2010年1月21日木曜日
勝間和代・香山リカ(共著)『勝間さん、努力で幸せになれますか』を絶賛します
なんと、その共著がこのたび出ました。それが出ているということを一昨日知り、すぐにAmazonに注文しましたら、昨日届き、二時間で読み終えました。それが今、私の手元にあります。勝間和代・香山リカ(共著)『勝間さん、努力で幸せになれますか』(朝日新聞出版、2010年、定価1000円+税)です。
日本語としてはおかしい言い方ですが、「びっくりするほど面白い本」です。まだ読んでおられない方に心からお薦めいたします。今年はまだ始まったですが、2010年の「ベスト・ブック・オブ・ザ・イヤー」に推薦したいくらいです。
発行年月日が「2010年1月30日」となっている、まだ出ていないはずの(ちなみに今日は2010年1月20日です)、ともかく刷りたてホヤホヤの本ですので、ネタバレのようなことを書くのは控えますが、読後の第一声としては、「議論としては、ほとんど香山さんの勝ち。しかし、勝間さんの気持ちも痛いほど分かる」というものです。
あとは、香山さんの側に、ウソをついているとまでは言いませんが、故意に言わないでいるか、または明らかにトボケておられるところがあるのに、その点に勝間さんがちっとも突っ込もうとなさらないのは、勝間さんの優しさゆえなのか、無頓着ゆえなのか、むき出しの対抗意識ゆえなのかが分からないと感じました。
それは何のことかを具体的に書き始めるとネタバレの域に入ってしまいそうなので、詳しくは書けません。しかし、一言だけ。
香山さんは私などから見れば今でも(は余計ですが)相当美人に見えるし(私の妻ほどではありませんがとも書いておきます)、テレビや雑誌といったメディアへの露出はほとんど毎日という時期もありました。その香山さんが終始、精神科医としてのお立場から患者さんたちの立場を代弁して、本書のタイトルのとおり、「勝間さん、努力で幸せになれますか?(なれないのではありませんか?)」と問うておられるわけですが、そのようにお問いになる香山さん自身は、勝間さんと同じくらいか、あるいは勝間さんに勝るとも劣らないほどの「努力」を重ねてこられたに違いないと、遠目からは見えるのです。
これから先のことを書き始めると、書いている私自身がとても貧相な人間に思えてくるわけですが、香山さんのような方が「私は努力などしたことがない」とおっしゃると、「努力」の定義が違うんだなと改めて思い知らされます。全体重をかけても動かない石があると思っている私と、その同じ石を小指の先で動かすことができる方とがいる。ある人にとっての「努力」は、他の人にとっては「努力」と呼ぶに値しない。このことも厳然たる事実なのでしょう。
もし「努力なんかしなくても医者になれましたし、大学教授にもなれました」とかいう人がいるとしたら(香山さん自身がそんなふうにおっしゃっているわけではないのですが)、その人の言葉は話半分に聞いておくのが賢明だと、自分は凡人だと自覚している人ならば誰でも思います。苦しみ悩んでいる受験生たちや就活中の学生たちは、敵意をあらわにするか、底なしの絶望を味わうかのどちらかでしょう。香山さんは、まるで「勝間本」がご自分の患者の病気の原因であるかのように言ってしまっておられるところもないわけではありませんが、逆の面もあるのではないでしょうか。脱力系の(ふりをしている)「香山本」も、その点では同罪ではないか。
そういうことも、香山さん自身が「あとがきにかえて」の中に自嘲的に「上昇の勝間さん、下降のカヤマ」とお書きになっていますので、十分に自覚されているご様子です。「下降」とは、昇りつめたことがある方だけに語りうることですので。年齢が八つ離れていること(香山さんのほうが勝間さんよりも上)も関係あるかもしれません。10年くらい前の(売り出し中の)香山さんは十分な意味で「上昇の香山さん」だったのではありませんか。ご自覚がどうだったかはともかく、遠目にはそのように見えていましたけど。
そして「上昇の勝間さん」の場合、その上昇方法が、実にチープで(貧乏くさくて)、オタクで、みっともない(と最初は多くの人からそう見られていた)「インターネット」というこの手段であったということが、私にとっては称賛に値すると思っている点です。
ここから先に書くことはただの憶測ですが、勝間さんよりも八才年上の香山さんの売り出し中(一昔前ということになります)は、インターネットなしで戦うことを余儀なくされたので、いきなりテレビや雑誌などに(恐らくは嫌々ながら)露出せざるをえなかった。しかしそのような登場の仕方は、きわめて門戸が狭く、ラッキーや偶然の要素が少なくないので(テレビや雑誌に出たくても出られないと思っている人たちは山ほどいるわけでして)、「私が歩んできた道は自分の努力によって切り開いてきたものではない」と振り返ることができるし、そう言わざるをえない。
ところが、勝間さんの場合は、「(たぶん最初はファックス通信あたりから→)パソコン通信→メール→メーリングリスト→ブログ→単著→雑誌→(携帯とかツィッターとか)→テレビ」というステップを、すべて踏んでいくことができた。
そこで行われたことは、自分で文字を書き、自分で自分を宣伝し、多くの人々に自分を売り込むということです。すべては「自作自演」です。「はい、そのとおりです。私のしていることは自作自演ですが何か?」と臆面もなく明言できるのが、インターネットの強みでもあります。誰のプロデュースも要らない。お笑い芸人さんたちが苦労しているように見える面倒な師弟関係も一切ない。誰にも迷惑をかけてきた憶えはない代わりに、自分で文字を書くことに関しては誰からも助けてもらえない。自分の足で本を買いに行き、自分の手で辞書を引き、自分の目と心で読み、自分の字と言葉で書き、自分の口で語る。これを勝間さんは「自立」とか「努力」などと呼ばざるをえなかったのではないか。恥も外聞も捨てて(愛する配偶者や子どもたちに背中を向けて)「パソコンの前での自作自演」をとことんまでやり抜いてきた者たちには、勝間さんの気持ちが痛いほど分かります。
「世のカツマー(勝間さんの信奉者のこと)が、勝間さんのことをいくら真似しても、勝間さんのようになれない、成功しない、幸せになれないと悩んでいる。そういう人が私の患者の中にもいる」と香山さんは繰り返し言っておられますが、その人々が勝間さんほど徹底的な仕方でインターネット的「自作自演」を乗り越えてこられたのかどうかを知りたいところです。そこが足りないとしたら勝間さんを真似したことになりません。勝間さんは最初から最後まで(まだ終わっていませんが)「私の今あるはインターネットのおかげ」という一点を貫いておられますから。
これも11月9日の日記に書いたことの繰り返しですが、私の夢は、ファン・ルーラーについての翻訳と解説についての本を出版して、それの書評を香山リカ先生に書いていただき、朝日新聞で紹介していただくことです。最近の(と言ってよいのかな)香山先生のご関心が「ヒューマニズムの究極的根拠」というあたりにおありのようですので、それならファン・ルーラーの出番なんだけどなと、大いに意気込んでおります。
勝間さんと個人的にお知り合いになりたいとは思いませんが(キリスト教に関しては敬遠気味のご様子で、話題に共通点がなさそうですので)、「インターネットの活用方法」については、これからも大いに参考にさせていただきたいと願っています。
2009年12月22日火曜日
いわゆる教会用語について
なぜ彼らがそういうことを言っていたのか、その理由までは憶えていませんが、クリスチャン(Christian)がともかく英語であることだけは確かなことですから、アングロサクソン的な背景を感じさせる言葉であることは間違いないわけで、「鬼畜米英」(不快語、すみません)とか言っていた世代の人々が、軍部から禁止されていたカタカナを使わずに「基督者」と書いていたころの“伝統”を重んじたい人々がそういうことを言っていたのではないだろうかと、今となっては思います。ドイツ語の神学を重んじたい人々が「クリステン」と言いたかったので「クリスチャンと言うな」と主張していたのかどうかは分かりません(これは半分ジョークです)。
私自身は「どちらでもいい」という立場ですが、「クリスチャンとは言うな。キリスト者と言え」と強く言い渡す教師に囲まれて青春時代を過ごしましたので、もしクリスチャンと言う場合は「ク、クリスチャ」と、どもってしまいます。私には幼い頃から強度の吃音(いわゆる「どもり」)がありましたが、それとは関係なく、です。
ただ、「ノンクリスチャン」(「ノンクリ」と略すのも含む)とか「未信者」とかいう言葉を聞くと、激しく抵抗したくなる気持ちを抑えられなくなります。「ノン」(非)にせよ「未」にせよ、他人の存在にノー(No)を突き付けているわけですから。信仰を持って生きている人々とそうでない人々を区別することが間違っているわけではありませんが、「ノン」(非)とか「未」とかそういうことを言わないでも済む、もうちょっとましな言葉は無いのかと言いたくなります。
しかし、「求道者」という言葉は嫌いです。その方自身が「私はこの道を求めています」とおっしゃっているならともかく、何回か礼拝に出席した人を、統計上「求道者」というカテゴリーに分類するというのも、なんだか失礼な感じです。分類が失礼だと言いたいのではなく「求道者」という日本語が失礼だと言いたいのです。すでに多くの人が言っていることだと思いますが、日本の教会の日本語のセンスは、全くでたらめです。
「母教会」(ぼきょうかい)という言葉にも疑問を感じます。どうして「母」であって「父」でないのかも考えさせられますが(どうして「父教会」ではいけないのでしょうか)、それ以上に疑問を持つことは、人生で最初に通い始めた(というに過ぎない)教会を、どうして「母」扱いして、いつまでも重んじ続けなければならないのかという点です。自分の意思とは関係なく、生まれる前から親が通っていた教会だったので、そこで幼児洗礼を受けた(だけの)教会。あるいは、地理的・物理的にそこ以外の教会に通う可能性がなかったのでそこで洗礼を受けた(だけの)教会が、なぜ「母」なのか。
すでに用いられている表現でいえば「出身教会」で良いのではないでしょうか。この表現で私の良心のギリギリです。「母教会」という言葉は、私の幼い頃のトラウマに触れるものです。私にとっての「出身教会」は忘れたい過去です。同じような言葉を私が牧師をしてきた教会に向かって投げつける人がいると私はショックを受けますが(実際にそういう人がいますと言っているのではありません)、しかし、そのように言いたくなる人の気持ちはよく分かります。
転勤の多い親のもとに生まれた子どもたちの中には、自分自身は見たことも行ったこともない地の「出身者」だったりして、そのことが履歴書とかを書かなければならない頃になると、このたぐいのことはいつまでも付きまとい続けるものだと分かって悩みの種になる人もいます。ちなみに私は「岡山市出身」ですが、妻は「東京都出身」であり、長男は「高知県出身」であり、長女は「神戸市出身」です。傍目には「この一家はいったいナニジンなんだ?」と思われることでしょう。
「こいつは、どこの生まれだ?どんな家の出だ?出てきた学校はどこで、誰のどんな影響を受けてきたやつだ?」という目は教会の中でも(教会の中でこそ?)強く働く面があることを否定できません。しかし、どう考えてもあまり気持ちのよいものではありませんので、なるべく抑えるべきだと私は考えています。
加えて、「修養会」も圧倒的にダメな日本語です。初めて参加するような方々に「あのー、主催者様は私メに何をさせたがっておられるんですか?」と独特の恐怖心を与えてしまうものです。もちろん、だからといって「キャンプ」とか「リトリート」とかカタカナを使って言えばよいというわけでもありませんけれど。
また、どこか特定の教会を念頭に置いて書くわけではありませんが、「バイブルクラス」とか「プレイズワーシップ」などとカタカナで書いている教会の看板を見ると、昔ながらの「聖書研究会」とか「賛美礼拝」でどうしていけないのかと疑問を感じます。
クリスチャン(Christian)と言う人は、ジーザスとかポールとかメアリーとか、宗教改革者たちについてはルーサー(Luther)とかキャルヴィン(Calvin)などと発音しなくては筋が通りません。そういう喋り方をする日本人の説教者もいないわけではありませんが、聞いているうちにだんだん不愉快になってくるものがあります。
私自身はいわゆるエスペラント主義のようなものには懐疑的です。それぞれが自分の母語にしっかり立って語ることがいちばん良いと考えています。「しっかりと考えるときは誰でも母語で考える」という山岡洋一さんの言葉を引用しながら書いたことがあります。とくに「説教」は、きちんとしたものであろうとするならば、母語でしか語ることができないと、私には思えます。我々が母語以外の言葉、たとえば英語で無理に説教などすると、どんなに流暢な発音で、正確な文法に従って語りえたとしても、内容的な深みに乏しい、幼稚な説教にしかならないと思うからです。
逆も然り、かもしれない。とても親しくしていただいている宣教師も大勢いますので彼らの悪口を言うつもりはありませんが、彼らがどれほど一生懸命日本語を勉強しても、彼らの日本語の説教は、彼らが各人の母語(たとえば英語など)で行う説教よりも、かなりクオリティが落ちてしまう。これは仕方がないことです。
良い例ではないかもしれませんが、昨年2008年12月10日にオランダで行われた「国際ファン・ルーラー学会」には、私の知るかぎりオランダ人、ドイツ人、南アフリカ人、アメリカ人、そして日本人の我々が集まっていました。それ以外の国のことは分かりません。そのような場で、驚いたことに、通訳はおらず、レジュメの一枚も配られませんでした。そして、各人はそれぞれの母語で発言する。オランダ人はオランダ語で、ドイツ人はドイツ語で、南アフリカ人はアフリカーンス語で、アメリカ人は英語で。ところが、なんと、それで十分にディスカッションが成り立っていました。さすがに我々は日本語でしゃべる勇気はありませんでしたが。
とはいえ、この日のアムステルダム自由大学の講堂に集結した約二百名中かなりの人々はドクターレベルのプロフェッサーだったわけですし、もともとオランダはバイリンガル、トリリンガルくらいは当たり前の国だそうですから、あまり参考にはなりません。
私が考えていることは、日本の教会で長らく使われてきた教会用語の中には明らかに不適切なものがあり、また明らかに「翻訳に失敗しただけの言葉」があり、修正や変更が可能であり、あるいは速やかな修正や変更を迫られていると思われるにもかかわらず、それの修正や変更を行うことが、まるで“不信仰なこと”や“冒涜的なこと”であるかのように思われることがある、ということです。
大胆に手をつけていこうではありませんか。たとえば、我々は一体、いつまで1890年訳の「主の祈り」を使い続けていくつもりなのでしょうか。二世紀も前のものを。「常に改革し続ける教会」(エクレシア・センペル・レフォルマンダ)が二世紀前の主の祈りを祈り続けている姿は滑稽というしかありません。しかし、これはまだわたしたちの教会でも変更できていません。
何にせよ、言葉をめぐる状況は、すぐに変わっていくものではなく時間がかかりますが、根本的に見直さなくてはならないときが来ていると思っています。
2009年12月9日水曜日
わが心、いまだ折れず
背丈で子どもたちに負けそうになっているのに(長男には追い越された)、いつまでも子どもじみた言動のままでは、格好がつかない。露出度を低め、神秘性を高めていくことも、作戦としてありうる(それが何の作戦なのだかは定かではない)。
まもなく年末であることが、そういうことを考えてしまう理由かもしれない。今気づいたことだが、今月末でこのブログの開設から満二年を迎える。鉛筆とノートで構成された「日記」というものが小学生の頃から三日坊主であり続けた人間がずっと抱き続けたコンプレックスは、自分の言動を字にして書き残すことができないことだった。
ブログも続くはずがないと思っていた。それが二年も続いてしまったこと、もとい、それ「を」二年も「続けて」しまったことに、いささかの後悔がないわけではない。
少し前までは自分のことを書くのがストレス発散になっていたが、最近は、書けば書くほどストレスを溜めこむ感じだ。近況としては、とりあえずこれまで掘り当ててきた財宝の真贋判定をしていくことで手一杯で、新しい財宝を探しに行く意欲は減退してきている。
しかし、いま感じているのは、単純な「否定的な」気持ちではない。数年前に亡くなった同世代の女性歌手自身が書いて歌った詞、「もう泣かないで やっと夢がかなった」(曲名はForever You)と言える段階に近づいてきた証拠ではないかと思うことにしている。
言い方は変かもしれないが、私は本当にただ「牧師になりたかった」だけなのだ。このことは、私を知っている人は皆知っている。なりたかったものになれた。これ以上の何も私にはない。
牧師には、出世だの昇進だのは一切ない。能力や経験年数の違いはあるが、その手のものは時間と労力を注いで手に入れていけばよいのであって、今それが自分の手のうちに無いことを卑屈に思うことは何もない。
こういうことを書くと、何か自分に言い聞かせようとしているのかと思われることがあるのだが、別にそういうことではない。本当にそうではない。そういうことではないのだ。
ただ、今年一年はつらいことが多かった。とても恥ずかしい話だが、日曜日(12月6日)、説教直前の賛美歌を歌っている最中に、どうしてだろう、説教壇を前にして、涙がにじむ。「ああ、今年も無事にアドベントを迎えることができた」と思った瞬間、体から力が抜けた。
「おいおい、ちょっと待て。涙するのはまだ早い」ともう一人の自分が叱り飛ばし、ようやく説教原稿を読み始めることができた。
ジャスト一年前の昨日(2008年12月8日)、生まれて初めてオランダの地を踏むことができた。もし一年前にオランダへ行っていなかったら、今年の私は踏ん張りがきかなかったと思う。心折れずに済んだ。その意味で、行ってよかったと感謝している。
2009年12月3日木曜日
最近、朝日新聞が面白いです
今朝の紙面には「今の日本には、かつての丸山眞男氏のようなグランドデザインを描くことができる人がいない」と嘆く宮崎哲弥氏が登場しました。宮崎氏単独ではなく、四者の対談でしたけど。
そうそう、これこれと膝を打ちました。「グランドデザイン」です。政治や経済、家庭や宗教、これらすべての共通土台となるもの。そのような土台を築き上げるための構想力。こういう適切な言葉がなかなか思い浮かばないので困っています。「さすが宮崎氏」と称賛すべきところですが、「また朝日新聞に教えられました」とも言っておきます。
この「グランドデザイン」なるものを、かつてなら、なるほどたしかに、丸山眞男氏なり大塚久雄氏なりが描いていたのでしょう。
そして改めて思い起こすことは、丸山氏と大塚氏の共通点がマックス・ヴェーバー研究者(好きでない表現で言えば「ヴェーバー学者」)であったということです。私は丸山氏の本はいまだに全く読んだことがなく、読む気もしないのですが、大塚氏の本なら、たしなみ程度に読んできました。お二人の共通点を短く言えば「現代社会とは要するに何なのであり、これから人類は要するにどこに向かっていくべきなのか」ということを端的に語りきることができる視座をもっていた人々。そう、まさしく「グランドデザインの描出ができた人々」です。
ところが、すでに広く知られているとおり、ヴェーバーの「犯罪」を暴いたのが羽生辰郎先生です。「ヴェーバー学者」からの有効な反論が聞こえてこない以上、羽生先生の議論は正しいと認めざるをえません(羽生辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』、『学問とは何か』参照)。
しかし他方、羽生氏登場以前の「ヴェーバー学」が有していた「グランドデザイン描出力」そのものは、今日ますます必要とされているのではないかということを、宮崎氏の発言を読みながら思わされました。
とすれば、新しい時代に求められている知的作業の一つは、「ヴェーバー学の継承」というよりも、ヴェーバー自身もそれの分析と解釈のために労苦したところの「プロテスタンティズム」ないし「カルヴィニズム」の全体像を、もう一度真剣に見直してみることではないでしょうか。「それは果たして本当に小沢一郎氏が言うほど排他的なものなのか」と問いながらでも構いません。
先日も書きましたように、オランダのキリスト教民主党(CDA)党首にしてオランダ国王首相であるヤン・ペーター・バルケネンデ氏が、慶應義塾大学名誉博士称号授与式で、「アブラハム・カイパーと福澤諭吉」というタイトルをつけても良さそうな内容のかなり長文の挨拶を行いました。バルケネンデ氏は、20世紀初頭のオランダで同国史上初めて結党されたキリスト教民主党(党名は「反革命党」)の党首としてオランダ国王首相になったプロテスタント神学者アブラハム・カイパーが果たした役割と、日本において福澤氏が果たした役割との共通点を熱心に語りました。
ちなみに、このバルケネンデ氏は、先日行われた欧州連合(EU)初代大統領選挙の際の候補者の一人でしたが、「米国寄り」と見られて落選しました。しかし、「米国寄り」であるという評価は、欧州では非難の対象かもしれませんが、日本では逆でしょう。
このように申し上げる私が今とにかく願っていることは、日本の政治家や思想家たちにはどうか、バルケネンデ氏が日本人向けに語った「アブラハム・カイパーの意義」という点に注目していただきたいということです。
カイパーがアメリカのプリンストンで行った有名な講演「カルヴィニズム」(1898年)こそが、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904年~1905年)の成立に決定的な影響を与えたのです。日本の「ヴェーバー学者」が受け継いだグランドデザイン描出力は、歴史を遡ればカイパーに由来するものだと分かります。
ただし、カイパー自身は「グランドデザイン」とは言わず「人生観・世界観」(levens- en wereldbeschouwingen)という古めかしい言葉を用いました。その前に「有神的」(theistisch)という形容詞を付して、「有神的人生観・世界観」と言ったのです。また、この「人生観・世界観」が、プリンストンでの講演においては「生活原理」(life-systems)と英訳されました。しかし「人生観・世界観」にせよ「生活原理」にせよ、「グランドデザイン」と言い換えても内容は全く同じです。
しかしだからといって私は「カイパー主義者になること」を多くの人に勧めたいのではありません。それどころかカイパーの描いたグランドデザインである「有神的人生観・世界観」というものの問題性を鋭く見抜き、徹底的に批判すべきであると考えています。
しかし、カイパーのそれを我々自身が徹底的に批判しつくしたうえで、その次に行うべきことは何なのかを考えて行った先に辿りつく結論は、「カイパーのカルヴィニズムに匹敵する巨大な規模をもつ新しいグランドデザイン」を描き出すこと以外にありえない、ということです。
そして、まさにこの意味での「新しいグランドデザイン」を描き出すためにこそ――再び論理を飛躍させますが――「組織神学」が必要である、と訴えたいのです。
あるいは別の言い方をすれば、新しいグランドデザインを描いてみせるとがんばっている人たちは、カイパーやウェーバーの議論を批判的に検証するというプロセスを通ることを絶対に避けて通ることができませんので、そのときにこそ「組織神学」を勉強しなければならない、ということです。
たとえば、カイパーの「カルヴィニズム講演」は、なんといっても彼自身の組織神学的考察によって生み出されたものです。この講演は組織神学における「弁証学」(Apologetiek)の側面が強く前面に出ているものですが、「教義学」(Dogmatiek)や「キリスト教倫理」(Christelijke ethiek)の側面も、当然のことながら深く組み合わされています。
この一例を挙げるだけでも、この一つの事実の背後にあるものは何なのかを深く考えていくならば、組織神学における「教義学」と「倫理学」と「弁証学」の相互関係はどうなっているのかというような問いや、「弁証学」というものは現代神学の中でどのような役割を果たし、あるいは批判されてきたのかという問いなどが、次々にわきおこってきます。これらすべてが「組織神学の問い」なのです。組織神学は「グランドデザイン」を描くために避けて通れない必須の課題なのです。
今の日本の政治家たちは「神学議論」という言葉を悪い意味でしか使いません。しかし、神学を全く学んだことがないような人が「神学議論」なるものに参戦できるはずがないわけですから、「神学議論」が良いものなのか悪いものなのかを知る由もないはずなのです。どんなことをおっしゃるのも自由ですが、そういうことはどうか、神学をとにかく一度徹底的に学んでから言ってくれ、と思わなくもありません。
2009年11月29日日曜日
説教の「商業主義化」に反対する
拙文に対して御意見をいただくことができましたので、以下、謹んでお答えいたします。
「説教集批判」だなんてことを書くと、この業界から“干される”ことを熟知しつつ、すでにとっくの昔から干されきっている者にしか書けないことだと思って、勇気(?)をもって発言しました。
お察しのとおり、「金銭の授受」は私にとっては大問題です。それだけというわけではありません。しかし、この問題は短い言葉でお答えできるものではありません。私がブログに書いてきたこと、これから書こうとしていることのほとんどすべては、この問題に集約していきますので、「そのうち書きます」というあたりでご勘弁いただけますと助かります。
ちなみに、私の説教のブログ公開に「ポジティヴな意図」(「ネットで伝道しましょう!」など)は皆無に等しいということは、すでに白状済みです。
牧師になりたての頃教会員とモメタ原因の一つに「あなたは説教の中でこう言った。あれは私への当てこすりだ」、「それは違う。私があなたに当てこすりなんか言うわけがない」という不毛な口論(言った言わない論争)が続いた時期があり、それへの反省として、説教で言ったことのすべてをブログで公開することこそが教会員に「言質」を与えることになる、と考えてのことです。書物にして売ろうなどという話とは、全く次元がかけ離れているものです。
また、批判対象としている「説教集」には、リソグラフで印刷してホッチキス止めした私家版のようなもののことは全く含まれていません。また、ブログで無料で公開している説教も含まれていません。それらと、キリスト教書店の本棚に並んでいる「説教集」との違いは、私などが念押しなどするまでもなく、多くの人々の目に歴然としているでしょう。
私が問題にしているのは、いかにも威嚇的な装丁をもって日本の諸教会と牧師たちとを圧倒せんとする「権威ある」説教集のことです。著者の名前をはっきり書いても私自身は一向に構いませんが、有名な「塾」とその「塾長」の名前と結びつく話をしているということは、お分かりいただけるはずです。
しかし、その「塾長」には大いなるリスペクトも持っております。7月6日には直接お会いしてお話しする機会がありましたし、その後メールもいただきました。「私怨」のようなものは皆無です。
それに、「装丁」に関しての責任は、著者自身のほうよりも出版社のほうにこそあると言わねばならないかもしれません。大した内容も無いものを物々しく作り、高く売る。この点には確かに問題があります。そのような「権威ある」説教集なるものによって、神の言葉と教会のために格闘し、泣き笑っている者たちの日々の苦闘が、どこかしら高みから見下ろされているような感覚が私にはあります。
もう少しはっきり書きましょう。
「権威ある」(装丁の)説教集には、「わが教会の牧師のクズ説教を聴いて惨めな思いに陥るくらいなら、自室でこの説教全集を読んで日曜日の貴重な休日を過ごすほうがましだ」という、多くの信徒の内心にあると思われる、打ち消しがたい素朴な思いを強化し、助長するものがあります。これは当て推量で書いていることではなく、現にそういう声を何度となく聞いてきました。
そのようなものを、当の牧師たちこそが有難がって読んでいる姿が、なんとも滑稽です。だって、批判されているのはわたしたちです。「悔しい」とか「恥ずかしい」とかいう感情は無いのだろうかと、正直思う。
それとも、その牧師たちは「このような優れた説教集から今後とも学び続けていきさえすれば、いつの日か私の説教も、このような権威ある『装丁の』説教集になっていくに違いない」という夢か幻でも思い描いているのでしょうか。それはもはや私などの拙い想像力を超えるほどの勘違いなので、フォローしきれませんが。
リソグラフ私家版やブログ版の説教集を応援することならば、やぶさかではありません。「高いばかりで内容がない、あのような説教全集よりも、こちらのほうがはるかに良いぞ」と多くの人々に言わしめる説教集を、我々の手で作ろうではありませんか。
なお、私が書いてきたことには、初めから「若干の逆説性」があります。言いたいことは、キリスト教書店に並んでいる(「席巻している」とさえ言える)あの『説教全集』のようなものが全く不要になるほどまで、各個教会の牧師の説教たちの実力をアップさせていかねばならないということです。このこと以外のことを、私は実は全く言っていません。
これが「逆説」であるということには説明は不要かもしれませんが、あえて付言すれば、あのような『説教全集』に市場のニードを許しているほど、各個教会の牧師たちの説教は惨憺たる有り様であるということを、徹底的に反省する必要があるでしょうということです。
そのような中で今日、私の目にいちばん愚かしく見えているのは、自分の書斎の本棚のいちばん目立つ位置にあの(威嚇的な装丁をもった)『説教全集』を並べつつ、定期的に「塾」に通い、ことあるごとに「塾長」のお言葉を復唱することこそが自分の説教の実力アップになると言いたげな、一部の牧師たちの姿です。
あんなふうなことで、説教の実力がアップするはずがない。そんなことは、おそらく彼ら自身も分かっています。分かっているけど通う。なぜか。
私の目に映る彼らの姿は、谷川俊太郎さんが朝日新聞のインタヴューで言っておられる「短歌・俳句は結社として、作品がお金にからんだりします」とそっくりです。彼らは短歌や俳句の場合と同じ意味での「結社」です。「説教結社」です。
なぜそれが「お金にからむ」のか。短歌・俳句の場合はその結社に加わっているかぎり、「世に認められるチャンス」(出版や発表の機会)が確保される(と思い込まされている)のです。結社ににらまれると“干される”のです。
事実誤認かもしれない点は、事実が確認できるまで保留してもいいですが、関口ごときがどこで何を言おうとあの方々はびくともしませんので、今はどうか言わせてください。私が抱いている結論めいた思いは、次のようなことです。
説教批評なることが本来行われるべき場所は「教会法廷」(church court)であり、また、そこで判定基準とされるのは厳密かつ歴史的な教義学的判断を伴う「教理規準」(doctrinal standard)なのであって、「塾長のみこころ」のようなものの恣意的なサジ加減が事を決するのではないということです。
その説教批評が「塾長」個人でなく、「塾」の諸々のリーダーたちの複数審査員による場合でも、結果は同じです。私は、説教は(お笑い界の)「M1グランプリ」のようなもので評価されてはならないと思っているのです。谷川俊太郎さんのおっしゃる「好きか嫌いか」あるいは「売れてるか売れていないか」で。そのようなことこそが悪い意味の「説教の商業主義化」、「~資本主義化」、「~ミシュラン化」であると言いたいのです。「売ってやろう、うけてやろう」という心性は、説教の心性にそぐわないのです。
2009年11月26日木曜日
『他人の説教は使用してよいか カットアンドペースト時代の説教』(2008年)を読んで痛感すること
「一昔前のパソコンか」と思うほど起動も作動も遅い私です。昨夜ふと気づかされたことは、「これはブログに書いておこう」と思うときは、たいてい何かの釈明をしたくなるときであるということです。自分の過去の発言に不足や過誤があると判明したときに、古くなった情報をアップデートしたくなる。私にとってはこれこそが「ブログ発信」の根本契機です。そうであったということに今さらながら気づかされました。何もわざわざ大げさに字にするまでもないことではありますが、今夜まで憶えていられそうにないので書きとめておきます。
私自身は、新聞や雑誌というものを「説教の原稿用紙のマスを埋めるための題材を探す眼」で読むということは一切ありません。今書いた表現そのものは比喩で、私は説教を「原稿用紙」に書いたりなどはしていません。しかしひとまず確信していることは、そのようなプロセスを経て書き上げられるような「説教」は、とても聞くに堪えないものだということです。
説教者である者の務めは、いうならば「聖書自身がうずうずするほど語りたがっていることを代弁させていただく」というようなことなのであって、聖書の意思を差し置いて何か別の題材を探してあげる必要はないし、聖書が語りたがっていること以外の事柄でマスを無理に埋めてあげる必要もない。そのようなやり方では聖書に対して失礼な態度であるし、聖書が迷惑します。今書いたことも比喩といえば比喩です。
この点はブログも同じでしょう。題材を無理に探さなければ書けないようなら、書かなければよいのです。ご親切に「ブログネタ」を提供してくれるサイトまでありますが、その「ネタ」自体がすでにつまらないし、そのようなものを追いかけて書かれたブログ記事はもっとつまらない。書き手の側に「書きたい」「伝えたい」あるいは「書かねば」「伝えねば」という強い意思がなければ、ブログも、そして説教も、底無しに虚しいだけです。
昨日の朝日新聞のほぼ一面を用いて掲載された谷川俊太郎氏インタヴューは面白かったです。
「批評の基準というものが共有されなくなっていますから、みんな人気ではかる。詩人も作家も美術家も好きか嫌いか、売れてるか売れてないかで決まる。タレントと変わりなくなっています。ぼくの紹介は『教科書に詩が載っている』『スヌーピーの出てくる人気マンガを翻訳している』谷川さんです。でも、それはあんまりうれしくない。」
谷川氏のおっしゃる「批判の基準というものが共有されなくなっています」という点は、前世紀初頭ハイデルベルク大学とベルリン大学で神学と哲学を教えたエルンスト・トレルチが問題視した「万事の歴史化(Historicization)のもたらす価値基準の相対化と流動化」を彷彿する見方です。万事の資本主義化(ないし「商品化」)に対して十分な意味でその中に巻き込まれつつ、どっぷり浸かりつつ、ほとんど飲み込まれつつ、しかしそのことをなんとなく憂う気持ちを抱いていそうな感じも、「谷川氏はトレルチ的だ」となど思いながら読めるものでした。
そして、「当然!」と言っておきますが、谷川氏の見方には大いに共感しましたし、説教者として肝に銘じるべきところが多くありました。
「(詩と)資本主義とは特に(折り合いが悪い)。短歌・俳句は結社として、作品がお金にからんだりしますが、現代詩は、貨幣に換算される根拠がない。非常に私的な創造物になっています。」
「(今の若者は)どう生きるかが見えにくい。圧倒的に金銭に頼らなくちゃいけなくなってますからね。お金を稼ぐ能力がある人はいいけれど、おれは貧乏してもいい詩を書くぞ、みたいなことがみんなの前で言えなくなっている。それを価値として認める合意がないから『詩』よりも『詩的なもの』で満足してしまう。」
今の私がとにかく考えさせられていることは、教会の説教の問題です。谷川氏が「詩」について語っておられることのほとんどすべてが「説教」にも当てはまるのです。こう書くと鋭い人にはすぐに見抜かれてしまいますが、「『説教集』なるものを売る意味が分からない」と書いたことと全く同じ内容を別の言葉で言い換えてみたくなっています。「説教の商業主義化」、「~の資本主義化」、「~のミシュラン化」、まあ何でもよいわけですが、そういうものが現代の教会の説教に、致命的な(悪い意味の)「変質」をもたらした。そう言いたいのです。
神学校を卒業したばかりの説教者たちの中に、初めから自分の説教の「商品化」を目指して原稿用紙を前にする人間は皆無であるか、あるいは、いるとしても極めて稀でしょう。天才肌の人か、変人か。そんな輩(やから)は説教者の風上にも置けないと、誰でも直感することでしょう。しかし、どうしたことか、そのうち説教者たちは、自分の原稿の「商品化」を目論見はじめる。「説教だけでは食べられません」と現実を突きつけられ、配偶者から突き上げられるからか。
「教会員から勧められたから」、「神学校の先生から~」、「出版社から~」は言い訳になりません。日本にもいる、とりわけ「神の言葉の神学の説教(学)者たち」が、ほぼ半世紀ほどもかけてひたすら続けてこられたことは、「神の言葉という名の商品」を販売しようとすること、短く言えば「神の言葉の商品化」でしょう。気色悪い、と書いたのはこのことです。
「ネタ不足」ゆえに新聞や雑誌の記事から切り貼りされた説教は、聞くに値しません。しかし他方、明らかに「ネタ不足」なのに、そのことを認めず、そうでないふりを貫くために、商品化された説教集から切り貼りされた説教は、もっと犯罪的です。
過日、東関東中会教師会でS. M. ギブソン著『他人の説教は使用してよいか カットアンドペースト時代の説教』(Scott M. Gibson, Should We Use Someone Else's Sermon?: Preaching in a Cut and Paste World, Zondervan, 2008)を英語版原著で学びました。説教の盗用(カットアンドペースト=データの切り貼り)の問題を真剣に取り上げた好著でした。面白かったというよりも悲しかった。「盗用説教」は重大な罪であるということがよく分かりました。日本語版が出版されないかと期待しています。
どんなに拙くても構わないから、説教者であるかぎり自分の言葉で書き、語れと私は言いたい。他人の猫を借りてきても、あなたの懐でおとなしくしてはくれません。自分の言葉で語りえたうえでなお教会員や先輩牧師から「あまりにも拙すぎて、とても聞くに値しない」と批判してもらえるなら、むしろ喜ぶべきです、他人の説教を「盗用」までして称賛を受けようとするくらいならば。その批判が耐えられないなら即刻辞職すべきです。神が、あなたを牧師として召しておられなかったのです。
牧師の仕事は説教だけではありませんが、日曜日の朝の礼拝の説教だけなら、毎週四千字ほどの作文です。四百字詰め原稿用紙10枚分。小学生や中学生がそれを耐え難い分量だと泣きわめくのは理解できますが、高校生以上ならばそれくらい難なく書けます。牧師を名乗る者がその程度の宿題を果たすことができず、「盗用」せざるをえないというのであれば、その牧師は何もしていないのと同じです。「職務怠慢」どころではない、「職務放棄」です。
毎週の説教原稿を書く仕事は「関口ごとき」にもできることです。それもできない人は「関口以下」です。悔しくありませんか。
説教のブログ公開は、それが「盗用説教」かどうかを“衆人環視”する方法としても十分に活用できそうです。この説教者がどの記事を盗用したかなどは、GoogleやYahoo等の検索で即時に判明する時代ですから。
今日は午後から家庭集会です。そろそろ出かける準備を始めねばなりません。
2009年11月20日金曜日
また原稿書きに没頭していました
また一つ、雑誌に掲載していただく原稿を書いていました。アリスター・E. マクグラス著『ジャン・カルヴァンの生涯 上 西洋文化はいかにして作られたか』(芳賀力訳、キリスト新聞社、2009年)の書評です。
1400字程度のごく小規模の書き物でしたが、月並みにいう「短い文章ほど書くのが難しい」を、このたびも体験しました。19日(木)の午前中から書き始めましたが、途中で休んだり、「できた」と思って一度編集者に送った後、いろんな問題が見えてきたので全面的に書き直したりして、結局は今朝の4時ごろ脱稿することになりました。
2009年11月18日水曜日
「説教集」なるものを売る意味が分からない
「Googleで『説教』」という一文を、一昨日に書きました。その翌日の昨日、同じようにGoogleで「説教」を検索してみましたら、あらら、私の「今週の説教」は、上位グループの中から消え、はるか後方を走っていました。一夜明けると、あっという間に下位転落です。
いえ別に、だからどうしたと言いたいわけではありません。「悔しい」というような思いはありません。牧師を引退する日まで、ただひたすら黙々とこの競争を続けていくだけです。「これは面白いことになったぞ」と血沸き肉踊るものを感じています。
自分の説教が(キリスト教書店に整然と並ぶ)『説教全集』のようなものになっていくことを憧れたり夢見たりしたことは一度もありませんし、そういうことには全く興味がありません。それどころか、ああいうやり方には違和感を覚えるばかりです。
そもそも、「説教集」なるものが書店で売られているという現象自体が私には全く理解できません。この仕事を20年近く続けてきましたが、「説教集を売る」という行為の意味がいまだに分かりません。事の初めから言えば、「そもそも説教とは金で売ってよいものなのか」という疑問さえ持っています。私が抱いている問いをより正しい文法に則って問い直すなら、「金で売るものが説教なのか」です。違うんじゃないかと思っています。
もっとはっきり言えば、私は、「説教集」なるジャンルの本がキリスト教書店の棚から消え失せる日が来ることを願ってきました。もちろん、現時点では、この国の中でそのような本が売られ、買われるべき何らかのニードがあるからこそ、そのようなたぐいのものが流通しているのでしょうから、他人のしていることに無理にケチをつけるつもりはありません。ただ、「気色悪いものを感じる」とは言っておきます。
そして、今の私が信じていることは、次のことです。すなわち、もし各個教会の牧師たちが自分の説教にもっともっと力を注ぐようになれば、あのような「説教集」なるジャンルの本へのニードは、たちまちのうちに失われていくだろうということです。
そうです、私が今書いているのは、「あんなくだらない本を読むよりも、うちの牧師の説教を聴くほうがはるかにましだ」と言ってもらえるようになりさえすれば、日本の教会はたちどころに復活するだろうという話です。
「説教集」なるジャンルの本が、大した内容も無いのに、ひどく勿体ぶった豪華な装丁で日本の教会を威嚇し続けるかぎり、気の弱い牧師たちはすっかり萎縮したままです。萎縮するほうが悪いと言われるならばそれまでで、そちらはそちらでみっともないものが確かにありますが、「威嚇する側」にいると思しき人々の姿は、さらにみっともない。
言うまでもないことですが、日本の教会が復活する日には、私が出しているような「説教ブログ」などは、もっと不要になることでしょう。とはいえ、私のうちに「皆さまのニードにお応えし(てあげ)ましょう」というような、それこそ勿体ぶった動機などはさらさら無く、誰の指図でも命令でもなく、何の必然性も無く、本当にただ好き勝手に続けていることなのですから、もし読んでくださる方が一人もいなくなったとしても、続けていくつもりです。
2009年11月15日日曜日
Googleで「説教」
自慢げな書き方をすると反発を招くだけですが、まあお許しください。
以前からGoogleで「今週の説教」という検索語で探すと第一位に表示されることを感謝し、かつ誇りに思ってきました。
しかし、どんなことであれ、欲の皮というのはだんだん突っ張ってくるものです。「今週の」を外した「説教」だけを検索語にしても上位に表示されるようになってみたいものだと、願うようになりました。
とはいえ、「説教」だけとなりますと、いわゆる「キリスト教会の礼拝の説教」だけにとどまらず、「お説教」や「説教くさい」などの言葉まで引っかかってきますので、第一位を獲得するのが難しいことは分かっております。
しかし、最近はかなりうれしい状況になってきました。実際に「説教」だけの検索を試みていただくと、その結果をご覧いただけます。「キリスト教会の礼拝の説教」という意味の「説教」に当てはまるのは、以下のサイトです(2009年11月15日現在)。
第一位 小石泉牧師の説教集
第二位 説教塾
第三位 モーセ神父の説教集
第四位 四国説教塾
第五位 晴佐久昌英神父の説教集
第六位 山陽聖約キリスト教会の説教集
第七位 関口康「今週の説教」
(以下略)
※Wikipedia(インターネット辞書)等の「説教」や「説教者」に関する用語解説やAmazon.com(インターネット書店)等の『説教集』の広告は除き、実際に説教の文章を公開しているサイトだけに限定させていただきました。
この結果が示しているものが何なのかは、Googleの仕組みをまるで知らない私にはよく分かりませんが、上位にあるほうが見ていただきやすいことだけはおそらく確実ですので、見ていただいている方々に感謝しつつ、謹んで報告させていただく次第です。
「塾」には敵いませんが(とてもとても)、プロテスタント系(牧師)の個人としては第三位にランクインさせていただいたことを非常にありがたく思っています。
「説教の評価に(インターネット的な)競争原理はそぐわない」という思いは、私とて同じです。しかし、「塾の先生」に良いの悪いのと評価していただくことに匹敵するほどの緊張感や畏怖心は、それなりに味わっております。何度となく書いてきましたように、「ブログ公開」は説教の改善に役に立つと信じております(「説教の改善方法について」、「私がインターネットで説教を公開している理由」など参照)。
2009年11月10日火曜日
「なぜ日本にキリスト教は広まらないのか」と問うことをあえて問う
香山リカさん(ファンです)が新著『しがみつかない生き方 「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール』(幻冬舎新書、2009年)の中に「勝間和代を目指さない」というルールをお書きになって以来、勝間さんのことを書きにくくなってしまいましたが、私は香山さんと勝間さんを応援したいと思っています。けっこう似ているのではないかとか言うと、お二人ともお怒りになるでしょうか。共著が出るようでしたら買います。ともかく仲良くしていただきたいものです。
それにしても気になるのは「オバマ氏も使っている」というふれこみで爆発的に広がった感のあるTwitterです。「今ごはん食べました」、「おいしかったです」、「次はどこに行こうかな」、「喫茶店でコーヒーを飲み始めました」、「そろそろ帰ります」というような逐一の言葉(つぶやき)がネットブックや携帯電話などのモバイルツールによって書き込まれ、それこそ20万倍ものヴォリュームの拡声器にかけられて津々浦々まで伝えられる時代になったというわけです。面白いと言えば、なるほど面白い。うるさいと言えば、これほどうるさいものはありません。
このことは批判的な意味で書いているのではありません。私もTwitterを試してみている一人ですから。考えさせられていることは、結局自分のことです。私のつぶやきをフォローしてくださっているのは13人の方々。サクラではなく、一度もお会いしたことのない方々ばかりです。「まだ始めたばかりですから!」と書いてはおきますが、それでも現実の数字を見てしまうと何だか寂しい思いになるのは、自意識過剰の証拠なのでしょう。
「増えたらいいな」と、そういうこともあまり考えていません。「今週の説教」と「関口康日記」に一応アクセスカウンターをつけてありますが、前者(開設後3年4ヶ月)はやっと5万アクセスを超えたところ、また後者(開設後1年10ヶ月)はもうすぐ4万アクセスというあたり。地味なものです。ブログがこの程度なのに、どうしてTwitterのフォロワーが増えるでしょうか。
開き直るつもりはありませんが、もし私が今のままの話題(「改革派の」教会と神学の話題)だけで20万人以上ものフォロワーを得られる日が来たら、その時点ですでに日本に(無血の)「革命」が起こっていると言ってもよいのではないかと思います。
キリスト教書として今年(2009年)のベストセラーになっているらしい古屋安雄氏の『なぜ日本でキリスト教は広まらないのか 近代日本とキリスト教』(教文館、2009年)は、買いませんし、読みません。別に不買運動をしたいわけではなく、古屋先生はかつて直接教えていただいた教師(「恩師」と呼ばせていただきたいです)の一人でもありますが、逆に言えば、「ぶれない」先生ですから、読む前から結論が分かりますし、私にとっては何の新鮮味もありません。今年6月に久しぶりに講演を聴く機会がありましたので、そのことを確認できました。25年前と全く同じことをおっしゃていました。
そして、何より思うことは、このような恥ずかしいタイトルの本が飛ぶように売れているという状況自体が私にとってはものすごく恥ずかしいことであるということです。だから、買いません。「神さま、どうか、この国をあのようなタイトルの本が全く売れない国(キリスト教が広まる国)にしてください」と毎日祈っているので、買いません。買い「たくあり」ません。
それでも、たとえ牧師であっても(という言い方自体が間違っているわけですが)毎日突きつけられているのは「数の問題」です。今月の礼拝出席者は平均○名だった、増えた、減った。今年の収入はいくらだった、増えた、減った。地上に生きているかぎり、この種の事柄から逃げることはできません。
しかし、です。私が「若い」からでしょうか、まだまだ当分譲れそうもない矜持(きょうじ)があります。それは上に書いたことの繰り返しです。『なぜ日本でキリスト教は広まらないのか』というような、日本の教会とキリスト者たちの日々の苦闘を愚弄するようなタイトルの(お高くとまった)評論で一儲けしようとは思わないということです。
先週「お金、お金、お金。」と書いたばかりですが、そんな金なら要らない。出版の夢を断念して、一生ブログだけで通します。別にそれでも一向に構いませんし、むしろそのほうがはるかに気楽です。「なんとかしてお知らせしたいこと」があると思っているのでシコシコと文字を書いているだけであって、それをどういう形であれ(おそらくは書籍や雑誌の形かブログやメールの活字かのどちらかでしょうけれど)読んでいただける方がいてくださりさえすれば、それ以上の何も要りません。
それと、彼の状況分析は当たっていないと、私自身は考えています。デタラメとまでは申しませんが、あの種の単純な三段論法によって現実の教会は微動だにしないし、あの程度のことで動くくらいなら、あのようなタイトルの本が書かれる必要もないほど日本にキリスト教は「広まって」いることでしょう。
ちなみに、私の夢(たくさんある夢の一つ)は、いつの日かファン・ルーラーの翻訳と研究についての本を書きあげて香山リカ先生に朝日新聞上に書評を書いていただくことです。勝間さんの『目立つ力 インターネットで人生を変える方法』(小学館新書、2009年)によると、こういうことはブログで大々的に公言しておくほうが実現の可能性が高まるそうですので、恥も外聞もなく書いておきます。
しつこいようですが、同じ「本を書く」と言っても、「なぜキリスト教は広まらないのか」というような本は書かないし、書きたくないし、恥ずかしくて仕方がない。芸能界の暴露本のようなものと大差ありません。