2009年11月18日水曜日

「説教集」なるものを売る意味が分からない

「Googleで『説教』」という一文を、一昨日に書きました。その翌日の昨日、同じようにGoogleで「説教」を検索してみましたら、あらら、私の「今週の説教」は、上位グループの中から消え、はるか後方を走っていました。一夜明けると、あっという間に下位転落です。



いえ別に、だからどうしたと言いたいわけではありません。「悔しい」というような思いはありません。牧師を引退する日まで、ただひたすら黙々とこの競争を続けていくだけです。「これは面白いことになったぞ」と血沸き肉踊るものを感じています。



自分の説教が(キリスト教書店に整然と並ぶ)『説教全集』のようなものになっていくことを憧れたり夢見たりしたことは一度もありませんし、そういうことには全く興味がありません。それどころか、ああいうやり方には違和感を覚えるばかりです。



そもそも、「説教集」なるものが書店で売られているという現象自体が私には全く理解できません。この仕事を20年近く続けてきましたが、「説教集を売る」という行為の意味がいまだに分かりません。事の初めから言えば、「そもそも説教とは金で売ってよいものなのか」という疑問さえ持っています。私が抱いている問いをより正しい文法に則って問い直すなら、「金で売るものが説教なのか」です。違うんじゃないかと思っています。



もっとはっきり言えば、私は、「説教集」なるジャンルの本がキリスト教書店の棚から消え失せる日が来ることを願ってきました。もちろん、現時点では、この国の中でそのような本が売られ、買われるべき何らかのニードがあるからこそ、そのようなたぐいのものが流通しているのでしょうから、他人のしていることに無理にケチをつけるつもりはありません。ただ、「気色悪いものを感じる」とは言っておきます。



そして、今の私が信じていることは、次のことです。すなわち、もし各個教会の牧師たちが自分の説教にもっともっと力を注ぐようになれば、あのような「説教集」なるジャンルの本へのニードは、たちまちのうちに失われていくだろうということです。



そうです、私が今書いているのは、「あんなくだらない本を読むよりも、うちの牧師の説教を聴くほうがはるかにましだ」と言ってもらえるようになりさえすれば、日本の教会はたちどころに復活するだろうという話です。



「説教集」なるジャンルの本が、大した内容も無いのに、ひどく勿体ぶった豪華な装丁で日本の教会を威嚇し続けるかぎり、気の弱い牧師たちはすっかり萎縮したままです。萎縮するほうが悪いと言われるならばそれまでで、そちらはそちらでみっともないものが確かにありますが、「威嚇する側」にいると思しき人々の姿は、さらにみっともない。



言うまでもないことですが、日本の教会が復活する日には、私が出しているような「説教ブログ」などは、もっと不要になることでしょう。とはいえ、私のうちに「皆さまのニードにお応えし(てあげ)ましょう」というような、それこそ勿体ぶった動機などはさらさら無く、誰の指図でも命令でもなく、何の必然性も無く、本当にただ好き勝手に続けていることなのですから、もし読んでくださる方が一人もいなくなったとしても、続けていくつもりです。