2009年12月22日火曜日

いわゆる教会用語について

「クリスチャン」と呼ぶべきか、それとも「キリスト者」と呼ぶべきかという議論は、私が学生だった二十年以上前にも繰り返し行われていたものです。記憶はかなり怪しくなってはいますが、その当時私のまわりで「クリスチャンではなくキリスト者と言うべきだ」と主張していた人々の多くは、旧日本基督教会系の人々(いわゆる改革派・長老派の流れをくむ人々)だったと憶えています。

なぜ彼らがそういうことを言っていたのか、その理由までは憶えていませんが、クリスチャン(Christian)がともかく英語であることだけは確かなことですから、アングロサクソン的な背景を感じさせる言葉であることは間違いないわけで、「鬼畜米英」(不快語、すみません)とか言っていた世代の人々が、軍部から禁止されていたカタカナを使わずに「基督者」と書いていたころの“伝統”を重んじたい人々がそういうことを言っていたのではないだろうかと、今となっては思います。ドイツ語の神学を重んじたい人々が「クリステン」と言いたかったので「クリスチャンと言うな」と主張していたのかどうかは分かりません(これは半分ジョークです)。

私自身は「どちらでもいい」という立場ですが、「クリスチャンとは言うな。キリスト者と言え」と強く言い渡す教師に囲まれて青春時代を過ごしましたので、もしクリスチャンと言う場合は「ク、クリスチャ」と、どもってしまいます。私には幼い頃から強度の吃音(いわゆる「どもり」)がありましたが、それとは関係なく、です。

ただ、「ノンクリスチャン」(「ノンクリ」と略すのも含む)とか「未信者」とかいう言葉を聞くと、激しく抵抗したくなる気持ちを抑えられなくなります。「ノン」(非)にせよ「未」にせよ、他人の存在にノー(No)を突き付けているわけですから。信仰を持って生きている人々とそうでない人々を区別することが間違っているわけではありませんが、「ノン」(非)とか「未」とかそういうことを言わないでも済む、もうちょっとましな言葉は無いのかと言いたくなります。

しかし、「求道者」という言葉は嫌いです。その方自身が「私はこの道を求めています」とおっしゃっているならともかく、何回か礼拝に出席した人を、統計上「求道者」というカテゴリーに分類するというのも、なんだか失礼な感じです。分類が失礼だと言いたいのではなく「求道者」という日本語が失礼だと言いたいのです。すでに多くの人が言っていることだと思いますが、日本の教会の日本語のセンスは、全くでたらめです。

「母教会」(ぼきょうかい)という言葉にも疑問を感じます。どうして「母」であって「父」でないのかも考えさせられますが(どうして「父教会」ではいけないのでしょうか)、それ以上に疑問を持つことは、人生で最初に通い始めた(というに過ぎない)教会を、どうして「母」扱いして、いつまでも重んじ続けなければならないのかという点です。自分の意思とは関係なく、生まれる前から親が通っていた教会だったので、そこで幼児洗礼を受けた(だけの)教会。あるいは、地理的・物理的にそこ以外の教会に通う可能性がなかったのでそこで洗礼を受けた(だけの)教会が、なぜ「母」なのか。

すでに用いられている表現でいえば「出身教会」で良いのではないでしょうか。この表現で私の良心のギリギリです。「母教会」という言葉は、私の幼い頃のトラウマに触れるものです。私にとっての「出身教会」は忘れたい過去です。同じような言葉を私が牧師をしてきた教会に向かって投げつける人がいると私はショックを受けますが(実際にそういう人がいますと言っているのではありません)、しかし、そのように言いたくなる人の気持ちはよく分かります。

転勤の多い親のもとに生まれた子どもたちの中には、自分自身は見たことも行ったこともない地の「出身者」だったりして、そのことが履歴書とかを書かなければならない頃になると、このたぐいのことはいつまでも付きまとい続けるものだと分かって悩みの種になる人もいます。ちなみに私は「岡山市出身」ですが、妻は「東京都出身」であり、長男は「高知県出身」であり、長女は「神戸市出身」です。傍目には「この一家はいったいナニジンなんだ?」と思われることでしょう。

「こいつは、どこの生まれだ?どんな家の出だ?出てきた学校はどこで、誰のどんな影響を受けてきたやつだ?」という目は教会の中でも(教会の中でこそ?)強く働く面があることを否定できません。しかし、どう考えてもあまり気持ちのよいものではありませんので、なるべく抑えるべきだと私は考えています。

加えて、「修養会」も圧倒的にダメな日本語です。初めて参加するような方々に「あのー、主催者様は私メに何をさせたがっておられるんですか?」と独特の恐怖心を与えてしまうものです。もちろん、だからといって「キャンプ」とか「リトリート」とかカタカナを使って言えばよいというわけでもありませんけれど。

また、どこか特定の教会を念頭に置いて書くわけではありませんが、「バイブルクラス」とか「プレイズワーシップ」などとカタカナで書いている教会の看板を見ると、昔ながらの「聖書研究会」とか「賛美礼拝」でどうしていけないのかと疑問を感じます。

クリスチャン(Christian)と言う人は、ジーザスとかポールとかメアリーとか、宗教改革者たちについてはルーサー(Luther)とかキャルヴィン(Calvin)などと発音しなくては筋が通りません。そういう喋り方をする日本人の説教者もいないわけではありませんが、聞いているうちにだんだん不愉快になってくるものがあります。

私自身はいわゆるエスペラント主義のようなものには懐疑的です。それぞれが自分の母語にしっかり立って語ることがいちばん良いと考えています。「しっかりと考えるときは誰でも母語で考える」という山岡洋一さんの言葉を引用しながら書いたことがあります。とくに「説教」は、きちんとしたものであろうとするならば、母語でしか語ることができないと、私には思えます。我々が母語以外の言葉、たとえば英語で無理に説教などすると、どんなに流暢な発音で、正確な文法に従って語りえたとしても、内容的な深みに乏しい、幼稚な説教にしかならないと思うからです。

逆も然り、かもしれない。とても親しくしていただいている宣教師も大勢いますので彼らの悪口を言うつもりはありませんが、彼らがどれほど一生懸命日本語を勉強しても、彼らの日本語の説教は、彼らが各人の母語(たとえば英語など)で行う説教よりも、かなりクオリティが落ちてしまう。これは仕方がないことです。

良い例ではないかもしれませんが、昨年2008年12月10日にオランダで行われた「国際ファン・ルーラー学会」には、私の知るかぎりオランダ人、ドイツ人、南アフリカ人、アメリカ人、そして日本人の我々が集まっていました。それ以外の国のことは分かりません。そのような場で、驚いたことに、通訳はおらず、レジュメの一枚も配られませんでした。そして、各人はそれぞれの母語で発言する。オランダ人はオランダ語で、ドイツ人はドイツ語で、南アフリカ人はアフリカーンス語で、アメリカ人は英語で。ところが、なんと、それで十分にディスカッションが成り立っていました。さすがに我々は日本語でしゃべる勇気はありませんでしたが。

とはいえ、この日のアムステルダム自由大学の講堂に集結した約二百名中かなりの人々はドクターレベルのプロフェッサーだったわけですし、もともとオランダはバイリンガル、トリリンガルくらいは当たり前の国だそうですから、あまり参考にはなりません。

私が考えていることは、日本の教会で長らく使われてきた教会用語の中には明らかに不適切なものがあり、また明らかに「翻訳に失敗しただけの言葉」があり、修正や変更が可能であり、あるいは速やかな修正や変更を迫られていると思われるにもかかわらず、それの修正や変更を行うことが、まるで“不信仰なこと”や“冒涜的なこと”であるかのように思われることがある、ということです。

大胆に手をつけていこうではありませんか。たとえば、我々は一体、いつまで1890年訳の「主の祈り」を使い続けていくつもりなのでしょうか。二世紀も前のものを。「常に改革し続ける教会」(エクレシア・センペル・レフォルマンダ)が二世紀前の主の祈りを祈り続けている姿は滑稽というしかありません。しかし、これはまだわたしたちの教会でも変更できていません。

何にせよ、言葉をめぐる状況は、すぐに変わっていくものではなく時間がかかりますが、根本的に見直さなくてはならないときが来ていると思っています。