最近、朝日新聞が面白いです。「新聞」が面白いし「朝日」が面白い。早く朝が来ないかと待つことさえある。こんな感覚を持ったのは、44歳まで生きてきて初めてです。私の年齢が本格的に中年化してきたせいもあるでしょうけれど、それ以上に「政権交代」の影響があるような気がします。「やっと自分たちの時代が来た」。そのような勢いを感じます。
今朝の紙面には「今の日本には、かつての丸山眞男氏のようなグランドデザインを描くことができる人がいない」と嘆く宮崎哲弥氏が登場しました。宮崎氏単独ではなく、四者の対談でしたけど。
そうそう、これこれと膝を打ちました。「グランドデザイン」です。政治や経済、家庭や宗教、これらすべての共通土台となるもの。そのような土台を築き上げるための構想力。こういう適切な言葉がなかなか思い浮かばないので困っています。「さすが宮崎氏」と称賛すべきところですが、「また朝日新聞に教えられました」とも言っておきます。
この「グランドデザイン」なるものを、かつてなら、なるほどたしかに、丸山眞男氏なり大塚久雄氏なりが描いていたのでしょう。
そして改めて思い起こすことは、丸山氏と大塚氏の共通点がマックス・ヴェーバー研究者(好きでない表現で言えば「ヴェーバー学者」)であったということです。私は丸山氏の本はいまだに全く読んだことがなく、読む気もしないのですが、大塚氏の本なら、たしなみ程度に読んできました。お二人の共通点を短く言えば「現代社会とは要するに何なのであり、これから人類は要するにどこに向かっていくべきなのか」ということを端的に語りきることができる視座をもっていた人々。そう、まさしく「グランドデザインの描出ができた人々」です。
ところが、すでに広く知られているとおり、ヴェーバーの「犯罪」を暴いたのが羽生辰郎先生です。「ヴェーバー学者」からの有効な反論が聞こえてこない以上、羽生先生の議論は正しいと認めざるをえません(羽生辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』、『学問とは何か』参照)。
しかし他方、羽生氏登場以前の「ヴェーバー学」が有していた「グランドデザイン描出力」そのものは、今日ますます必要とされているのではないかということを、宮崎氏の発言を読みながら思わされました。
とすれば、新しい時代に求められている知的作業の一つは、「ヴェーバー学の継承」というよりも、ヴェーバー自身もそれの分析と解釈のために労苦したところの「プロテスタンティズム」ないし「カルヴィニズム」の全体像を、もう一度真剣に見直してみることではないでしょうか。「それは果たして本当に小沢一郎氏が言うほど排他的なものなのか」と問いながらでも構いません。
先日も書きましたように、オランダのキリスト教民主党(CDA)党首にしてオランダ国王首相であるヤン・ペーター・バルケネンデ氏が、慶應義塾大学名誉博士称号授与式で、「アブラハム・カイパーと福澤諭吉」というタイトルをつけても良さそうな内容のかなり長文の挨拶を行いました。バルケネンデ氏は、20世紀初頭のオランダで同国史上初めて結党されたキリスト教民主党(党名は「反革命党」)の党首としてオランダ国王首相になったプロテスタント神学者アブラハム・カイパーが果たした役割と、日本において福澤氏が果たした役割との共通点を熱心に語りました。
ちなみに、このバルケネンデ氏は、先日行われた欧州連合(EU)初代大統領選挙の際の候補者の一人でしたが、「米国寄り」と見られて落選しました。しかし、「米国寄り」であるという評価は、欧州では非難の対象かもしれませんが、日本では逆でしょう。
このように申し上げる私が今とにかく願っていることは、日本の政治家や思想家たちにはどうか、バルケネンデ氏が日本人向けに語った「アブラハム・カイパーの意義」という点に注目していただきたいということです。
カイパーがアメリカのプリンストンで行った有名な講演「カルヴィニズム」(1898年)こそが、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904年~1905年)の成立に決定的な影響を与えたのです。日本の「ヴェーバー学者」が受け継いだグランドデザイン描出力は、歴史を遡ればカイパーに由来するものだと分かります。
ただし、カイパー自身は「グランドデザイン」とは言わず「人生観・世界観」(levens- en wereldbeschouwingen)という古めかしい言葉を用いました。その前に「有神的」(theistisch)という形容詞を付して、「有神的人生観・世界観」と言ったのです。また、この「人生観・世界観」が、プリンストンでの講演においては「生活原理」(life-systems)と英訳されました。しかし「人生観・世界観」にせよ「生活原理」にせよ、「グランドデザイン」と言い換えても内容は全く同じです。
しかしだからといって私は「カイパー主義者になること」を多くの人に勧めたいのではありません。それどころかカイパーの描いたグランドデザインである「有神的人生観・世界観」というものの問題性を鋭く見抜き、徹底的に批判すべきであると考えています。
しかし、カイパーのそれを我々自身が徹底的に批判しつくしたうえで、その次に行うべきことは何なのかを考えて行った先に辿りつく結論は、「カイパーのカルヴィニズムに匹敵する巨大な規模をもつ新しいグランドデザイン」を描き出すこと以外にありえない、ということです。
そして、まさにこの意味での「新しいグランドデザイン」を描き出すためにこそ――再び論理を飛躍させますが――「組織神学」が必要である、と訴えたいのです。
あるいは別の言い方をすれば、新しいグランドデザインを描いてみせるとがんばっている人たちは、カイパーやウェーバーの議論を批判的に検証するというプロセスを通ることを絶対に避けて通ることができませんので、そのときにこそ「組織神学」を勉強しなければならない、ということです。
たとえば、カイパーの「カルヴィニズム講演」は、なんといっても彼自身の組織神学的考察によって生み出されたものです。この講演は組織神学における「弁証学」(Apologetiek)の側面が強く前面に出ているものですが、「教義学」(Dogmatiek)や「キリスト教倫理」(Christelijke ethiek)の側面も、当然のことながら深く組み合わされています。
この一例を挙げるだけでも、この一つの事実の背後にあるものは何なのかを深く考えていくならば、組織神学における「教義学」と「倫理学」と「弁証学」の相互関係はどうなっているのかというような問いや、「弁証学」というものは現代神学の中でどのような役割を果たし、あるいは批判されてきたのかという問いなどが、次々にわきおこってきます。これらすべてが「組織神学の問い」なのです。組織神学は「グランドデザイン」を描くために避けて通れない必須の課題なのです。
今の日本の政治家たちは「神学議論」という言葉を悪い意味でしか使いません。しかし、神学を全く学んだことがないような人が「神学議論」なるものに参戦できるはずがないわけですから、「神学議論」が良いものなのか悪いものなのかを知る由もないはずなのです。どんなことをおっしゃるのも自由ですが、そういうことはどうか、神学をとにかく一度徹底的に学んでから言ってくれ、と思わなくもありません。