K. ファン・デア・ツヴァーク/関口 康訳
「父は敬虔な人間というよりも、現実主義者であり、喜び楽しむ人でした」(ケース・ファン・ルーラー)
私の父は改革派教会連合(Gereformeerde Bond)の正会員ではありませんでしたが、かつて自ら表現したように、改革派同盟(Gereformeerde Bond)の「婚約者」であった。
「父は改革派同盟にかなり接近していましたが、メンバーではありませんでした。改革派同盟が父の神学の地上志向性(wereldse orientatie)に共感してくださらなかったのです。父自身は改革派の父祖たちの伝統に明確に立脚していたのですが」。
故A. A. ファン・ルーラー教授のご子息、ケース・ファン・ルーラー氏は、お父上の有名な論文である「ウルトラ改革派とリベラル派」を思い起こして、こう述べておられるのではない。当時、ケース氏はすでに家を出ておられた。伝聞によると、ファン・ルーラーは、この論文を書き終えた後、 アパートの書斎で思案しながら、妻に向かって、「これで終わりだ」(Het is af.)と言った、という。
「父は、時折、他の人々がリベラル派と呼んでいるものに反対しなかったこともあります。しかし、彼自身がリベラル派の陣営に身を置くことはありませんでしたし、リベラル派になったこともありませんでした」。
ケース・ファン・ルーラー氏(1944年生まれ)は、幼少期をヒルファーサムで過ごされた。その後、ユトレヒトに転居。そこはお父上が大学教授になった場所である。
「父は家族の中で、際立った位置を占めていました。しかし、たいてい家を留守にしていました。たくさんの説教を日曜日にしていましたので、家にいなかったのです。国中を駆けずり回っていました。時折、わたしたちも同行しました」。
「当時の男女の役割分担の通念に従って、父もボスでした。私の母は陰に立ち、とりわけ父の死後、自分を発展させました。彼女は後半生に法律を学び、とりわけ教会とオランダ改革派教会(NHK)の大会運営上の発展に貢献しました。とりわけ彼女は、父の著作集を出版するために貢献しました」。
書 斎
ファン・ルーラーは、仕事の大部分を自宅の書斎で行った。われわれ子どもたちは、そこを「至聖所」と呼んでいた。
「書斎の中で出来事が起こりました。とにかくそこは、わたしたちにとって閾(いき)のようなものがありましたので、わたしたちが書斎に入ることは滅多にありませんでした。父はすぐれた蔵書家でした。とても多くの書物を読みました。家全体が本で立っているようなものでした。神学、哲学、政治、歴史、文学、あるいは工学さえ、すべてにおいて遅れをとりたくなかったのです。父は非常に広範な関心を持っていました。ある専門家の方がわたしたちのフロアを訪ねてくださったとき、父は歩み寄り、互いに行き詰まっていることがどの点なのかを、知りたがりました。父は、当時人気があった教授のタイプではありませんでした。自分自身を人間以上のところに置くことがありませんでした。むしろ、誰とでもよく話すことができました」。
二年前に「目録」が出版されたユトレヒト大学図書館内のファン・ルーラー文庫は、「残念ながら」処分したものであると、息子のケース氏は語る。
「父はいつも、本のカードを作っていました。そして、しょっちゅう学生たちに貸し出していました。カード式索引を非常に詳しく調べ上げ、本の詳細をカードに書き込んでいました。今日のオランダ改革派教会常任書記長のバース・プレシール氏〔現在はオランダプロテスタント教会常任書記長〕が、少し前、われわれ家族にこのカード式索引を提供してくださったことを知っています」。
几帳面
ファン・ルーラーは几帳面であった。朝食後、たいていのことが行われた。読書、執筆、面談、物事の準備、講義の準備と実施、そしてとくに接待。
「父はかつて毎年、たいていすべての学生たちを、小グループで二週間、夕べのディナーと居間での集いに招待していました。たいてい、神学的テーマについてのディスカッションを行い、それから当然、ぐいっと一杯、うまいのを飲んでいました」。
ファン・ルーラーは、あのH. ヨンカー教授のように、一度脅迫を受けたことがある。1951年にオランダ改革派教会『教会規程』が施行されたとき、K. H. ミスコッテ教授とは仲良くできないことが明白となった。
「『またミスコッテだよ』と、教会規程に関する苦痛な会議にミスコッテ氏が返り咲いたとき、父は言いました。両者は個性があり、それぞれに全く独創的な見方を持っていました。同じように難しい関係が、G. C. ファン・ニフトリク教授との間にもありました。しかし、ふだんは支持者の群れに囲まれていました。その人々は日曜日にも父を追いかけていました」。
テレビ
ファン・ルーラーは、かつて、「聖化の本質はアヤックスとフェイエノールトの試合を喜び楽しむことにもある」というジョークで、読者にショックを与えたことがある。
「父にとって、とくに後半生において、テレビを見ることは一種の気晴らしでした。当時、健康がすぐれず、時おり仕事を休む必要がありました。テレビを見るとしたら、 ほとんどはサッカーを見ていました」。
ファン・ルーラーは、創造に対するポジティヴな姿勢で知られている。彼の見方において、救いは地上で体験するものであり、神の国は地上の諸形態の中でかたちづくられるのである。ここにファン・ルーラー神学の核心がある。喜び楽しむことは、彼の思想と行為における一つの重要な側面である。
「父にとって、創造は本質的に善きものでした。創造のすべてが恩恵と聖霊と共に働くのです。父は敬虔な人間でもありました。しかし、それよりもっと現実主義者でした。神秘主義も、父の思想の中で重要な位置を占めていました。父は敬虔な人間でした。しかし、敬虔さそのものに基づいて、まさにその点で、きわめて豊かな思想を持っていました。彼は、お決まりの表現以上の言葉で、自分の信仰を表現しました」。
休暇は、家庭生活にとって忘れることができないものである。ケース氏は、ユトレヒトの家庭がルンテレンに旅行したときのことを、今でも覚えている。
「自転車に乗って、スーツケースを後ろに載せて。父は大自然を謳歌しました。運転免許証を取得する前に、一台の自動車を買いました。自動車で森に行き、そこで散歩したかったからです」。
憂 鬱
最晩年において、ファン・ルーラーは、憂鬱な時期を過ごしもした。
「父の肉体は頑強なものではなく、胃の病気を持っていました。とくに教会規程を作成していた時期に、胃痛を何度も体験しました。1951年には胃潰瘍にかかり、そのとき胃の一部が切除されました。しかし父は自分で自分の面倒を見ることができるという意外な才能の持ち主でした。心筋梗塞をわずらった後、 もっと憂鬱な時期を過ごすことになりました。自分に無理を強いなければならず、体を酷使しすぎて健康を害してしまいました。憂鬱なときにも、力みながら、そこにいました。時折、食卓でも、何日も続けて黙り込んでいることがありました」。
「父は、多くのことを語らねばならず、またそれを善い言葉にすることができました。AVROのためのラジオ説教は、非常に高く評価されました。わたしたちは時折、ユトレヒトからラジオ局があるヒルファーサムへ行く道に同行しました。父は最初自転車で、後に自動車で行くようになりました。ラジオの前で10分間語り、それから再び帰途につきました」。
父は、キリスト教放送局のためには語らなかったが、AVROのためには語った。この点も、この神学者の特徴である。
「父は、聖書のメッセージが広範に取り上げられなければならないことに気づき、それが全国民に届くことを願いました。この点にセオクラシー(神政政治)の理念が非常にかかわりを持つのです。第二次大戦後、セオクラシーは、父によってそれまでとは違うものにならなければなりませんでした。そのために、キリスト教放送は一般の放送に座を譲らなければなりませんでした。私の父は、心とはらわたの中で一人のセオクラット(神政主義者)であり続けたのです」。
(1999年4月27日、改革主義日報 © Reformatorisch Dagblad)
2011年5月6日金曜日
ファン・ルーラー研究会の活動内容
[原典講読] メーリングリストを用いて、ファン・ルーラーの論文や説教の輪読会を行います。関連文献の紹介、ディスカッション、各種情報交換も行います。メーリングリストが研究会活動の中心です。
[資料収集] ファン・ルーラー研究に必要な諸文献(オランダ語、ドイツ語、英語、アフリカーンス語など)の収集を行います。またオランダプロテスタント神学全般(聖書、歴史、組織、実践など)に関する文献収集も心がけます。
[研修活動] ファン・ルーラー神学に関心を持つ人々を広く求めるために、年1回をめどに、公開シンポジウムを計画します。第1回シンポジウムは、2001年9月3日日本キリスト改革派園田教会で行われました。
[出版活動] 国内外のファン・ルーラー研究者の諸論文を集めた研究誌の定期刊行を計画します。また、将来的には日本語版ファン・ルーラー著作集の出版を計画します。原典に忠実で良質の翻訳をめざすために、多方面の分野で活躍している監修スタッフによるチェック方式を採用します。
[語学研究] 日蘭修好400周年(2000年)を機に、日本国内でもオランダ文化やオランダ語そのものへの関心が高まりつつあります。オランダの「神学」を学ぶことは、オランダ文化、ひいてはヨーロッパ・アメリカの文化を根源的次元において学ぶことでもあります。本研究会では、こうした文化研究に必須の語学研究をも扱っていきます。
ファン・ルーラーの言葉:「主なる神は、まさにヨハン・クライフである」
1999年4月28日 C. ファン・リムプト
1951年に改定されたオランダ改革派教会『教会規程』作成の最も重要な立役者であったA. A. ファン・ルーラー(1908〜1970年)は、神学者としては、ほとんど評価されてきませんでした。バルトとミスコッテが、ユトレヒトの教義学者〔ファン・ルーラー〕を、てっとりばやく、神学競技場の周辺へと、追い払ってしまったからです。
しかし、そのことは、ファン・ルーラーの諸見解が、何の影響力も持っていなかった、ということを物語るものではありません。フローニンゲン大学で教義学と倫理学を教えているL. J. ファン・デン・ブロム教授は、この「地上的実在の神学者」〔ファン・ルーラー〕から講義を受けることができるたびに、教科〔の内容〕を変更していたほどです。
「ファン・ルーラーは、信仰というものを、日常生活の中に引き入れました。彼のヴィジョンは、人生においてあなたの心が動かされうるものになるために、あなたの信仰と信仰的体験とが相互に関係づけられなければならない、というものでした。ある日、彼は、その手に一本のバラを持って、講義室に入ってきました。彼は、鼻を近づけて匂いをかぎ、そしてこう言いました。『神の国の香りがする』。日常的な現実に接近する方法や、創造と神の国についての語り方は、非常に驚かされるものであり、独創的なものでした。彼は、ベーテュウェ地方の花開く果樹園など、実在におけるあらゆる美しいものを、神の臨在として、見ていました。創造者の表現としての創造を、彼は体験しました。彼はそこで、何に逆らうことがあるのでしょうか?」。
ファン・ルーラーは、自らの神学思想におけるこの地上性(aardsheid)という点を、生のあらゆる側面において、矛盾無く貫き通しました。そのように、物質的な実在というものが肯定的に評価されなければならないことを、非常に強調しました。ファン・ルーラーは、次のように語りました。「物質とは、超越性に対峙するところの被造的実在の、基礎構造である。だからこそ、それは、鼻であしらうことができないものである」。
ファン・デン・ブロムは、ファン・ルーラーの諸見解が、より正統主義的な学生たちに対して、時おりどれほどショックを与えるものであったかを、今も懐かしく思い起こすそうです。
「たとえば、ファン・ルーラーは、セックスに関する事柄について、全くオープンかつ正直に語りました。地上的存在は楽しむためにある、と語りました。あなたは人間として、あなたの望むとおりにすればよいのです、と。あなたはセックスにおいても充分に楽しめばよいのです、と。セックスをするときには、まさにあなたが『真っ裸で神の御前に立つ』あの瞬間と同じように、互いに開けっぴろげの真っ裸になり、まさにあなたの素っ裸を与えればよいのです、と。ですから、ファン・ルーラーは、性体験こそ結婚の本質である、とも語りました。彼の見方では、残りの部分である教会での結婚式や、市役所に出す婚姻届は、事務的な処理以上の何ものでもありませんでした」。
確かな意味で、ファン・ルーラーは、一人のセオクラット(神政主義者)でした。とはいえ、その理念によって彼は、聖書の独裁によって統治される社会を目指していたわけではありません。ファン・デン・ブロムは、次のように証言しています。
「ファン・ルーラーは――キリスト教主義学校を除いても―― そこで文化が聖書によって形成されているような公共の国家というものを擁護したいと願っていました。彼は、聖書の目指すところや、正義と公平などに関する聖書的概念が、社会において再び議論可能なものにならなければならない、と考えていました。全ヨーロッパにとって、聖書は再び、文化を形成するための重要な要素にならなければなりませんでした。私見によれば、ファン・ルーラーは、事実上の『政治神学』に取り組んだのです。彼は『政治とは聖なる事柄』であり、『政治的行為は信仰の頂点』であるとさえ呼びました。信仰とは、まさに政治のようなすべての人間的な現実と共にあるものだ。それゆえ、政治は十字架よりも重要なのだ、とさえ語りました」。
「多くの神学書は、十字架のところで終わっています。これについて、ファン・ルーラーは、とりわけキリスト論が中心に置かれていた(バルト主義的な)一時代の只中で、彼の聖書理解をもって、また神が三位一体であることについての強調をもって、全く異なることを考えなければなりませんでした。ファン・ルーラーは、旧約聖書というものを高く評価し、新約聖書のほうは単なる巻末語句解説に過ぎないものと呼びました。そのことによって、彼は、新約聖書のほうは単に個々人や諸グループにとって重要なものに過ぎないが、旧約聖書のほうはすべての生にとって、すなわち、トータルな現実にとって重要である、と言いたかったのです。そこで、あなたは、正義と不義についての概念、また政治や人間の所産についての概念を見出すのです、と」。
「この視座において、ファン・ルーラーは、イエスの十字架の死を、本来的には必ずしも必然的ではないという意味で、一つの『緊急措置』に過ぎないと呼びました。それは一枚のスナップショットである、と。その次に、聖霊が、われわれを再び旧約聖書へと連れ戻し、そこでわれわれは広漠とした生に遭遇するのである、と。ファン・ルーラーは、人間を最も責任ある存在として、見ていました。十字架は、〔人間が神によって〕受容されていることの確証として、その背後から見ることさえ許されているのだ、と。しかし、それは、とりわけ前を見ること、すなわち、可視的な創造において形成されるべき神の国というものを、見るのでなければならない、と見ていました」。
神を三位一体として語ることによって、神の内なる位格的関係の一要素がそこに生じます。ファン・ルーラーにとって全く重要であったことは、次のことです。彼によると、われわれ人間について語るときにも、神との相互関係において語らなければなりません。そのように、天においても、地においても語らなければならない、とファン・ルーラーは考えたのです。
御父が御子と共に何かを持っているように、御子が御父と共にあり、御父と御子が御霊と共にあります。逆に言えば、そのとき三位一体の神もまた人間と共に働くべきであり、人間は神と共に働くべきであり、人間は互いに共に働くべきなのです。
このイラストのために、ファン・ルーラーが当時用いた実際的なメタファー(比喩)は、再び正統主義者たちの度肝を抜くものです。ファン・ルーラーは、次のように語りました。
「主なる神は、まさしくヨハン・クライフです。クライフがプレイするためには、21人の他の人間が必要です。そのように、神もまた、人間を必要としており、そのとき彼は、良いプレイを行うのです。一人の者が他の者たちから信頼されつつ、誰もが自分自身の役割を果たすのです」。
そのような相互プレイにおいて、人間存在の固有の役割が過小評価されてはならない、とファン・ルーラーは見ていました。全知全能の神は、最も重要である。しかし、「このわたし」としての人間も、依然として存在するのであり、「わたし」は、このわたし自身を擁護しなければならないのです。
そのようにして、(御子だけではなく)三位一体の神は、このわたしと共に何かをしてくださるが、神がこのわたしの罪を大きなブラシで洗い落としてくださるわけではないのです。それは、第一に、このわたしが責任を取らなければならないことを意味します。このわたしはまさに責任をもって生きなければならず、またそのとき、このわたしは、生を一新することを意図してくださる聖霊の助けと共に、生における働きに就かねばならないのです。
ファン・ルーラーの見解において、キリスト教信仰とは、あなたはあなたが望むように生きてよいと語る、まさに一つの自尊心の表現です。ファン・デン・ブロムによると、それは、実存主義と虚無主義とが興隆を極めていた時代(1960年代)においては、非常にすがすがしい考え方でした。
存在が灰色の悲惨な出来事になるという体験に対峙して、ファン・ルーラーは、あなたの存在はすでに一つの奇跡と呼ばれてもよいものであり、あなたはなお望むように生きてよい、というヴィジョンを語りました。
人生を充分に楽しむために、また「神の物語に形態を与える意図を持つ現実において」何かを生み出すために、ファン・ルーラーは、もっと多くの理由を見出すのです。
ファン・ルーラーはまた、その視座において、教会の役割についても語りました。
彼は教会をここ、すなわち、地上において神の国が打ち立てられるために、人間の現実へと向かってくる、神の遠大な運動の下部として見ていました。彼は次のように語りました。
「内側にいなければならないのはわれわれのほうではなく、むしろ、世界のほうこそが内側にいなければなりません。教会は――われわれが神から授かる――われわれのアイデンティティではなく、また終着点でもありません。教会は、神の国へと至る途上における、単なる一手段であることのほうが望ましいのです」。
1951年に改定されたオランダ改革派教会『教会規程』作成の最も重要な立役者であったA. A. ファン・ルーラー(1908〜1970年)は、神学者としては、ほとんど評価されてきませんでした。バルトとミスコッテが、ユトレヒトの教義学者〔ファン・ルーラー〕を、てっとりばやく、神学競技場の周辺へと、追い払ってしまったからです。
しかし、そのことは、ファン・ルーラーの諸見解が、何の影響力も持っていなかった、ということを物語るものではありません。フローニンゲン大学で教義学と倫理学を教えているL. J. ファン・デン・ブロム教授は、この「地上的実在の神学者」〔ファン・ルーラー〕から講義を受けることができるたびに、教科〔の内容〕を変更していたほどです。
「ファン・ルーラーは、信仰というものを、日常生活の中に引き入れました。彼のヴィジョンは、人生においてあなたの心が動かされうるものになるために、あなたの信仰と信仰的体験とが相互に関係づけられなければならない、というものでした。ある日、彼は、その手に一本のバラを持って、講義室に入ってきました。彼は、鼻を近づけて匂いをかぎ、そしてこう言いました。『神の国の香りがする』。日常的な現実に接近する方法や、創造と神の国についての語り方は、非常に驚かされるものであり、独創的なものでした。彼は、ベーテュウェ地方の花開く果樹園など、実在におけるあらゆる美しいものを、神の臨在として、見ていました。創造者の表現としての創造を、彼は体験しました。彼はそこで、何に逆らうことがあるのでしょうか?」。
ファン・ルーラーは、自らの神学思想におけるこの地上性(aardsheid)という点を、生のあらゆる側面において、矛盾無く貫き通しました。そのように、物質的な実在というものが肯定的に評価されなければならないことを、非常に強調しました。ファン・ルーラーは、次のように語りました。「物質とは、超越性に対峙するところの被造的実在の、基礎構造である。だからこそ、それは、鼻であしらうことができないものである」。
ファン・デン・ブロムは、ファン・ルーラーの諸見解が、より正統主義的な学生たちに対して、時おりどれほどショックを与えるものであったかを、今も懐かしく思い起こすそうです。
「たとえば、ファン・ルーラーは、セックスに関する事柄について、全くオープンかつ正直に語りました。地上的存在は楽しむためにある、と語りました。あなたは人間として、あなたの望むとおりにすればよいのです、と。あなたはセックスにおいても充分に楽しめばよいのです、と。セックスをするときには、まさにあなたが『真っ裸で神の御前に立つ』あの瞬間と同じように、互いに開けっぴろげの真っ裸になり、まさにあなたの素っ裸を与えればよいのです、と。ですから、ファン・ルーラーは、性体験こそ結婚の本質である、とも語りました。彼の見方では、残りの部分である教会での結婚式や、市役所に出す婚姻届は、事務的な処理以上の何ものでもありませんでした」。
確かな意味で、ファン・ルーラーは、一人のセオクラット(神政主義者)でした。とはいえ、その理念によって彼は、聖書の独裁によって統治される社会を目指していたわけではありません。ファン・デン・ブロムは、次のように証言しています。
「ファン・ルーラーは――キリスト教主義学校を除いても―― そこで文化が聖書によって形成されているような公共の国家というものを擁護したいと願っていました。彼は、聖書の目指すところや、正義と公平などに関する聖書的概念が、社会において再び議論可能なものにならなければならない、と考えていました。全ヨーロッパにとって、聖書は再び、文化を形成するための重要な要素にならなければなりませんでした。私見によれば、ファン・ルーラーは、事実上の『政治神学』に取り組んだのです。彼は『政治とは聖なる事柄』であり、『政治的行為は信仰の頂点』であるとさえ呼びました。信仰とは、まさに政治のようなすべての人間的な現実と共にあるものだ。それゆえ、政治は十字架よりも重要なのだ、とさえ語りました」。
「多くの神学書は、十字架のところで終わっています。これについて、ファン・ルーラーは、とりわけキリスト論が中心に置かれていた(バルト主義的な)一時代の只中で、彼の聖書理解をもって、また神が三位一体であることについての強調をもって、全く異なることを考えなければなりませんでした。ファン・ルーラーは、旧約聖書というものを高く評価し、新約聖書のほうは単なる巻末語句解説に過ぎないものと呼びました。そのことによって、彼は、新約聖書のほうは単に個々人や諸グループにとって重要なものに過ぎないが、旧約聖書のほうはすべての生にとって、すなわち、トータルな現実にとって重要である、と言いたかったのです。そこで、あなたは、正義と不義についての概念、また政治や人間の所産についての概念を見出すのです、と」。
「この視座において、ファン・ルーラーは、イエスの十字架の死を、本来的には必ずしも必然的ではないという意味で、一つの『緊急措置』に過ぎないと呼びました。それは一枚のスナップショットである、と。その次に、聖霊が、われわれを再び旧約聖書へと連れ戻し、そこでわれわれは広漠とした生に遭遇するのである、と。ファン・ルーラーは、人間を最も責任ある存在として、見ていました。十字架は、〔人間が神によって〕受容されていることの確証として、その背後から見ることさえ許されているのだ、と。しかし、それは、とりわけ前を見ること、すなわち、可視的な創造において形成されるべき神の国というものを、見るのでなければならない、と見ていました」。
神を三位一体として語ることによって、神の内なる位格的関係の一要素がそこに生じます。ファン・ルーラーにとって全く重要であったことは、次のことです。彼によると、われわれ人間について語るときにも、神との相互関係において語らなければなりません。そのように、天においても、地においても語らなければならない、とファン・ルーラーは考えたのです。
御父が御子と共に何かを持っているように、御子が御父と共にあり、御父と御子が御霊と共にあります。逆に言えば、そのとき三位一体の神もまた人間と共に働くべきであり、人間は神と共に働くべきであり、人間は互いに共に働くべきなのです。
このイラストのために、ファン・ルーラーが当時用いた実際的なメタファー(比喩)は、再び正統主義者たちの度肝を抜くものです。ファン・ルーラーは、次のように語りました。
「主なる神は、まさしくヨハン・クライフです。クライフがプレイするためには、21人の他の人間が必要です。そのように、神もまた、人間を必要としており、そのとき彼は、良いプレイを行うのです。一人の者が他の者たちから信頼されつつ、誰もが自分自身の役割を果たすのです」。
そのような相互プレイにおいて、人間存在の固有の役割が過小評価されてはならない、とファン・ルーラーは見ていました。全知全能の神は、最も重要である。しかし、「このわたし」としての人間も、依然として存在するのであり、「わたし」は、このわたし自身を擁護しなければならないのです。
そのようにして、(御子だけではなく)三位一体の神は、このわたしと共に何かをしてくださるが、神がこのわたしの罪を大きなブラシで洗い落としてくださるわけではないのです。それは、第一に、このわたしが責任を取らなければならないことを意味します。このわたしはまさに責任をもって生きなければならず、またそのとき、このわたしは、生を一新することを意図してくださる聖霊の助けと共に、生における働きに就かねばならないのです。
ファン・ルーラーの見解において、キリスト教信仰とは、あなたはあなたが望むように生きてよいと語る、まさに一つの自尊心の表現です。ファン・デン・ブロムによると、それは、実存主義と虚無主義とが興隆を極めていた時代(1960年代)においては、非常にすがすがしい考え方でした。
存在が灰色の悲惨な出来事になるという体験に対峙して、ファン・ルーラーは、あなたの存在はすでに一つの奇跡と呼ばれてもよいものであり、あなたはなお望むように生きてよい、というヴィジョンを語りました。
人生を充分に楽しむために、また「神の物語に形態を与える意図を持つ現実において」何かを生み出すために、ファン・ルーラーは、もっと多くの理由を見出すのです。
ファン・ルーラーはまた、その視座において、教会の役割についても語りました。
彼は教会をここ、すなわち、地上において神の国が打ち立てられるために、人間の現実へと向かってくる、神の遠大な運動の下部として見ていました。彼は次のように語りました。
「内側にいなければならないのはわれわれのほうではなく、むしろ、世界のほうこそが内側にいなければなりません。教会は――われわれが神から授かる――われわれのアイデンティティではなく、また終着点でもありません。教会は、神の国へと至る途上における、単なる一手段であることのほうが望ましいのです」。
知らなかったことが恥ずかしい(番外篇)
「番外篇」とするのは、最初に「だれを責めるつもりもない」と約束したからである。しかし、ちょっとだけ責めたくなった。ただし、ほんのちょっとだけ。
ある方が寄せてくださったコメントの中に、「修正した訳もあまり良くないのではないかと思う。故郷の言葉を話している主体について誤解をしてしまう可能性があるから」と書かれていた。
これは私も全く同感であった。いちばん最初、昨日の午前中の祈祷会のときに懸念を覚えたのは、まさにこの点だったのだ。
新共同訳の現在の訳のように使徒言行録2・6から「彼ら」という(ギリシア語原典には明記されている)主語さえ隠してしまい、「話されている」などと受動形でぼんやりと訳してしまうと、私の拙い日本語感覚から言わせていただけば、まるで都会の雑踏の中に響く不特定多数の入り乱れた音声を客観的ないし傍観者的に描写しているかのように読めてしまう。
そうなると、「故郷の言葉」を話している主体として考えられる対象が、
��1)「(11人の)使徒たち」(奇跡性レベル100%)ではないばかりか、
��2)「(120人ほどの)兄弟たち」(奇跡性レベル50%)でもなくなり、
��3)「天下のあらゆる国からエルサレムに帰って来た信心深いユダヤ人」(奇跡性レベル0%)あたりまで
拡大して読んでしまう人たちが出てくるのではないかと、心配になったのである。
「外国生活をしてきた人たちが外国語をしゃべった」なんて、当たり前の話以外の何ものでもない。そういう「誤読」を誘発してしまわないだろうかと思ったのである。
しかし私自身は、いかなる翻訳聖書の擁護者でもない。一つの特定の立場に立っていないし、他の特定の立場を批判する意図が全くない。この点も「誤読」されたくない。
日本キリスト改革派教会も、日本聖書協会とも新日本聖書刊行会とも公平な関係を築いてきた。どちらの利益代表にもならない。この教派のそういうところが、いたく気に入っている。
ある方が寄せてくださったコメントの中に、「修正した訳もあまり良くないのではないかと思う。故郷の言葉を話している主体について誤解をしてしまう可能性があるから」と書かれていた。
これは私も全く同感であった。いちばん最初、昨日の午前中の祈祷会のときに懸念を覚えたのは、まさにこの点だったのだ。
新共同訳の現在の訳のように使徒言行録2・6から「彼ら」という(ギリシア語原典には明記されている)主語さえ隠してしまい、「話されている」などと受動形でぼんやりと訳してしまうと、私の拙い日本語感覚から言わせていただけば、まるで都会の雑踏の中に響く不特定多数の入り乱れた音声を客観的ないし傍観者的に描写しているかのように読めてしまう。
そうなると、「故郷の言葉」を話している主体として考えられる対象が、
��1)「(11人の)使徒たち」(奇跡性レベル100%)ではないばかりか、
��2)「(120人ほどの)兄弟たち」(奇跡性レベル50%)でもなくなり、
��3)「天下のあらゆる国からエルサレムに帰って来た信心深いユダヤ人」(奇跡性レベル0%)あたりまで
拡大して読んでしまう人たちが出てくるのではないかと、心配になったのである。
「外国生活をしてきた人たちが外国語をしゃべった」なんて、当たり前の話以外の何ものでもない。そういう「誤読」を誘発してしまわないだろうかと思ったのである。
しかし私自身は、いかなる翻訳聖書の擁護者でもない。一つの特定の立場に立っていないし、他の特定の立場を批判する意図が全くない。この点も「誤読」されたくない。
日本キリスト改革派教会も、日本聖書協会とも新日本聖書刊行会とも公平な関係を築いてきた。どちらの利益代表にもならない。この教派のそういうところが、いたく気に入っている。
2011年5月5日木曜日
知らなかったことが恥ずかしい(解決篇)
昨日書いたことをFacebookに貼りつけたり、小分けにしてTwitterに流したり(回転寿司みたいでした)したところ、かなりの方々が関心を寄せてくださり、貴重なコメントをいただくことができた。その方々に心から感謝している(ありがとうございました)。以下は、コメントしてくださった方々への私からの返信内容を、ただし、書いたとおりではなくその主旨を、ざっとまとめたものである。
日本聖書協会ホームページの「新共同訳聖書 訂正箇所一覧」を見たのは、昨日が初めてだった。日本聖書協会が聖書を訂正していくプロセスそのものを批判するつもりは私にはないが、訂正箇所がこんなに多かったとは知らなかった。
多くの読者が知らないうちに「いつの間にか」すり替えられていくこの雰囲気は、あの茂木健一郎氏でおなじみの「アハ画像」のようで、若干のダマサレタ感は否めない。せめて理由を公示して訂正してもらいたいものだ。「聖書は世界のベストセラーである」という決めゼリフは日本聖書協会も言ってきたはずだ。この本の影響力の大きさを考えれば、一般の新聞で公示されてもよいのではないかと思うくらいである。
また私自身は、従前の解釈(聖霊に満たされた使徒たちが突然、習ったこともないはずの外国語を話しだした)が間違っていると言いたいのではない。私の問いは、日本聖書協会が使徒言行録2・6から「使徒たち」を取り除いた理由は何かという点だけである。「使徒」を取り除いても従前の解釈は不動であると判断したからなのか、それとも、解釈の幅を広げたかったのか、どちらだろうかと思っただけである。
訂正の理由として「原語により厳密に合わせた」という点がおそらく第一に挙げられることになるのは当然だろう。しかし、「使徒」を取り除くと、やはり文意が変わってしまわないだろうか。そこに若干の疑問はあった。「文意は変わっていない」というコメントをいただいた。それなら私は安心である。しかしまた、もし文意が変わらないのなら、日本語訳聖書の100年越しの伝統を忽然と棄てる理由が分からないとも思った。なぜ今さらなのか?学術的厳密性へのこだわりなのか?次の大改訂まで待てないほどのことなのか?
「新共同訳和英対照(1998年版)の英文では、all of them heard the believers talking in their own languagesで、believersは1節で『一同』と訳されている」という有難いコメントもいただいた。「信者」(believers)と「使徒」(Apostles)を、聖書はわりとはっきり区別する。やはり文意は変わったのだろうか。
文意は変わったのだと、言い切ってくださった方もおられた。「いろんな国の言葉を語り始めた」のは「(11人の)使徒たち」ではなく「(120人ほどの)兄弟たち」であるというふうに日本聖書協会側の解釈が変わったと受けとめてもよいかという私の質問に「そうだと思う」と答えてくださった。
もしそれが事実ならば、やはりかなり重大な訂正である。私に言わせていただくと、従来の教義学の「聖霊論」などは全面的な書き換えが求められるのではないかと思うほどの大改訂である。こういう箇所が「いつの間にか」すり替えられているようでは困る。
しかし、原典には「彼ら」と書いているだけである。「(120人ほどの)兄弟たち」と明確に特定できるほどの根拠のほうも見当たらない。もちろん、保守的(?)に考えれば、「(イスカリオテのユダを除く11人の)使徒たち」でなければ「(120人ほどの)兄弟たち」しか選択肢は残らないとは思う。
かくいう私は、それが「(120人ほどの)兄弟たち」である可能性を疑いたいのではなく、「彼ら」のすべてが7節の「人々」が言うとおり「皆ガリラヤの人」だったかどうか、また「皆ガリラヤの人」と呼ばれた「(120人ほどの)兄弟たち」の一人も外国語を学んでいなかったかどうかが怪しくなるのではないかと感じるのである。
そして、怪しくなったらなったで、私は構わない。より合理的な解釈の可能性が開けるだけである。「皆ガリラヤの人ではないか」は「人々」(7節)の台詞(カギカッコ内の発言)である。アホな言い方をお許しいただけば、「人々」が「(120人ほどの)兄弟たち」全員の出自を厳密にチェックしたわけではない(たぶん)。しかし私は、より奇跡性の強い従前の解釈を否定したいわけではなく、さりとて、より合理性の強い解釈を警戒しているわけでもなく、事実はどちらだろうと思っているだけである。
私はどっちでもいいとか言うと、無責任な感じになるだろう。しかし、私自身は「とにかくテキストに従うのみだ」と思っている。「テキスト」と言っても新約聖書の場合はギリシア語原典だけが唯一のテキストだと思っているわけではなく、たとえそれが(不完全な)日本語訳聖書であっても、それと自分自身(読者自身)が直接向き合っているかぎり、一つの決定的なテキストではあると、とらえている。
テキストに書いてあることに基づいて議論する、という姿勢を教わったのは左近淑先生(故人)だった。左近先生の旧約緒論の講義を受けたのは、クソがきだった、まだ19歳のときである。「旧約の学問というのは、テキストに縛られてやるものだというのが、わたくしの立場です。ですからテキストが言っていないことは言いたくても言ってはいけない」(『左近淑著作集』「第三巻 旧約聖書緒論講義」、教文館、135ページ)という言葉は、今でも耳に焼き付いている。
少しまとめよう。
使徒言行録2・6の場合、昨日からの私自身の調べと何人かの方々からのコメントを集約すると、ギリシア語原典が「彼ら」と書いているだけのところを日本語訳聖書100年越しの伝統が「使徒」と断定してきたので、おそらく何らかのミスリードが起こってしまっていた。それを日本聖書協会がおそらく大きな決断をもって修正した、という筋書きのように思える。そして、私の感覚では、「使徒」と特定すると事の奇跡性・異常性は強化されるが、特定をやめて「彼ら」とすると奇跡性・異常性はやはり緩和されるものがある。
上にも書いたが(この読み方にこだわるつもりは全くない)、「彼ら」を誰であるとも特定しないことによって、「(11人の)使徒たち」である可能性が薄れるが、他方の「(120人ほどの)兄弟たち」は「皆ガリラヤの人」(2・7)と呼ばれてはいるが、その中に外国語を学んだことがある人や外国生活をしたことがある人が一人もいなかったのだろうかとか、そういう想像力(妄想?)を働かせる余地が出てくると思う。イマジネーションの遊びの余地があることは、我々の読書に楽しみを増やす。
何度も言うのは誤解されたくないからであるが、私自身が聖霊降臨(ペンテコステ)の奇跡性・異常性を否定したがっているわけではない。「テキストが言っていないことは言いたくても言ってはいけない」という、今は亡き恩師の言葉を思い返しているだけである。
文語訳時代の訳者は、親切心のようなことから「解釈的な意訳」(真山光弥氏の表現だそうです)をしてくださったのかもしれないが、アリガタ迷惑だった可能性大のようだ。
日本聖書協会ホームページの「新共同訳聖書 訂正箇所一覧」を見たのは、昨日が初めてだった。日本聖書協会が聖書を訂正していくプロセスそのものを批判するつもりは私にはないが、訂正箇所がこんなに多かったとは知らなかった。
多くの読者が知らないうちに「いつの間にか」すり替えられていくこの雰囲気は、あの茂木健一郎氏でおなじみの「アハ画像」のようで、若干のダマサレタ感は否めない。せめて理由を公示して訂正してもらいたいものだ。「聖書は世界のベストセラーである」という決めゼリフは日本聖書協会も言ってきたはずだ。この本の影響力の大きさを考えれば、一般の新聞で公示されてもよいのではないかと思うくらいである。
また私自身は、従前の解釈(聖霊に満たされた使徒たちが突然、習ったこともないはずの外国語を話しだした)が間違っていると言いたいのではない。私の問いは、日本聖書協会が使徒言行録2・6から「使徒たち」を取り除いた理由は何かという点だけである。「使徒」を取り除いても従前の解釈は不動であると判断したからなのか、それとも、解釈の幅を広げたかったのか、どちらだろうかと思っただけである。
訂正の理由として「原語により厳密に合わせた」という点がおそらく第一に挙げられることになるのは当然だろう。しかし、「使徒」を取り除くと、やはり文意が変わってしまわないだろうか。そこに若干の疑問はあった。「文意は変わっていない」というコメントをいただいた。それなら私は安心である。しかしまた、もし文意が変わらないのなら、日本語訳聖書の100年越しの伝統を忽然と棄てる理由が分からないとも思った。なぜ今さらなのか?学術的厳密性へのこだわりなのか?次の大改訂まで待てないほどのことなのか?
「新共同訳和英対照(1998年版)の英文では、all of them heard the believers talking in their own languagesで、believersは1節で『一同』と訳されている」という有難いコメントもいただいた。「信者」(believers)と「使徒」(Apostles)を、聖書はわりとはっきり区別する。やはり文意は変わったのだろうか。
文意は変わったのだと、言い切ってくださった方もおられた。「いろんな国の言葉を語り始めた」のは「(11人の)使徒たち」ではなく「(120人ほどの)兄弟たち」であるというふうに日本聖書協会側の解釈が変わったと受けとめてもよいかという私の質問に「そうだと思う」と答えてくださった。
もしそれが事実ならば、やはりかなり重大な訂正である。私に言わせていただくと、従来の教義学の「聖霊論」などは全面的な書き換えが求められるのではないかと思うほどの大改訂である。こういう箇所が「いつの間にか」すり替えられているようでは困る。
しかし、原典には「彼ら」と書いているだけである。「(120人ほどの)兄弟たち」と明確に特定できるほどの根拠のほうも見当たらない。もちろん、保守的(?)に考えれば、「(イスカリオテのユダを除く11人の)使徒たち」でなければ「(120人ほどの)兄弟たち」しか選択肢は残らないとは思う。
かくいう私は、それが「(120人ほどの)兄弟たち」である可能性を疑いたいのではなく、「彼ら」のすべてが7節の「人々」が言うとおり「皆ガリラヤの人」だったかどうか、また「皆ガリラヤの人」と呼ばれた「(120人ほどの)兄弟たち」の一人も外国語を学んでいなかったかどうかが怪しくなるのではないかと感じるのである。
そして、怪しくなったらなったで、私は構わない。より合理的な解釈の可能性が開けるだけである。「皆ガリラヤの人ではないか」は「人々」(7節)の台詞(カギカッコ内の発言)である。アホな言い方をお許しいただけば、「人々」が「(120人ほどの)兄弟たち」全員の出自を厳密にチェックしたわけではない(たぶん)。しかし私は、より奇跡性の強い従前の解釈を否定したいわけではなく、さりとて、より合理性の強い解釈を警戒しているわけでもなく、事実はどちらだろうと思っているだけである。
私はどっちでもいいとか言うと、無責任な感じになるだろう。しかし、私自身は「とにかくテキストに従うのみだ」と思っている。「テキスト」と言っても新約聖書の場合はギリシア語原典だけが唯一のテキストだと思っているわけではなく、たとえそれが(不完全な)日本語訳聖書であっても、それと自分自身(読者自身)が直接向き合っているかぎり、一つの決定的なテキストではあると、とらえている。
テキストに書いてあることに基づいて議論する、という姿勢を教わったのは左近淑先生(故人)だった。左近先生の旧約緒論の講義を受けたのは、クソがきだった、まだ19歳のときである。「旧約の学問というのは、テキストに縛られてやるものだというのが、わたくしの立場です。ですからテキストが言っていないことは言いたくても言ってはいけない」(『左近淑著作集』「第三巻 旧約聖書緒論講義」、教文館、135ページ)という言葉は、今でも耳に焼き付いている。
少しまとめよう。
使徒言行録2・6の場合、昨日からの私自身の調べと何人かの方々からのコメントを集約すると、ギリシア語原典が「彼ら」と書いているだけのところを日本語訳聖書100年越しの伝統が「使徒」と断定してきたので、おそらく何らかのミスリードが起こってしまっていた。それを日本聖書協会がおそらく大きな決断をもって修正した、という筋書きのように思える。そして、私の感覚では、「使徒」と特定すると事の奇跡性・異常性は強化されるが、特定をやめて「彼ら」とすると奇跡性・異常性はやはり緩和されるものがある。
上にも書いたが(この読み方にこだわるつもりは全くない)、「彼ら」を誰であるとも特定しないことによって、「(11人の)使徒たち」である可能性が薄れるが、他方の「(120人ほどの)兄弟たち」は「皆ガリラヤの人」(2・7)と呼ばれてはいるが、その中に外国語を学んだことがある人や外国生活をしたことがある人が一人もいなかったのだろうかとか、そういう想像力(妄想?)を働かせる余地が出てくると思う。イマジネーションの遊びの余地があることは、我々の読書に楽しみを増やす。
何度も言うのは誤解されたくないからであるが、私自身が聖霊降臨(ペンテコステ)の奇跡性・異常性を否定したがっているわけではない。「テキストが言っていないことは言いたくても言ってはいけない」という、今は亡き恩師の言葉を思い返しているだけである。
文語訳時代の訳者は、親切心のようなことから「解釈的な意訳」(真山光弥氏の表現だそうです)をしてくださったのかもしれないが、アリガタ迷惑だった可能性大のようだ。
2011年5月4日水曜日
知らなかったことが恥ずかしい(事件篇)
今日は、ちょっとショックなことがあった。私にとっては小さくない問題と感じられたので、忘れないうちに書きとめておくことにする。
今日の午前中の祈祷会で使徒言行録を学んだが、聖書を出席者全員で輪読した際、私の手元の聖書に書かれているのとは違うことを読んだ方がいたので、「おや?」と思った。その個所は、使徒言行録2・6である。
私の手元の聖書は、2006年版の新共同訳聖書である。こう書かれている。
「この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」
しかし、さっき読んだ方は、これとは明らかに違うことを読んだ。そこで、その方にもう一度、同じ個所を読んでいただいたところ、事が明白になった。その方は次のようにお読みになった。
「この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」
その方の持っておられる新共同訳聖書の出版年は、私が持っているのよりも古かった。ということは、ある時点で日本聖書協会がこの箇所を訂正したということだ。かつては「自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて」と訳されていたところが、「自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて」と訂正されたのだ。
祈祷会終了後、いつこの訂正が行われたかを知りたくて、インターネットで調べてみたところ、日本聖書協会のホームページにちゃんと書いてあった。1992年10月20日だそうである(聖書「新共同訳」訂正箇所一覧)。
つまり、この訂正が反映されている新共同訳聖書は、1993年版以降のものであると思われる(松戸小金原教会の本棚には1992年版と1994年版はあるが、1993年版がないので、今のところ確認できない)。
しかし、とても恥ずかしいことに、この訂正がなされていたことを、私は今日まで知らなかった。1992年10月20日といえば、東京神学大学大学院を修了した二年後であり、結婚した翌年であり、高知県南国市の教会で働いていた頃である、ということくらいしか思い浮かばない。まだ子どもはいなかった。それこそインターネットなど見たこともない頃に行われた訂正でもあったようなので、まさに「地方と都会の情報格差」ゆえの無知だっただけだと思いたい。そういうことにしておいてもらえれば、私が知らなかったことの言い訳が立つので、ありがたい話でもある。
しかし、どうだろう。私の見るかぎりこの訂正は、上記の日本聖書協会ホームページの「聖書「新共同訳」訂正個所一覧」の中でも、神学的な意味で際立って重要な訂正であるように感じられる。些細な字句修正のレベルではない。我々が子供の頃から教えこまれてきたこととは全く異なるシナリオを、新たに書きなおさなければならないかもしれない、それくらいの訂正ではないかと思われるのである。
新共同訳聖書よりも前の日本語訳聖書も調べてみた。手元にあるかぎりのものであるが、いわゆる文語訳(改譯)、口語訳、新改訳、フランシスコ会訳などを開いてみた。その結果、これらの聖書翻訳のすべてに「使徒たち」(新改訳「弟子たち」)という、ギリシア語原典には(いかなる写本にも)無い言葉が補われていたことを、今日初めて知った。
外国語訳の聖書も開いてみた。これも私の手元にあるかぎりのものであるが、KJV、RSV、NIV、REB、モファット訳などの英語版や、ルター訳、メンゲ訳、ヴィルケンス訳などのドイツ語版や、現代のオランダ語版などを調べてみた。その結果、外国語訳の(私が所有している)どの聖書にも、「使徒たち」と特定する言葉はなく、三人称複数を表わす「彼/彼女ら」と書かれているだけであることが分かった。
つまり、現時点で言えそうなことは、こうだ。使徒言行録2・6に記されている「自分の故郷の言葉」を話していた人々を「使徒たち」(または「弟子たち」)であると特定して訳すのは「日本語訳聖書の固有な伝統」であった。その伝統はおそらく100年以上続いた。ところが、その100年以上の歴史を、日本聖書協会はある日突然あっさり書き換えた。説明なしに。私が知らないだけかもしれないが、この歴史的訂正についての詳細な説明はいまだかつて聞いたことがない。
日本聖書協会を非難しようとしているのではない。事実を知りたいだけである。私自身は「使徒たち」という語が削除された訂正版のほうが、ギリシア語原典に忠実になった分、とても素晴らしいと感じている。しかし、こう言うだけで済むだろうか。なにかとても大きな、根本的な変化が生じていないだろうか。
コンテクストを見ると、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」(2・5)が、物音に驚いた「大勢の人が集まって来た」(2・6)とある。そのようにして彼らが集まった場所で「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(現在の訳)というのと、「だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(過去の訳)というのとでは、読者のイメージすべきことは全く変わってくるのではないか。
現在の訳では、「自分の故郷の言葉」を話しているのは、もしかしたら「使徒たち」ではなく、「あらゆる国から帰って来た(つまり、外国暮らしをしていた)信心深いユダヤ人たち」だったかもしれないという理解の仕方くらいまでが、この個所の解釈の許容範囲内に入ってくるはずだ。そして、そのような解釈は、合理性の観点から見て、我々にとってより受け容れやすいものとなる。
しかし、私の知るかぎり、少なくとも日本の教会の多くは、二千年前の聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を、そのようなものとしては教えてこなかったはずである。聖霊に満たされた使徒たちが、それまで習ったこともなかったようないろんな国の言葉を突然話しはじめた。それこそが聖霊の働きの特殊性であるというふうに、奇跡的な異常な話として教えてきたはずである。
そして、そういう話を聞く人々の中に、「聖霊の働きは素晴らしい」と感動する人もいれば、「こんな異常な話は聞いていられない」と落胆する人もいたに違いない。
まだつい三時間ほど前に気づいたばかりのことなので、結論を出せる段階にはない。そして、この問題が本当にショックを受けるほどの重要な問題なのかどうかも、今はまだ分からない。ただの過剰反応かもしれないし、私の読み間違いかもしれない。
知りたいのは事実だけである。だれを責めるつもりもない。責められなければならないのは、私のほうかもしれないのだ。
従前の解釈が間違っていると言いたいのではない。日本聖書協会が使徒言行録2・6から「使徒たち」を削除した理由は何かを知りたいのである。削除しても従前の解釈は不動であると判断したからか、それとも、解釈の幅を広げたかったのか。
今日の午前中の祈祷会で使徒言行録を学んだが、聖書を出席者全員で輪読した際、私の手元の聖書に書かれているのとは違うことを読んだ方がいたので、「おや?」と思った。その個所は、使徒言行録2・6である。
私の手元の聖書は、2006年版の新共同訳聖書である。こう書かれている。
「この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」
しかし、さっき読んだ方は、これとは明らかに違うことを読んだ。そこで、その方にもう一度、同じ個所を読んでいただいたところ、事が明白になった。その方は次のようにお読みになった。
「この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」
その方の持っておられる新共同訳聖書の出版年は、私が持っているのよりも古かった。ということは、ある時点で日本聖書協会がこの箇所を訂正したということだ。かつては「自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて」と訳されていたところが、「自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて」と訂正されたのだ。
祈祷会終了後、いつこの訂正が行われたかを知りたくて、インターネットで調べてみたところ、日本聖書協会のホームページにちゃんと書いてあった。1992年10月20日だそうである(聖書「新共同訳」訂正箇所一覧)。
つまり、この訂正が反映されている新共同訳聖書は、1993年版以降のものであると思われる(松戸小金原教会の本棚には1992年版と1994年版はあるが、1993年版がないので、今のところ確認できない)。
しかし、とても恥ずかしいことに、この訂正がなされていたことを、私は今日まで知らなかった。1992年10月20日といえば、東京神学大学大学院を修了した二年後であり、結婚した翌年であり、高知県南国市の教会で働いていた頃である、ということくらいしか思い浮かばない。まだ子どもはいなかった。それこそインターネットなど見たこともない頃に行われた訂正でもあったようなので、まさに「地方と都会の情報格差」ゆえの無知だっただけだと思いたい。そういうことにしておいてもらえれば、私が知らなかったことの言い訳が立つので、ありがたい話でもある。
しかし、どうだろう。私の見るかぎりこの訂正は、上記の日本聖書協会ホームページの「聖書「新共同訳」訂正個所一覧」の中でも、神学的な意味で際立って重要な訂正であるように感じられる。些細な字句修正のレベルではない。我々が子供の頃から教えこまれてきたこととは全く異なるシナリオを、新たに書きなおさなければならないかもしれない、それくらいの訂正ではないかと思われるのである。
新共同訳聖書よりも前の日本語訳聖書も調べてみた。手元にあるかぎりのものであるが、いわゆる文語訳(改譯)、口語訳、新改訳、フランシスコ会訳などを開いてみた。その結果、これらの聖書翻訳のすべてに「使徒たち」(新改訳「弟子たち」)という、ギリシア語原典には(いかなる写本にも)無い言葉が補われていたことを、今日初めて知った。
外国語訳の聖書も開いてみた。これも私の手元にあるかぎりのものであるが、KJV、RSV、NIV、REB、モファット訳などの英語版や、ルター訳、メンゲ訳、ヴィルケンス訳などのドイツ語版や、現代のオランダ語版などを調べてみた。その結果、外国語訳の(私が所有している)どの聖書にも、「使徒たち」と特定する言葉はなく、三人称複数を表わす「彼/彼女ら」と書かれているだけであることが分かった。
つまり、現時点で言えそうなことは、こうだ。使徒言行録2・6に記されている「自分の故郷の言葉」を話していた人々を「使徒たち」(または「弟子たち」)であると特定して訳すのは「日本語訳聖書の固有な伝統」であった。その伝統はおそらく100年以上続いた。ところが、その100年以上の歴史を、日本聖書協会はある日突然あっさり書き換えた。説明なしに。私が知らないだけかもしれないが、この歴史的訂正についての詳細な説明はいまだかつて聞いたことがない。
日本聖書協会を非難しようとしているのではない。事実を知りたいだけである。私自身は「使徒たち」という語が削除された訂正版のほうが、ギリシア語原典に忠実になった分、とても素晴らしいと感じている。しかし、こう言うだけで済むだろうか。なにかとても大きな、根本的な変化が生じていないだろうか。
コンテクストを見ると、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」(2・5)が、物音に驚いた「大勢の人が集まって来た」(2・6)とある。そのようにして彼らが集まった場所で「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(現在の訳)というのと、「だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(過去の訳)というのとでは、読者のイメージすべきことは全く変わってくるのではないか。
現在の訳では、「自分の故郷の言葉」を話しているのは、もしかしたら「使徒たち」ではなく、「あらゆる国から帰って来た(つまり、外国暮らしをしていた)信心深いユダヤ人たち」だったかもしれないという理解の仕方くらいまでが、この個所の解釈の許容範囲内に入ってくるはずだ。そして、そのような解釈は、合理性の観点から見て、我々にとってより受け容れやすいものとなる。
しかし、私の知るかぎり、少なくとも日本の教会の多くは、二千年前の聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を、そのようなものとしては教えてこなかったはずである。聖霊に満たされた使徒たちが、それまで習ったこともなかったようないろんな国の言葉を突然話しはじめた。それこそが聖霊の働きの特殊性であるというふうに、奇跡的な異常な話として教えてきたはずである。
そして、そういう話を聞く人々の中に、「聖霊の働きは素晴らしい」と感動する人もいれば、「こんな異常な話は聞いていられない」と落胆する人もいたに違いない。
まだつい三時間ほど前に気づいたばかりのことなので、結論を出せる段階にはない。そして、この問題が本当にショックを受けるほどの重要な問題なのかどうかも、今はまだ分からない。ただの過剰反応かもしれないし、私の読み間違いかもしれない。
知りたいのは事実だけである。だれを責めるつもりもない。責められなければならないのは、私のほうかもしれないのだ。
従前の解釈が間違っていると言いたいのではない。日本聖書協会が使徒言行録2・6から「使徒たち」を削除した理由は何かを知りたいのである。削除しても従前の解釈は不動であると判断したからか、それとも、解釈の幅を広げたかったのか。
2011年5月3日火曜日
「文系の人たち、立ちあがれ」への追記
哲学を学んでおられる方には教える立場になっていただきたいと願うのですが、教師になろうと必死にがんばっても報われない(または、報われなかった)方がおられることは、よく分かっているつもりです。
どれだけがんばっても、あるいは、がんばればがんばるほど、その努力の結果として与えれるべきものがない、すなわち、「就職先(大学のポストですよね)が無い」という話に、どうしてもなってしまうのでしょう。それで、「哲学では食えない」、「やっても意味がない」、「もっとお金になる実学を」といったような話になっていき、最終的には出資者(多くの場合、親)や自分自身も哲学を敬遠しはじめることになるのかもしれません。
この点で哲学の運命は神学の運命に似ています。しかし、神学の場合は良くも悪しくも「教会の学」(に過ぎないもの)なので、教会が存続するかぎりは有用性を失うことはありません。
神学と教会は一蓮托生の関係にあります。神学は教会と共に栄えます。論理的に言えば、逆もありえます。神学は教会の衰退と共に衰退もしうる。しかし、教会というところは、そう簡単には倒れないんです。だから神学もそう簡単には倒れない。
神学が教会を生み出すという理屈はありませんが(私がそういう理屈を認めません)、その逆ならばもちろんあります。教会は神学を生み出します。教会は神学の宝庫です。より正確に言えば、教会的実践(Ecclesiastical Practices)こそが神学の苗床であり、揺籃であり、宝庫です。この地上に教会が存続するかぎり、神学は話題に事欠くことがありません。
しかし、哲学の場はあくまでも大学でしょう。私は岡山朝日高校で「哲学のさわり」くらいは学びましたが、高校は哲学の土俵ではないでしょう。あくまでも仮定の話ですが、もし大学から哲学が完全に締め出される日が来たら、まさに哲学的な意味での「存在理由」についてはともかく、哲学を自分の仕事にする人は誰もいなくなってしまうのかもしれないというのは、言い過ぎでしょうか。
しかしそれでも、哲学を真剣に学んだ人は、たとえ食えなくても哲学し続けてほしいし、哲学を教えてほしい。大学のポストがないとか、どの大学も呼んでくれないとかなら教会の青年たちに教えてほしい。教会は十分な(いや全く)お支払いはできませんが。筋道のある論理に基づく正当な問いを不断に投げかけてほしい。
「そもそも本を買うお金が無い」、「論文を書いても載せてくれる紀要がない」、「翻訳しても本を書いても、私のような経歴では誰も信用してくれないし、買ってもくれないだろう」、「学会に入会したいけど、推薦してくれる先輩がいない」、などなど。
そんなのはすべて不勉強の言い訳です。発表の場は自分で作り出せます。ブログを立ちあげればいいだけです。ツイッターでもいい。どんなにむなしくても、誰からの返事もなくても、そこで真剣に哲学し続けてほしい。
ちなみに、この「関口 康日記」をどれくらいの方々が読んでくださっているかについては「企業秘密」なのですが、一日あたりでいえば、毎週日曜日の礼拝出席者の二倍から三倍くらいの人数の方々だと思っていただいて結構です。
1997年1月に私は友人すべてを失う覚悟をしました。いや、おそらくそのとき実際に失いました。それと共に、人間関係上の信頼も一度は完全に失ったはずです。道徳的な問題などはなく、所属を日本基督教団から日本キリスト改革派教会に変えただけですが、全く前触れなしに行動しましたので、以前から私を知っていてくださった方々の中に、ちょっとくらいは驚いてくださった方がおられたかもしれない、という程度の話なのですが。
その直後にインターネットを始めました。ですから私のインターネット生活は、ゼロスタートというよりマイナススタートでした。私にとってインターネットは「釈明の道具」でした。あれから14年半経ちました。その間、私がやってきたことと言えば、メールを書き続け、ホームページを立ち上げ、ブログを書くことでした。本当にただそれだけでした。
私の神学はいまだに物になっていませんので、何の参考にも励ましにもならないことも分かっています。しかし、上記のとおり、神学は哲学とは違うところがあります。大学や神学校の教授ポストに就いていないからといって、そのこと自体は「神学の成功者」でないことの証左ではないのです。悔し紛れに「私こそが神学の成功者だ」と言いたいのではありません(悔しがってもいませんしね)。「神学を営みうる場は、大学や神学校にもありますが、教会にもあります」と言いたいだけです。
私の場合は何の成功者でもありませんが、笑顔にあふれる松戸小金原教会と共にあり、美しく優しい妻と、二人の子どもと共に幸せな人生を送っていると、それだけは言える。
私は教会と家族を愛していますので、愛する人たちと共に喜んでいられることを「人生の成功」と呼んでよいなら、その意味でだけ、私は(今のところ)成功者です。
どれだけがんばっても、あるいは、がんばればがんばるほど、その努力の結果として与えれるべきものがない、すなわち、「就職先(大学のポストですよね)が無い」という話に、どうしてもなってしまうのでしょう。それで、「哲学では食えない」、「やっても意味がない」、「もっとお金になる実学を」といったような話になっていき、最終的には出資者(多くの場合、親)や自分自身も哲学を敬遠しはじめることになるのかもしれません。
この点で哲学の運命は神学の運命に似ています。しかし、神学の場合は良くも悪しくも「教会の学」(に過ぎないもの)なので、教会が存続するかぎりは有用性を失うことはありません。
神学と教会は一蓮托生の関係にあります。神学は教会と共に栄えます。論理的に言えば、逆もありえます。神学は教会の衰退と共に衰退もしうる。しかし、教会というところは、そう簡単には倒れないんです。だから神学もそう簡単には倒れない。
神学が教会を生み出すという理屈はありませんが(私がそういう理屈を認めません)、その逆ならばもちろんあります。教会は神学を生み出します。教会は神学の宝庫です。より正確に言えば、教会的実践(Ecclesiastical Practices)こそが神学の苗床であり、揺籃であり、宝庫です。この地上に教会が存続するかぎり、神学は話題に事欠くことがありません。
しかし、哲学の場はあくまでも大学でしょう。私は岡山朝日高校で「哲学のさわり」くらいは学びましたが、高校は哲学の土俵ではないでしょう。あくまでも仮定の話ですが、もし大学から哲学が完全に締め出される日が来たら、まさに哲学的な意味での「存在理由」についてはともかく、哲学を自分の仕事にする人は誰もいなくなってしまうのかもしれないというのは、言い過ぎでしょうか。
しかしそれでも、哲学を真剣に学んだ人は、たとえ食えなくても哲学し続けてほしいし、哲学を教えてほしい。大学のポストがないとか、どの大学も呼んでくれないとかなら教会の青年たちに教えてほしい。教会は十分な(いや全く)お支払いはできませんが。筋道のある論理に基づく正当な問いを不断に投げかけてほしい。
「そもそも本を買うお金が無い」、「論文を書いても載せてくれる紀要がない」、「翻訳しても本を書いても、私のような経歴では誰も信用してくれないし、買ってもくれないだろう」、「学会に入会したいけど、推薦してくれる先輩がいない」、などなど。
そんなのはすべて不勉強の言い訳です。発表の場は自分で作り出せます。ブログを立ちあげればいいだけです。ツイッターでもいい。どんなにむなしくても、誰からの返事もなくても、そこで真剣に哲学し続けてほしい。
ちなみに、この「関口 康日記」をどれくらいの方々が読んでくださっているかについては「企業秘密」なのですが、一日あたりでいえば、毎週日曜日の礼拝出席者の二倍から三倍くらいの人数の方々だと思っていただいて結構です。
1997年1月に私は友人すべてを失う覚悟をしました。いや、おそらくそのとき実際に失いました。それと共に、人間関係上の信頼も一度は完全に失ったはずです。道徳的な問題などはなく、所属を日本基督教団から日本キリスト改革派教会に変えただけですが、全く前触れなしに行動しましたので、以前から私を知っていてくださった方々の中に、ちょっとくらいは驚いてくださった方がおられたかもしれない、という程度の話なのですが。
その直後にインターネットを始めました。ですから私のインターネット生活は、ゼロスタートというよりマイナススタートでした。私にとってインターネットは「釈明の道具」でした。あれから14年半経ちました。その間、私がやってきたことと言えば、メールを書き続け、ホームページを立ち上げ、ブログを書くことでした。本当にただそれだけでした。
私の神学はいまだに物になっていませんので、何の参考にも励ましにもならないことも分かっています。しかし、上記のとおり、神学は哲学とは違うところがあります。大学や神学校の教授ポストに就いていないからといって、そのこと自体は「神学の成功者」でないことの証左ではないのです。悔し紛れに「私こそが神学の成功者だ」と言いたいのではありません(悔しがってもいませんしね)。「神学を営みうる場は、大学や神学校にもありますが、教会にもあります」と言いたいだけです。
私の場合は何の成功者でもありませんが、笑顔にあふれる松戸小金原教会と共にあり、美しく優しい妻と、二人の子どもと共に幸せな人生を送っていると、それだけは言える。
私は教会と家族を愛していますので、愛する人たちと共に喜んでいられることを「人生の成功」と呼んでよいなら、その意味でだけ、私は(今のところ)成功者です。
ブルーマウンテンとレーズンスコーン
日曜日がフル稼働の牧師たちの多くにとって、月曜日は一応、休みの日ということになっています。私もそうです。
しかし、実際には、「お、ヒマそうだね」と、いろんな予定を無理やり押し込んで来る人たちがいるので、休めたためしがありません。とくに牧師会とかするなよと思う。葬儀等の緊急事態は全く別の話です。
また、「休む」と言っても、何をしていいか分からない感じでもある。
私にはサーフィンの趣味があるわけではないし、山登りには耐えがたいものさえ感じます。海水浴はまあまあ好きですが、松戸は海が近いわけではないし(海の話はしにくくなりました)、山も近くない。もちろん好きな人は時間をかけてでも、どこにだって行くのでしょうけど。
何もすることがなくて、それで何をするかといえば、だから先週のように、ブログに毒舌を吐くくらいのことしかできない。ものすごく精神衛生上よろしくないことを、分かっていながら、あえてする。
吐き出して、それですっきりするわけではないのです。もやもや感はいくらか緩和され、言いたいことが論理的によりシャープになった分だけ、目つきは一層悪くなったんじゃないですかね。自分の目つきは、自分ではどうだか分かりませんが。
「休み」と言っても、家には誰もいないんです。今日は世間は平日ですしね。子どもたちは学校だし、妻(保育士)は児童養護施設と保育園の仕事です。
子どもたちも、高二(男)と中二(女)になって部活の忙しさが増し、帰宅時間が遅い、遅い。青春を満喫しているのでしょうが、そんなの知らん知らん。勝手にやってくれ。なんにも言いたくないです。楽しそうにしているのを叱りつけるほど野暮な親ではありません。黙って見守るしか、なすすべがないじゃありませんか。
ですからね、もうね、お父さんは、ひとりで寂しく楽しむのです。
先週は「ブルーマンデーのポイズンツイート(暗鬱月曜日の猛毒独白)」でしたが、今日は「ブルーマウンテンとレーズンスコーン」で行こうと思い立ちました。
でも、コーヒー豆ひくの面倒くさいし、レーズンスコーンって、どこに売ってんのか分かりません。
なので、妄想の世界だけのことにしておきます。コーヒーもスコーンも、飲んだこと食べたことにしておきます。
ああ、空しい。「一切は空である」。
しかし、実際には、「お、ヒマそうだね」と、いろんな予定を無理やり押し込んで来る人たちがいるので、休めたためしがありません。とくに牧師会とかするなよと思う。葬儀等の緊急事態は全く別の話です。
また、「休む」と言っても、何をしていいか分からない感じでもある。
私にはサーフィンの趣味があるわけではないし、山登りには耐えがたいものさえ感じます。海水浴はまあまあ好きですが、松戸は海が近いわけではないし(海の話はしにくくなりました)、山も近くない。もちろん好きな人は時間をかけてでも、どこにだって行くのでしょうけど。
何もすることがなくて、それで何をするかといえば、だから先週のように、ブログに毒舌を吐くくらいのことしかできない。ものすごく精神衛生上よろしくないことを、分かっていながら、あえてする。
吐き出して、それですっきりするわけではないのです。もやもや感はいくらか緩和され、言いたいことが論理的によりシャープになった分だけ、目つきは一層悪くなったんじゃないですかね。自分の目つきは、自分ではどうだか分かりませんが。
「休み」と言っても、家には誰もいないんです。今日は世間は平日ですしね。子どもたちは学校だし、妻(保育士)は児童養護施設と保育園の仕事です。
子どもたちも、高二(男)と中二(女)になって部活の忙しさが増し、帰宅時間が遅い、遅い。青春を満喫しているのでしょうが、そんなの知らん知らん。勝手にやってくれ。なんにも言いたくないです。楽しそうにしているのを叱りつけるほど野暮な親ではありません。黙って見守るしか、なすすべがないじゃありませんか。
ですからね、もうね、お父さんは、ひとりで寂しく楽しむのです。
先週は「ブルーマンデーのポイズンツイート(暗鬱月曜日の猛毒独白)」でしたが、今日は「ブルーマウンテンとレーズンスコーン」で行こうと思い立ちました。
でも、コーヒー豆ひくの面倒くさいし、レーズンスコーンって、どこに売ってんのか分かりません。
なので、妄想の世界だけのことにしておきます。コーヒーもスコーンも、飲んだこと食べたことにしておきます。
ああ、空しい。「一切は空である」。
2011年5月2日月曜日
文系の人たち、立ちあがれ
米・コロンビア大学の1-2年生必修コアカリキュラムは「西洋古典常識」徹底履修 毎週古典文学・思想の課題図書を読み、議論し、レポートを書く: 天漢日乗
年齢も関係あるのでしょうか、こういう記事に感動します。「哲学書なんてどこでも売ってるんだから、そんなもん自分で読めばいいだろ」と言われればそれまでですが、「本は本来読めないもの」(佐々木中氏)です。良い教師が必要です。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(新約聖書 使徒言行録8・31)。
岡山朝日高校の「倫理・社会」の影響は、かなり受けました。当時のノートは今でも宝物です。「西洋古典常識」の手がかりを得たことは間違いありません。
大学時代の哲学教師は近藤勝彦先生(現東京神学大学学長)でした。近藤先生は当時、一般教養ポストにおられました。カリキュラムの関係で、近藤先生から神学を教わったことはなく、哲学とドイツ語を教わりました。「洞窟のたとえ」や「窓のないモナド」の話は忘れられません。
東京にいた間、古書店という古書店をとにかく探し回ったのは、神学書ではなく、青帯の岩波文庫でした。プラトンからハイデガーまでは揃えました。
でも、あれが読めない。歯が立たない。翻訳のせいにしても仕方がありませんが、やはり翻訳が悪いんです。
山岡洋一氏出現以後の新しい翻訳理論に基づく、岩波文庫(青帯)の全面改訳を期待します。近代日本は「翻訳文化」なのですから、本気を出せば朝飯前のはずです。
日本をあきらめるつもりなどは、さらさらありません。しかし、そう遠くもない未来に「一家に一台、ガイガーカウンターを」と言われそうな時代の只中でこそ、「読みうる良い翻訳による西洋古典常識」が必要だと考えるのは、私だけでしょうか。
大節電時代にこそ、蛍の光・窓の雪を頼りに哲学書をひたすら読みふける。ロマンティックな発想だなどと思われたくないです。絶望の闇を打ち破るための苦闘です。
「牧師なら『聖書を読め』と言え」と言われそうですが、聖書も「西洋古典常識」です。哲学を読めば、聖書と神学を相対化できる。いま自分は何をどのように信じているかを客観視できる。それに、哲学の基礎も得られていない人に、神学の三位一体論やサクラメント論が理解できるとは考えにくいです。
それにつけても、欲しいのは良い教師です。文系の人たち、立ちあがれ。文学部、復活せよ。
年齢も関係あるのでしょうか、こういう記事に感動します。「哲学書なんてどこでも売ってるんだから、そんなもん自分で読めばいいだろ」と言われればそれまでですが、「本は本来読めないもの」(佐々木中氏)です。良い教師が必要です。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(新約聖書 使徒言行録8・31)。
岡山朝日高校の「倫理・社会」の影響は、かなり受けました。当時のノートは今でも宝物です。「西洋古典常識」の手がかりを得たことは間違いありません。
大学時代の哲学教師は近藤勝彦先生(現東京神学大学学長)でした。近藤先生は当時、一般教養ポストにおられました。カリキュラムの関係で、近藤先生から神学を教わったことはなく、哲学とドイツ語を教わりました。「洞窟のたとえ」や「窓のないモナド」の話は忘れられません。
東京にいた間、古書店という古書店をとにかく探し回ったのは、神学書ではなく、青帯の岩波文庫でした。プラトンからハイデガーまでは揃えました。
でも、あれが読めない。歯が立たない。翻訳のせいにしても仕方がありませんが、やはり翻訳が悪いんです。
山岡洋一氏出現以後の新しい翻訳理論に基づく、岩波文庫(青帯)の全面改訳を期待します。近代日本は「翻訳文化」なのですから、本気を出せば朝飯前のはずです。
日本をあきらめるつもりなどは、さらさらありません。しかし、そう遠くもない未来に「一家に一台、ガイガーカウンターを」と言われそうな時代の只中でこそ、「読みうる良い翻訳による西洋古典常識」が必要だと考えるのは、私だけでしょうか。
大節電時代にこそ、蛍の光・窓の雪を頼りに哲学書をひたすら読みふける。ロマンティックな発想だなどと思われたくないです。絶望の闇を打ち破るための苦闘です。
「牧師なら『聖書を読め』と言え」と言われそうですが、聖書も「西洋古典常識」です。哲学を読めば、聖書と神学を相対化できる。いま自分は何をどのように信じているかを客観視できる。それに、哲学の基礎も得られていない人に、神学の三位一体論やサクラメント論が理解できるとは考えにくいです。
それにつけても、欲しいのは良い教師です。文系の人たち、立ちあがれ。文学部、復活せよ。
2011年5月1日日曜日
存在そのものがマナー違反で悪かったね(笑)
ビジネスマナーの常識、「宗教・政治・野球の話題は避けること」は、幼少の頃から知っていましたが、宗教と政治は私には避けがたいものでしたので、黙っているのが心理的に辛かったことを忘れられません。
因果関係は不明ですが、小学生の頃から高校を卒業するまで、吃音に悩んでいました。「ひとまえで話す」などとんでもないことでした。しかし、牧師になると決めて神学校に入ったころから、ぴたりとおさまったのです。医師に診てもらったわけではありませんが、思いと言葉が一致したことで吃音から解放されたのではないかと、勝手に解釈しています。
宗教と政治の話ができない場所からは、私は退場しなければなりません。そのことは了解しています。自由に語りあえる場所を、常に新たに作り出していくだけです。「口封じには応じない」と思っているだけです。牧師の口を封じるのは至難の業だと思います。
因果関係は不明ですが、小学生の頃から高校を卒業するまで、吃音に悩んでいました。「ひとまえで話す」などとんでもないことでした。しかし、牧師になると決めて神学校に入ったころから、ぴたりとおさまったのです。医師に診てもらったわけではありませんが、思いと言葉が一致したことで吃音から解放されたのではないかと、勝手に解釈しています。
宗教と政治の話ができない場所からは、私は退場しなければなりません。そのことは了解しています。自由に語りあえる場所を、常に新たに作り出していくだけです。「口封じには応じない」と思っているだけです。牧師の口を封じるのは至難の業だと思います。
登録:
コメント (Atom)