自分の内心を何もかも明け透けに書いたりしゃべったりするのを控えねばならないときが、そろそろ来ていると思う。自分の年齢を考えれば、「そろそろ」どころか「とっくに」と言わねばならない気もする。
背丈で子どもたちに負けそうになっているのに(長男には追い越された)、いつまでも子どもじみた言動のままでは、格好がつかない。露出度を低め、神秘性を高めていくことも、作戦としてありうる(それが何の作戦なのだかは定かではない)。
まもなく年末であることが、そういうことを考えてしまう理由かもしれない。今気づいたことだが、今月末でこのブログの開設から満二年を迎える。鉛筆とノートで構成された「日記」というものが小学生の頃から三日坊主であり続けた人間がずっと抱き続けたコンプレックスは、自分の言動を字にして書き残すことができないことだった。
ブログも続くはずがないと思っていた。それが二年も続いてしまったこと、もとい、それ「を」二年も「続けて」しまったことに、いささかの後悔がないわけではない。
少し前までは自分のことを書くのがストレス発散になっていたが、最近は、書けば書くほどストレスを溜めこむ感じだ。近況としては、とりあえずこれまで掘り当ててきた財宝の真贋判定をしていくことで手一杯で、新しい財宝を探しに行く意欲は減退してきている。
しかし、いま感じているのは、単純な「否定的な」気持ちではない。数年前に亡くなった同世代の女性歌手自身が書いて歌った詞、「もう泣かないで やっと夢がかなった」(曲名はForever You)と言える段階に近づいてきた証拠ではないかと思うことにしている。
言い方は変かもしれないが、私は本当にただ「牧師になりたかった」だけなのだ。このことは、私を知っている人は皆知っている。なりたかったものになれた。これ以上の何も私にはない。
牧師には、出世だの昇進だのは一切ない。能力や経験年数の違いはあるが、その手のものは時間と労力を注いで手に入れていけばよいのであって、今それが自分の手のうちに無いことを卑屈に思うことは何もない。
こういうことを書くと、何か自分に言い聞かせようとしているのかと思われることがあるのだが、別にそういうことではない。本当にそうではない。そういうことではないのだ。
ただ、今年一年はつらいことが多かった。とても恥ずかしい話だが、日曜日(12月6日)、説教直前の賛美歌を歌っている最中に、どうしてだろう、説教壇を前にして、涙がにじむ。「ああ、今年も無事にアドベントを迎えることができた」と思った瞬間、体から力が抜けた。
「おいおい、ちょっと待て。涙するのはまだ早い」ともう一人の自分が叱り飛ばし、ようやく説教原稿を読み始めることができた。
ジャスト一年前の昨日(2008年12月8日)、生まれて初めてオランダの地を踏むことができた。もし一年前にオランダへ行っていなかったら、今年の私は踏ん張りがきかなかったと思う。心折れずに済んだ。その意味で、行ってよかったと感謝している。