2009年11月29日日曜日

説教の「商業主義化」に反対する

拙文に対して御意見をいただくことができましたので、以下、謹んでお答えいたします。



「説教集批判」だなんてことを書くと、この業界から“干される”ことを熟知しつつ、すでにとっくの昔から干されきっている者にしか書けないことだと思って、勇気(?)をもって発言しました。



お察しのとおり、「金銭の授受」は私にとっては大問題です。それだけというわけではありません。しかし、この問題は短い言葉でお答えできるものではありません。私がブログに書いてきたこと、これから書こうとしていることのほとんどすべては、この問題に集約していきますので、「そのうち書きます」というあたりでご勘弁いただけますと助かります。



ちなみに、私の説教のブログ公開に「ポジティヴな意図」(「ネットで伝道しましょう!」など)は皆無に等しいということは、すでに白状済みです。



牧師になりたての頃教会員とモメタ原因の一つに「あなたは説教の中でこう言った。あれは私への当てこすりだ」、「それは違う。私があなたに当てこすりなんか言うわけがない」という不毛な口論(言った言わない論争)が続いた時期があり、それへの反省として、説教で言ったことのすべてをブログで公開することこそが教会員に「言質」を与えることになる、と考えてのことです。書物にして売ろうなどという話とは、全く次元がかけ離れているものです。



また、批判対象としている「説教集」には、リソグラフで印刷してホッチキス止めした私家版のようなもののことは全く含まれていません。また、ブログで無料で公開している説教も含まれていません。それらと、キリスト教書店の本棚に並んでいる「説教集」との違いは、私などが念押しなどするまでもなく、多くの人々の目に歴然としているでしょう。



私が問題にしているのは、いかにも威嚇的な装丁をもって日本の諸教会と牧師たちとを圧倒せんとする「権威ある」説教集のことです。著者の名前をはっきり書いても私自身は一向に構いませんが、有名な「塾」とその「塾長」の名前と結びつく話をしているということは、お分かりいただけるはずです。



しかし、その「塾長」には大いなるリスペクトも持っております。7月6日には直接お会いしてお話しする機会がありましたし、その後メールもいただきました。「私怨」のようなものは皆無です。



それに、「装丁」に関しての責任は、著者自身のほうよりも出版社のほうにこそあると言わねばならないかもしれません。大した内容も無いものを物々しく作り、高く売る。この点には確かに問題があります。そのような「権威ある」説教集なるものによって、神の言葉と教会のために格闘し、泣き笑っている者たちの日々の苦闘が、どこかしら高みから見下ろされているような感覚が私にはあります。



もう少しはっきり書きましょう。



「権威ある」(装丁の)説教集には、「わが教会の牧師のクズ説教を聴いて惨めな思いに陥るくらいなら、自室でこの説教全集を読んで日曜日の貴重な休日を過ごすほうがましだ」という、多くの信徒の内心にあると思われる、打ち消しがたい素朴な思いを強化し、助長するものがあります。これは当て推量で書いていることではなく、現にそういう声を何度となく聞いてきました。



そのようなものを、当の牧師たちこそが有難がって読んでいる姿が、なんとも滑稽です。だって、批判されているのはわたしたちです。「悔しい」とか「恥ずかしい」とかいう感情は無いのだろうかと、正直思う。



それとも、その牧師たちは「このような優れた説教集から今後とも学び続けていきさえすれば、いつの日か私の説教も、このような権威ある『装丁の』説教集になっていくに違いない」という夢か幻でも思い描いているのでしょうか。それはもはや私などの拙い想像力を超えるほどの勘違いなので、フォローしきれませんが。



リソグラフ私家版やブログ版の説教集を応援することならば、やぶさかではありません。「高いばかりで内容がない、あのような説教全集よりも、こちらのほうがはるかに良いぞ」と多くの人々に言わしめる説教集を、我々の手で作ろうではありませんか。



なお、私が書いてきたことには、初めから「若干の逆説性」があります。言いたいことは、キリスト教書店に並んでいる(「席巻している」とさえ言える)あの『説教全集』のようなものが全く不要になるほどまで、各個教会の牧師の説教たちの実力をアップさせていかねばならないということです。このこと以外のことを、私は実は全く言っていません。



これが「逆説」であるということには説明は不要かもしれませんが、あえて付言すれば、あのような『説教全集』に市場のニードを許しているほど、各個教会の牧師たちの説教は惨憺たる有り様であるということを、徹底的に反省する必要があるでしょうということです。



そのような中で今日、私の目にいちばん愚かしく見えているのは、自分の書斎の本棚のいちばん目立つ位置にあの(威嚇的な装丁をもった)『説教全集』を並べつつ、定期的に「塾」に通い、ことあるごとに「塾長」のお言葉を復唱することこそが自分の説教の実力アップになると言いたげな、一部の牧師たちの姿です。



あんなふうなことで、説教の実力がアップするはずがない。そんなことは、おそらく彼ら自身も分かっています。分かっているけど通う。なぜか。



私の目に映る彼らの姿は、谷川俊太郎さんが朝日新聞のインタヴューで言っておられる「短歌・俳句は結社として、作品がお金にからんだりします」とそっくりです。彼らは短歌や俳句の場合と同じ意味での「結社」です。「説教結社」です。



なぜそれが「お金にからむ」のか。短歌・俳句の場合はその結社に加わっているかぎり、「世に認められるチャンス」(出版や発表の機会)が確保される(と思い込まされている)のです。結社ににらまれると“干される”のです。



事実誤認かもしれない点は、事実が確認できるまで保留してもいいですが、関口ごときがどこで何を言おうとあの方々はびくともしませんので、今はどうか言わせてください。私が抱いている結論めいた思いは、次のようなことです。



説教批評なることが本来行われるべき場所は「教会法廷」(church court)であり、また、そこで判定基準とされるのは厳密かつ歴史的な教義学的判断を伴う「教理規準」(doctrinal standard)なのであって、「塾長のみこころ」のようなものの恣意的なサジ加減が事を決するのではないということです。



その説教批評が「塾長」個人でなく、「塾」の諸々のリーダーたちの複数審査員による場合でも、結果は同じです。私は、説教は(お笑い界の)「M1グランプリ」のようなもので評価されてはならないと思っているのです。谷川俊太郎さんのおっしゃる「好きか嫌いか」あるいは「売れてるか売れていないか」で。そのようなことこそが悪い意味の「説教の商業主義化」、「~資本主義化」、「~ミシュラン化」であると言いたいのです。「売ってやろう、うけてやろう」という心性は、説教の心性にそぐわないのです。