にも明白なのですから、首謀者の逮捕をもって原発時代を終わらせるべきです。
私の原発に対する立場としては、中立とは言えないにしても、存在そのものに反対したことは、いまだかつて(実は今も)ないのです。事故を想定して備えること自体が妨害されるとか、データの隠ぺいや改ざんが行われるような国には原発をもつ資格がない、と思っているだけです。
あと一つ、言わずもがなのことをあえて言えば、福島第一原発からの大量の放射能汚染水の海洋放出の問題はいまだに終息していないわけですから、現時点ですでに日本国内にも、あるいは地球上のどこにも、将来にわたって真に安全と言いうる「疎開先」は無いと、私は考えています。要するに、逃げ場はどこにも無いのです。
なぜ今あえて「言わずもがなのこと」を書いたかといえば、近い将来にも、「疎開先あります」とか「引っ越し先にどうですか」といった内容で、人の不安につけこんで、家や不動産を高く売りつける詐欺的な商法が横行しそうな気がしているからです。そういうことも監視し、警戒していく必要を感じています。
その種の詐欺に何と名付けるべきでしょう。「疎開ビジネス」かな。線量計も慌てて飛びつく必要なし。そのうち値崩れしますから、手の届く値段になってから買えばよい。いま飛びつくと「線量計サギ」に引っかかるかもしれません。
最良の堕落は最悪なり(corruptio optimi pessima)。善意の衣を着た狼は、あらゆるところに潜んでいます。
いま起こっている危機的な緊急事態に対しては、突き詰めて言えば「一家に一台、線量計」しか打開策は無いような気がしています。「データをもっていない素人に発言の資格は無い」と言われる国ですから。ただ、そのためには、線量計が値崩れするのを待つしかない。松戸市の迅速な動きは、誇らしく思っています。
「風評被害」も「安全デマ」も、そのすべての原因は(十分すぎる意味で「被害当事者」である)一般市民がデータをもちえていないこと、つまり線量計の値段が高すぎて買えなかったこと(そんなものが普通に市販されているとも知らなかったこと)にあると思います。値段が体重計(?)くらいになれば、みんな買いますよね?
とはいえ、放射能の影響からの退避ということをもし本気で考えるとしたら、一時的な疎開では済まず、最終的には転居を考えざるをえない(私が転居したがっているという話ではありませんからね)。まさに人生をかけた、重大な決意が伴う。その決断に耐えうる線量計は、ある程度高性能のものであってほしいとは思います。高性能であるが、一般市民の手に届く範囲内の価格のものがあるといいですね。我々のパソコンにUSBでつないで簡単に使えるようなものがいい。
線量計を一般人には買えない値段にし、データを公表せず、かつデータを素人には判読不可能な難解なものにするなどのやり方で、「企業防衛」というか、「既得権益の保護」というか、あるいはもっと戯画的にいえば「原発インペリアリズムの砦」にしてきたのでしょうけど、彼らの城門は、もはや守りきれないでしょうね。
文系人間と理系人間との違いという問題は(その二分法自体が無意味であるという意見があることも知りつつ)、私もずっと考えてきました。文系人間に線量計を扱うことはできないだろうと、理系の人たちから言われてしまうかもしれません。しかし、線量計を「開発する」ためには理系の知識が必要だと思いますが、線量計を「利用する」ためには数学や物理ができなくても大丈夫ではないでしょうか。パソコンでも携帯でも電子レンジでも、みな同じことが言えるでしょう。
ともかく、世の中の理系の人たちを責めないであげましょうよ。もしかしたら、いま、彼らは自分たちが国民全体から責められていると感じて、必要以上に身構えておられるかもしれません。理系の人たちの中の原発に反対してきた人たちは学会等で徹底的に虐げられてきたようですから、そういうのを目の当たりにして、表立って反対できなかった理系人は多かったと思います。
原発推進に消極的だったとか批判的だったとかの理由で、学会の中であからさまな妨害や非難を受けた良心的な学者たちもいたということを知るにつけ、私などは「犯罪」の二文字を思わずにいられません。ここから先は、法学者たちの出番ではないでしょうか。今回の事故が「天災」や「運命」や「想定外」の面だけではなかったことは今や誰の目にも明白なのですから、首謀者の逮捕をもって原発時代を終わらせるべきです。
私の原発に対する立場としては、中立とは言えないにしても、存在そのものに反対したことは、いまだかつて(実は今も)ないのです。事故を想定して備えること自体が妨害されるとか、データの隠ぺいや改ざんが行われるような国には原発をもつ資格がない、と思っているだけです。
あと一つ、言わずもがなのことをあえて言えば、福島第一原発からの大量の放射能汚染水の海洋放出の問題はいまだに終息していないわけですから、現時点ですでに日本国内にも、あるいは地球上のどこにも、将来にわたって真に安全と言いうる「疎開先」は無いと、私は考えています。要するに、逃げ場はどこにも無いのです。
なぜ今あえて「言わずもがなのこと」を書いたかといえば、近い将来にも、「疎開先あります」とか「引っ越し先にどうですか」といった内容で、人の不安につけこんで、家や不動産を高く売りつける詐欺的な商法が横行しそうな気がしているからです。そういうことも監視し、警戒していく必要を感じています。
その種の詐欺に何と名付けるべきでしょう。「疎開ビジネス」かな。線量計も慌てて飛びつく必要なし。そのうち値崩れしますから、手の届く値段になってから買えばよい。いま飛びつくと「線量計サギ」に引っかかるかもしれません。
最良の堕落は最悪なり(corruptio optimi pessima)。善意の衣を着た狼は、あらゆるところに潜んでいます。
2011年5月19日木曜日
平田オリザ氏の「発言撤回」の意味を考える
「平田オリザ氏、汚染水放出巡る発言を撤回し謝罪」(読売新聞、2011年5月19日04時40分)
内閣官房参与で劇作家の平田オリザ氏は18日、東京電力が4月に福島第一原子力発電所から低濃度の放射性物質を含む汚染水を海に放出したことについて、「米政府からの強い要請で(海に)流れた」とソウルで述べた自らの発言について、所属団体を通じ、「私の発言が混乱を呼び、関係各位にご迷惑をおかけしました。当該の事実関係について知りうる立場にありません。撤回して謝罪します」とする談話を出した。
さて問題は、この記事を我々がどう読むべきかである。内閣官房参与までが「知りうる立場にない」なら、誰が「知りうる立場にある」のだろうかと思わずにはいられない。
内閣官房のホームページを見るかぎり、組織図に「内閣官房参与」の位置づけはない。Wikipediaの説明によると「相談役的な立場の非常勤の国家公務員」だそうで、その人が「知りうる立場」になかった。逆にいえば、汚染水の海洋放出を事前に「知りえた」人たちは内閣官房の「常勤公務員」に絞られるわけだ。
内閣官房の定員は778人だそうだ。意外に多い。でも、その多くは「なんとか推進室」「かんとか検討室」「どうとか対策チーム」の人たちのようだから、778人全員が、汚染水の海洋放出を事前に「知りえた」立場にいたとは思えない。「知りえた」人たちは、何人くらいいたのだろうか。
オモテに名前が出ているこの人たちは、知っていたのだろうか(敬称略)。
菅 直人 (内閣総理大臣)
枝野幸男 (内閣官房長官)
仙石由人 (内閣官房副長官(政務))
福山哲郎 (内閣官房副長官(政務))
瀧野欣彌 (内閣官房副長官(事務))
伊藤哲朗 (内閣危機管理監)
佐々木豊成 (内閣官房副長官補)
河相周夫 (内閣官房副長官補)
西川徹矢 (内閣官房副長官補)
千代幹也 (内閣広報官)
植松信一 (内閣情報官)
辻元清美 (内閣総理大臣補佐官)
藤井裕久 (内閣総理大臣補佐官)
細野豪志 (内閣総理大臣補佐官)
馬淵澄夫 (内閣総理大臣補佐官)
芝 博一 (内閣総理大臣補佐官)
いま16人だ。内閣官房ホームページの「幹部紹介・内閣総理大臣補佐官紹介」のページに載っている人たちだ。テレビに出て来る人と、出て来ない人がいるのが分かる。
この人たちの名前は、べつに秘密でも何でもなく、どこでも公表されているのだから、書いても構わないはずだ。堂々たる公人だ。この16人が、大量汚染水の海洋放出を事前に「知りえた」人たちだろうか。
我々はこの16人の名前を、終生、記憶と記録にとどめておく必要がある。これは、平田オリザ氏の言葉をそのまま受けとめるなら、内閣官房参与である人をして、放射能で汚染された水の海洋放出について「私は知りうる立場になかった」と言わしめた、今の内閣官房の中核にいる人々の名簿である。
それでは「知りえた」のは、だれなのだろう。どのレベルの人たちまでは知っていたのか。何人知っていたのか。米国の「要請」か「了解」なしに汚染水の廃棄などできたとは思えないが、まさか本当に、米政府にも知らさず、要請も了解もなく、そして内閣官房参与にも相談せず、ごく一握りの人たちがゴーサインを出したというのか。
責任の所在を内閣官房だけに限定できるかどうかは分からない。「内閣」には省があり、大臣がいる。各省の大臣は「事前に」知っていたのか知らなかったのか。いま私が知りたいと願っているのは、放射能水の海洋放出の「ゴーサイン」の責任を有する人々は、何人くらいいたのだろうか、という点である。
まさか、先ほど名前を挙げた16人だけで「ゴーサイン」を出したのではないでしょうねと聞いてみたいのだ。「相談役の非常勤公務員」たる内閣官房参与の口から「知りうる立場に無い」と言わせるほどに、まわりの誰とも相談せずに。
内閣官房の中核にいると思われる「16人」が多いのか、それとも少ないのか。そんなことは部外者には知る由もない。16人と言えば、一中学校のPTA運営委員会の人数くらいだ。この人たちが「海に流せ」と言った。そう考えてよいのだろうか。全世界に放射能を拡散させてよいとゴーサインを出したのは、彼らなのか。
私は別に、この「16人」に損害賠償請求をしたいわけではない。とくに面識があるわけでもない平田オリザ氏をほんの少しだけ庇いたい気持ちを持っているにすぎない。まあ、今や国民全体からバッシングを受けている人をかばおうとすると、かばった者までバッシングを受けかねないが、それは致し方ない。
平田氏が何を意図してリーク(と呼んでよいと思う)したかは本人以外には分からないが、私の拙い読解力からいえば、これから徹底的に責任を追及されることになるであろう現内閣を擁護する心の表われだとしか思えない。野党が平田氏を追及するのは当然だが、与党にとってはむしろ重宝な存在ではないか。
たとえば、いま流れている、GEと米政府を提訴する意思が日本政府にあるという噂とリンクするものだとすれば、汚染水放出に「米国のお墨付き」があったというのは決定打につながるのでは、とも思う。
平田オリザ氏という一人の文学者が、我々一般人には立ち入れない奥の間の只中で、知恵をこらして懸命に戦ってくれているような気がするのは、私だけだろうか。
政治の「腹芸」や「どんでん返し」や「敵を騙すにはまず味方から」のような要素は、それこそ劇作家の十八番だろう。シナリオ通りに政治が進むわけがないことも、シナリオライターだからこそ分かるものがあるのではないか。
ともかく、平田氏のような方が内閣官房から排除されないことを、私は願っている。「ド素人の政治参加」、けっこうなことじゃないか。
内閣官房参与で劇作家の平田オリザ氏は18日、東京電力が4月に福島第一原子力発電所から低濃度の放射性物質を含む汚染水を海に放出したことについて、「米政府からの強い要請で(海に)流れた」とソウルで述べた自らの発言について、所属団体を通じ、「私の発言が混乱を呼び、関係各位にご迷惑をおかけしました。当該の事実関係について知りうる立場にありません。撤回して謝罪します」とする談話を出した。
さて問題は、この記事を我々がどう読むべきかである。内閣官房参与までが「知りうる立場にない」なら、誰が「知りうる立場にある」のだろうかと思わずにはいられない。
内閣官房のホームページを見るかぎり、組織図に「内閣官房参与」の位置づけはない。Wikipediaの説明によると「相談役的な立場の非常勤の国家公務員」だそうで、その人が「知りうる立場」になかった。逆にいえば、汚染水の海洋放出を事前に「知りえた」人たちは内閣官房の「常勤公務員」に絞られるわけだ。
内閣官房の定員は778人だそうだ。意外に多い。でも、その多くは「なんとか推進室」「かんとか検討室」「どうとか対策チーム」の人たちのようだから、778人全員が、汚染水の海洋放出を事前に「知りえた」立場にいたとは思えない。「知りえた」人たちは、何人くらいいたのだろうか。
オモテに名前が出ているこの人たちは、知っていたのだろうか(敬称略)。
菅 直人 (内閣総理大臣)
枝野幸男 (内閣官房長官)
仙石由人 (内閣官房副長官(政務))
福山哲郎 (内閣官房副長官(政務))
瀧野欣彌 (内閣官房副長官(事務))
伊藤哲朗 (内閣危機管理監)
佐々木豊成 (内閣官房副長官補)
河相周夫 (内閣官房副長官補)
西川徹矢 (内閣官房副長官補)
千代幹也 (内閣広報官)
植松信一 (内閣情報官)
辻元清美 (内閣総理大臣補佐官)
藤井裕久 (内閣総理大臣補佐官)
細野豪志 (内閣総理大臣補佐官)
馬淵澄夫 (内閣総理大臣補佐官)
芝 博一 (内閣総理大臣補佐官)
いま16人だ。内閣官房ホームページの「幹部紹介・内閣総理大臣補佐官紹介」のページに載っている人たちだ。テレビに出て来る人と、出て来ない人がいるのが分かる。
この人たちの名前は、べつに秘密でも何でもなく、どこでも公表されているのだから、書いても構わないはずだ。堂々たる公人だ。この16人が、大量汚染水の海洋放出を事前に「知りえた」人たちだろうか。
我々はこの16人の名前を、終生、記憶と記録にとどめておく必要がある。これは、平田オリザ氏の言葉をそのまま受けとめるなら、内閣官房参与である人をして、放射能で汚染された水の海洋放出について「私は知りうる立場になかった」と言わしめた、今の内閣官房の中核にいる人々の名簿である。
それでは「知りえた」のは、だれなのだろう。どのレベルの人たちまでは知っていたのか。何人知っていたのか。米国の「要請」か「了解」なしに汚染水の廃棄などできたとは思えないが、まさか本当に、米政府にも知らさず、要請も了解もなく、そして内閣官房参与にも相談せず、ごく一握りの人たちがゴーサインを出したというのか。
責任の所在を内閣官房だけに限定できるかどうかは分からない。「内閣」には省があり、大臣がいる。各省の大臣は「事前に」知っていたのか知らなかったのか。いま私が知りたいと願っているのは、放射能水の海洋放出の「ゴーサイン」の責任を有する人々は、何人くらいいたのだろうか、という点である。
まさか、先ほど名前を挙げた16人だけで「ゴーサイン」を出したのではないでしょうねと聞いてみたいのだ。「相談役の非常勤公務員」たる内閣官房参与の口から「知りうる立場に無い」と言わせるほどに、まわりの誰とも相談せずに。
内閣官房の中核にいると思われる「16人」が多いのか、それとも少ないのか。そんなことは部外者には知る由もない。16人と言えば、一中学校のPTA運営委員会の人数くらいだ。この人たちが「海に流せ」と言った。そう考えてよいのだろうか。全世界に放射能を拡散させてよいとゴーサインを出したのは、彼らなのか。
私は別に、この「16人」に損害賠償請求をしたいわけではない。とくに面識があるわけでもない平田オリザ氏をほんの少しだけ庇いたい気持ちを持っているにすぎない。まあ、今や国民全体からバッシングを受けている人をかばおうとすると、かばった者までバッシングを受けかねないが、それは致し方ない。
平田氏が何を意図してリーク(と呼んでよいと思う)したかは本人以外には分からないが、私の拙い読解力からいえば、これから徹底的に責任を追及されることになるであろう現内閣を擁護する心の表われだとしか思えない。野党が平田氏を追及するのは当然だが、与党にとってはむしろ重宝な存在ではないか。
たとえば、いま流れている、GEと米政府を提訴する意思が日本政府にあるという噂とリンクするものだとすれば、汚染水放出に「米国のお墨付き」があったというのは決定打につながるのでは、とも思う。
平田オリザ氏という一人の文学者が、我々一般人には立ち入れない奥の間の只中で、知恵をこらして懸命に戦ってくれているような気がするのは、私だけだろうか。
政治の「腹芸」や「どんでん返し」や「敵を騙すにはまず味方から」のような要素は、それこそ劇作家の十八番だろう。シナリオ通りに政治が進むわけがないことも、シナリオライターだからこそ分かるものがあるのではないか。
ともかく、平田氏のような方が内閣官房から排除されないことを、私は願っている。「ド素人の政治参加」、けっこうなことじゃないか。
2011年5月18日水曜日
「終わりある日常だけど生きろ」ですかね
昨日の段階で、日本政府がGEと米国を提訴する可能性があるという噂があることを知りました。しかし、情報源の確かさを含めて真相はまだ分かりません。しかしまた、もしそういうことになった場合におそらく争点となるのは、購入の際に必ずや取り交わされたはずの売買契約の際に、このマシンが壊れたときの修理方法まで教えてもらえたかどうかではないかと想像しています。
しかし、原発がブラックボックスであることは周知のとおり。開発者以外の誰も中身を見たことがないと言われている。そういうものの修理方法を教えられた可能性があるとは、私にはどうしても思えないのです。
パソコンとかでもそうですよね、「壊れたら自分で直さずに、必ずメーカーに返送してください。自分で裏ぶたのネジを開けたら、保証に応じられなくなります」というような警告文が書かれている。企業防衛の論理から言えば、当然すぎる言葉でしょう。でも、何のことはない、いまどき、パソコンくらいなら、多くの人が自分で部品を取り換えているはずです。
でも、原発のネジを開けて自分で部品を取り換えられる人なんて、ごく少数の開発者以外にはちょっと考えにくい。だから、ここで「ブラックボックスが壊れた責任は開発者以外とりえない」という論理が成立しうるのではないかと、昨夜愚考してみたまでです。
ですから、私の発想から言わせていただけば、今回の原発事故や今後の原発存続の是非の問題は、結局のところ、最終的には「哲学」の問題じゃないかと思っているんです。
それは単純明快な哲学です。「絶対に壊れないものなど存在しない」という、いわばアホみたいな命題です。
しかし問題は、このアホみたいな哲学をこれまで我々が持ちえていたかどうか、いまからでも持ちうるかどうか、です。数学も物理も苦手な文系人間の幼稚な発言と思われても結構。いま問われていることは、実はただこれだけであるような気がしてならないのです。
東日本大震災以降しきりと考えさせられてきたことは、文学とか哲学とか神学などが現代社会から締め出されてきた(これは事実)結果がどうなのかというあたりなのですが、字義通りの「終わりなき日常」が、まるで本当に存続しうるかのような錯覚に、(私も含めて)多くの人が陥ってきたと思うのです。
オウム問題以降に語られた「終わりなき日常を生きろ」も、たしかに至言とは思います。私にはオウムを庇う思いは一ミリもない。「宗教」というカテゴリーで一緒くたにされて激しく迷惑したのは我々です。また、とりわけオウム被害者の苦痛はいまだ癒えていないことも分かっているつもりです。
しかし、大震災以降、いや原発「爆発」以降は、「終わりなき日常を生きろ」とは、もう言えなくなりました。「終わりある日常だけど生きろ」とでも言い換えなければならなくなった気がしています。
まあ、もちろん、歴史的な知識がある人たちは、「メメント・モリ」なり「武士道というは死ぬことと見つけたり」なりの言葉を思い出して重んじてもいいでしょう。しかし、なるべくならば「人間はどうせ死ぬし、世界はどうせ滅びるんだから」みたいな諦念っぽいのじゃなくて、「心配なことはいろいろあるけど生きようよ」と言えるほうが私はいい。
ただ、いま言いたいことは、これからどうするかの話ではなく、これまでどうだったかの話です。
数日前から頭をよぎっていることは、「終わりなき日常を生きろ」と真顔で(そして、ちょっとヒロイックな調子で)語りえた時代というのは、そもそも決して存在しうるはずのない「無限のエネルギー採掘所」が存在しうる、という詐欺的で人を幻惑する「哲学」の上に立っていたのではないか、ということです。
この問題は、いま読んでいる最中の宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)のテーマにも深い次元で関係してくるような気がしていますので、その意味でも目下の私の関心事になっています。ちなみに、この本(『ゼロ年代の…』)の帯に「宮台真司氏推薦」と書かれています。「終わりなき日常を生きろ」と言ったのは、そう、宮台真司氏です。
まあ、でも、こういうことも、ただつぶやいているだけではどうにもならないんですけどね。人の中に一度根付いた「哲学」は、そう簡単に変わるものではありませんしね。
しかし、原発がブラックボックスであることは周知のとおり。開発者以外の誰も中身を見たことがないと言われている。そういうものの修理方法を教えられた可能性があるとは、私にはどうしても思えないのです。
パソコンとかでもそうですよね、「壊れたら自分で直さずに、必ずメーカーに返送してください。自分で裏ぶたのネジを開けたら、保証に応じられなくなります」というような警告文が書かれている。企業防衛の論理から言えば、当然すぎる言葉でしょう。でも、何のことはない、いまどき、パソコンくらいなら、多くの人が自分で部品を取り換えているはずです。
でも、原発のネジを開けて自分で部品を取り換えられる人なんて、ごく少数の開発者以外にはちょっと考えにくい。だから、ここで「ブラックボックスが壊れた責任は開発者以外とりえない」という論理が成立しうるのではないかと、昨夜愚考してみたまでです。
ですから、私の発想から言わせていただけば、今回の原発事故や今後の原発存続の是非の問題は、結局のところ、最終的には「哲学」の問題じゃないかと思っているんです。
それは単純明快な哲学です。「絶対に壊れないものなど存在しない」という、いわばアホみたいな命題です。
しかし問題は、このアホみたいな哲学をこれまで我々が持ちえていたかどうか、いまからでも持ちうるかどうか、です。数学も物理も苦手な文系人間の幼稚な発言と思われても結構。いま問われていることは、実はただこれだけであるような気がしてならないのです。
東日本大震災以降しきりと考えさせられてきたことは、文学とか哲学とか神学などが現代社会から締め出されてきた(これは事実)結果がどうなのかというあたりなのですが、字義通りの「終わりなき日常」が、まるで本当に存続しうるかのような錯覚に、(私も含めて)多くの人が陥ってきたと思うのです。
オウム問題以降に語られた「終わりなき日常を生きろ」も、たしかに至言とは思います。私にはオウムを庇う思いは一ミリもない。「宗教」というカテゴリーで一緒くたにされて激しく迷惑したのは我々です。また、とりわけオウム被害者の苦痛はいまだ癒えていないことも分かっているつもりです。
しかし、大震災以降、いや原発「爆発」以降は、「終わりなき日常を生きろ」とは、もう言えなくなりました。「終わりある日常だけど生きろ」とでも言い換えなければならなくなった気がしています。
まあ、もちろん、歴史的な知識がある人たちは、「メメント・モリ」なり「武士道というは死ぬことと見つけたり」なりの言葉を思い出して重んじてもいいでしょう。しかし、なるべくならば「人間はどうせ死ぬし、世界はどうせ滅びるんだから」みたいな諦念っぽいのじゃなくて、「心配なことはいろいろあるけど生きようよ」と言えるほうが私はいい。
ただ、いま言いたいことは、これからどうするかの話ではなく、これまでどうだったかの話です。
数日前から頭をよぎっていることは、「終わりなき日常を生きろ」と真顔で(そして、ちょっとヒロイックな調子で)語りえた時代というのは、そもそも決して存在しうるはずのない「無限のエネルギー採掘所」が存在しうる、という詐欺的で人を幻惑する「哲学」の上に立っていたのではないか、ということです。
この問題は、いま読んでいる最中の宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)のテーマにも深い次元で関係してくるような気がしていますので、その意味でも目下の私の関心事になっています。ちなみに、この本(『ゼロ年代の…』)の帯に「宮台真司氏推薦」と書かれています。「終わりなき日常を生きろ」と言ったのは、そう、宮台真司氏です。
まあ、でも、こういうことも、ただつぶやいているだけではどうにもならないんですけどね。人の中に一度根付いた「哲学」は、そう簡単に変わるものではありませんしね。
2011年5月17日火曜日
「ゼロ年代の想像力」の作品群
宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)に触発されて書きはじめたことは、しかし、同書の書評のようなことではない。書評なら最低でも全部読んでから書く。いまはまだ、読んでいる最中のメモを取っているだけだ。感じたことを感じたまま書く。
ただ、すでに分かってきたことがある。どうやら「ゼロ年代の想像力」(書名ではない)とは、私が長らく違和感…いや拒絶反応…いや嫌悪感(は言いすぎかもしれないが限りなく近い)すらおぼえてきたものようだ、ということである。宇野氏がリストアップしている作品群の名前を見てそう思った。
『バトル・ロワイヤル』(1999年)、『リアル鬼ごっこ』(2001年)、『仮面ライダー龍騎』(2002年)、『ドラゴン桜』(2003年)、『野ブタ。をプロデュース』(2004年)、『女王の教室』(2005年)、そして『DEATH NOTE』(2003~2006年連載)。
なるほど共通しているものがある。ただし、いちいちは言えない。目をそむけたくなったし、実際に目を背けたので、「ゼロ年代の想像力」なるものの産物をほとんど直視できていない。要するに知らないのだ。「ゼロ年代フォビア」かもしれない。まるでその時代の日本に私はいなかったかのようだ。
それと、私が「目をそむけた」のは、もっぱらテレビドラマとなったものだ。原作(小説・マンガなど)があるのかどうかさえ知らない。原作はもっと直視に耐えるものなのかもしれない。といって、テレビで見た俳優たちの演技を云々するつもりはない。
「目を背けた(くなった)」理由は思い出せないし、当時も自覚していなかったはずだ。しかし、今にして思うと、はっとさせられることがある。単純な話だ。宇野氏がリストアップしている「ゼロ世代の想像力」なるものの作品群がちまたに流れていたとき、うちの子どもたちは小学生だった、ということだ。
作者たちには失礼であるに違いないが、子どもたちに「ああいうの」は見せたくなかった。そういう感情は持っていた。原作も読まず、テレビドラマを直視さえしていないのに「ああいうの」呼ばわりするのは申し訳ないことだが、「読む」ということはある程度巻き込まれることだ。巻き込まれたくなかった。
「ああいうの」の中で、唯一、私自身が原作(マンガだが)をすべて読み通したのは『DEATH NOTE』だけである。必ずしも「面白かった」わけではないが「興味はあった」。歓喜をともなう好奇心ではなく、「なんなんだ、こりゃ」という目で眺めていたというに近かった。
そうね、『DEATH NOTE』を読んでいたときの気持ちは、同じ週刊少年ジャンプの中で『ONE PIECE』を読んだ後のバランスをとるような感じだった。ルフィの笑顔を見た後に夜神月のすっとした表情を見ると、なんとなくバランスがとれる。食後のコーヒー、かな。カレーの福神漬け、は言い過ぎか。
でも、逆はありえなかった。夜神月は、まさに「月」で、ルフィが主役だった。『ONE PIECE』を読んだ後でなければ『DEATH NOTE』のページをめくる気がしなかった。夜神月は、あくまでも「陰」。本人(?)がそれを望んだわけでしょ?
おっと、長々とやってしまった。今日は午後からまた中学校に行かねばならない。PTA運営委員会だ。昨夜は遅くまで中会の会議(東日本大震災被災教会緊急支援特別委員会。長いね)だった。今朝の寝覚めは悪くなかったが、取り組むべき課題が大きすぎて、ちょっとだけ逃避したい気分ではある。
��たぶんまだ続く)
ただ、すでに分かってきたことがある。どうやら「ゼロ年代の想像力」(書名ではない)とは、私が長らく違和感…いや拒絶反応…いや嫌悪感(は言いすぎかもしれないが限りなく近い)すらおぼえてきたものようだ、ということである。宇野氏がリストアップしている作品群の名前を見てそう思った。
『バトル・ロワイヤル』(1999年)、『リアル鬼ごっこ』(2001年)、『仮面ライダー龍騎』(2002年)、『ドラゴン桜』(2003年)、『野ブタ。をプロデュース』(2004年)、『女王の教室』(2005年)、そして『DEATH NOTE』(2003~2006年連載)。
なるほど共通しているものがある。ただし、いちいちは言えない。目をそむけたくなったし、実際に目を背けたので、「ゼロ年代の想像力」なるものの産物をほとんど直視できていない。要するに知らないのだ。「ゼロ年代フォビア」かもしれない。まるでその時代の日本に私はいなかったかのようだ。
それと、私が「目をそむけた」のは、もっぱらテレビドラマとなったものだ。原作(小説・マンガなど)があるのかどうかさえ知らない。原作はもっと直視に耐えるものなのかもしれない。といって、テレビで見た俳優たちの演技を云々するつもりはない。
「目を背けた(くなった)」理由は思い出せないし、当時も自覚していなかったはずだ。しかし、今にして思うと、はっとさせられることがある。単純な話だ。宇野氏がリストアップしている「ゼロ世代の想像力」なるものの作品群がちまたに流れていたとき、うちの子どもたちは小学生だった、ということだ。
作者たちには失礼であるに違いないが、子どもたちに「ああいうの」は見せたくなかった。そういう感情は持っていた。原作も読まず、テレビドラマを直視さえしていないのに「ああいうの」呼ばわりするのは申し訳ないことだが、「読む」ということはある程度巻き込まれることだ。巻き込まれたくなかった。
「ああいうの」の中で、唯一、私自身が原作(マンガだが)をすべて読み通したのは『DEATH NOTE』だけである。必ずしも「面白かった」わけではないが「興味はあった」。歓喜をともなう好奇心ではなく、「なんなんだ、こりゃ」という目で眺めていたというに近かった。
そうね、『DEATH NOTE』を読んでいたときの気持ちは、同じ週刊少年ジャンプの中で『ONE PIECE』を読んだ後のバランスをとるような感じだった。ルフィの笑顔を見た後に夜神月のすっとした表情を見ると、なんとなくバランスがとれる。食後のコーヒー、かな。カレーの福神漬け、は言い過ぎか。
でも、逆はありえなかった。夜神月は、まさに「月」で、ルフィが主役だった。『ONE PIECE』を読んだ後でなければ『DEATH NOTE』のページをめくる気がしなかった。夜神月は、あくまでも「陰」。本人(?)がそれを望んだわけでしょ?
おっと、長々とやってしまった。今日は午後からまた中学校に行かねばならない。PTA運営委員会だ。昨夜は遅くまで中会の会議(東日本大震災被災教会緊急支援特別委員会。長いね)だった。今朝の寝覚めは悪くなかったが、取り組むべき課題が大きすぎて、ちょっとだけ逃避したい気分ではある。
��たぶんまだ続く)
ブラックボックスが壊れた責任は開発者以外とりえない
ここ数日「地震直後のメルトダウン」を急に公表しはじめたのは、米国とGE提訴のための伏線だったのかと驚きました。すぐに壊れるおんぼろ機械を高い金で売りつけやがって、と。言ってみる価値はあるでしょう。
「開発者以外には手出しできないブラックボックスが壊れた責任は開発者以外とりえない」というのは論理的には整合性があるわけだから、とりあえずその線で行ってみようとする(負け戦承知の)政府は評価できる気がします。
「開発者以外には手出しできないブラックボックスが壊れた責任は開発者以外とりえない」というのは論理的には整合性があるわけだから、とりあえずその線で行ってみようとする(負け戦承知の)政府は評価できる気がします。
2011年5月16日月曜日
今こそ自分の仕事に向かおう
書きたくない言葉ですが、日本国民は、現時点ですでに十分な意味で、高濃度の放射能の影響下にあると言わざるをえないと感じています。さらに、数か月ないし数年後には、海水や空気(これから訪れる台風の影響はすさまじい)や食べ物を通じて、その影響は全世界に拡散していくものと思われます。
このような形で、我々の世界の寿命が明らかにいくらか(いや、少なからず)短くなったことを、私は心から憂い、惨めな思いに苛まれています。
子どもたちと、子育てに七転八倒している者たちとを、まるであざ笑うかのような「放射能」なる何かが、我々の行く手を阻んでいる。過去66年間「世界唯一の原爆被災国」と称してきた日本が、今年を境に「世界最悪の放射能流出国」と改称しなければならなくなった感さえある。
しかし言っておきますが、ここで絶望するなら、我々は神学者としても教会人としても失格者です。世界の寿命が縮んだなら、我々の仕事のペースを速めるだけです。少し急ぎましょう。大いにあわてましょう。仕事をサボっている場合ではありません。
私自身は、ファン・ルーラーの翻訳と研究を開始して12年余になりますが、いまだに一冊の訳書すら世に問えていません。今のペースのままだと30年(残り18年弱)くらいかかりそうだなあと、天を仰いでいたところでした。
しかし、今回の事態を受けて、悠長なことは言っていられなくなりました。もっと急ぎます。なんらかの形にします。私の寿命が尽きる前に(こういうのも「過剰反応」と言われてしまうのでしょうか)。ウェブ版で読んでくださっている方々にも応援と協力をお願いしたいです。
このような形で、我々の世界の寿命が明らかにいくらか(いや、少なからず)短くなったことを、私は心から憂い、惨めな思いに苛まれています。
子どもたちと、子育てに七転八倒している者たちとを、まるであざ笑うかのような「放射能」なる何かが、我々の行く手を阻んでいる。過去66年間「世界唯一の原爆被災国」と称してきた日本が、今年を境に「世界最悪の放射能流出国」と改称しなければならなくなった感さえある。
しかし言っておきますが、ここで絶望するなら、我々は神学者としても教会人としても失格者です。世界の寿命が縮んだなら、我々の仕事のペースを速めるだけです。少し急ぎましょう。大いにあわてましょう。仕事をサボっている場合ではありません。
私自身は、ファン・ルーラーの翻訳と研究を開始して12年余になりますが、いまだに一冊の訳書すら世に問えていません。今のペースのままだと30年(残り18年弱)くらいかかりそうだなあと、天を仰いでいたところでした。
しかし、今回の事態を受けて、悠長なことは言っていられなくなりました。もっと急ぎます。なんらかの形にします。私の寿命が尽きる前に(こういうのも「過剰反応」と言われてしまうのでしょうか)。ウェブ版で読んでくださっている方々にも応援と協力をお願いしたいです。
「碇シンジでは夜神月を止められない」か?
遅ればせながら、と書かねばならない。劣等感を否めない。先週入手した宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)を読んでいる。こういう(たぶん話題になった)本を知らなかったことに恥ずかしさを禁じえないが、読みはじめて感じていることは「へえ」である。
宇野常寛氏の名前も先週どなたかのツイートで知ったばかりである。本書が出版されたらしき2008年7月の私は何をしていたかなあ。このブログ「関口 康日記」を始めたのが2008年1月。アムステルダム自由大学での「国際ファン・ルーラー学会」に出席したのが同年12月。そのちょうど中間くらいだ。
だから、おそらくこう言わねばならない。「2008年7月の関口は、神学一色、ファン・ルーラー一色でした」。宇野氏が扱っている仮面ライダー(龍騎、電王)、新世紀エヴァンゲリオン、DEATH NOTE、ONE PIECEなどは、子どもたちと一緒になって「批評なしに」楽しんでいた。純粋な一消費者として。
あ、いまちょっとウソを書きました。「子どもたちと一緒になって」?違うね。「子どもたち」を言い訳に使っちゃあいけない。子どもたちも楽しんでいましたが、私「が」楽しんでいました。もう一つのウソは、仮面ライダー「龍騎」というのを、私はほとんど見たことがない。チラ見したが、関心を持てなかった。
『仮面ライダー電王』は、相当見ました。映画まで見た。『DEATH NOTE』は、週刊少年ジャンプでリアルタイムで全部読んだ。映画も見た。『ONE PIECE』は全巻コミックスをもっている。アニメは(面白くないので)見ていない。『新世紀エヴァンゲリオン』は、リアルタイムでは見なかったが、昨年だったか、ウェブで全部見て、「面白い」と知った。
宇野氏が扱っている範囲はもっともっと幅広い。でも、今書いた四作品以外はほとんど知らないし、分かんないですね。フォローしきれない。涼宮なんとか、ハチミツとなんとかは、タイトルくらいは見たことがあるが、中身は知らない。
まあ、『ゼロ年代の想像力』は、まだ読みはじめたばかりなので、これについて云々するのは、もう少しあとになりそうだ。でも、私が実際に関心をもって見た四作品については、宇野氏のような方の解釈に助けてもらいながら、記憶に残っている範囲内で何か書きはじめられることがあるかもしれない。
ただ、四作品といっても連載継続中(つまり未完結)の『ONE PIECE』は別扱いでなければフェアじゃなさそうだし、『仮面ライダー電王』は実写だし、『DEATH NOTE』はマンガ(後に実写化)だし、『新世紀エヴァンゲリオン』はマンガとアニメ(両者の関係は知らない)だしで、「テキストの形態」が異なる。
「テキストの形態」が違うということは、比較が難しいということだ。そのため、宇野氏が取り上げている作品群の中で、私が興味をもって見た四作品のうち、「テキストの形態」が近似していて比較しやすいと思われるのは『新世紀エヴァンゲリオン』と『DEATH NOTE』の二つだということになる。
ここで、最初のほうに書いた、宇野氏の著書をパラパラめくりはじめての第一印象としての「へえ」の話に戻る。どうやら本書にとっても、いま私が残した二つの作品、『新世紀エヴァンゲリオン』と『DEATH NOTE』が、大きな問題らしいのだ。そのことを知っての「へえ」である。
「第一章 問題設定」の中の一小節のタイトルに驚いた。「4.碇シンジでは夜神月を止められない」(22ページ以下)。これは重大な問題提起だと直感するものがある。
でもね、「碇シンジでは夜神月を止められない」ですか?はは、言われてみれば、確かにそういうことになるのかもしれない。しかし、この命題を見た直後に言いたくなったことは、「違うよ」だった。
「碇シンジは存在するが、夜神月は存在しない」です。エヴァンゲリオンは存在しうるが、DEATH NOTEは存在しません。
宇野常寛氏の名前も先週どなたかのツイートで知ったばかりである。本書が出版されたらしき2008年7月の私は何をしていたかなあ。このブログ「関口 康日記」を始めたのが2008年1月。アムステルダム自由大学での「国際ファン・ルーラー学会」に出席したのが同年12月。そのちょうど中間くらいだ。
だから、おそらくこう言わねばならない。「2008年7月の関口は、神学一色、ファン・ルーラー一色でした」。宇野氏が扱っている仮面ライダー(龍騎、電王)、新世紀エヴァンゲリオン、DEATH NOTE、ONE PIECEなどは、子どもたちと一緒になって「批評なしに」楽しんでいた。純粋な一消費者として。
あ、いまちょっとウソを書きました。「子どもたちと一緒になって」?違うね。「子どもたち」を言い訳に使っちゃあいけない。子どもたちも楽しんでいましたが、私「が」楽しんでいました。もう一つのウソは、仮面ライダー「龍騎」というのを、私はほとんど見たことがない。チラ見したが、関心を持てなかった。
『仮面ライダー電王』は、相当見ました。映画まで見た。『DEATH NOTE』は、週刊少年ジャンプでリアルタイムで全部読んだ。映画も見た。『ONE PIECE』は全巻コミックスをもっている。アニメは(面白くないので)見ていない。『新世紀エヴァンゲリオン』は、リアルタイムでは見なかったが、昨年だったか、ウェブで全部見て、「面白い」と知った。
宇野氏が扱っている範囲はもっともっと幅広い。でも、今書いた四作品以外はほとんど知らないし、分かんないですね。フォローしきれない。涼宮なんとか、ハチミツとなんとかは、タイトルくらいは見たことがあるが、中身は知らない。
まあ、『ゼロ年代の想像力』は、まだ読みはじめたばかりなので、これについて云々するのは、もう少しあとになりそうだ。でも、私が実際に関心をもって見た四作品については、宇野氏のような方の解釈に助けてもらいながら、記憶に残っている範囲内で何か書きはじめられることがあるかもしれない。
ただ、四作品といっても連載継続中(つまり未完結)の『ONE PIECE』は別扱いでなければフェアじゃなさそうだし、『仮面ライダー電王』は実写だし、『DEATH NOTE』はマンガ(後に実写化)だし、『新世紀エヴァンゲリオン』はマンガとアニメ(両者の関係は知らない)だしで、「テキストの形態」が異なる。
「テキストの形態」が違うということは、比較が難しいということだ。そのため、宇野氏が取り上げている作品群の中で、私が興味をもって見た四作品のうち、「テキストの形態」が近似していて比較しやすいと思われるのは『新世紀エヴァンゲリオン』と『DEATH NOTE』の二つだということになる。
ここで、最初のほうに書いた、宇野氏の著書をパラパラめくりはじめての第一印象としての「へえ」の話に戻る。どうやら本書にとっても、いま私が残した二つの作品、『新世紀エヴァンゲリオン』と『DEATH NOTE』が、大きな問題らしいのだ。そのことを知っての「へえ」である。
「第一章 問題設定」の中の一小節のタイトルに驚いた。「4.碇シンジでは夜神月を止められない」(22ページ以下)。これは重大な問題提起だと直感するものがある。
でもね、「碇シンジでは夜神月を止められない」ですか?はは、言われてみれば、確かにそういうことになるのかもしれない。しかし、この命題を見た直後に言いたくなったことは、「違うよ」だった。
「碇シンジは存在するが、夜神月は存在しない」です。エヴァンゲリオンは存在しうるが、DEATH NOTEは存在しません。
2011年5月15日日曜日
「文学的に考える」とは、たとえばどういう意味か
現首相が「福島第一原発が爆発した」と公的に発言したとき、あるいは現官房長官が「ただちに健康に影響はない」と公的に釈明したとき、あるいは現天皇がビデオメッセージを国民向けに流したとき、私は彼らの言葉を信用したわけではない。関心があったのは、各発言がなされたという事実そのものと、その日付や場所。そして、そのときどのようなレトリックが用いられたかということだけだった。
ましてや、東電自身や原子力保安院の会見などは、最初の数日は見ていたが、その後はどうでもよくなった。加害当事者の釈明会見など、何十時間聞いても、真相が見えてくるはずがないと分かったからだ。
現天皇はともかく、現首相と現官房長官は、国民向けに語ることができない何らかの「真相」を知っていたに違いない(知りえたことを洗いざらい人前で暴露する政治家は通常いない)。そのことを文学者はすぐに見抜く。なぜ見抜けるか。あらあら、巧みな「文法」を用いはじめたぞ、ということが、文学者には瞬時に分かるのだ。
あるいは、天皇の登場の意味も、文学者なら文学的に、あるいは歴史的に、つまり日本史的に理解する。天皇が何を語ったかはあまり問題ではない。問題なのは、なぜ出てくるのが「天皇」なのか、である。あるいは、なぜあのタイミング(2011年3月15日でしたね)なのか、である。
私自身は文学者でも歴史家でもないので、事の詳細は分からない。しかし、このたびの“出来事”(と、いくらか柔らかく、価値中立的に書いておく)が太平洋戦争の「敗戦」に匹敵する超弩級の国難であるという認識がこの国の支配者層(それが誰かは具体的には知らないが、福島第一原発「爆発」の真相を最初期の段階から知りえていた政治家の誰か複数)の中にあるということを、天皇登場の日に認識した。「ああ、そういうことか」と察知できるものがあった。
いわゆる「核爆発」が起こりうるかどうかも、私にとっては最初からほとんど問題ではなかったし、関心もなかった。たぶん起こらないし、起こっていないのだろうということが、上記の“彼ら”が用いる「文法」で分かったからだ。
ひとの話を聞く際に、語られている内容が科学的に、あるいは数値データ的に正しいかどうかよりも、“日本語として”正しいかどうかに関心を寄せて聞くと、彼らがどの程度のことまでを知っていて、そこから先は本当に知らないかが、分かってくることがあるものなのだ。
なかでも現官房長官の本職は弁護士でもあるのだろう。話の最初から、特定のだれか(の、おもに財産)を法的に弁護している調子が分かった。当然のことながら、弁護士には弁護士の文法がある。とても立派な仕事だと思うが、彼らの用いる文法は、聞いていて苦痛を感じることが多い。
もちろん、もし、自分が弁護してもらう立場にあれば、巧みな「文法」を駆使してくれる弁護士であればあるほど、この上なく助かる存在でもあるだろう。
原発そのものの仕組みを知らないとか、具体的な数値データなど持っていない人間であっても、これくらいのことは分かるのだ。原発にせよ、他の精密機械やソフトウェアにせよ、すべてをブラックボックスにしておいて、つまり、その開発に携わったごく少数の人間だけの専売特許にしておいて、それ以外の素人には(たとえ実害を受けている被害当事者であっても)この件に関する発言権は無いとするのは、いかにも卑怯だ。
絶対に壊れない機械などないし、無限のエネルギーなどありえない。そもそも「完璧なもの」は地上に存在しない。いま書いたことは、科学的に証明できなくても構わない。「そうだ」と言い張る人が多くなれば、それで事は足りるのだ。神学の出番は、そこかもしれない。
ましてや、東電自身や原子力保安院の会見などは、最初の数日は見ていたが、その後はどうでもよくなった。加害当事者の釈明会見など、何十時間聞いても、真相が見えてくるはずがないと分かったからだ。
現天皇はともかく、現首相と現官房長官は、国民向けに語ることができない何らかの「真相」を知っていたに違いない(知りえたことを洗いざらい人前で暴露する政治家は通常いない)。そのことを文学者はすぐに見抜く。なぜ見抜けるか。あらあら、巧みな「文法」を用いはじめたぞ、ということが、文学者には瞬時に分かるのだ。
あるいは、天皇の登場の意味も、文学者なら文学的に、あるいは歴史的に、つまり日本史的に理解する。天皇が何を語ったかはあまり問題ではない。問題なのは、なぜ出てくるのが「天皇」なのか、である。あるいは、なぜあのタイミング(2011年3月15日でしたね)なのか、である。
私自身は文学者でも歴史家でもないので、事の詳細は分からない。しかし、このたびの“出来事”(と、いくらか柔らかく、価値中立的に書いておく)が太平洋戦争の「敗戦」に匹敵する超弩級の国難であるという認識がこの国の支配者層(それが誰かは具体的には知らないが、福島第一原発「爆発」の真相を最初期の段階から知りえていた政治家の誰か複数)の中にあるということを、天皇登場の日に認識した。「ああ、そういうことか」と察知できるものがあった。
いわゆる「核爆発」が起こりうるかどうかも、私にとっては最初からほとんど問題ではなかったし、関心もなかった。たぶん起こらないし、起こっていないのだろうということが、上記の“彼ら”が用いる「文法」で分かったからだ。
ひとの話を聞く際に、語られている内容が科学的に、あるいは数値データ的に正しいかどうかよりも、“日本語として”正しいかどうかに関心を寄せて聞くと、彼らがどの程度のことまでを知っていて、そこから先は本当に知らないかが、分かってくることがあるものなのだ。
なかでも現官房長官の本職は弁護士でもあるのだろう。話の最初から、特定のだれか(の、おもに財産)を法的に弁護している調子が分かった。当然のことながら、弁護士には弁護士の文法がある。とても立派な仕事だと思うが、彼らの用いる文法は、聞いていて苦痛を感じることが多い。
もちろん、もし、自分が弁護してもらう立場にあれば、巧みな「文法」を駆使してくれる弁護士であればあるほど、この上なく助かる存在でもあるだろう。
原発そのものの仕組みを知らないとか、具体的な数値データなど持っていない人間であっても、これくらいのことは分かるのだ。原発にせよ、他の精密機械やソフトウェアにせよ、すべてをブラックボックスにしておいて、つまり、その開発に携わったごく少数の人間だけの専売特許にしておいて、それ以外の素人には(たとえ実害を受けている被害当事者であっても)この件に関する発言権は無いとするのは、いかにも卑怯だ。
絶対に壊れない機械などないし、無限のエネルギーなどありえない。そもそも「完璧なもの」は地上に存在しない。いま書いたことは、科学的に証明できなくても構わない。「そうだ」と言い張る人が多くなれば、それで事は足りるのだ。神学の出番は、そこかもしれない。
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