2009年11月26日木曜日

『他人の説教は使用してよいか カットアンドペースト時代の説教』(2008年)を読んで痛感すること

「一昔前のパソコンか」と思うほど起動も作動も遅い私です。昨夜ふと気づかされたことは、「これはブログに書いておこう」と思うときは、たいてい何かの釈明をしたくなるときであるということです。自分の過去の発言に不足や過誤があると判明したときに、古くなった情報をアップデートしたくなる。私にとってはこれこそが「ブログ発信」の根本契機です。そうであったということに今さらながら気づかされました。何もわざわざ大げさに字にするまでもないことではありますが、今夜まで憶えていられそうにないので書きとめておきます。



私自身は、新聞や雑誌というものを「説教の原稿用紙のマスを埋めるための題材を探す眼」で読むということは一切ありません。今書いた表現そのものは比喩で、私は説教を「原稿用紙」に書いたりなどはしていません。しかしひとまず確信していることは、そのようなプロセスを経て書き上げられるような「説教」は、とても聞くに堪えないものだということです。



説教者である者の務めは、いうならば「聖書自身がうずうずするほど語りたがっていることを代弁させていただく」というようなことなのであって、聖書の意思を差し置いて何か別の題材を探してあげる必要はないし、聖書が語りたがっていること以外の事柄でマスを無理に埋めてあげる必要もない。そのようなやり方では聖書に対して失礼な態度であるし、聖書が迷惑します。今書いたことも比喩といえば比喩です。



この点はブログも同じでしょう。題材を無理に探さなければ書けないようなら、書かなければよいのです。ご親切に「ブログネタ」を提供してくれるサイトまでありますが、その「ネタ」自体がすでにつまらないし、そのようなものを追いかけて書かれたブログ記事はもっとつまらない。書き手の側に「書きたい」「伝えたい」あるいは「書かねば」「伝えねば」という強い意思がなければ、ブログも、そして説教も、底無しに虚しいだけです。



昨日の朝日新聞のほぼ一面を用いて掲載された谷川俊太郎氏インタヴューは面白かったです。



「批評の基準というものが共有されなくなっていますから、みんな人気ではかる。詩人も作家も美術家も好きか嫌いか、売れてるか売れてないかで決まる。タレントと変わりなくなっています。ぼくの紹介は『教科書に詩が載っている』『スヌーピーの出てくる人気マンガを翻訳している』谷川さんです。でも、それはあんまりうれしくない。」



谷川氏のおっしゃる「批判の基準というものが共有されなくなっています」という点は、前世紀初頭ハイデルベルク大学とベルリン大学で神学と哲学を教えたエルンスト・トレルチが問題視した「万事の歴史化(Historicization)のもたらす価値基準の相対化と流動化」を彷彿する見方です。万事の資本主義化(ないし「商品化」)に対して十分な意味でその中に巻き込まれつつ、どっぷり浸かりつつ、ほとんど飲み込まれつつ、しかしそのことをなんとなく憂う気持ちを抱いていそうな感じも、「谷川氏はトレルチ的だ」となど思いながら読めるものでした。



そして、「当然!」と言っておきますが、谷川氏の見方には大いに共感しましたし、説教者として肝に銘じるべきところが多くありました。



「(詩と)資本主義とは特に(折り合いが悪い)。短歌・俳句は結社として、作品がお金にからんだりしますが、現代詩は、貨幣に換算される根拠がない。非常に私的な創造物になっています。」



「(今の若者は)どう生きるかが見えにくい。圧倒的に金銭に頼らなくちゃいけなくなってますからね。お金を稼ぐ能力がある人はいいけれど、おれは貧乏してもいい詩を書くぞ、みたいなことがみんなの前で言えなくなっている。それを価値として認める合意がないから『詩』よりも『詩的なもの』で満足してしまう。」



今の私がとにかく考えさせられていることは、教会の説教の問題です。谷川氏が「詩」について語っておられることのほとんどすべてが「説教」にも当てはまるのです。こう書くと鋭い人にはすぐに見抜かれてしまいますが、「『説教集』なるものを売る意味が分からない」と書いたことと全く同じ内容を別の言葉で言い換えてみたくなっています。「説教の商業主義化」、「~の資本主義化」、「~のミシュラン化」、まあ何でもよいわけですが、そういうものが現代の教会の説教に、致命的な(悪い意味の)「変質」をもたらした。そう言いたいのです。



神学校を卒業したばかりの説教者たちの中に、初めから自分の説教の「商品化」を目指して原稿用紙を前にする人間は皆無であるか、あるいは、いるとしても極めて稀でしょう。天才肌の人か、変人か。そんな輩(やから)は説教者の風上にも置けないと、誰でも直感することでしょう。しかし、どうしたことか、そのうち説教者たちは、自分の原稿の「商品化」を目論見はじめる。「説教だけでは食べられません」と現実を突きつけられ、配偶者から突き上げられるからか。



「教会員から勧められたから」、「神学校の先生から~」、「出版社から~」は言い訳になりません。日本にもいる、とりわけ「神の言葉の神学の説教(学)者たち」が、ほぼ半世紀ほどもかけてひたすら続けてこられたことは、「神の言葉という名の商品」を販売しようとすること、短く言えば「神の言葉の商品化」でしょう。気色悪い、と書いたのはこのことです。



「ネタ不足」ゆえに新聞や雑誌の記事から切り貼りされた説教は、聞くに値しません。しかし他方、明らかに「ネタ不足」なのに、そのことを認めず、そうでないふりを貫くために、商品化された説教集から切り貼りされた説教は、もっと犯罪的です。



過日、東関東中会教師会でS. M. ギブソン著『他人の説教は使用してよいか カットアンドペースト時代の説教』(Scott M. Gibson, Should We Use Someone Else's Sermon?: Preaching in a Cut and Paste World, Zondervan, 2008)を英語版原著で学びました。説教の盗用(カットアンドペースト=データの切り貼り)の問題を真剣に取り上げた好著でした。面白かったというよりも悲しかった。「盗用説教」は重大な罪であるということがよく分かりました。日本語版が出版されないかと期待しています。



どんなに拙くても構わないから、説教者であるかぎり自分の言葉で書き、語れと私は言いたい。他人の猫を借りてきても、あなたの懐でおとなしくしてはくれません。自分の言葉で語りえたうえでなお教会員や先輩牧師から「あまりにも拙すぎて、とても聞くに値しない」と批判してもらえるなら、むしろ喜ぶべきです、他人の説教を「盗用」までして称賛を受けようとするくらいならば。その批判が耐えられないなら即刻辞職すべきです。神が、あなたを牧師として召しておられなかったのです。



牧師の仕事は説教だけではありませんが、日曜日の朝の礼拝の説教だけなら、毎週四千字ほどの作文です。四百字詰め原稿用紙10枚分。小学生や中学生がそれを耐え難い分量だと泣きわめくのは理解できますが、高校生以上ならばそれくらい難なく書けます。牧師を名乗る者がその程度の宿題を果たすことができず、「盗用」せざるをえないというのであれば、その牧師は何もしていないのと同じです。「職務怠慢」どころではない、「職務放棄」です。



毎週の説教原稿を書く仕事は「関口ごとき」にもできることです。それもできない人は「関口以下」です。悔しくありませんか。



説教のブログ公開は、それが「盗用説教」かどうかを“衆人環視”する方法としても十分に活用できそうです。この説教者がどの記事を盗用したかなどは、GoogleやYahoo等の検索で即時に判明する時代ですから。



今日は午後から家庭集会です。そろそろ出かける準備を始めねばなりません。