2010年11月3日水曜日
高橋哲哉氏の問いかけは正当である(キリスト新聞を読んで)の続き
(1)キリスト新聞を読むかぎり、高橋氏の贖罪論理解そのものが間違っているとは今のところ思いません。高橋氏が問題にしておられるのは、贖罪論を「誤解」してきた教会の過ちのほうだと読めるからです。換言すれば、高橋氏は「贖罪論の誤解」によって教会が引き出してきた「諸帰結」や「諸現象」のほうをご覧になり、いわば「実を見て木を知る」という仕方で、教会が犯してきた過ちを批判しておられると私には読めます。そして、この高橋氏の判断は私見によれば間違っていません。
(2)S先生が引用してくださったY先生の文章の中で若干気になるのは、「それでもイエスの犠牲にお応えする私の犠牲ということのみが、キリスト者の信仰の歩みを形作るのです」の中の「私の犠牲ということのみ」の「のみ」です。なぜ「のみ」(only)なのでしょうか。私を含めて日本の教会の牧師たちは不必要なまでに「犠牲」を強いられている面がありますので、比較的容易にイエスさまの犠牲と自分自身の犠牲とを自己同一化しやすい環境にあります。しかし、我々が今払っている「犠牲」は、イエスさまの「犠牲」とは質的に異なるものではないでしょうか。
(3)ややスコラ神学的な問題意識かもしれませんが、贖罪論はキリスト論だけに属するのではないと私は考えています。贖罪論の課題にはイエス・キリストにおける贖罪のみわざの事実とその意義を解明することだけではなく、聖霊による人間における「贖罪の適用」(applicatio salutis)という点が必ず含まれます。したがって贖罪論は聖霊論にも属するものではないでしょうか。
(4)あと一つ付け加えておきたいのは「罪」の評価の問題です。「罪」は、どこまで行っても神さまにとっては「不本意」なのだと思うのです。もしわたしたちが「罪」そのものを神さまの「本意」とみなすならば、人間側の一種の開き直りを意味してしまいますし、まるで神さまが「罪の作者」であるかのようであることを認めることを意味せざるをえなくなるでしょう。しかし、そのような結論を、我々(少なくとも改革派の者たち)は決して受け入れることができません。もしこのあたりの消息が正しく了解されるならば、イエスさまがおこなってくださった「罪の贖い」もまた、神さまからすれば「不本意」であるはずです。もちろん私はイエスさまが(父なる)神さまの御心に従って十字架についてくださったということを心から信じていますので、イエスさまにとって「(父なる)神さまの御心に従うこと」自体は「本意」だったと説明できるかもしれません。しかし、上記のとおり「罪」も、そして「罪の贖い」も神さまにとっての「不本意」なのだとするならば、イエスさまからすれば、いわば「(イエスさま御自身の)本意」と「(父なる神の)不本意」との板挟みの中で、十字架の死を遂げられたと言えるのではないでしょうか。
(5)ここから先は全くのスコラ的なまさに屁理屈なのですが、もし人間が「罪」を犯さなかったとしたら、イエスさまが「犠牲の供え物」になってくださる必要は無かったのです。その意味で「罪の贖い」(贖罪)は、言うならば「仕方なく」(ファン・ルーラー先生の言葉をお借りすれば「緊急措置として」)行われたみわざです。いま私が書いていることが「イエスは果たして、神のために喜んで死んだのか」という高橋氏の問いかけへの答えになるかどうかは分かりません。しかし、私自身も上記の観点(イエスさまの死は「本意」と「不本意」の板挟みの中にあったのではないかとする推論)を考えるならば、ある意味で高橋氏と同じ問いを抱かざるをえません。
(6)まとめて言えば(ちっともまとまりませんが)、キリスト教から贖罪論を引き抜くことは私にも不可能ですが(この点はS先生やS中会と完全に一致!)、贖罪論の観点だけからキリスト教のすべてを論じつくすのは行き過ぎだろうと考えている次第です。
高橋哲哉氏の問いかけは正当である(キリスト新聞を読んで)
残念ながら『殉教と殉国と信仰と』を、私はまだ手にしていません。「書評の依頼でも来ないかな?」と期待していたので自分で買わないでいたというわけではありませんが(でも「来ないかな?」)、先月末あたりの仕事ラッシュや、その中で遭ってしまった車上荒らし(私の目の前で起こった窃盗事件でしたが、長くなるので詳述は控えます)や、その他もろもろで、外出もままならず、書店に行く暇がなかったために、この話題の書にさえ手を伸ばすことができずにいた体たらくでした。
ですから、下に書くことはキリスト新聞の記事だけから純粋に受けた印象です。私が感じたことを一言でいえば、高橋哲哉氏の問いかけは真摯かつ全うなものであり、日本の全キリスト教会は氏の問いに真摯に応えなければならないということです。
「高橋氏は先のシンポジウムで、キリスト教が戦死者を殉教者としてみなしてきた歴史、殉教者の列福と靖国神社による英霊顕彰が持つ『構造的な同系性』、殉教者を尊崇することと神の愛の『絶対的無差別性』の関係などについて指摘した。(改行)講演の冒頭、イエスの十字架上の死を贖罪の犠牲としてとらえることに疑問を呈した同氏の主張に対して、『贖罪論はキリスト教信仰の核心だから譲れない』との反響があったことを紹介し、『欧米の神学者の中にも批判的な議論が存在してきた。贖罪論なしに信仰が成り立たないかどうかは、もはや自明のことではない』と反論。(改行)『殉教という行為が否定される』と懸念する声にも、『それぞれの人が迫害や強制によって追い詰められた状況で下した選択自体は到底否定できない』としながら、『非業の死を顕彰、賛美、美化すること、その死によって何かが購われたとして満足してしまうこと、殉教が模範的な死とされ見習うべきものとなることの危険性を改めて強調した。」(キリスト新聞、同上号、第一面)。
高橋氏は上記の問いかけ以外にもいくつもの重要な問題提起をなさったようですが、私は高橋氏が提起された問いかけのすべてに賛同の意を表明することができます。私自身が長年もやもやと感じてきたことを明瞭な言葉で適切に表現してくださったという思いです。設問内容がきわめて正当なものなのですから、「キリスト教」は、そして「キリスト教会」は、この問いかけに真摯な答えを出さなければなりません。
組織神学的な視点から見れば、高橋氏の問いかけの中には、実にたくさんの論点が含まれています。その中でも特に重要な問いは、「イエスの十字架上の死は贖罪の犠牲なのか」と「贖罪論なしには信仰が成り立たないか」の二つでしょう。
第一の問いに対して、私がすぐに答えられることは、イエスの十字架上の死は、たしかに贖罪の犠牲であるが、イエスの死をわたしたちの死と同列に並べて比較すること自体が間違っているということです。
イエス・キリストについての代々の教会の信仰告白は、「人間の肉をまとった永遠の神の御子」です。「贖罪論はキリスト教の核心だから譲れない」と言い張る人たちは、贖罪論と受肉論という二つの教説はドミノ関係にあるということについても決して譲るべきではありません。「永遠の神の御子の死」と、御子以外の「(普通の)人間の死」は、全く次元が異なるのです。
つまり、「イエス」は他の人間とは比較不可能なきわめて特殊な存在であり、その方の死は歴史上ただ一回かぎり起こった出来事であり、その出来事は決して反復されえないゆえに、イエスの死と他のすべての人間の死とを比較すること自体が、そもそも間違っているのです。
したがって、「殉教」や「非業の死」を「イエスの死に似ている」という理由で美化したり賛美したりすることは、神学的にいえば、完全に誤りです。
第二の問いに対して、私がすぐに答えられることは、結論からいえば、「贖罪論なしには信仰は成り立ちません」。しかし、このことを言いながら同時に言いたいことは、「贖罪論だけではキリスト教は成り立ちません」ということです。
贖罪論だけにまるで自らの全体重をかけてしまったようなキリスト教は、いびつに歪んだ形をしています。それは健全なものではなく、明らかに不健全であり、かつ限りなく異端的なるものに接近している様相を呈しています。
なぜなら、贖罪論の教義はキリスト教信仰の一部分にすぎないからです。キリスト教信仰は贖罪論だけで覆い尽くされているのではなく、少なくとも創造論と終末論があります。また、別の角度からいえば、キリスト教信仰はキリスト論(イエス・キリストの存在とみわざについての教説)だけで成り立っているのではなく、少なくとも神論(御父なる神についての教説)があり、かつ聖霊論(聖霊なる神についての教説)があります。
我々の神は三位一体です。経綸的三位一体論的にいえば、神は贖罪者なる方であるだけではなく、創造者なる方でもあり、完成者なる方でもあります。内在的三位一体論的にいえば、御子だけが神ではなく、御父も聖霊も神です。
したがって、もっぱら「贖罪論」の視点だけをまるでキリスト教の唯一の切り口であるかのようにみなし、イエスの死をまるで「人間の死のあるべき模範」であるかのように美化したり賛美したりすることは、これも神学的にいえば完全に誤りです。
キリスト新聞によると、高橋氏は次のようにも問いかけています。
「(高橋氏は)『殉教者自身が「喜んで死んでいく」ことに対しては違和感を禁じえない』と告白した上で、「国の英霊がお国のために『天皇陛下万歳』と叫び歓喜に打ち震えて死んだとされているように、殉教者が神のために『イエス・キリスト万歳』と叫び歓喜に打ち震えて死んだ、と読めないか。イエスは果たして、神のために喜んで死んだのか』と疑問を投げかけた」(同上面)。
この問いかけに対する即答は私にはできませんが、非常に興味深く、かつ真剣に考え抜くに値する、きわめて重い問いかけであると感じました。
(続く)
2010年11月1日月曜日
宗教改革記念礼拝
今日は、宗教改革記念礼拝をおこないました。
「信じる者は幸いである」
ヨハネによる福音書20・24~31
http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2010-10-31.pdf (印刷用PDF)
「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』このほかにもイエスは弟子たちの前で多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである。」
今お読みしました個所は今年のイースター礼拝でも取り上げたところです。しかし、皆さんの多くはそのとき私が何を話したかをすっかり忘れておられると思いますので、私は安心して同じ話をすることができると思っています。いま、少し意地悪なことを言いました。しかし、今日はイースターのときに申し上げたこととは別の点に強調を置いてお話ししたいと願っています。
全くお恥ずかしい話なのですが、今日が何の日であるかを、先週まで私自身がすっかり忘れておりました。そのため先週の週報では予告も出しておりませんでした。今日は宗教改革記念日なのです。完全に忘れていましたことをお詫びいたします。1517年10月31日、宗教改革者マルティン・ルターが当時のローマ・カトリック教会への激しい批判を記したいわゆる95カ条の提題、その原題は「贖宥の効力を明らかにするための討論」という文書をドイツのヴィッテンベルクの城教会の扉に掲げたとされる日です。そのルターの勇気ある行為が全世界の宗教改革運動の事実上の幕開けとなったため、全世界のプロテスタントの教会がこの日を「宗教改革記念日」として覚えるようになったのです。
なぜルターは10月31日にその貼り紙を教会の扉に掲げたのかという点については定説があります。ご承知のとおり、明日11月1日は教会の暦ではオールセインツと呼ばれ(※)、日本では「聖徒の日」とか「万聖節」などと訳されて重んじられています。それは、松戸小金原教会ではイースターにおこなっている召天者記念礼拝と同じ意味を持っており、遺族を含めて大勢の人が教会に集まる日です。教会に集まる人は当然、教会の扉の前を通って中に入ります。つまり、教会に大勢の人が集まる日に教会の扉に貼り紙をすれば、大勢の人の目に触れます。だからこそ、ルターはその聖徒の日の前日である10月31日を選んだのだと言われています。
しかし、ルターは、ただ単に目立つことをしたかったからその日を選んだというだけではなかったと思われます。ルターがローマ・カトリック教会を批判したその内容とその日を選んだこととは関係していると考えるべきです。ルターが批判したのは、よく知られているとおり、ローマ・カトリック教会が信徒向けに販売していた日本での通称「免罪符」、正確には「贖宥券」と呼ばれるものは無意味かつ有害であるという点でした。それを買うことは当然、教会に献金することにもなるわけですが、そのお金を支払うことによって、すでに亡くなっているがまだ天国に迎え入れられていない中間状態(煉獄)の中で漂っている魂が天国まで「飛び上がる」と、ローマ・カトリック教会が教えていたのです。そのような教えには聖書的な根拠は無く、全くのでたらめであると、ルターは批判したのです。
ですから、このことから分かるのは、ルターが10月31日に教会の門に貼りつけた文書の中で問題にしたことは要するに「人間は死んだ後どうなるのか」という点にかかわることであったということです。だから、ルターがその文書を「聖徒の日」の前日に貼りだしたのだと考えれば辻褄が合います。聖徒の日に教会に集まる人の中にはすでに亡くなった方々の遺族が多く含まれていたわけですから、人間の死と死後の状態について多少なりとも関心を持っている人々であったはずです。別の言い方をすれば、493年前の今日から始まった宗教改革運動がいちばん最初に取り組んだのは「人間は死んだらどうなるか」という問題であったということにもなると思います。それは、少し難しい言い方をすれば、「終末論的な問題意識」と呼ぶことができるものかもしれません。
わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは死んだ後どうなるのでしょうか。この問いに対して、わたしたちは躊躇なく間髪入れず「わたしたちは復活する」と答えなければなりません。イエスさまが復活されたのだから、わたしたちも復活するのだと。それこそが聖書の教えであり、わたしたちの信仰です。・・・
(この続きは「今週の説教」にあります。ぜひお読みください。)
※実際の説教では「明日11月1日はハロウィーンですが」と説明してしまいましたが、これは間違いでした。ハロウィーンは「万聖節の前夜祭」なので「今日10月31日はハロウィーンですが」と言わねばなりませんでした。お詫びして訂正いたします。事実関係を訂正したうえで本文からは削除させていただきました。
2010年10月31日日曜日
信じる者は幸いである
ヨハネによる福音書20・24~31
「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』このほかにもイエスは弟子たちの前で多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである。」
今お読みしました個所は今年のイースター礼拝でも取り上げたところです。しかし、皆さんの多くはそのとき私が何を話したかをすっかり忘れておられると思いますので、私は安心して同じ話をすることができると思っています。いま、少し意地悪なことを言いました。しかし、今日はイースターのときに申し上げたこととは別の点に強調を置いてお話ししたいと願っています。
全くお恥ずかしい話なのですが、今日が何の日であるかを、先週まで私自身がすっかり忘れておりました。そのため先週の週報では予告も出しておりませんでした。今日は宗教改革記念日なのです。完全に忘れていましたことをお詫びいたします。1517年10月31日、宗教改革者マルティン・ルターが当時のローマ・カトリック教会への激しい批判を記したいわゆる95カ条の提題、その原題は「贖宥の効力を明らかにするための討論」という文書をドイツのヴィッテンベルクの城教会の扉に掲げたとされる日です。そのルターの勇気ある行為が全世界の宗教改革運動の事実上の幕開けとなったため、全世界のプロテスタントの教会がこの日を「宗教改革記念日」として覚えるようになったのです。
なぜルターは10月31日にその貼り紙を教会の扉に掲げたのかという点については定説があります。ご承知のとおり、明日11月1日は教会の暦ではオールセインツと呼ばれ、日本では「聖徒の日」とか「万聖節」などと訳されて重んじられています。それは、松戸小金原教会ではイースターにおこなっている召天者記念礼拝と同じ意味を持っており、遺族を含めて大勢の人が教会に集まる日です。教会に集まる人は当然、教会の扉の前を通って中に入ります。つまり、教会に大勢の人が集まる日に教会の扉に貼り紙をすれば、大勢の人の目に触れます。だからこそ、ルターはその聖徒の日の前日である10月31日を選んだのだと言われています。
しかし、ルターは、ただ単に目立つことをしたかったからその日を選んだというだけではなかったと思われます。ルターがローマ・カトリック教会を批判したその内容とその日を選んだこととは関係していると考えるべきです。ルターが批判したのは、よく知られているとおり、ローマ・カトリック教会が信徒向けに販売していた日本での通称「免罪符」、正確には「贖宥券」と呼ばれるものは無意味かつ有害であるという点でした。それを買うことは当然、教会に献金することにもなるわけですが、そのお金を支払うことによって、すでに亡くなっているがまだ天国に迎え入れられていない中間状態(煉獄)の中で漂っている魂が天国まで「飛び上がる」と、ローマ・カトリック教会が教えていたのです。そのような教えには聖書的な根拠は無く、全くのでたらめであると、ルターは批判したのです。
ですから、このことから分かるのは、ルターが10月31日に教会の門に貼りつけた文書の中で問題にしたことは要するに「人間は死んだ後どうなるのか」という点にかかわることであったということです。だから、ルターがその文書を「聖徒の日」の前日に貼りだしたのだと考えれば辻褄が合います。聖徒の日に教会に集まる人の中にはすでに亡くなった方々の遺族が多く含まれていたわけですから、人間の死と死後の状態について多少なりとも関心を持っている人々であったはずです。別の言い方をすれば、493年前の今日から始まった宗教改革運動がいちばん最初に取り組んだのは「人間は死んだらどうなるか」という問題であったということにもなると思います。それは、少し難しい言い方をすれば、「終末論的な問題意識」と呼ぶことができるものかもしれません。
わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは死んだ後どうなるのでしょうか。この問いに対して、わたしたちは躊躇なく間髪入れず「わたしたちは復活する」と答えなければなりません。イエスさまが復活されたのだから、わたしたちも復活するのだと。それこそが聖書の教えであり、わたしたちの信仰です。わたしたちは、かつてのローマ・カトリック教会が教えていた意味での「煉獄」という魂の中間状態があるなどということをそもそも信じていません。中間状態とは天国にも地獄にも入っていない状態であり、最後の審判の座に引き出されるのを待っている未決の状態のことです。そのような状態にある先祖の魂が、地上にいる遺族が献金箱の中に投げ込むお金のチャリンという音でピョンと天国に飛び上がるのだとローマ・カトリック教会が教えていたというのです。
そんなのはでたらめだとルターが批判したわけですが、私にとって気になることはローマ・カトリック教会も「教会」であるということです。16世紀の話はともかくとして、少なくとも今、21世紀のわたしたちがローマ・カトリック教会を名指しして異端呼ばわりすることはありえません。彼らもまたキリスト教会の仲間です。事情がそうであるとき、私にとって最も気になることは、「わたしたち人間が死んだらどうなるのか」という問題について正しい答えを出すことができるのも「教会」であるとわたしたちは信じてよいわけですが、それと同時に、この問題についての間違った答えを出すのも「教会」であるということを認めざるをえないということです。
ローマ・カトリック教会は、その間違ったでたらめな教えを、事実上の献金集めの手段として利用しました。亡くなった方の遺族の心は多少なりとも傷ついているわけですが、まるでその弱みにつけこむようなことをしていたのです。しかし、たとえそれが事実であったとしても、今のわたしたちがしなければならないことは、16世紀の誰かを批判することではありません。わたしたちがしなければならないのは、今の自分たちはどうなのかという点についての深い反省です。それは、わたしたちもまた「教会」である以上、いつ何どき16世紀の教会と同じ過ちに陥ってしまうか分からない存在でもあるということを強く自覚しつつ、その過ちに陥らないように気をつけることです。
しかしそれはわたしたちがどのようにすることでしょうか。この点をよく考えなければなりません。教会に献金をすれば亡くなった人の魂が天国まで飛び上がって救われるという話がでたらめであるという点については、皆さんには直感的に「間違っている」と理解していただけるものがあるでしょう。しかし、そのような教えにだまされた人たちが信じていた事柄の本質をよく考えてみると、要するに、わたしたち人間は死んだ後、肉体は滅びても、魂は永遠に生きていて、いわば空中のどこかに漂った状態にあるというようなことだったはずです。そのような、いずれにせよ、魂と肉体が分離している状態、魂だけが漂っている状態というものが思い描かれていたはずです。
もしそうであるとするならば、今ここにいるわたしたちにとっても決して他人事ではないはずです。皆さんの中に、「肉体の復活」ということを関口牧師が声を大にし、口を酸っぱくして語っているほどには信じきることができないという方がおられるのかどうかは聞かないでおきます。「あとでこっそり教えてください」とも申しません。何も聞かない代わりに、私は今日、「肉体の復活」という信仰は、「わたしたちが騙されないためにも重要である」ということを強調しておきたいと思います。今日、最も大きな声で言いたいことは、魂と肉体が分離して、魂だけがどこかの空中に漂っている状態というようなことを聖書は全く教えていないということです。もし肉体が死んだのなら魂も死んだのです。たとえそうであっても、わたしたちの信仰は、そのことでびくともしません。なぜなら、肉体の復活と共に魂も復活するからです。肉体と魂はばらばらに切り離されたり、別々に分かれたりしませんし、そうなる必要がないのです。
ですから、たとえば、「鎮魂」という考え方がわたしたちには全くありません。肉体から切り離された魂が救われるために祈るという意味の「死者のための祈り」なども全くしませんし、信じていません。わたしたちがどれだけ祈ろうが、どれだけご祈祷料を支払おうが、それによって死者の魂がどうなるということはありえないと信じているからです。わたしたちが何をどのようにしようが、何もどうにもなりません。そもそもわたしたちには、死者の魂だけがどこかで漂っているという観念そのものがないのです。そのような観念は、わたしたちにとってはオカルト以外の何ものでもないのです。
しかし、いま私が申し上げていることは他の宗教の批判ではありませんし、関口牧師は冷たいことを言っているなどと思われてしまいますと困ります。冷たいことを言っているつもりはないのです。「わたしたちは復活する」と言っているのです。「復活の日には、肉体も魂も同時に復活するのだ」と言っているのです。
だからこそ、先週も確認したとおり、イエスさまの復活の体は傷だらけでした。その体はイエスさまの苦難の生涯がどれほど激しいものだったかを如実に物語っていました。イエスさまの復活には夢見心地な要素は皆無であり、厳しく生々しい現実そのものを映し出していました。そして、トマスには、御自分の体に残る十字架の釘跡、槍で刺された釘跡を指さされ、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)と言われました。電源スイッチの切れたロボットにもう一度スイッチを入れて再起動させるように、すっかり抜け殻となった肉体の中に魂が戻ってきて息を吹き返したというような話ではありません。死よりも前の体験と記憶が、イエスさまの人格そのものが復活されたイエスさまにおいても連続していたのです。魂の復活とは、いわばそのようなことです。
イエスさまはトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(同上)、また「(見ないのに)信じる人は、幸いである」(29節)と言われました。この場合「信じる人」の意味は「復活を信じる人」です。復活を信じる人は幸せであると言われているのです。
皆さんにぜひお考えいただきたいことは、「復活を信じて損することはありません」ということです。復活を信じることで誰かが不幸になることはありません。復活を信じないほうが損します。肉体から切り離された魂のようなものを想像し、追い求めることは、どこか騙されやすく、得体のしれないものを恐れやすくなります。それは宗教改革の精神に全く反することです。復活の信仰がわたしたちをあらゆる迷信やオカルトから解放してくれるのです。
(2010年10月31日、松戸小金原教会主日礼拝)
2010年10月26日火曜日
愛と友情と遊び
「ブログなんて、書くことがないときは書かなきゃいい」などという無駄な文章を以前この場所に書いたことがありますが、そういうことを書いているときは大抵、本当は書きたいこと、言いたいことがあるのだけれど、もやもやしたまま言葉にならないものを胸に抱えている、というようなときだったりします。
実は今がまさにその状態なので、再び無駄な文章を書いているわけですが、「もやもやしたまま言葉にならない」状態だと言った通りですので、それを文章化するのは私には無理な話です。
断片的なキーワードくらいは書きとめておけるような気はしますが、スパイの通信文か何かかと間違えられてしまうかもしれませんので、それはやめておきます。
断片的なキーワードと書いて思い出すのは、3年くらい前に大流行した「脳内メーカー」というサイトです。すっかり忘れていましたが、今でもあるようですね。
「関口康」と何べん打ち込んでもいつも同じ結果になるのですが、脳が描かれたイラストの中に、「愛」という字が47個、「友」という字が5個、「遊」という字が4個、浮かび上がります。「愛」と「友情」と「遊び」で満ち満ちた脳だなんて、まるでどこかの牧師さんみたいじゃんと、苦笑したものでした。
そうであればいいのですが。
しかし、現実の「関口康」の脳内は「憎」と「敵」と「苦」という字で満ち満ちている、かもしれません。爆発寸前のマグマが煮えたぎっている、かもしれません。
そういうとき、私はどうするか。行動パターンはいつも決まっています(この、なんだか自己啓発本的な書きっぷりはお見逃しください)。
(1)なるべく「ひとり」になる。私のマグマの煙火が周りの人に燃え移らないように。
(2)できるかぎり「しらふ」になろうとする。冷静に判断できる状態を確保するために。
(3)机に広げられた新聞や雑誌などから目に入ってくる文字はとりあえず追うが、関心を持てないことを無理に理解しようとはしない。
(4)腹が立っているときに好きな本を読むとその本が汚される気がするので(このくだりは半分以上ジョークです)、そういうときは本は読まない。聖書も読まな・・・(以下省略)。
(5)テレビやパソコンは、うるさいと思えば消すが、うるさくなければそのままにしておき、目から入るまま、耳から聞こえるままを受けとる。特にパソコンは、完全に消してしまうと「メールが来ていないか」などかえって気になることがあり、消すことが逆効果になる場合がある。
(6)あとは、美味しいミネラルウォータかウーロン茶(甘みが無くて冷たい飲み物)を500cc飲んで、布団かぶって「ねる」ですね。
私が特に意識もしないで長年やってきたことは、おそらくは「脳の機能回復」なのだと思います。実際問題として、このようなこと以外に、何をすることがあるのでしょうか。
以上、無駄な文章も、ここまで長々と書けば何かの意味を持ち始めているかもしれませんので、「何かを書いた」ことにしておきましょう。
2010年10月19日火曜日
日本語の誤り(再掲)
ブログは書いておくものです。過去の文章を読み返して、自分で惚れ惚れすることがあります。
もう二年も前になるようですが、2008年9月2日(火)に、私は下記のようなことを書いていたようです。今でも基本スタンスは変わっていませんが、もう少し丁寧に書くでしょう。
しかし、誤解のないように。
二年前、何か直接的な理由があって(実際に誰かと激突(?)するなど)、怒りにまかせて書きつけたわけではありません。十年、二十年といった単位の長さで、考え、感じてきたことを、初めて文章化してみたというだけのことです。
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「日本語の誤り」
2008年9月2日(火)
「教会が牧師を育てる」という言葉を聞くことがあります。しかしこれは、私に言わせていただけば、どう考えても日本語の間違いです。百歩譲っても。また長老主義においては「牧師」と「長老」は「霊的に同格である」と規定されているとしても、です。(少なくとも改革派教会の)牧師は「教師」です。「教師が生徒を育てる」は日本語として正しいと思いますが、「生徒が教師を育て」ますか? これって今どき流行りの「モンスターチルドレン」ではないでしょうか(「モンスターペアレンツ」は、もう古いようです)。私の信じるところは、牧師を「育てる」のは、(なるべく同じ中会の)「先輩牧師」か、そうでなければ(神学校の)「指導教授」です。このように書くのは、「教会員が牧師の批判をしてはならない」という意味では(まさか)ありません。批判は、大いにすべきです。しかし、牧師批判を「あなたを育てるために、してあげている」と言われると我々はかなり困ります。そのようなことをこの私に対して面と向かって言った人はまだいませんが、もし言われたときには「そう言いたければ、あなたも教師(牧師)になってください。あなたは私の教師ではありません」と言い返そうと思っています。
とはいえ、これはあくまでも日本キリスト改革派教会の場合です。他の教団・教派には必ずしも当てはまらない部分があるでしょう。各個教会の牧師の暴走・迷走を訴え出る「法廷」(長老主義の場合は「中会」や「大会」)が存在しない、または機能していない場合、教会役員はじめ教会員が何らかの「自衛手段」を持つべきは当然のことです。 また、「神学校出たての老牧師」の場合なども難しいケースです。「先輩牧師に育ててもらう」と口では言えても、「初めから老牧師である人の先輩がどこにいるのか」という悩みが生じます。この理由から、私は、他の仕事を定年退職した後に「第二の人生を主にお献げしたい」という(それ自体はまことに敬意に値すべき)理由で牧師になろうとする高齢者たちに対して(やっかみとかではなく)非常に大きな疑問を持っています。 そういう人々の多くが、どこかしらアンタッチャブルな存在になってしまうからです。要するに、だれも「彼/彼女」を批判することができません。なかでも自分がそこで長年「教会役員」を務めてきた教会に自ら「牧師」として赴任する老牧師の場合などは、ほとんど確実にそうなります。 しかし「アンタッチャブルな牧師」だなんて全くの概念矛盾です。だってその人が「神の言葉」を語ろうっていうのですから。想像するだけで空恐ろしいものがあります。
私の知るかぎり、「第二の人生としての牧師生活」を志す方々の多くは、(少なくとも外見上は)謙遜な方々ばかりであり、周りから見れば「牧師になるにふさわしい」と認めてもらえそうな方々ばかりです。しかし、その人が謙遜であることと、批判を向けにくい相手であることとは別です。日本キリスト改革派教会には牧師の70才定年規定がありますので、「第二の人生」を迎えた人は、そこから牧師の道をめざすことはできません。そういうのは概念矛盾だと考えている牧師たちが多いはずです。ここから先はまるで私の自己弁護みたいに響いてしまうかもしれませんが、本来「牧師」は(かつてのヨーロッパでは)ギムナジウムと大学を卒業したらすぐになって、そこから退職までずっと続けるもの、つまり純粋に「職業」だったはずです。しかしそれが日本の教会では(時々なぜか改革派教会の中でも)いつのまにか「牧師は職業ではない」とか言われ、すっかり誤解され変質してしまっています。「牧師は職業だと思いますけど」と返すと、「サラリーマン牧師めが!」と罵倒され白眼視されるケースまであります(「サラリーマン牧師」という物言いを批判的な意味をこめて語ることはサラリーマンの方々に失礼です)。「牧師の身分」という表現を(これは改革派教会にも少なからず)さらっと使う人がいます。 しかし牧師は「身分」(ステータス)でしょうか。全くの誤解です。いつから日本のプロテスタント教会はカースト制度さながらの縦社会になったのでしょうか。牧師は純粋に「職務」(オフィス)であり、その意味での「職業」です。「牧師の身分」という言葉を悪気なしに使っている人まで批判するつもりはありません。しかし、こういうのも私は「日本語の誤り」であると考えています。レトリックが決定的に不足しているのです。
2010年10月18日月曜日
今日は「秋の特別集会」でした
今日は松戸小金原教会「秋の特別集会」でした。講師は関口康。いま、心地よい疲れが残っています。
「今こそ、『命の価値』を考える」
マタイによる福音書6・25~34
http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2010-10-17.pdf (印刷用PDF)
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしなさい。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
今日は、毎年恒例の、松戸小金原教会の秋の特別集会です。といいましても、この教会の皆さんにとっては見慣れた顔の私がお話ししますので、どこも「特別」なことはありません。その点はどうかお許しください。今日のために、教会のみんなでこの町にチラシを三千枚配布しました。わたしたちの願いは、この町の人々にこの教会が存在する理由と意味を知っていただくことです。わたしたちはこの町の人々のために何とかお役に立ちたいと願っています。そのことを今日は「特別」に強調してお話しいたします。その意味での「特別集会」でありたいと願っています。
今日のお話のタイトルに「今こそ、『命の価値』を考える」と付けさせていただきました。「今こそ」のところに強調があります。最近わたしたちが知ったことは、この国の各地にいわゆる「消えた老人」という問題があったということです。「老人」という表現そのものは今では失礼なものかもしれません。また、その人々は決して「消えた」わけではありません。すでに亡くなっておられたのに、役所への届け出がなされていなかっただけです。しかしそのことによって、すでに亡くなっておられる方々の年金が遺族に不当に支払われていたということで、大問題になっているのです。
また、これもごく最近のことですが、生まれたばかりの赤ちゃんや小さい子どもたちに食べさせることも飲ませることもせずに死なせてしまい、しかも部屋に閉じ込め、家の入り口にテープを貼って何日も放置したという悲しい出来事がありました。人の命を何だと思っているのかと腹が立つような事件でした。しかし、その親や家庭の事情を何も知らない私が、ひとりで腹を立てていても何の解決にもならないと思うと、虚しい気持ちにさせられました。
今はそういう時代であるとか、今より昔のほうがよかったというような言い方はしたくありません。昔はそうではなかったのでしょうか。昔は今ほど情報通信網が発達していなかったので、知らされなかっただけではないでしょうか。しかし今は、いろんなことが隠されないで明るみに出る時代になりました。それはわたしたちにとっての大きなチャンスでもあります。
わたしたちは、本当は見たくも聞きたくもないようなことを知るようになりました。しかし、わたしたちが何かを知るということは、知ったことについての責任が生じるということでもあります。わたしたちは高齢者や幼い子どもたちの命が軽んじられていることを知った以上、わたしたちにできる何かをしなければならないのです。
しかし、わたしたちにできることは何でしょうか。高齢者や幼い子どもたちが住んでいる家を一軒一軒回って、それぞれの家庭でその人々の命が重んじられているかどうかを調べることでしょうか。そういうことをしても許される人と、許されない人がいると思います。そういうことは役所の人や、場合によっては警察の人のすることです。一般庶民には手が届かないことです。このあたりで私などはすっかり諦め気分になってしまうのですが、知った者には責任があるのです。自分にもできることは何かを探さなければなりません。
それで、今日のタイトルを思いつきました。「今こそ、『命の価値』を考える」としました。かなり腰の引けた言い方であることは自覚しています。「考える」ことくらいはできるだろうというわけです。実際の現場に踏み込む仕事は役所や警察の人にお任せするとして、そういう立場にないわたしたちとしては、いま起こっている問題の本質は何かを一生懸命「考える」ことから始めるしかないだろうと思った次第です。
前置きが長くなりました。もう一歩だけ先に進みます。わたしたちが教会でいつもおこなっていることは聖書を読むことです。聖書は古い書物です。大昔の本と言っても構いません。こういうものをわたしたちは、毎週日曜日や水曜日などに教会に集まって、こつこつ読んでいます。聖書を読みさえすれば軽んじられている命の一つでも助けることができるのかと問い詰められると、答えられません。教会のことを悪く思っている人たちの中には、そういうことをはっきりおっしゃる方もおられます。
しかし数年前のことですが、私はある方の言葉に「救われた」という思いを感じたことがあります。その方は現在、千葉大学法経学部の教授をしておられ、東京の教会に通っておられるクリスチャンの方です。正確な時期を言えば、忘れもしない、2003年3月21日のやりとりでした。・・・
(この続きは「今週の説教」にあります。ぜひお読みください。)
2010年10月17日日曜日
今こそ「命の価値」を考える
マタイによる福音書6・25~34
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしなさい。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
今日は、毎年恒例の、松戸小金原教会の秋の特別集会です。といいましても、この教会の皆さんにとっては見慣れた顔の私がお話ししますので、どこも「特別」なことはありません。その点はどうかお許しください。今日のために、教会のみんなでこの町にチラシを三千枚配布しました。わたしたちの願いは、この町の人々にこの教会が存在する理由と意味を知っていただくことです。わたしたちはこの町の人々のために何とかお役に立ちたいと願っています。そのことを今日は「特別」に強調してお話しいたします。その意味での「特別集会」でありたいと願っています。
今日のお話のタイトルに「今こそ、『命の価値』を考える」と付けさせていただきました。「今こそ」のところに強調があります。最近わたしたちが知ったことは、この国の各地にいわゆる「消えた老人」という問題があったということです。「老人」という表現そのものは今では失礼なものかもしれません。また、その人々は決して「消えた」わけではありません。すでに亡くなっておられたのに、役所への届け出がなされていなかっただけです。しかしそのことによって、すでに亡くなっておられる方々の年金が遺族に不当に支払われていたということで、大問題になっているのです。
また、これもごく最近のことですが、生まれたばかりの赤ちゃんや小さい子どもたちに食べさせることも飲ませることもせずに死なせてしまい、しかも部屋に閉じ込め、家の入り口にテープを貼って何日も放置したという悲しい出来事がありました。人の命を何だと思っているのかと腹が立つような事件でした。しかし、その親や家庭の事情を何も知らない私が、ひとりで腹を立てていても何の解決にもならないと思うと、虚しい気持ちにさせられました。
今はそういう時代であるとか、今より昔のほうがよかったというような言い方はしたくありません。昔はそうではなかったのでしょうか。昔は今ほど情報通信網が発達していなかったので、知らされなかっただけではないでしょうか。しかし今は、いろんなことが隠されないで明るみに出る時代になりました。それはわたしたちにとっての大きなチャンスでもあります。
わたしたちは、本当は見たくも聞きたくもないようなことを知るようになりました。しかし、わたしたちが何かを知るということは、知ったことについての責任が生じるということでもあります。わたしたちは高齢者や幼い子どもたちの命が軽んじられていることを知った以上、わたしたちにできる何かをしなければならないのです。
しかし、わたしたちにできることは何でしょうか。高齢者や幼い子どもたちが住んでいる家を一軒一軒回って、それぞれの家庭でその人々の命が重んじられているかどうかを調べることでしょうか。そういうことをしても許される人と、許されない人がいると思います。そういうことは役所の人や、場合によっては警察の人のすることです。一般庶民には手が届かないことです。このあたりで私などはすっかり諦め気分になってしまうのですが、知った者には責任があるのです。自分にもできることは何かを探さなければなりません。
それで、今日のタイトルを思いつきました。「今こそ、『命の価値』を考える」としました。かなり腰の引けた言い方であることは自覚しています。「考える」ことくらいはできるだろうというわけです。実際の現場に踏み込む仕事は役所や警察の人にお任せするとして、そういう立場にないわたしたちとしては、いま起こっている問題の本質は何かを一生懸命「考える」ことから始めるしかないだろうと思った次第です。
前置きが長くなりました。もう一歩だけ先に進みます。わたしたちが教会でいつもおこなっていることは聖書を読むことです。聖書は古い書物です。大昔の本と言っても構いません。こういうものをわたしたちは、毎週日曜日や水曜日などに教会に集まって、こつこつ読んでいます。聖書を読みさえすれば軽んじられている命の一つでも助けることができるのかと問い詰められると、答えられません。教会のことを悪く思っている人たちの中には、そういうことをはっきりおっしゃる方もおられます。
しかし数年前のことですが、私はある方の言葉に「救われた」という思いを感じたことがあります。その方は現在、千葉大学法経学部の教授をしておられ、東京の教会に通っておられるクリスチャンの方です。正確な時期を言えば、忘れもしない、2003年3月21日のやりとりでした。
その前日、3月20日にイラク戦争が始まりました。私はそのことを新聞やインターネットを通して知り、「この戦争は間違っている」と直感するものがあり、ものすごく焦るような気持ちになりました。実際に「人間の盾」となるためにイラク現地に出かけて行った人々までいるということも知りました。しかし私にはそのようなことができるわけではないと思い、そのことを苦にしていました。
その思いを私は、イラク戦争開始の翌日、その先生に伝えました。「戦争をやめさせるために『人間の盾』となりたいと自ら願い出る日本人もいれば、自分の子どもと平和に遊んでいる日本人もいる」。後のほうの「日本人」は私自身のことです。すると、その先生から次のような答えが返ってきました。「関口先生、それは、平和を『求めて動く』のか、平和を『味わう』のかの違いに過ぎず、いずれの場合にも平和という価値の大切さを前提にしたものではなかろうか……などと考えています」。
お名前を紹介してもよいでしょう。水島治郎先生という方です。東京大学の卒業生で、オランダのライデン大学への留学経験をお持ちです。年齢は私より二歳若い方です。オランダの政治システムについての研究を専門としておられるため、オランダの神学を少しかじっている私は今から8年くらい前に知り合いになり、それ以来、親しくしていただいています。
私は水島先生のお答えに感動し、また感謝しました。こんなふうに言ってくださる方がおられるということに感謝し、こういう考え方をしてもいいのだと知って感動しました。そして私は、そのとき同時に、これはどのような問題にも当てはまることであると確信するに至りました。そしてもちろん、今日の話にも当てはまることであると信じています。
どのように当てはまるのかと言えば、いちばん単純に言えば、水島先生の言葉の「平和」という字の部分を「命の価値」という字に置き換えることができるということです。次のとおりです。「命の価値を『求めて動く』のか、命の価値を『味わう』のかの違いに過ぎず、いずれの場合にも命という価値の大切さを前提にしたものではなかろうか」。
もちろん私は今、水島先生の言葉を引用することによって自分の無力さの言い訳をしたいわけではありません。水島先生も、そのような引用の仕方ならば間違っているとお考えになるでしょう。今日私が申し上げたいことは一つだけです。わたしたちは、命の価値を「考える」だけで何もしていないではないかということを苦にしなくてもよいということです。それは決して無駄なことでも虚しいことでもないということです。
もちろん傍から見れば、せいぜい脳みそを動かしているだけで、目と耳くらいは動いているかもしれないが、それ以上ではないというふうに見えるかもしれません。しかし、そのことが全く無意味なわけではないということです。命の価値を考えること、そして、そのことを考えるわたしたちが自分自身の命の価値を「味わう」ことを始めることができるならば、命の価値を「求めて動く」ことに匹敵するほどの何かを手にしているのだと信じてもよいのだということです。
そして、そのことならば、教会がいつもしていることだし、教会にもできることであると思います。「教会は何をしているのか。何もしていないではないか」と言われることを、私はひどく恐れているところがあるかもしれません。しかし、わたしたちが教会でいつもしていることの中に、ほんの少しでも「それは意味があることだ」と思ってもらえることがあるとしたら、うれしいことですし、そのために全力を注いでもよいと感じます。
わたしたちが教会でしていることは、先ほど申し上げましたとおり、聖書を読むことです。もちろんそこに賛美歌を歌うことと、祈りをささげることを加えなければならないことも分かっていますが、今日は割愛して、聖書のことだけに集中します。わたしたちは教会で、とにかく聖書を読んでいます。そして読むからには「読んでいることについて考えること」くらいは必ずしています。どれくらい「深く」考えることができているかは、人それぞれかもしれません。「私はちっとも考えていません」とおっしゃる方もおられるかもしれませんが、その方なりのことくらいは考えておられるはずです。まあ、これくらいにしておきますが。
そしてわたしたちが知っていることは、聖書の中に「命の価値」が強調されている個所はたくさんあるということです。聖書のすべてのページにそのことが必ず書かれてあるとまでは言えませんが、探すのに苦労はしません。今朝お読みしました個所も、聖書のなかに「命の価値」について書かれている代表的な個所であると言っても過言ではありません。
お読みしましたのは、わたしたちの救い主イエス・キリストがお語りになった言葉です。このときイエスさまがなさったことは、一言でいえば比較です。イエスさまは、人間の命の価値と、食べ物や飲み物や衣服、あるいは空の鳥や野の花などの価値とを比較なさった上で、人間の命の価値のほうが高いではないかと語っておられます。
皆さんの中には、イエスさまがなさっている比較は間違っているとお感じになる方がおられるかもしれません。食べ物や飲み物や衣服のようなものと人間の命とが比べられて、人間の命のほうが大切であると言われても、そんなことは当たり前だし、どうでもいいことだと。
私は仏教をよく知らないので批判するつもりは全くありません。「あなたはキリスト教だから当然仏教には批判的なのだろう」と思われているかもしれませんが、私は、自分が知らないことについての批判はしません。ただ、時々出席する仏教の葬式の中で読まれるお経をじっと聞いていますと、人間と動物を比較した上で「人間のほうがましなので、ありがたい」という意味の言葉が出てくることに気づかされて、変な気持ちになることがあります。私の聞き違いかもしれませんので、もし間違いならばお許しください。次元の違うもの同士が比較されて人間のほうが上だと言われても納得できないものがあると、私も感じます。
しかしイエスさまがおっしゃっていることは、いま申し上げた意味ではありません。イエスさまは確かに、全く違う次元のもの同士を比較しておられますし、人間の命の価値のほうが上であるとおっしゃっています。しかし結論が違います。
イエスさまの結論は、次の言葉です。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(31節)です。この言葉を裏返して言えば、わたしたち人間は食べ物や飲み物や衣服のことで悩みすぎる傾向がある、ということです。それらのものの価値が、まるでその人自身の命の価値よりも高いものであるかのように。
ちょっと待ってください、よく考えてくださいと、イエスさまはおっしゃっているのです。イエスさまは食べ物や飲み物や衣服には価値がないと言われているわけではありません。そんなくだらないもののために悩むとはけしからんと、見くだしたり腹を立てたりしておられるわけでもありません。
もしそのような話であるとしたら、最初に触れました、親から食べ物も飲み物も衣服さえ与えられずに亡くなった子どもたちに救いはありません。また、わたしたちが毎日苦労して働いて得ている収入のほとんどすべてが食べ物や飲み物や衣服のために消えていくことの意味が分からなくなってしまいます。わたしたちは、くだらない、どうでもいいことのために働いているのでしょうか。そのようなことをイエスさまから言われたら、今すぐでも人生を辞めたくなってしまいます。
しかし、決してそのようなことではありません。イエスさまがおっしゃっていることは確かに比較です。しかし、その意味は、食べ物や飲み物や衣服の価値を貶めることではなく、人間の命の価値はこの上なく高いということだけです。そして強いて言えば、もし悩むなら、人間の命の価値のために徹底的に悩みなさいということです。そのことをおろそかにして、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と、そちらのほうばかりを悩むことは、本末転倒であるとおっしゃっているのです。
そしてイエスさまはもう一つのことを語っておられます。それは、空の鳥を養ってくださり、野の花を美しく装ってくださる「神」という方がおられるということです。わたしたちは日々忙殺されて、そもそも「空の鳥」や「野の花」のことが目に入っていないかもしれません。わたしたちは顔を上げ、大きく視野を広げて、ふだん目に入っていないものをじっと見つめてみる必要があるかもしれません。
なるほど、鳥や花は、人間と同じような意味で汗水たらして働いているわけではなさそうです。また、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」などと頭を悩ませているわけでもないでしょう。しかし、それにもかかわらず、鳥たちはあれほどまで自由に飛び回り、花はあれほどまで美しく咲きほこっているではありませんか。
もしそうであるならば、同じ「神」によって造られた人間のことも「神」が必ず自由にしてくださり、美しく輝かせてくださるのです。「神」がわたしたち人間のことを放っておかれるはずはないのです。そのことを信じなさいと、イエスさまがおっしゃっているのです。
ですから、イエスさまは空の鳥や野の花の価値をおとしめているわけではありません。「キリスト教は環境破壊の元凶だ」と言われることには納得できません。イエスさまがおっしゃっていることは、人間の命の価値はこの上なく高いということだけです。
しかし、そのことをわたしたちは信じることができるでしょうか。何を信じればよいのかといえば、何よりも先に、自分自身の価値を信じることです。わたしの価値、あなたの価値を信じることです。水島先生の言葉をもう一度お借りすれば、自分の命の価値を「味わう」ことです。それはわたしたちが自由に喜んで楽しんで生きることです。
そのことができるときに初めてわたしたちは、自分以外の多くの人の命の価値を「求めて動く」ことができるようになるでしょう。
「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22・34、口語訳)と書かれているとおりです。
(2010年10月17日、松戸小金原教会 秋の特別集会)
2010年10月16日土曜日
繰り返すが、私はパソコン遊びをしているつもりはない
でも、気になることが・・・。
パソコンのスイッチを切る前に一応チェックして・・・とスカイプ(ビデオ通話ソフト)のアップデートを確認したところ、な、なんと新しいヴァージョンのプログラムがリリースされていました。さっそくダウンロードして開いてみたところ、な、な、なんと最新ヴァージョンのスカイプは「9人まで(!!)同時にビデオ通話ができるようになった」ようで!
もちろんすべて無料で!
私がずっと待っていたのは、これなんです。いま、かなり興奮しています(写真は「スカイプ5.0.0.152」のデフォルトビュー)。
一体いつ頃から「こういうの」を待っていたかといえば、山梨の教会で働いていた頃(1998年7月から2004年3月まで)です。私がインターネットを始めた初期の頃ですので、かれこれ10数年前になります。
当時はまだ東部中会に所属していました(現在は東部中会から分かれた東関東中会の住人です)。山梨での教会の牧師としての仕事は、とてもやりがいがあって、楽しいものでした。
しかし、嫌だったのは中会の活動でした。中会内のいろんな委員会のほとんどが東京で行われていたため、一回せいぜい2、3時間ほどの委員会に出席するだけのために、山梨・東京間をほとんど一日がかりで往復しなくてはなりませんでした。
とくに参ったのは、甲府・新宿間の中央本線特急(あずさ号、かいじ号)が原則一時間に一本しかないとか、いわゆる「振り子式」で知られるこの電車が八王子・大月間の山あいを高速で蛇行運転するときに感じる目まいや吐き気、など。
一つ一つの委員会が取り組んでいる議事の内容が重要なものであると分かれば分かるほど、その委員会への「出席」が必要不可欠であることが痛いほど分かるだけに、体力や気力との勝負で、涙が出ました。
あの苦しみから、もしかしたら、解放される、かもしれません。
あの無駄で過酷な時間を、なんとか節約したかった。ビデオ会議ができさえすれば(ただしすべて無料でなければ我々には手が届きません)かなり多くの問題が解決しそうなのに、と夢想していました。当時はまだインターネットを始めたばかりで、パソコンは(日本キリスト改革派教会の牧師としての初任給で購入した)富士通のFMVのミニタワーだったかな。Windowsはまだ98、Officeは97、「スカイプ」のことなどは存在も名前も知りませんでしたが。
昨日はTeam ViewerとLive Captureという二つのソフト(どちらも無料)をウェブ上で見つけてダウンロードしました。そしてそれらを、先日一応完成した自作デスクトップと、以前から使っていたデスクトップと、友人から「使わなくなったので」と譲り受けたネットブック(ミニノート)との計3台にインストールしました。
前者Team Viewerは、一言でいえば「パソコン遠隔操作ソフト」。そして後者Live Captureは、いわゆる「監視カメラソフト」です。
こんなふうに文字にするとなんだか物騒で怪しげな感じがしてきますが、私が求めていることはSF映画やスパイ映画さながらの曲芸ではなく、ただひたすら上記のこと、つまり、我々牧師たちが中会や大会の会議に伴う「物理的移動」によって体力や気力を消耗することから、どうしたら免れることができるかという一点だけです。
そもそもインターネットを使い始めた動機がそれでしたし、これまで書いてきた数万通に及ぶメールにしても、メーリングリストやホームページやブログやSNS(MixiやFacebookなど)にしても、最近はまっている(が警戒もしている)「クラウド」にしても、みな根っこが同じです。私はこれらを「教会と神学に関する会議のために」使いたかったし、使いたいだけなのです。
なぜ「パソコン遠隔操作ソフト」が「会議のために」必要なのかといえば、私が「クラウド」の仕組みを今一つ信用しきれないために、出張先から自宅のパソコンに直接アクセスして、必要なデータを獲得することができるようにするためです。
これは私にとっては、今はまだどの会議においても「物理的移動」が不可欠とみなされているゆえに必要になるツールであるわけで、近い将来にも「物理的移動」をしなくて済むビデオ会議が正式に導入されることになった日には「パソコン遠隔操作ソフト」なる怪しげなツールは不要になります。
また、「監視カメラソフト」が「会議のために」必要である理由は、「監視カメラ」と書くといかにも物騒な響きになってしまいますが、お互いの顔を見ながらオンラインで会議するためには「監視カメラ」(という表現はともかく)がどうしても必要になるではありませんか。ただそれだけです。
繰り返しになりますが、中会や大会の会議が扱っている問題は、どれもこれも、ものすごく重要なものです。私は今、中会の一つの委員会の委員長職にありますので、そのことは痛いほど分かっています。
しかし、だからこそ、それらの委員会に出席するために苦労している牧師たちの気持ちがよく分かります。中会や大会は、物理的な移動の義務から牧師たちを解放することが必要です。
前回のブログに「パソコン遊びをしているつもりはない」と書いた意図は、ここにもあります。牧師たちが、自分が遣わされ、仕えている教会に「もっと張り付いて」伝道することができるようにするために、インターネットを活用する必要がありますと、声を大にして主張したいのです。
「そんなに嫌でつらいなら、中会や大会になど出席しなければいいではないか。長老主義とか何とか面倒なことにこだわっているから、改革派教会は伝道が下手なんだよ」と言いたい人は、どうぞご自由に。私は無視しますけど。
2010年10月6日水曜日
「いかに低い出費で」を追求することも牧師の仕事だと思う
自慢しているわけでも何でもありませんが、私が今この文章を書くために使っているパソコンはデスクトップ型のものですが、これは未完成の自作品です。数ヶ月かけて一つ一つ部品を買い求めては、自分の手で組み立てて来ました。全く大したことではなく、今では多くの人が当たり前のように行なっていることですし、組み立て作業自体は簡単そのものです。まだ完成に至っていませんが、まもなく必要最低限が揃います。
CPUは、お手頃価格のIntel Celeronのデュアルコアを選びました。OS(オペレーティングシステム)はLINUX(UBUNTU)、ウェブブラウザはGoogle Chromeです。どちらも無料で公開されているものです。
自作パソコンとの出会いは、約10年前に実兄が私のために作ってくれたデスクトップが最初でしたが、こういうことがいとも簡単にできてしまう理系の実兄を「すごいなあ」と心から尊敬したものでした。このたび私が自作しているデスクトップのケースは、その最初に実兄が作ってくれたときのものを、中身を抜いてそのまま使っています。なので、ケースもいわば無料です。
ハードディスクは、いろいろ事情があって何年か前に買って持っていた、ノートパソコン用の2.5インチサイズのものを、3.5インチベイに固定して使っています。これもこのたび買い求めたものではなく、使い道が無くてお蔵入りしていたものでしたので、私にとっては事実上無料です。
新たに買い求める必要があったのは、上記のCPU、マザーボード、電源ボックス、メモリ(DDR3、2GB)、液晶モニタ、キーボード、マウスといったものです。このあたりは新品なので、ここまでで4万円くらいでしょうか。それをまとめて一度に買うと大変なので、今月はCPUだけとか、来月はマザーボードを買おうとか決めて組み立ててきたわけです。あとは、欲を言えばやはり、OSはWindows 7にしたいし、OfficeソフトはMicrosoftのものにしたいのですが、それを言い出すと、あと5万円ほどかかりますので、我慢、我慢。
LINUXを使うのは生まれて初めてですが、なかなか素晴らしいものだと分かりました。Skype(ビデオ電話)にも、Real Player(映像や音楽などの再生ソフト)にも、ちゃんとLINUX版があり、問題なく動きます。Officeソフトは、今のところはまだMicrosoft Officeの導入は無理ですので、無料で公開されているOpen Officeのものです。
まだ動かないのはプリンタです。わが家のプリンタ(CANON MP640)のLINUX版ドライバはCANONのホームページに公開されていましたが、それのインストールの仕方が私には分かりません。参考例をいろいろと検索しては見ているのですが、書いていること(専門用語)の意味を理解できず、立ち往生しています。
パソコン遊びをしているつもりはありません。牧師のウィークデーのデスクワークは、ほとんどすべてを自分一人で片付けていかざるをえませんので、猫の手などは決して借りたくありませんが、パソコンの手は借りたいです。そのため、「いかに低い出費でネット環境をより便利なものにしていくことができるか」を私なりに追求してきた末の、自作パソコンです。