2009年4月17日金曜日

ともかく「ヴェーバー学」は無い(3)

私の脳みその中身はうんと単純にできていまして、「ヴェーバー学」(≠「ヴェーバー論」、「ヴェーバー研究」、「ヴェーバー理解」など)は日本語としてオカシイでしょうに、ということばかりがどうしても気になるのです。



神学では「バルト学」とかって、口が裂けても言わないようなところがあります(「言わせねえよ」というやつです)。



もちろん神学にもいろいろあるわけですが、改革派系の神学、とくにいわゆる律法の第三用法(キリスト教的倫理規範としての律法)を強調するグループのそれの場合には第一戒・第二戒あたりが常にアクティヴに機能し続けていますので、一個人の過度の祭り上げや偶像化や神格化のようなことが起こることに対する警戒心や監視を怠ることはないでしょう。



「ダヴィンチ学」とか「アインシュタイン学」とか「ハイデガー学」とか「ヴィトゲンシュタイン学」なんて言葉さえ、私は寡聞にして知らない。ひょっとしたら、日本も広いので、そういうたぐいの「学」がどこかにあるのかもしれませんが、もしそういうのに出会った日には、なんて異様な言葉づかいなのかと驚愕し、日本語をナメンナヨ、と怒りはじめることでしょう。



それなのに、なぜマックス・ヴェーバーだけが「ヴェーバー学」なのかが、私には全く理解できないのです。



「丸山眞男学」ってあるんですか? この際「野口英世学」でも何でもいいや。あればぜひ教えてください。確認できたら、この「ヴェーバー学」批判をただちに撤回します。



他の誰にも許されていないのに「ヴェーバー学」だけが許されると私は考えたくありません。





2009年4月16日木曜日

ともかく「ヴェーバー学」は無い(1)

羽入辰郎先生の『マックス・ヴェーバーの犯罪』(2002年)と『学問とは何か』(2008年)との二冊が我が家に届いて三日目になりますが、家族や教会のみんなに申し訳ないほどハマりっぱなしです。読書にふけるほどの時間的な余裕があるはずもないのに、本を閉じている間も気になって気になって仕方がありません。

読みふけりながら、もちろんいろんなことを考えさせられています。内容にまで立ち入ったことを書ける段階にはまだありませんが、一つ改めて悟らされつつあることは、ともかく「ヴェーバー学」なるものは無いな、ということです。

神学のあり方に関して前々から気づかされていたことは、「オリゲネス学」も「テルトゥリアヌス学」も「アウグスティヌス学」も無いし、「ルター学」も「カルヴァン学」も「ウェスレー学」も無いし、「バルト学」も「ボンヘッファー学」も「ファン・ルーラー学」も無いな、ということでした。

あるのは「神学」だけです。「教義学」はあると思うし、「倫理学」も「弁証学」もあります。また「聖書神学」も「歴史神学」も「組織神学」も「実践神学」もあります。「キリスト教学」はあってもよいでしょう。しかし、特定の個人名を冠する「学」があるとはどうしても考えられません。オリゲネスもテルトゥリアヌスもアウグスティヌスも、ルターもカルヴァンもウェスレーも、バルトもボンヘッファーもファン・ルーラーも、教会に仕えつつ(このうちバルトは「教会に通っていなかった」と指摘せざるをえませんが)、教会の学としての「神学」、とりわけ「教義学」に取り組んだのです。

他方、「宗教社会学」はあると思うし、「歴史哲学」もあります。ヴェーバーもトレルチもトクヴィルも、それらの「学」を営みはしたと思います。しかし「ヴェーバー学」は無い。「トレルチ学」も「トクヴィル学」も無い。「『ヴェーバー学者』とか呼ばれている人ってどゆこと?」と疑問に思うばかりです。

「夏目学」とか「太宰学」とか「芥川学」とかいうのが実在するでしょうか。どこか変です。ちと気色悪い。

2009年4月14日火曜日

マックス・ヴェーバーは迷惑だ

「ああヤバい!もうこんな時間かよ。ちっ」と、たった今、我に帰りました。本当はしなければならない仕事(週報原稿の作成です、すみません)を忘れるほど今朝から没頭して読みふけっていた本を、後ろ髪をグイグイひかれながら、そろそろ閉じなければなりません。

今朝、佐川急便が届けてくれたAmazon.co.jpからの荷物、その箱の中から取り出した二冊の本に、昼食を食べるのも忘れそうなほど没頭していました(まあ食べましたが)。

遅ればせながら(本当に「遅ればせながら」)羽入辰郎氏の『マックス・ヴェーバーの犯罪』(2002年)とその続編『学問とは何か』(2008年)(いずれもミネルヴァ書房)をやっと読みはじめることができました。

羽入先生のような大部の著(二冊合わせて八百頁強もある!)を書く力は私にはありませんが、ヴェーバーには言いたいことがかねがね山ほどあったので、「よくぞ言ってくださった」と肯けることばかりです。

ただ、読みはじめた動機としては、まもなく私が書かねばならない小さな作文のための資料の一つに加えうるかどうかを知りたかっただけです。マックス・ヴェーバーというこの人自身(≠この宗教社会学者が研究対象としているプロテスタンティズムと近代精神の関係という問題群)、あるいは羽入先生自身、さらには現在羽入先生との間で激しい論争を続けているらしい折原浩氏という東京大学名誉教授な人自身には、直接的には何の関心もありませんでした(それ自体は申し訳ないことでした。とくに羽入先生ごめんなさい。)

私がまもなく書かねばならない作文そのものは本当に短いものであるため、ネタばらしをしはじめると結局すべてを書いてしまいそうなのでやめますが、今日読みはじめて分かったことは、ヴェーバーの議論のなかで私が問題に感じてきた点に羽入先生は触れておられないようだということでした。ネタはかぶらないと分かり、ひとまずほっとしているところです。

それでも少しだけネタばらししますと、話はごく単純です。これは私の作文の論旨のすべてではなくほんの一部分にすぎないことですが、重要だと思っているポイントを最も短く言えば、ヴェーバーが「カルヴァンおよびカルヴァン主義の中心教理(zentrale dogma)としての予定論」という(現在のカルヴァンおよびカルヴァン主義研究では淘汰克服されているという意味で「古い」)見解を議論の根本に据え、まさにその一点からすべての議論を演繹的に展開していき、ありもしない歴史ドラマをでっち上げていったことの持つ「犯罪性」です。

このヴェーバーの議論で迷惑を被った人(とくに改革派教会の人々)は多いと思います。私は羽入先生ほどの強い心臓も論述能力も持ち合わせておらず、この件に関する一書を物することはできませんし、「マックス・ヴェーバーの犯罪」というタイトルをつけることまでは気が引けます。それでも、私の小さな作文にはせめて「マックス・ヴェーバーは迷惑だ」というサブタイトルくらいは付けてみたいものだと、ひそかに計画しているところです。


裸の理性の行方(3)

誤解のないように申し上げておきますが、私自身はカント主義者ではありません。最初に書いたことの趣旨も(ぜひよく読んでいただきたいのですが)、ごく短い言葉で「近代精神」の思想史的淵源についての説明をしただけです。



今日の日本社会の中でこの意味での「近代精神」と全く付き合わずに生きていける人は、よほど頑丈な壁に囲まれたシェルターかゲットーの住人であるか、人を人とも思わない強靭で排他的な宗教思想の持ち主か、そうでなければかなり鈍感な人です。



また「理性はblos(裸)のまま保ち続けてよいのです」と書いたのも言葉が足りなかったかもしれませんが、もう少しきちんと書くならば「イエス・キリストへの信仰を告白している人々であっても、その中に『裸の理性』に端を発する(いわば過去の)様々な認識が残り続けていると思われるのですが、それを無理に否定したり排泄したり隠匿したりする必要はありません」という意味です。



それと、最初の記事は、ある人に宛てて書いたメールをコピーしたものです。つまり、その人と私との間でだけ理解し合っている文脈(コンテクスト)があるものです。その相手はキリスト者です。キリスト者でない人の話をしているのではありません。



そしてその相手は、詳しくは書けませんが日本では第一位と言われる国立大学の医学部を卒業した医師です。その人が「科学的理性」を全面的に否定しなければ、なんぴとも(改革派の)キリスト者であってはならないのかと悩んでおられたので、「そんなことはないと思いますよ」という意図で申し上げたまでです。



私はと言いますと、「科学的理性」を全面的に肯定しながら同時にキリスト者でありうると信じています。両者の間に矛盾や論理的不整合があってもよいのです。そんなの、どうということはない。



矛盾も論理的不整合も一切存しない、すきっとクリアな思想を持ちうるのは、全知全能の神だけです。なんと幸せなことに、我々自身はなんら神ではありません。矛盾だらけのことを語ろうが考えようが、それで人から責められる筋合いにはありません。



2009年4月13日月曜日

裸の理性の行方(2)

それではあなたは「再生理性」をどう考えるのかというご質問をいただきました。

私はバリバリ二重予定論者ですので、カイパーらがそう呼ぶ意味での「再生者」と「非再生者」とを区別することには何ら躊躇がありません。

そして、「再生者」の理性と「非再生者」の理性は異なる結論を出すようになるだろうと主張することにも、異存はありません。

ただし私はカイパーのようないわゆる堕落前予定論者ではありません。神が初めから「再生者」と「非再生者」の二種類の人間を創造なさったというふうな信じ方はしていません。初めに神は「はなはだ善き人間」をただ一種類だけ創造してくださったのです。

ですから「再生者」の理性と「非再生者」の理性は、もともとは一つのものです。初めから二種類の理性があったわけではないのです。もともと一つであった(堕落前の)理性は、blossen Vernunft(「たんなる」または「裸の」理性)とカントが呼んでいるものと一致するはずです。

ですから、もともと一つであった(堕落前の)理性は、いわば「共通理性」でしょうし、「普遍理性」と言ってもよいかもしれません。

そして問題は、この「裸の理性」は、再生後は消失するのか、それとも残存するのかです。

私は、それは残存していると信じています。

・前記の意味での「共通理性」を否定することによって「再生理性」を絶対視すべきでないと思うからです。

・「キリスト教的物理学」と「裸の理性に基づく物理学」とがそれぞれ異なる結論を出す(?)としても、内容面で大きな差はないと思うからです。

・「再生理性」に基づく教育を行うべきキリスト教主義(私立)学校の教師のほうが「裸の理性」に基づく教育を行うべき国公立学校の教師よりもエライとも思えないからです。いったん堕落が起こると、キリスト教主義学校の崩れ方のほうがひどい。自浄作用がない。



2009年4月12日日曜日

復活された救い主の釘跡


ヨハネによる福音書20・24~29

「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹にいれてみなければ、わたしは決して信じない。』さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」

イースターおめでとうございます。今日はわたしたちの救い主イエス・キリストの復活をお祝いする日です。今朝は早天祈祷会を行いました。日曜学校の野外礼拝も行いました。午後は祝会を行います。みんなで楽しく過ごしたいと願っています。

しかしまた、今わたしたちが行っている礼拝は、召天者記念礼拝として行っています。先に召された方々の在りし日を偲び、ご遺族のうえに深い慰めがありますように祈るための礼拝です。

そのような礼拝においてもわたしたちは楽しく過ごしましょうと言いますとき、感覚的には不謹慎であると思われてしまうところがあるかもしれません。イエスさまは復活したのかもしれないが、私の大切な人は復活していない。私は置き去りにされたままである。だから、私は少しも楽しくない。そのようにお感じになる方がおられるかもしれません。それは無理もないことです。

しかし、これは先週もお話ししたことですが、イエスさまの復活を信じることができる人は、わたしたち自身の復活を信じることができるのです。復活するのはイエスさまだけではなく、わたしたち自身も復活するのです。そしてもちろん、先に召された大切な人も復活するのです。そのことを信じてよいのです。

しかし、それではなぜわたしたち自身の復活を信じることが楽しいことなのでしょうか。死んだ人が復活するということが、どうして愉快なことなのでしょうか。それは恐ろしいことではないのでしょうか。この点はよくよく考えてみる必要があるでしょう。

この問題は重要なものですので、このままずっと考えていくこともできます。しかし、まずは今日開いていただきました聖書の個所を見ていただきたいと思います。この個所に記されていますのは、イエス・キリストが復活されたという知らせを聞いたとき、十二人の弟子の一人であるトマスがそれを疑ったという、実際に起こった歴史上の出来事です。

ここで皆さんに安心していただきたいことは、死んだ人が復活するという話を信じることができないのは今に始まったことではありませんということです。科学的な理性や知識をもっている現代人はそれをなかなか信じることができないが、そのようなものをもっていなかった大昔の人々はそれを信じることができましたというふうに単純に解決することはできません。

そして驚くに値することは、言い方は少しおかしいかもしれませんが、いわばトマスの疑い方です。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。

このトマスの言葉を前にして、私はいろんなことを考えさせられました。たくさんありすぎてまだうまく整理できないのですが、考えさせられたことは大体次のようなことです。

第一の点は、トマスはどのようなことを期待していたのだろうかということです。自分自身はまだ見ていない、復活なさったイエスさまの体に触ってみたい。もしそれに触ることができたなら、信じることもやぶさかではない。ここまではまだ理解できます。しかしトマスが要求していることは、イエスさまの体についているはずの釘跡に自分の指を差し入れてみたい、わき腹にも手を入れてみたいということでした。

考えさせられたことは、もし私ならこんなふうな要求はしないだろうということです。人の体に触るといっても、最大限許されるとしても、せいぜい手を握るとか背中を叩くことくらいではないでしょうか。「あなたの鼻の穴に私の指を入れさせてください」とお願いする人がいるでしょうか。「あなたの傷口にこの指を入れさせてください」とお願いするのは、どこかおかしくないでしょうか。

まだ死んでいない、生きている人に対してでさえ、そのようなお願いは普通の感覚なら決してしないはずです。トマスは何をしたかったのでしょうか。私には理解できません。とはいえ、これはあくまでも私個人の感覚です。しかし世界は広い。人の体の傷口に指を差し入れてみたいと願う人々もいるかもしれないことに気づかされました。

思い当たるのは、二つのグループの人々です。第一は警察の人々です。現場検証をする。倒れている人の傷口を探し、その中に指を差し入れる。深さ何センチと調書をとり、報告する。第二はお医者さんたちです。説明は不要でしょう。

私は、この人々のことまでどこかおかしい人だと言いたいわけではありません。むしろ自分の職務に忠実な人です。そして強いて言えばですが、トマスの疑い方は、言ってみれば、今私が挙げました警察の人々かお医者さんたちの感覚に近いものがあるかもしれないとも思うのです。この件に関して私が考えたことは、ここまでです。

考えさせられた第二の点は、なぜトマスは傷口にこだわったのだろうかということです。これについては、ある程度分かります。神学的には重要な問いです。はっきり言えそうなことは、トマスがこだわったのは、少し難しい言い方をすれば、十字架の上で息をひきとられたあの方と、復活したと言われているその存在が、同じかどうかという点、つまり、両者に連続性があるのかないのかという点であったということです。

あえて驚かせるような言い方をいたしますが、イエス・キリストの弟子たちのグループ、それはほとんど教会と呼んでもよいものですが、その人々の関心は宗教的なことでした。彼らは宗教団体であったと言ってもよいのです。ですから、復活についても、それは宗教的な事柄であるということであれば理解できるものがあると考えた面もあったはずです。

しかしその場合にも問題は、今考えている連続性の有無です。それが宗教であるということであれば、人が死んだら別の姿でよみがえるという話なら、納得はできなくても理解はできるという場合があるでしょう。体がない霊の姿でよみがえる。あるいは、人間ではない存在、たとえば天使とか悪魔とか、星とか動物とか。そういうことなら、オハナシとして聞くことができるものがあるかもしれません。

ところが、トマスが聞いた話は、イエスさまを見たということでした。はたしてそれは本当にイエスさまなのでしょうか。十字架の上で血を流して死んだあの方の、あの体が、また動いているというのでしょうか。いくらなんでも、それはありえない。こんなふうに思って、トマスは非常に違和感を覚え、疑ったのではないかと思われます。

しかし、そのトマスの前にも、イエスさまは現われてくださいました。そして彼はそのイエスさまのお姿を見て信じることができました。

「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」(26節)とあります。途中の説明をすべて省略して結論だけ申せば、この日はおそらく日曜日でした。家の中にいたというのも、ただ身を寄せ合っていたというだけではなく、おそらくはわたしたちと同じように日曜日の礼拝を行っていたのだと思われます。

「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち」(同上節)とあります。これはもちろん、戸にはみな鍵がかけてあったのに、その鍵をあけてイエスさまが入ってこられたという意味ではありません。どこからともなく入ってこられたのです。ということは、十字架のイエスさまと復活のイエスさまとの両者の関係は、単純な連続性ではないということです。鍵がかかっている部屋の外から内へと入ることができる、そのような体、それが復活されたイエスさまの体であるということです。

しかし、イエスさまはトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」もちろんこれは、指と手を伸ばし触ってみたら、そこには傷口がありませんでしたという話ではありません。そこには間違いなく、生々しい釘跡があったのです。ですから、連続性もあったのです。つまり、あの十字架にかけられた方が、全く同じ方が、復活されたのです。

しかし、書かれていないのではっきり断言することができないことがあります。それは、はたしてトマスが実際にイエスさまの傷口に指を差し入れたかどうかです。「差し入れた」とも「差し入れなかった」とも書かれていません。どちらでしょうか。

断言できないことを断言すべきではありません。しかし、私はどちらかといえば、差し入れなかったのではないかと考えます。その根拠になりうるのは「わたしを見たから信じたのか」(29節)というイエスさまの御言葉です。「その指を釘跡に入れたから信じたのか」とは言われていません。自分の目で見たこと、また自分に向かって語りかけられたイエスさまの御言葉を聞いたことで、トマスは信じることができたのです。

繰り返しますが、その場面はおそらく日曜日の礼拝でした。そこで行われていたことは、今わたしたちが行っているのと基本的に同じことです。賛美を歌い、聖書を学び、祈りをささげる。その中で彼らは、復活されたイエスさまを見た。そして、イエスさま御自身の言葉を聞いたのです。その見ること、聞くことを通して、十字架にかけられたときの釘跡をもつリアルな体をもつイエスさまとの出会いを果たしたのです。

イースターがなぜ喜びなのか、なぜ今日は楽しいお祝いの席なのかという問いに、そろそろ答えなければなりません。おそらくそれはイエスさまと同じようにわたしたち自身も復活するからであるというだけでは十分な答えにはなりません。先週申し上げたとおり、復活自体は救いでも解決でもないからです。イエスさまを殺した人々は殺人者として復活するのです。彼らは神の裁きを受けるために復活するのです。しかし、イエス・キリストへの信仰を告白し、洗礼を受け、教会のメンバーになった人々は、そのような人として、すなわちキリスト者として復活するのです!

日曜日の礼拝の中でイエスさまとの出会いを果たした「疑うトマス」が「信じるトマス」へと変えられました。この日トマスは「疑うトマス」として復活するのではなく「信じるトマス」として復活することが約束されたのです!

しかし、一つ重要な点を忘れることができません。復活されたイエスさまの体に釘跡があったことの意味は、まさに連続性であるという点です。それは、わたしたち自身の復活にもそのまま当てはまります。「信じる者」になったトマスは、しかし、「疑うトマス」であった頃のことを無かったことにすることはできません。わたしたちも同じです。わたしたちが犯した罪や、わたしたちの体や心に残る傷。それらは復活のとき残ったままです。わたしが今死んだら「太った関口」として復活するでしょう。すべてを無かったことにはできません。変身願望は復活によっては満たされません。それでいいのです!

わたしたちの人生の中に無駄な要素は一つもないのです。苦労も涙も。命がけの戦いも。ですから、イースターにおいて最終的に重要なことは、復活なさったイエス・キリストと共に永遠に生きることを約束された救いの喜びのなかで、わたしたちがありのままの自分自身を愛することができるようになることなのです。

(2009年4月12日、松戸小金原教会主日礼拝)

裸の理性の行方(1)

4月5日(日)の説教の中で私が強調したかったことは、「信仰とは、納得しようがするまいがそう思うと決めてしまうことである」ということとほとんど一致していますが、微妙な違いもあります。



はっきり申し上げることができる歴史的事情としては、18世紀の哲学者インマヌエル・カントの一書に『たんなる理性の限界内の宗教』(Die Religion innerhalb der Grenzen der blossen Vernunft)というタイトルが付けられているとおり、宗教の中にある理性がとらえきれない要素については「沈黙する」というルールを守ることが近代精神の特質であり続けてきたという点を挙げることができると思います。



カント的な限界設定には良い面もあると私は信じています。理性に対して破壊的に作用する宗教がしばしば凶暴化・狂熱化する危険があることは、わたしたちにとっては体験済みの事実ですから。



理性はblos(裸)のまま保ち続けてよいのです。納得できないことは、納得する必要がないし、納得すべきでもないのです。「疑うトマス」のままであってもよい。「疑うトマス」がいなかったら今日の諸科学は決して起こり得なかったでしょうし、飛行機やロケットが空を飛びまわる時代も見ることができなかったでしょうし、新しい文化的発展など望むべくもなかったでしょう。



私の申し上げたいことは、宗教的教義による科学的理性の否定ではないのです。それは中世の暗黒時代への逆戻りです。「常に改革し続ける教会」(ecclesia semper reformanda)の道ではありません。



私の趣旨を少しややこしく言い直せば、「復活」も「再臨」も、全く未知の将来に起こる出来事であるゆえに、(たった一回限り二千年前に起こったとされるユダヤ人イエスの復活についての使徒的証言を除いては)わたしたちが過去に体験済みの事実から得たデータをもとにして「帰納的に」(inductive)ないし「ア・ポステリオリに」(a posteriori)類推することができない事柄であるということです。



しかし、それにもかかわらず(それがいくら問うても分かりっこないことであるにもかかわらず)、わたしたち人間(21世紀の人間も然り!)は「死んだらどうなるのか」、「私の魂はどこに行くのか」と問い続けるわけです。考えるのをやめろと言われても考えてしまう。この問いはすべての人類の霊的ニードなのだと思います。



その場合に、です。わたしたち教会としては、あるいは牧師としては、人々の霊的ニードに応えることを拒否し、「そんなことはどのみち分かりっこないことなんだから、問うこと自体をやめましょう。理性などは一刻も早く捨ててしまいましょう。そのうえで、神という不可視的存在に絶対的に帰依しましょう」と、一種の思考停止を奨励するほうがよいか。



いや、そうではなく、「聖書にはこんなふうに書いてあります。実をいえば、私にも信じきれない面がたくさんあるのです。でも、悪いことを信じるよりは、良いことを信じるほうがハッピーではありませんか。科学的・論理的に描出されるカタストロフィ(地球温暖化、環境破壊、核戦争、人類滅亡)の物語も『必ずそうなる』とか『絶対に不可避的』などと言い出すや否や、その人の話は一種の信仰と化し、一種の宗教と化しているのですから」と笑いながら語るほうがよいか。



私は後者のほうが「理性的」であると思っているのです。



2009年4月11日土曜日

東関東教室メールマガジン第2号を発行しました

「改革派神学研修所 東関東教室」のメールマガジン第2号を発行できました。ちょっとほっとしています。



改革派神学研修所 東関東教室ホームページ
http://higashikanto.reformed.jp/



改革派神学研修所 東関東教室メールマガジン
http://groups.yahoo.co.jp/group/rti-higashikanto/



東関東教室とは直接関係ありませんが、山本信太郎さんが博士論文『イングランド宗教改革の社会史 ミッド・テューダー期の教区教会』(立教大学出版会、2009年)を出版なさったとのことで、本当に良かったなあと我がことのように嬉しく思いました。



このところは嬉しいことが続いています。教会ではこのたび久しぶりに洗礼式を執行することになりました。ご本人曰く「17年間の求道生活の末です」とのこと。素晴らしいことです。



また、松戸小金原教会の前身である「小金原キリスト伝道所」で今から38年前に当時生後3か月で幼児洗礼を受けた方が、別の教会でこのイースターに信仰告白をなさることになりました。神の恵みの確かさを知る思いです。



2009年4月9日木曜日

恥の多い生涯を送って来ました

「小説家になりたい」という夢を抱いたことは一度もありませんが、「これってどう言ったらいいのか分かんねえよ」な気分のときに、小説のようなものをつい書き始めてしまいます。そのアウトプット先を私のブログ集の中に設けました。



「関口 康 小説」(↓)です。
http://novel.reformed.jp/



毎週の説教原稿を書いているのも私、雑誌や紀要に掲載していただく論文を書いているのも私、ブログにいろいろ書いているのも私、そして小説の中で「これってどう言ったらいいのか分かんねえよ」なことを言語化したがっているのも私です。



「ぜひお読みください。」とは決してお勧めしません。「ぜひ読まないでください。」とお願いしておきます。



2009年4月8日水曜日

「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(11)

教区・支区・分区が(長老主義的な意味での)「教会会議」として機能することがありえない日本基督教団の中では、何かコトが起こったときには「信徒の立場で」、つまりおそらくは「一個人としての立場で」断固として戦うか、そうでなければ別の教団・教派へと移るかしかないんです、選択肢は。

でも、そのどちらの道を選んでも「そういうやり方ってキリスト者としてどうよ?」とカウンターパンチが飛んでくる。「愛がない」とか「冷たい」とか「自分の筋を通すことにしか興味ねえのか」とか、それこそ「信徒の分際で牧師様に向かって物申すとは、何をか言わんやだ」とか、いろいろ言われる。

私はですね、そういうことを口にして自己保身を図るクダラネエ牧師にだけはなりたくなかったんです。

そして実際の日本基督教団は、かつても・今も・これからも、各個教会の現実においては色濃く「教派主義的なるもの」のままであり続けるでしょう。

だって、考えてもみてください。

たとえば、聖餐式を(ローマの伝統に則って)「恵みの座」で行うか、(ツヴィングリ式に)会衆席まで個別に運ぶかは、どう考えてもあれか・これかです。「両方同時に行う」という芸当はおそらく決して成り立ちません。

あるいは、説教を「万人救済主義」に立って語るか、「特定救済主義」(いわゆる予定論)に立って語るかも、たぶんあれか・これかです。「両方同時に語る」という芸当ができる人は、天才か、そうでなければ自己統合が極度に難しくなっている人です。

現実の各個教会は、すべて「教派主義的なもの」で満ち満ちています。それらすべてをローラーでおしつぶし、「一つの日本基督教団」にしようとすることは事実上不可能であり、現実離れしたイデア的空想であり、虚しい思弁にすぎません。

また、各個教会の教派主義的現実に対して弾圧的に機能する「一つの日本基督教団」の理念形そのものは、それこそまさに実のところは「教派主義的なもの」を一歩も超えていなかったりするものであったとかになると、もはや笑止です。

「教派主義的なるもの」を小馬鹿にして笑う人々に言いたいですよ。あなたがたは、ご自分たちが笑っておられるそれを何一つ、一ミリたりとも超えられていないですよと。笑えば笑うほど自分の無知と恥をさらすだけですよと。