2010年11月19日金曜日

禁酒禁煙の問題(というほどでもない)

今日もバタバタしていてちっともパソコンの前に座ることができないのですが、「おーおー、これこれ。こういうことこそブログに書いておくべきだよ」と思いついたことがありますので、ちょっとだけメモっておきます。



私はいわゆる禁酒禁煙主義者ではありません。だれにも積極的に勧めたりしませんし、「強要は犯罪である」という意識は明確に持っておりますが、「服用」としてなら、そして法と道徳に触れない範囲内でなら、「どうぞご自由に」と、静かに見守っていますし、ある程度ならば私も付き合います。



しかし、「豪遊」(?)とか「はしご」とか「泥酔」とか「酒の勢いでどうだこうだ」などというようなことは、これまで45年生きてきましたが、いまだかつてしたことがありませんし、心底イヤだと思うところがあります。そこに軽蔑心が無いのかと問われれば「あるかもしれません」と答える用意があります。



一緒くたにすべきでないことは重々承知しているつもりですが、私という人間は要するに何が嫌いかと言ってしまえば、「(日本的)任侠道のたぐい」と、その臭いがするものが、死ぬほど嫌いです。そういう場所に長くとどまることができません。演歌も大の苦手です。歌詞が嫌い。私は賛美歌が好きです。そうとしか言いようがない。



「そういう場所に出入りしたことのない人間に牧師など務まるのか」という問いかけは、そういうことを直接私に面と向かって言った人はいまだかつて一人もいませんが(少なくとも記憶に無い)、もしいつか私にそれを問う人がいれば「十分務まると思いますよ」と答えようと思っています。



これ、ブログっぽい内容でしょ?(笑) あ、また出かけなくてはならない。それではまた。



2010年11月10日水曜日

「高橋哲也氏の問いかけは正当である(キリスト新聞を読んで)」をめぐって

「高橋哲也氏の問いかけは正当である(キリスト新聞を読んで)」を読んでくださった別の方から反応をいただきました。以下は私の返信文です。コンテクストは読者のご想像にお任せします。(ブログ公開用に若干編集しました)



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なんと、メールと説教の原稿を、ありがとうございました!



いやー、まあ、とてもよい説教だと思いましたよ。お世辞抜きで、ありがとうございました。



(1)まず文章上の表現の問題ですが(それが大事だと思っています)、「です」「ます」と歯切れがよいのが素晴らしいです。加藤常昭氏の影響を受けた人たちが皆、ケロロ軍曹みたいに「なのであります!」になっちゃうのがとにかくウザいと思っていました。「です」と二文字で書けるところをわざわざ「なのであります」と七文字(3.5倍)に引き延ばすわけですから、ああいう書き方は一種の水増し原稿ですよ。しかし、あれはまあ、加藤氏というよりは、さらにさかのぼったところの竹森満佐一氏の影響なのですが、正直、読んでいて恥ずかしいです。



(2)送ってくださった説教原稿は全体として少し長すぎるのではと感じましたが、教会の皆さんがこの長さで慣れておられるなら、私が文句をつけるところではないでしょう。私なんて、この半分くらいですけどね。毎週(長文の)原稿執筆、ごくろうさまです。



(3)「(やっぱり)出たか」と思ったことは、先生のような、ある意味最もストレートな仕方で、高橋氏への(どちらかというと肯定的な)レスポンスを「日曜日の礼拝の説教でおこなう」という形についてです。私はどうかなあと思いました。「ブログには書けても、説教で言えるかなあ」と。特にステファノに結びつけて語れるかなあと。



(4)説教では語るべきではないとか、ステファノの殉教と高橋氏の言説とを結びつけるべきではないとか言いたいわけではないのです。どう言ったらいいのか迷いますが、高橋氏は、何度も繰り返して「わたしはクリスチャンではないのですが」と明言しておられる方です。「わたしはクリスチャンではない」と公の場で明言する人による明確な「教会批判」なのですから、その発言を我々自身が説教の中に持ち出すこと自体で、教会の中から猛烈に反発する人が出て来てもおかしくはない。でも、先生の教会の中に大きな反発が無かったのであれば、この点はセーフなのかもしれません。



(5)高橋氏の言説に対して、教会の中から起こってくるかもしれない拒否反応として予想できるのは、雑な言い方をお許しいただけば、右からの反発と、左からの反発です。右からの反発については説明の必要は無いでしょう。ことが靖国神社批判なのですから。しかし、厄介なのは左からの反発(の可能性)です。左からの反発の例として最も容易に想定できるのは、「殉教を避ける」という論理こそが、戦時中の日本の教会がおこなった「宮城遙拝」を「やむをえなかった」とする苦しい弁明そのものではないかという反発です。



(6)私がブログに書いたことは、「高橋氏の“問いかけ”は正当である」ということにとどめてあります。高橋氏の「答え」が正しいとは、意識的に書きませんでした。ズルいやり方であることは自覚しています。答えは、高橋氏のご著書を(少なくとも二、三冊は)きちんと読んでから出すべきであることは当然でしょう。高橋氏からお贈りいただいた『殉教と殉国と信仰と』は、いま読んでいる最中なのですが、別のことをしている間に妻が来て、「何その本?面白そうね」とか何とか言いながらかっさらって行きました。いまは彼女が夢中になって読んでいますので、なかなか返してくれません。そのうち奪い返し、読み終えたら、感想文を書かせていただくつもりです。



ともかく、反応してくださり、ありがとうございました。反応の無いブログ記事は、やはり、どこかしら哀愁が漂っています。お忙しい中、どうもありがとうございました。議論はいつでもどうぞ。神学と社会の問題になると、血沸き肉躍るものがありますので。



2010年11月7日日曜日

高橋哲哉先生、ありがとうございました!

東京大学 高橋哲哉先生



今日は本当に驚きました。今月45歳になる私の人生の中で、今日ほど興奮した日は数えるほどです。



今朝午前10時から午後2時すぎまで、松戸小金原教会の大掃除をしておりました。ひと段落ついて、奉仕してくださった教会の皆さんがお帰りになるとき、「あれ?関口先生、郵便物が届いていますよ。はい、どうぞ」と手渡してくださった方から受け取ったのは、「白澤社」から直送されたらしきクロネコメール便でした。



「ん、白澤社?どこかで見たことがある名前だな」と思い、郵便物を見ると「著者代送」の文字が。「・・・え?!」と胸騒ぎがして、大急ぎで封を開けました。



すると、その中には、「謹呈 著者」と記された付箋が差し込まれた最新の貴著、『殉教と殉国と信仰と 死者をたたえるのは誰のためか』(白澤社、2010年)と、「同封の書籍は著者・高橋哲哉氏のご依頼によりお手元にお届けするものです」と書かれた編集部からのお便りとが入っていました。



「えーーーーーーーー?!」と、30秒間くらい一人で叫んでしまいました。これはヤバいことになったと、そのとき初めて、すべての事情を察しました。今週火曜日(11月2日)本ブログに書いた拙文、「高橋哲哉氏の問いかけは正当である(キリスト新聞を読んで)」をお読みくださったのですね。そして、そこに「私は(貴著を)まだ手にしていません」と私が書いたことを憂いて(?)くださり、さっそくお贈りくださったのですね。



まさしく汗顔の至り、穴があったら入りたい思いです。ブログは恐ろしいと痛感。しかし、もはや後の祭り。高橋先生、本当にどうもありがとうございました!



まだ一度もお目にかかったことのない方からこれほど大きなご厚意をいただくことは滅多に無く、ただただ驚き、興奮し、感謝しております。



まことに申し訳ないことに、まだ4時間ほど前に受け取ったばかりの貴著でもあり、また職業柄、土曜日と日曜日を最も慌ただしく過ごしている者でもありますので、まだ拝読するに至っておりませんが、ともかくお礼を申し上げたく思い、この文章をしたためております。



本来でしたら当然、直接高橋先生宛てにお礼状を書かせていただくべきところではございますが、私はまだ(?)高橋先生がどこにお住まいかを存じませんし、メールアドレスも存じませんし、「東京大学」宛てに送るのもどんなものかと、あれこれ考え込んでしまいました。



また何より、ごく最近古本市場で入手した石原千秋氏の大学生の論文執筆法』(ちくま新書、2006年)の中で「(この方々の名前を知らない者は)文科系の大学生としてはかなりヤバい状況だと思う」(85ページ)と紹介されている錚々たるプロの批評家たちのリスト(トップ10名)の中に、先生の「高橋哲哉」というお名前が当然のように見つかるほどの、著名な公人であられる方から頂戴したご厚意です。



そのため、たいへん不作法なやり方とは存じますが、本ブログ上で(公に)お礼させていただくことにいたしました。



しかしまた、私のこの文章を読む不特定多数(事実は「不特定少数」ですが)の人たちの中には、「なるほどね。こういうやり方で著者からの謹呈を受けることができるのか。しめしめ」と悪知恵に思い至る人がいるとも限りません。そのような何か不穏な動きがある場合は本記事を即刻削除させていただきますので、遠慮なくダメ出ししてくださいますよう、心からお願い申し上げます。



ともかく、週明け以降となりますが、貴著を謹んで拝読させていただきます。



高橋先生、ありがとうございました。お元気でお過ごしくださいませ。



2010年11月6日



関口 康



2010年11月4日木曜日

キャシー、がんばれ!

今朝の朝日新聞の社会面を見て、「これは無いな」と苦笑しました。

「日本のサンリオのキャラクター『キャシー』がオランダ生まれで国際的に知られているウサギのキャラクター『ミッフィー』に酷似しているとして、アムステルダムの裁判所は2日、サンリオにキャシー関連製品のオランダなど3カ国での生産・販売の即時停止を命令した。(改行)アムステルダム地裁の決定によると、サンリオは10日以内に命令に従わなければ違反金として1日2万5千ユーロ(約280万円)、最高で200万ユーロ(約2億2千万円)を支払わねばならず、本格的な著作権訴訟に発展する可能性がある。即時停止の対象国はオランダのほか、ベルギーとルクセンブルク。(改行)ミッフィーの作者ディック・ブルーナ氏の著作権を管理する企業が10月、販売などの差し止めを求めた(後略)」(朝日新聞、2010年11月4日付け、社会面)。

さらに、新聞紙面には「キャシー」「ミッフィー」それぞれの写真を載せてくれていましたので、両者をじっくり比較して見ることができました。「ミッフィー」は昔から知っていましたが、「キャシー」は、私は今日初めて見ました。

それで思ったことは、「こんなことを言っちゃあ、キャシーが可哀そうだよ・・・」でした。

横に並べて比べて見れば、なるほどたしかに似ています。しかし、あのですね、これって、「キャシー」と「ミッフィー」が似ているんじゃなくて、キャシーもミッフィーも「うさぎ」に似ているだけなんだと思うんですよ、私の目から見ると。

もし、アムステルダムの裁判所のこのような判決を国際的に許してしまったら、これからは、子どもたちが保育園や幼稚園や小学校のようなところで描く(洋服を着て二足歩行する)「うさぎ」の絵のすべてが、ミッフィーの作者ディック・ブルーナ氏の著作権違反である、という話になってしまいそうです。しまじろうに出てくる「みみりん」も、たぶんアウトですね。

サンリオ側は「決定を不服として」いるようですので、ぜひ頑張っていただきたいものです。

キャシー、がんばれ!


2010年11月3日水曜日

高橋哲哉氏の問いかけは正当である(キリスト新聞を読んで)の続き

先ほど書いたこと対して早々の反応をいただきました(S先生、ありがとうございました!)。その答えとして私は以下のようなことを書きました(ブログ用に少し編集しました)。

(1)キリスト新聞を読むかぎり、高橋氏の贖罪論理解そのものが間違っているとは今のところ思いません。高橋氏が問題にしておられるのは、贖罪論を「誤解」してきた教会の過ちのほうだと読めるからです。換言すれば、高橋氏は「贖罪論の誤解」によって教会が引き出してきた「諸帰結」や「諸現象」のほうをご覧になり、いわば「実を見て木を知る」という仕方で、教会が犯してきた過ちを批判しておられると私には読めます。そして、この高橋氏の判断は私見によれば間違っていません。

(2)S先生が引用してくださったY先生の文章の中で若干気になるのは、「それでもイエスの犠牲にお応えする私の犠牲ということのみが、キリスト者の信仰の歩みを形作るのです」の中の「私の犠牲ということのみ」の「のみ」です。なぜ「のみ」(only)なのでしょうか。私を含めて日本の教会の牧師たちは不必要なまでに「犠牲」を強いられている面がありますので、比較的容易にイエスさまの犠牲と自分自身の犠牲とを自己同一化しやすい環境にあります。しかし、我々が今払っている「犠牲」は、イエスさまの「犠牲」とは質的に異なるものではないでしょうか。

(3)ややスコラ神学的な問題意識かもしれませんが、贖罪論はキリスト論だけに属するのではないと私は考えています。贖罪論の課題にはイエス・キリストにおける贖罪のみわざの事実とその意義を解明することだけではなく、聖霊による人間における「贖罪の適用」(applicatio salutis)という点が必ず含まれます。したがって贖罪論は聖霊論にも属するものではないでしょうか。

(4)あと一つ付け加えておきたいのは「罪」の評価の問題です。「罪」は、どこまで行っても神さまにとっては「不本意」なのだと思うのです。もしわたしたちが「罪」そのものを神さまの「本意」とみなすならば、人間側の一種の開き直りを意味してしまいますし、まるで神さまが「罪の作者」であるかのようであることを認めることを意味せざるをえなくなるでしょう。しかし、そのような結論を、我々(少なくとも改革派の者たち)は決して受け入れることができません。もしこのあたりの消息が正しく了解されるならば、イエスさまがおこなってくださった「罪の贖い」もまた、神さまからすれば「不本意」であるはずです。もちろん私はイエスさまが(父なる)神さまの御心に従って十字架についてくださったということを心から信じていますので、イエスさまにとって「(父なる)神さまの御心に従うこと」自体は「本意」だったと説明できるかもしれません。しかし、上記のとおり「罪」も、そして「罪の贖い」も神さまにとっての「不本意」なのだとするならば、イエスさまからすれば、いわば「(イエスさま御自身の)本意」と「(父なる神の)不本意」との板挟みの中で、十字架の死を遂げられたと言えるのではないでしょうか。

(5)ここから先は全くのスコラ的なまさに屁理屈なのですが、もし人間が「罪」を犯さなかったとしたら、イエスさまが「犠牲の供え物」になってくださる必要は無かったのです。その意味で「罪の贖い」(贖罪)は、言うならば「仕方なく」(ファン・ルーラー先生の言葉をお借りすれば「緊急措置として」)行われたみわざです。いま私が書いていることが「イエスは果たして、神のために喜んで死んだのか」という高橋氏の問いかけへの答えになるかどうかは分かりません。しかし、私自身も上記の観点(イエスさまの死は「本意」と「不本意」の板挟みの中にあったのではないかとする推論)を考えるならば、ある意味で高橋氏と同じ問いを抱かざるをえません。

(6)まとめて言えば(ちっともまとまりませんが)、キリスト教から贖罪論を引き抜くことは私にも不可能ですが(この点はS先生やS中会と完全に一致!)、贖罪論の観点だけからキリスト教のすべてを論じつくすのは行き過ぎだろうと考えている次第です。

高橋哲哉氏の問いかけは正当である(キリスト新聞を読んで)

キリスト新聞の最新号(2010年11月6日付、第3161号)に今日、やっと目を通すことができました。第一面のトップ記事のタイトルが「『犠牲の論理』へ警鐘」とデカデカ。記事の内容は、高橋哲哉氏(東京大学教授)他による話題の書『殉教と殉国と信仰と』(白澤社)の出版記念シンポジウムのレポートでした。

残念ながら『殉教と殉国と信仰と』を、私はまだ手にしていません。「書評の依頼でも来ないかな?」と期待していたので自分で買わないでいたというわけではありませんが(でも「来ないかな?」)、先月末あたりの仕事ラッシュや、その中で遭ってしまった車上荒らし(私の目の前で起こった窃盗事件でしたが、長くなるので詳述は控えます)や、その他もろもろで、外出もままならず、書店に行く暇がなかったために、この話題の書にさえ手を伸ばすことができずにいた体たらくでした。

ですから、下に書くことはキリスト新聞の記事だけから純粋に受けた印象です。私が感じたことを一言でいえば、高橋哲哉氏の問いかけは真摯かつ全うなものであり、日本の全キリスト教会は氏の問いに真摯に応えなければならないということです。

「高橋氏は先のシンポジウムで、キリスト教が戦死者を殉教者としてみなしてきた歴史、殉教者の列福と靖国神社による英霊顕彰が持つ『構造的な同系性』、殉教者を尊崇することと神の愛の『絶対的無差別性』の関係などについて指摘した。(改行)講演の冒頭、イエスの十字架上の死を贖罪の犠牲としてとらえることに疑問を呈した同氏の主張に対して、『贖罪論はキリスト教信仰の核心だから譲れない』との反響があったことを紹介し、『欧米の神学者の中にも批判的な議論が存在してきた。贖罪論なしに信仰が成り立たないかどうかは、もはや自明のことではない』と反論。(改行)『殉教という行為が否定される』と懸念する声にも、『それぞれの人が迫害や強制によって追い詰められた状況で下した選択自体は到底否定できない』としながら、『非業の死を顕彰、賛美、美化すること、その死によって何かが購われたとして満足してしまうこと、殉教が模範的な死とされ見習うべきものとなることの危険性を改めて強調した。」(キリスト新聞、同上号、第一面)。

高橋氏は上記の問いかけ以外にもいくつもの重要な問題提起をなさったようですが、私は高橋氏が提起された問いかけのすべてに賛同の意を表明することができます。私自身が長年もやもやと感じてきたことを明瞭な言葉で適切に表現してくださったという思いです。設問内容がきわめて正当なものなのですから、「キリスト教」は、そして「キリスト教会」は、この問いかけに真摯な答えを出さなければなりません。

組織神学的な視点から見れば、高橋氏の問いかけの中には、実にたくさんの論点が含まれています。その中でも特に重要な問いは、「イエスの十字架上の死は贖罪の犠牲なのか」と「贖罪論なしには信仰が成り立たないか」の二つでしょう。

第一の問いに対して、私がすぐに答えられることは、イエスの十字架上の死は、たしかに贖罪の犠牲であるが、イエスの死をわたしたちの死と同列に並べて比較すること自体が間違っているということです。

イエス・キリストについての代々の教会の信仰告白は、「人間の肉をまとった永遠の神の御子」です。「贖罪論はキリスト教の核心だから譲れない」と言い張る人たちは、贖罪論と受肉論という二つの教説はドミノ関係にあるということについても決して譲るべきではありません。「永遠の神の御子の死」と、御子以外の「(普通の)人間の死」は、全く次元が異なるのです。

つまり、「イエス」は他の人間とは比較不可能なきわめて特殊な存在であり、その方の死は歴史上ただ一回かぎり起こった出来事であり、その出来事は決して反復されえないゆえに、イエスの死と他のすべての人間の死とを比較すること自体が、そもそも間違っているのです。

したがって、「殉教」や「非業の死」を「イエスの死に似ている」という理由で美化したり賛美したりすることは、神学的にいえば、完全に誤りです。

第二の問いに対して、私がすぐに答えられることは、結論からいえば、「贖罪論なしには信仰は成り立ちません」。しかし、このことを言いながら同時に言いたいことは、「贖罪論だけではキリスト教は成り立ちません」ということです。

贖罪論だけにまるで自らの全体重をかけてしまったようなキリスト教は、いびつに歪んだ形をしています。それは健全なものではなく、明らかに不健全であり、かつ限りなく異端的なるものに接近している様相を呈しています。

なぜなら、贖罪論の教義はキリスト教信仰の一部分にすぎないからです。キリスト教信仰は贖罪論だけで覆い尽くされているのではなく、少なくとも創造論と終末論があります。また、別の角度からいえば、キリスト教信仰はキリスト論(イエス・キリストの存在とみわざについての教説)だけで成り立っているのではなく、少なくとも神論(御父なる神についての教説)があり、かつ聖霊論(聖霊なる神についての教説)があります。

我々の神は三位一体です。経綸的三位一体論的にいえば、神は贖罪者なる方であるだけではなく、創造者なる方でもあり、完成者なる方でもあります。内在的三位一体論的にいえば、御子だけが神ではなく、御父も聖霊も神です。

したがって、もっぱら「贖罪論」の視点だけをまるでキリスト教の唯一の切り口であるかのようにみなし、イエスの死をまるで「人間の死のあるべき模範」であるかのように美化したり賛美したりすることは、これも神学的にいえば完全に誤りです。

キリスト新聞によると、高橋氏は次のようにも問いかけています。

「(高橋氏は)『殉教者自身が「喜んで死んでいく」ことに対しては違和感を禁じえない』と告白した上で、「国の英霊がお国のために『天皇陛下万歳』と叫び歓喜に打ち震えて死んだとされているように、殉教者が神のために『イエス・キリスト万歳』と叫び歓喜に打ち震えて死んだ、と読めないか。イエスは果たして、神のために喜んで死んだのか』と疑問を投げかけた」(同上面)。

この問いかけに対する即答は私にはできませんが、非常に興味深く、かつ真剣に考え抜くに値する、きわめて重い問いかけであると感じました。

続く


2010年11月1日月曜日

宗教改革記念礼拝

今日は、宗教改革記念礼拝をおこないました。



「信じる者は幸いである」



ヨハネによる福音書20・24~31



http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2010-10-31.pdf (印刷用PDF)



「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』このほかにもイエスは弟子たちの前で多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである。」



今お読みしました個所は今年のイースター礼拝でも取り上げたところです。しかし、皆さんの多くはそのとき私が何を話したかをすっかり忘れておられると思いますので、私は安心して同じ話をすることができると思っています。いま、少し意地悪なことを言いました。しかし、今日はイースターのときに申し上げたこととは別の点に強調を置いてお話ししたいと願っています。



全くお恥ずかしい話なのですが、今日が何の日であるかを、先週まで私自身がすっかり忘れておりました。そのため先週の週報では予告も出しておりませんでした。今日は宗教改革記念日なのです。完全に忘れていましたことをお詫びいたします。1517年10月31日、宗教改革者マルティン・ルターが当時のローマ・カトリック教会への激しい批判を記したいわゆる95カ条の提題、その原題は「贖宥の効力を明らかにするための討論」という文書をドイツのヴィッテンベルクの城教会の扉に掲げたとされる日です。そのルターの勇気ある行為が全世界の宗教改革運動の事実上の幕開けとなったため、全世界のプロテスタントの教会がこの日を「宗教改革記念日」として覚えるようになったのです。



なぜルターは10月31日にその貼り紙を教会の扉に掲げたのかという点については定説があります。ご承知のとおり、明日11月1日は教会の暦ではオールセインツと呼ばれ(※)、日本では「聖徒の日」とか「万聖節」などと訳されて重んじられています。それは、松戸小金原教会ではイースターにおこなっている召天者記念礼拝と同じ意味を持っており、遺族を含めて大勢の人が教会に集まる日です。教会に集まる人は当然、教会の扉の前を通って中に入ります。つまり、教会に大勢の人が集まる日に教会の扉に貼り紙をすれば、大勢の人の目に触れます。だからこそ、ルターはその聖徒の日の前日である10月31日を選んだのだと言われています。



しかし、ルターは、ただ単に目立つことをしたかったからその日を選んだというだけではなかったと思われます。ルターがローマ・カトリック教会を批判したその内容とその日を選んだこととは関係していると考えるべきです。ルターが批判したのは、よく知られているとおり、ローマ・カトリック教会が信徒向けに販売していた日本での通称「免罪符」、正確には「贖宥券」と呼ばれるものは無意味かつ有害であるという点でした。それを買うことは当然、教会に献金することにもなるわけですが、そのお金を支払うことによって、すでに亡くなっているがまだ天国に迎え入れられていない中間状態(煉獄)の中で漂っている魂が天国まで「飛び上がる」と、ローマ・カトリック教会が教えていたのです。そのような教えには聖書的な根拠は無く、全くのでたらめであると、ルターは批判したのです。



ですから、このことから分かるのは、ルターが10月31日に教会の門に貼りつけた文書の中で問題にしたことは要するに「人間は死んだ後どうなるのか」という点にかかわることであったということです。だから、ルターがその文書を「聖徒の日」の前日に貼りだしたのだと考えれば辻褄が合います。聖徒の日に教会に集まる人の中にはすでに亡くなった方々の遺族が多く含まれていたわけですから、人間の死と死後の状態について多少なりとも関心を持っている人々であったはずです。別の言い方をすれば、493年前の今日から始まった宗教改革運動がいちばん最初に取り組んだのは「人間は死んだらどうなるか」という問題であったということにもなると思います。それは、少し難しい言い方をすれば、「終末論的な問題意識」と呼ぶことができるものかもしれません。



わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは死んだ後どうなるのでしょうか。この問いに対して、わたしたちは躊躇なく間髪入れず「わたしたちは復活する」と答えなければなりません。イエスさまが復活されたのだから、わたしたちも復活するのだと。それこそが聖書の教えであり、わたしたちの信仰です。・・・



(この続きは「今週の説教」にあります。ぜひお読みください。)



※実際の説教では「明日11月1日はハロウィーンですが」と説明してしまいましたが、これは間違いでした。ハロウィーンは「万聖節の前夜祭」なので「今日10月31日はハロウィーンですが」と言わねばなりませんでした。お詫びして訂正いたします。事実関係を訂正したうえで本文からは削除させていただきました。



2010年10月31日日曜日

信じる者は幸いである


ヨハネによる福音書20・24~31

「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』このほかにもイエスは弟子たちの前で多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである。」

今お読みしました個所は今年のイースター礼拝でも取り上げたところです。しかし、皆さんの多くはそのとき私が何を話したかをすっかり忘れておられると思いますので、私は安心して同じ話をすることができると思っています。いま、少し意地悪なことを言いました。しかし、今日はイースターのときに申し上げたこととは別の点に強調を置いてお話ししたいと願っています。

全くお恥ずかしい話なのですが、今日が何の日であるかを、先週まで私自身がすっかり忘れておりました。そのため先週の週報では予告も出しておりませんでした。今日は宗教改革記念日なのです。完全に忘れていましたことをお詫びいたします。1517年10月31日、宗教改革者マルティン・ルターが当時のローマ・カトリック教会への激しい批判を記したいわゆる95カ条の提題、その原題は「贖宥の効力を明らかにするための討論」という文書をドイツのヴィッテンベルクの城教会の扉に掲げたとされる日です。そのルターの勇気ある行為が全世界の宗教改革運動の事実上の幕開けとなったため、全世界のプロテスタントの教会がこの日を「宗教改革記念日」として覚えるようになったのです。

なぜルターは10月31日にその貼り紙を教会の扉に掲げたのかという点については定説があります。ご承知のとおり、明日11月1日は教会の暦ではオールセインツと呼ばれ、日本では「聖徒の日」とか「万聖節」などと訳されて重んじられています。それは、松戸小金原教会ではイースターにおこなっている召天者記念礼拝と同じ意味を持っており、遺族を含めて大勢の人が教会に集まる日です。教会に集まる人は当然、教会の扉の前を通って中に入ります。つまり、教会に大勢の人が集まる日に教会の扉に貼り紙をすれば、大勢の人の目に触れます。だからこそ、ルターはその聖徒の日の前日である10月31日を選んだのだと言われています。

しかし、ルターは、ただ単に目立つことをしたかったからその日を選んだというだけではなかったと思われます。ルターがローマ・カトリック教会を批判したその内容とその日を選んだこととは関係していると考えるべきです。ルターが批判したのは、よく知られているとおり、ローマ・カトリック教会が信徒向けに販売していた日本での通称「免罪符」、正確には「贖宥券」と呼ばれるものは無意味かつ有害であるという点でした。それを買うことは当然、教会に献金することにもなるわけですが、そのお金を支払うことによって、すでに亡くなっているがまだ天国に迎え入れられていない中間状態(煉獄)の中で漂っている魂が天国まで「飛び上がる」と、ローマ・カトリック教会が教えていたのです。そのような教えには聖書的な根拠は無く、全くのでたらめであると、ルターは批判したのです。

ですから、このことから分かるのは、ルターが10月31日に教会の門に貼りつけた文書の中で問題にしたことは要するに「人間は死んだ後どうなるのか」という点にかかわることであったということです。だから、ルターがその文書を「聖徒の日」の前日に貼りだしたのだと考えれば辻褄が合います。聖徒の日に教会に集まる人の中にはすでに亡くなった方々の遺族が多く含まれていたわけですから、人間の死と死後の状態について多少なりとも関心を持っている人々であったはずです。別の言い方をすれば、493年前の今日から始まった宗教改革運動がいちばん最初に取り組んだのは「人間は死んだらどうなるか」という問題であったということにもなると思います。それは、少し難しい言い方をすれば、「終末論的な問題意識」と呼ぶことができるものかもしれません。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは死んだ後どうなるのでしょうか。この問いに対して、わたしたちは躊躇なく間髪入れず「わたしたちは復活する」と答えなければなりません。イエスさまが復活されたのだから、わたしたちも復活するのだと。それこそが聖書の教えであり、わたしたちの信仰です。わたしたちは、かつてのローマ・カトリック教会が教えていた意味での「煉獄」という魂の中間状態があるなどということをそもそも信じていません。中間状態とは天国にも地獄にも入っていない状態であり、最後の審判の座に引き出されるのを待っている未決の状態のことです。そのような状態にある先祖の魂が、地上にいる遺族が献金箱の中に投げ込むお金のチャリンという音でピョンと天国に飛び上がるのだとローマ・カトリック教会が教えていたというのです。

そんなのはでたらめだとルターが批判したわけですが、私にとって気になることはローマ・カトリック教会も「教会」であるということです。16世紀の話はともかくとして、少なくとも今、21世紀のわたしたちがローマ・カトリック教会を名指しして異端呼ばわりすることはありえません。彼らもまたキリスト教会の仲間です。事情がそうであるとき、私にとって最も気になることは、「わたしたち人間が死んだらどうなるのか」という問題について正しい答えを出すことができるのも「教会」であるとわたしたちは信じてよいわけですが、それと同時に、この問題についての間違った答えを出すのも「教会」であるということを認めざるをえないということです。

ローマ・カトリック教会は、その間違ったでたらめな教えを、事実上の献金集めの手段として利用しました。亡くなった方の遺族の心は多少なりとも傷ついているわけですが、まるでその弱みにつけこむようなことをしていたのです。しかし、たとえそれが事実であったとしても、今のわたしたちがしなければならないことは、16世紀の誰かを批判することではありません。わたしたちがしなければならないのは、今の自分たちはどうなのかという点についての深い反省です。それは、わたしたちもまた「教会」である以上、いつ何どき16世紀の教会と同じ過ちに陥ってしまうか分からない存在でもあるということを強く自覚しつつ、その過ちに陥らないように気をつけることです。

しかしそれはわたしたちがどのようにすることでしょうか。この点をよく考えなければなりません。教会に献金をすれば亡くなった人の魂が天国まで飛び上がって救われるという話がでたらめであるという点については、皆さんには直感的に「間違っている」と理解していただけるものがあるでしょう。しかし、そのような教えにだまされた人たちが信じていた事柄の本質をよく考えてみると、要するに、わたしたち人間は死んだ後、肉体は滅びても、魂は永遠に生きていて、いわば空中のどこかに漂った状態にあるというようなことだったはずです。そのような、いずれにせよ、魂と肉体が分離している状態、魂だけが漂っている状態というものが思い描かれていたはずです。

もしそうであるとするならば、今ここにいるわたしたちにとっても決して他人事ではないはずです。皆さんの中に、「肉体の復活」ということを関口牧師が声を大にし、口を酸っぱくして語っているほどには信じきることができないという方がおられるのかどうかは聞かないでおきます。「あとでこっそり教えてください」とも申しません。何も聞かない代わりに、私は今日、「肉体の復活」という信仰は、「わたしたちが騙されないためにも重要である」ということを強調しておきたいと思います。今日、最も大きな声で言いたいことは、魂と肉体が分離して、魂だけがどこかの空中に漂っている状態というようなことを聖書は全く教えていないということです。もし肉体が死んだのなら魂も死んだのです。たとえそうであっても、わたしたちの信仰は、そのことでびくともしません。なぜなら、肉体の復活と共に魂も復活するからです。肉体と魂はばらばらに切り離されたり、別々に分かれたりしませんし、そうなる必要がないのです。

ですから、たとえば、「鎮魂」という考え方がわたしたちには全くありません。肉体から切り離された魂が救われるために祈るという意味の「死者のための祈り」なども全くしませんし、信じていません。わたしたちがどれだけ祈ろうが、どれだけご祈祷料を支払おうが、それによって死者の魂がどうなるということはありえないと信じているからです。わたしたちが何をどのようにしようが、何もどうにもなりません。そもそもわたしたちには、死者の魂だけがどこかで漂っているという観念そのものがないのです。そのような観念は、わたしたちにとってはオカルト以外の何ものでもないのです。

しかし、いま私が申し上げていることは他の宗教の批判ではありませんし、関口牧師は冷たいことを言っているなどと思われてしまいますと困ります。冷たいことを言っているつもりはないのです。「わたしたちは復活する」と言っているのです。「復活の日には、肉体も魂も同時に復活するのだ」と言っているのです。

だからこそ、先週も確認したとおり、イエスさまの復活の体は傷だらけでした。その体はイエスさまの苦難の生涯がどれほど激しいものだったかを如実に物語っていました。イエスさまの復活には夢見心地な要素は皆無であり、厳しく生々しい現実そのものを映し出していました。そして、トマスには、御自分の体に残る十字架の釘跡、槍で刺された釘跡を指さされ、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)と言われました。電源スイッチの切れたロボットにもう一度スイッチを入れて再起動させるように、すっかり抜け殻となった肉体の中に魂が戻ってきて息を吹き返したというような話ではありません。死よりも前の体験と記憶が、イエスさまの人格そのものが復活されたイエスさまにおいても連続していたのです。魂の復活とは、いわばそのようなことです。

イエスさまはトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(同上)、また「(見ないのに)信じる人は、幸いである」(29節)と言われました。この場合「信じる人」の意味は「復活を信じる人」です。復活を信じる人は幸せであると言われているのです。

皆さんにぜひお考えいただきたいことは、「復活を信じて損することはありません」ということです。復活を信じることで誰かが不幸になることはありません。復活を信じないほうが損します。肉体から切り離された魂のようなものを想像し、追い求めることは、どこか騙されやすく、得体のしれないものを恐れやすくなります。それは宗教改革の精神に全く反することです。復活の信仰がわたしたちをあらゆる迷信やオカルトから解放してくれるのです。

(2010年10月31日、松戸小金原教会主日礼拝)

2010年10月26日火曜日

愛と友情と遊び

「ブログなんて、書くことがないときは書かなきゃいい」などという無駄な文章を以前この場所に書いたことがありますが、そういうことを書いているときは大抵、本当は書きたいこと、言いたいことがあるのだけれど、もやもやしたまま言葉にならないものを胸に抱えている、というようなときだったりします。



実は今がまさにその状態なので、再び無駄な文章を書いているわけですが、「もやもやしたまま言葉にならない」状態だと言った通りですので、それを文章化するのは私には無理な話です。



断片的なキーワードくらいは書きとめておけるような気はしますが、スパイの通信文か何かかと間違えられてしまうかもしれませんので、それはやめておきます。



断片的なキーワードと書いて思い出すのは、3年くらい前に大流行した「脳内メーカー」というサイトです。すっかり忘れていましたが、今でもあるようですね。



「関口康」と何べん打ち込んでもいつも同じ結果になるのですが、脳が描かれたイラストの中に、「愛」という字が47個、「友」という字が5個、「遊」という字が4個、浮かび上がります。「愛」と「友情」と「遊び」で満ち満ちた脳だなんて、まるでどこかの牧師さんみたいじゃんと、苦笑したものでした。



そうであればいいのですが。



しかし、現実の「関口康」の脳内は「憎」と「敵」と「苦」という字で満ち満ちている、かもしれません。爆発寸前のマグマが煮えたぎっている、かもしれません。



そういうとき、私はどうするか。行動パターンはいつも決まっています(この、なんだか自己啓発本的な書きっぷりはお見逃しください)。



(1)なるべく「ひとり」になる。私のマグマの煙火が周りの人に燃え移らないように。



(2)できるかぎり「しらふ」になろうとする。冷静に判断できる状態を確保するために。



(3)机に広げられた新聞や雑誌などから目に入ってくる文字はとりあえず追うが、関心を持てないことを無理に理解しようとはしない。



(4)腹が立っているときに好きな本を読むとその本が汚される気がするので(このくだりは半分以上ジョークです)、そういうときは本は読まない。聖書も読まな・・・(以下省略)。



(5)テレビやパソコンは、うるさいと思えば消すが、うるさくなければそのままにしておき、目から入るまま、耳から聞こえるままを受けとる。特にパソコンは、完全に消してしまうと「メールが来ていないか」などかえって気になることがあり、消すことが逆効果になる場合がある。



(6)あとは、美味しいミネラルウォータかウーロン茶(甘みが無くて冷たい飲み物)を500cc飲んで、布団かぶって「ねる」ですね。



私が特に意識もしないで長年やってきたことは、おそらくは「脳の機能回復」なのだと思います。実際問題として、このようなこと以外に、何をすることがあるのでしょうか。



以上、無駄な文章も、ここまで長々と書けば何かの意味を持ち始めているかもしれませんので、「何かを書いた」ことにしておきましょう。



2010年10月19日火曜日

日本語の誤り(再掲)

ブログは書いておくものです。過去の文章を読み返して、自分で惚れ惚れすることがあります。



もう二年も前になるようですが、2008年9月2日(火)に、私は下記のようなことを書いていたようです。今でも基本スタンスは変わっていませんが、もう少し丁寧に書くでしょう。



しかし、誤解のないように。



二年前、何か直接的な理由があって(実際に誰かと激突(?)するなど)、怒りにまかせて書きつけたわけではありません。十年、二十年といった単位の長さで、考え、感じてきたことを、初めて文章化してみたというだけのことです。



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「日本語の誤り」



2008年9月2日(火)



「教会が牧師を育てる」という言葉を聞くことがあります。しかしこれは、私に言わせていただけば、どう考えても日本語の間違いです。百歩譲っても。また長老主義においては「牧師」と「長老」は「霊的に同格である」と規定されているとしても、です。(少なくとも改革派教会の)牧師は「教師」です。「教師が生徒を育てる」は日本語として正しいと思いますが、「生徒が教師を育て」ますか? これって今どき流行りの「モンスターチルドレン」ではないでしょうか(「モンスターペアレンツ」は、もう古いようです)。私の信じるところは、牧師を「育てる」のは、(なるべく同じ中会の)「先輩牧師」か、そうでなければ(神学校の)「指導教授」です。このように書くのは、「教会員が牧師の批判をしてはならない」という意味では(まさか)ありません。批判は、大いにすべきです。しかし、牧師批判を「あなたを育てるために、してあげている」と言われると我々はかなり困ります。そのようなことをこの私に対して面と向かって言った人はまだいませんが、もし言われたときには「そう言いたければ、あなたも教師(牧師)になってください。あなたは私の教師ではありません」と言い返そうと思っています。



とはいえ、これはあくまでも日本キリスト改革派教会の場合です。他の教団・教派には必ずしも当てはまらない部分があるでしょう。各個教会の牧師の暴走・迷走を訴え出る「法廷」(長老主義の場合は「中会」や「大会」)が存在しない、または機能していない場合、教会役員はじめ教会員が何らかの「自衛手段」を持つべきは当然のことです。 また、「神学校出たての老牧師」の場合なども難しいケースです。「先輩牧師に育ててもらう」と口では言えても、「初めから老牧師である人の先輩がどこにいるのか」という悩みが生じます。この理由から、私は、他の仕事を定年退職した後に「第二の人生を主にお献げしたい」という(それ自体はまことに敬意に値すべき)理由で牧師になろうとする高齢者たちに対して(やっかみとかではなく)非常に大きな疑問を持っています。 そういう人々の多くが、どこかしらアンタッチャブルな存在になってしまうからです。要するに、だれも「彼/彼女」を批判することができません。なかでも自分がそこで長年「教会役員」を務めてきた教会に自ら「牧師」として赴任する老牧師の場合などは、ほとんど確実にそうなります。 しかし「アンタッチャブルな牧師」だなんて全くの概念矛盾です。だってその人が「神の言葉」を語ろうっていうのですから。想像するだけで空恐ろしいものがあります。



私の知るかぎり、「第二の人生としての牧師生活」を志す方々の多くは、(少なくとも外見上は)謙遜な方々ばかりであり、周りから見れば「牧師になるにふさわしい」と認めてもらえそうな方々ばかりです。しかし、その人が謙遜であることと、批判を向けにくい相手であることとは別です。日本キリスト改革派教会には牧師の70才定年規定がありますので、「第二の人生」を迎えた人は、そこから牧師の道をめざすことはできません。そういうのは概念矛盾だと考えている牧師たちが多いはずです。ここから先はまるで私の自己弁護みたいに響いてしまうかもしれませんが、本来「牧師」は(かつてのヨーロッパでは)ギムナジウムと大学を卒業したらすぐになって、そこから退職までずっと続けるもの、つまり純粋に「職業」だったはずです。しかしそれが日本の教会では(時々なぜか改革派教会の中でも)いつのまにか「牧師は職業ではない」とか言われ、すっかり誤解され変質してしまっています。「牧師は職業だと思いますけど」と返すと、「サラリーマン牧師めが!」と罵倒され白眼視されるケースまであります(「サラリーマン牧師」という物言いを批判的な意味をこめて語ることはサラリーマンの方々に失礼です)。「牧師の身分」という表現を(これは改革派教会にも少なからず)さらっと使う人がいます。 しかし牧師は「身分」(ステータス)でしょうか。全くの誤解です。いつから日本のプロテスタント教会はカースト制度さながらの縦社会になったのでしょうか。牧師は純粋に「職務」(オフィス)であり、その意味での「職業」です。「牧師の身分」という言葉を悪気なしに使っている人まで批判するつもりはありません。しかし、こういうのも私は「日本語の誤り」であると考えています。レトリックが決定的に不足しているのです。