2010年10月17日日曜日

今こそ「命の価値」を考える


マタイによる福音書6・25~34

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしなさい。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

今日は、毎年恒例の、松戸小金原教会の秋の特別集会です。といいましても、この教会の皆さんにとっては見慣れた顔の私がお話ししますので、どこも「特別」なことはありません。その点はどうかお許しください。今日のために、教会のみんなでこの町にチラシを三千枚配布しました。わたしたちの願いは、この町の人々にこの教会が存在する理由と意味を知っていただくことです。わたしたちはこの町の人々のために何とかお役に立ちたいと願っています。そのことを今日は「特別」に強調してお話しいたします。その意味での「特別集会」でありたいと願っています。

今日のお話のタイトルに「今こそ、『命の価値』を考える」と付けさせていただきました。「今こそ」のところに強調があります。最近わたしたちが知ったことは、この国の各地にいわゆる「消えた老人」という問題があったということです。「老人」という表現そのものは今では失礼なものかもしれません。また、その人々は決して「消えた」わけではありません。すでに亡くなっておられたのに、役所への届け出がなされていなかっただけです。しかしそのことによって、すでに亡くなっておられる方々の年金が遺族に不当に支払われていたということで、大問題になっているのです。

また、これもごく最近のことですが、生まれたばかりの赤ちゃんや小さい子どもたちに食べさせることも飲ませることもせずに死なせてしまい、しかも部屋に閉じ込め、家の入り口にテープを貼って何日も放置したという悲しい出来事がありました。人の命を何だと思っているのかと腹が立つような事件でした。しかし、その親や家庭の事情を何も知らない私が、ひとりで腹を立てていても何の解決にもならないと思うと、虚しい気持ちにさせられました。

今はそういう時代であるとか、今より昔のほうがよかったというような言い方はしたくありません。昔はそうではなかったのでしょうか。昔は今ほど情報通信網が発達していなかったので、知らされなかっただけではないでしょうか。しかし今は、いろんなことが隠されないで明るみに出る時代になりました。それはわたしたちにとっての大きなチャンスでもあります。

わたしたちは、本当は見たくも聞きたくもないようなことを知るようになりました。しかし、わたしたちが何かを知るということは、知ったことについての責任が生じるということでもあります。わたしたちは高齢者や幼い子どもたちの命が軽んじられていることを知った以上、わたしたちにできる何かをしなければならないのです。

しかし、わたしたちにできることは何でしょうか。高齢者や幼い子どもたちが住んでいる家を一軒一軒回って、それぞれの家庭でその人々の命が重んじられているかどうかを調べることでしょうか。そういうことをしても許される人と、許されない人がいると思います。そういうことは役所の人や、場合によっては警察の人のすることです。一般庶民には手が届かないことです。このあたりで私などはすっかり諦め気分になってしまうのですが、知った者には責任があるのです。自分にもできることは何かを探さなければなりません。

それで、今日のタイトルを思いつきました。「今こそ、『命の価値』を考える」としました。かなり腰の引けた言い方であることは自覚しています。「考える」ことくらいはできるだろうというわけです。実際の現場に踏み込む仕事は役所や警察の人にお任せするとして、そういう立場にないわたしたちとしては、いま起こっている問題の本質は何かを一生懸命「考える」ことから始めるしかないだろうと思った次第です。

前置きが長くなりました。もう一歩だけ先に進みます。わたしたちが教会でいつもおこなっていることは聖書を読むことです。聖書は古い書物です。大昔の本と言っても構いません。こういうものをわたしたちは、毎週日曜日や水曜日などに教会に集まって、こつこつ読んでいます。聖書を読みさえすれば軽んじられている命の一つでも助けることができるのかと問い詰められると、答えられません。教会のことを悪く思っている人たちの中には、そういうことをはっきりおっしゃる方もおられます。

しかし数年前のことですが、私はある方の言葉に「救われた」という思いを感じたことがあります。その方は現在、千葉大学法経学部の教授をしておられ、東京の教会に通っておられるクリスチャンの方です。正確な時期を言えば、忘れもしない、2003年3月21日のやりとりでした。

その前日、3月20日にイラク戦争が始まりました。私はそのことを新聞やインターネットを通して知り、「この戦争は間違っている」と直感するものがあり、ものすごく焦るような気持ちになりました。実際に「人間の盾」となるためにイラク現地に出かけて行った人々までいるということも知りました。しかし私にはそのようなことができるわけではないと思い、そのことを苦にしていました。

その思いを私は、イラク戦争開始の翌日、その先生に伝えました。「戦争をやめさせるために『人間の盾』となりたいと自ら願い出る日本人もいれば、自分の子どもと平和に遊んでいる日本人もいる」。後のほうの「日本人」は私自身のことです。すると、その先生から次のような答えが返ってきました。「関口先生、それは、平和を『求めて動く』のか、平和を『味わう』のかの違いに過ぎず、いずれの場合にも平和という価値の大切さを前提にしたものではなかろうか……などと考えています」。

お名前を紹介してもよいでしょう。水島治郎先生という方です。東京大学の卒業生で、オランダのライデン大学への留学経験をお持ちです。年齢は私より二歳若い方です。オランダの政治システムについての研究を専門としておられるため、オランダの神学を少しかじっている私は今から8年くらい前に知り合いになり、それ以来、親しくしていただいています。

私は水島先生のお答えに感動し、また感謝しました。こんなふうに言ってくださる方がおられるということに感謝し、こういう考え方をしてもいいのだと知って感動しました。そして私は、そのとき同時に、これはどのような問題にも当てはまることであると確信するに至りました。そしてもちろん、今日の話にも当てはまることであると信じています。

どのように当てはまるのかと言えば、いちばん単純に言えば、水島先生の言葉の「平和」という字の部分を「命の価値」という字に置き換えることができるということです。次のとおりです。「命の価値を『求めて動く』のか、命の価値を『味わう』のかの違いに過ぎず、いずれの場合にも命という価値の大切さを前提にしたものではなかろうか」。

もちろん私は今、水島先生の言葉を引用することによって自分の無力さの言い訳をしたいわけではありません。水島先生も、そのような引用の仕方ならば間違っているとお考えになるでしょう。今日私が申し上げたいことは一つだけです。わたしたちは、命の価値を「考える」だけで何もしていないではないかということを苦にしなくてもよいということです。それは決して無駄なことでも虚しいことでもないということです。

もちろん傍から見れば、せいぜい脳みそを動かしているだけで、目と耳くらいは動いているかもしれないが、それ以上ではないというふうに見えるかもしれません。しかし、そのことが全く無意味なわけではないということです。命の価値を考えること、そして、そのことを考えるわたしたちが自分自身の命の価値を「味わう」ことを始めることができるならば、命の価値を「求めて動く」ことに匹敵するほどの何かを手にしているのだと信じてもよいのだということです。

そして、そのことならば、教会がいつもしていることだし、教会にもできることであると思います。「教会は何をしているのか。何もしていないではないか」と言われることを、私はひどく恐れているところがあるかもしれません。しかし、わたしたちが教会でいつもしていることの中に、ほんの少しでも「それは意味があることだ」と思ってもらえることがあるとしたら、うれしいことですし、そのために全力を注いでもよいと感じます。

わたしたちが教会でしていることは、先ほど申し上げましたとおり、聖書を読むことです。もちろんそこに賛美歌を歌うことと、祈りをささげることを加えなければならないことも分かっていますが、今日は割愛して、聖書のことだけに集中します。わたしたちは教会で、とにかく聖書を読んでいます。そして読むからには「読んでいることについて考えること」くらいは必ずしています。どれくらい「深く」考えることができているかは、人それぞれかもしれません。「私はちっとも考えていません」とおっしゃる方もおられるかもしれませんが、その方なりのことくらいは考えておられるはずです。まあ、これくらいにしておきますが。

そしてわたしたちが知っていることは、聖書の中に「命の価値」が強調されている個所はたくさんあるということです。聖書のすべてのページにそのことが必ず書かれてあるとまでは言えませんが、探すのに苦労はしません。今朝お読みしました個所も、聖書のなかに「命の価値」について書かれている代表的な個所であると言っても過言ではありません。

お読みしましたのは、わたしたちの救い主イエス・キリストがお語りになった言葉です。このときイエスさまがなさったことは、一言でいえば比較です。イエスさまは、人間の命の価値と、食べ物や飲み物や衣服、あるいは空の鳥や野の花などの価値とを比較なさった上で、人間の命の価値のほうが高いではないかと語っておられます。

皆さんの中には、イエスさまがなさっている比較は間違っているとお感じになる方がおられるかもしれません。食べ物や飲み物や衣服のようなものと人間の命とが比べられて、人間の命のほうが大切であると言われても、そんなことは当たり前だし、どうでもいいことだと。

私は仏教をよく知らないので批判するつもりは全くありません。「あなたはキリスト教だから当然仏教には批判的なのだろう」と思われているかもしれませんが、私は、自分が知らないことについての批判はしません。ただ、時々出席する仏教の葬式の中で読まれるお経をじっと聞いていますと、人間と動物を比較した上で「人間のほうがましなので、ありがたい」という意味の言葉が出てくることに気づかされて、変な気持ちになることがあります。私の聞き違いかもしれませんので、もし間違いならばお許しください。次元の違うもの同士が比較されて人間のほうが上だと言われても納得できないものがあると、私も感じます。

しかしイエスさまがおっしゃっていることは、いま申し上げた意味ではありません。イエスさまは確かに、全く違う次元のもの同士を比較しておられますし、人間の命の価値のほうが上であるとおっしゃっています。しかし結論が違います。

イエスさまの結論は、次の言葉です。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(31節)です。この言葉を裏返して言えば、わたしたち人間は食べ物や飲み物や衣服のことで悩みすぎる傾向がある、ということです。それらのものの価値が、まるでその人自身の命の価値よりも高いものであるかのように。

ちょっと待ってください、よく考えてくださいと、イエスさまはおっしゃっているのです。イエスさまは食べ物や飲み物や衣服には価値がないと言われているわけではありません。そんなくだらないもののために悩むとはけしからんと、見くだしたり腹を立てたりしておられるわけでもありません。

もしそのような話であるとしたら、最初に触れました、親から食べ物も飲み物も衣服さえ与えられずに亡くなった子どもたちに救いはありません。また、わたしたちが毎日苦労して働いて得ている収入のほとんどすべてが食べ物や飲み物や衣服のために消えていくことの意味が分からなくなってしまいます。わたしたちは、くだらない、どうでもいいことのために働いているのでしょうか。そのようなことをイエスさまから言われたら、今すぐでも人生を辞めたくなってしまいます。

しかし、決してそのようなことではありません。イエスさまがおっしゃっていることは確かに比較です。しかし、その意味は、食べ物や飲み物や衣服の価値を貶めることではなく、人間の命の価値はこの上なく高いということだけです。そして強いて言えば、もし悩むなら、人間の命の価値のために徹底的に悩みなさいということです。そのことをおろそかにして、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と、そちらのほうばかりを悩むことは、本末転倒であるとおっしゃっているのです。

そしてイエスさまはもう一つのことを語っておられます。それは、空の鳥を養ってくださり、野の花を美しく装ってくださる「神」という方がおられるということです。わたしたちは日々忙殺されて、そもそも「空の鳥」や「野の花」のことが目に入っていないかもしれません。わたしたちは顔を上げ、大きく視野を広げて、ふだん目に入っていないものをじっと見つめてみる必要があるかもしれません。

なるほど、鳥や花は、人間と同じような意味で汗水たらして働いているわけではなさそうです。また、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」などと頭を悩ませているわけでもないでしょう。しかし、それにもかかわらず、鳥たちはあれほどまで自由に飛び回り、花はあれほどまで美しく咲きほこっているではありませんか。

もしそうであるならば、同じ「神」によって造られた人間のことも「神」が必ず自由にしてくださり、美しく輝かせてくださるのです。「神」がわたしたち人間のことを放っておかれるはずはないのです。そのことを信じなさいと、イエスさまがおっしゃっているのです。

ですから、イエスさまは空の鳥や野の花の価値をおとしめているわけではありません。「キリスト教は環境破壊の元凶だ」と言われることには納得できません。イエスさまがおっしゃっていることは、人間の命の価値はこの上なく高いということだけです。

しかし、そのことをわたしたちは信じることができるでしょうか。何を信じればよいのかといえば、何よりも先に、自分自身の価値を信じることです。わたしの価値、あなたの価値を信じることです。水島先生の言葉をもう一度お借りすれば、自分の命の価値を「味わう」ことです。それはわたしたちが自由に喜んで楽しんで生きることです。

そのことができるときに初めてわたしたちは、自分以外の多くの人の命の価値を「求めて動く」ことができるようになるでしょう。

「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22・34、口語訳)と書かれているとおりです。

(2010年10月17日、松戸小金原教会 秋の特別集会)