2010年10月18日月曜日

今日は「秋の特別集会」でした

今日は松戸小金原教会「秋の特別集会」でした。講師は関口康。いま、心地よい疲れが残っています。



「今こそ、『命の価値』を考える」



マタイによる福音書6・25~34



http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2010-10-17.pdf (印刷用PDF)



「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしなさい。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」



今日は、毎年恒例の、松戸小金原教会の秋の特別集会です。といいましても、この教会の皆さんにとっては見慣れた顔の私がお話ししますので、どこも「特別」なことはありません。その点はどうかお許しください。今日のために、教会のみんなでこの町にチラシを三千枚配布しました。わたしたちの願いは、この町の人々にこの教会が存在する理由と意味を知っていただくことです。わたしたちはこの町の人々のために何とかお役に立ちたいと願っています。そのことを今日は「特別」に強調してお話しいたします。その意味での「特別集会」でありたいと願っています。



今日のお話のタイトルに「今こそ、『命の価値』を考える」と付けさせていただきました。「今こそ」のところに強調があります。最近わたしたちが知ったことは、この国の各地にいわゆる「消えた老人」という問題があったということです。「老人」という表現そのものは今では失礼なものかもしれません。また、その人々は決して「消えた」わけではありません。すでに亡くなっておられたのに、役所への届け出がなされていなかっただけです。しかしそのことによって、すでに亡くなっておられる方々の年金が遺族に不当に支払われていたということで、大問題になっているのです。



また、これもごく最近のことですが、生まれたばかりの赤ちゃんや小さい子どもたちに食べさせることも飲ませることもせずに死なせてしまい、しかも部屋に閉じ込め、家の入り口にテープを貼って何日も放置したという悲しい出来事がありました。人の命を何だと思っているのかと腹が立つような事件でした。しかし、その親や家庭の事情を何も知らない私が、ひとりで腹を立てていても何の解決にもならないと思うと、虚しい気持ちにさせられました。



今はそういう時代であるとか、今より昔のほうがよかったというような言い方はしたくありません。昔はそうではなかったのでしょうか。昔は今ほど情報通信網が発達していなかったので、知らされなかっただけではないでしょうか。しかし今は、いろんなことが隠されないで明るみに出る時代になりました。それはわたしたちにとっての大きなチャンスでもあります。



わたしたちは、本当は見たくも聞きたくもないようなことを知るようになりました。しかし、わたしたちが何かを知るということは、知ったことについての責任が生じるということでもあります。わたしたちは高齢者や幼い子どもたちの命が軽んじられていることを知った以上、わたしたちにできる何かをしなければならないのです。



しかし、わたしたちにできることは何でしょうか。高齢者や幼い子どもたちが住んでいる家を一軒一軒回って、それぞれの家庭でその人々の命が重んじられているかどうかを調べることでしょうか。そういうことをしても許される人と、許されない人がいると思います。そういうことは役所の人や、場合によっては警察の人のすることです。一般庶民には手が届かないことです。このあたりで私などはすっかり諦め気分になってしまうのですが、知った者には責任があるのです。自分にもできることは何かを探さなければなりません。



それで、今日のタイトルを思いつきました。「今こそ、『命の価値』を考える」としました。かなり腰の引けた言い方であることは自覚しています。「考える」ことくらいはできるだろうというわけです。実際の現場に踏み込む仕事は役所や警察の人にお任せするとして、そういう立場にないわたしたちとしては、いま起こっている問題の本質は何かを一生懸命「考える」ことから始めるしかないだろうと思った次第です。



前置きが長くなりました。もう一歩だけ先に進みます。わたしたちが教会でいつもおこなっていることは聖書を読むことです。聖書は古い書物です。大昔の本と言っても構いません。こういうものをわたしたちは、毎週日曜日や水曜日などに教会に集まって、こつこつ読んでいます。聖書を読みさえすれば軽んじられている命の一つでも助けることができるのかと問い詰められると、答えられません。教会のことを悪く思っている人たちの中には、そういうことをはっきりおっしゃる方もおられます。



しかし数年前のことですが、私はある方の言葉に「救われた」という思いを感じたことがあります。その方は現在、千葉大学法経学部の教授をしておられ、東京の教会に通っておられるクリスチャンの方です。正確な時期を言えば、忘れもしない、2003年3月21日のやりとりでした。・・・



(この続きは「今週の説教」にあります。ぜひお読みください。)