2009年3月22日日曜日
神の愛
ヨハネによる福音書3・16~18
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が独り子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」
先週学びました個所に「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」というイエス・キリストの御言葉が記されていました。イエスさまは、ニコデモに「地上のこと」をお話しになりました。ところが、ニコデモはイエスさまの御言葉を正しく理解することができませんでした。
ニコデモが理解できなかった「地上のこと」とは、何のことだったのでしょうか。ここで注目していただきたいのは次の御言葉です。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)。「水」とは洗礼のことです。すなわち洗礼を受けて教会のメンバーになることです。そのように言い切って間違いありません。そして「霊」とは聖霊のことです。聖霊があなたとわたしに注がれるのです。それによって、あなたとわたしに信仰が与えられるのです。
これらをまとめて言えば、次のようになります。「水と霊とによって新しく生まれる」とは、洗礼を受けて教会のメンバーに加わり、信仰に基づく人生を新しく始めることです。これこそが「地上のこと」です。すなわち、このことは、わたしたちの地上の人生の中で起こらなければならないことなのです。
駄目押し的な言い方をさせていただくことをお許しください。「私は洗礼は受けません。教会には加わりません。信仰生活も始めません。しかし天国には行きたいです」。このような言い分は通用しないということです。地上の人生が終わった後に洗礼を受けることは不可能です。洗礼は地上で受けるものです。教会と信仰は人生の中で必要なものなのです。
そして、わたしたちの信じる「天国」とは「神の国」です。両者は同義語です。天国におられるのは神です。ですから、「神は信じませんが、天国には行きたいです」というのは言葉の矛盾です。天国に行きたい人は、神を信じなければならないのです。
しかし、今私が申し上げていることは、多くの人の耳には厳しい裁きの言葉として響くものかもしれません。なぜなら、ご承知のとおり今日では多くの人が教会に通っておらず、洗礼を受けておらず、神を信じる信仰をもっていないからです。
そのような中でわたしたち教会の者たちが「教会に通っていない人は天国に行けない」というふうに語りますと、「それは冷たい言い方である」という反応がかえってくることがあります。それは全くの誤解なのですが、なかなか理解していただけません。
誰かを裁くつもりなど私にも教会にも全くありません。ただ、一つのことを願っているだけです。そのことをなんとかして理解していただきたいだけです。ご理解いただきたいと願っていることは、要するに地上の教会の存在意義です。「教会が存在することには意味があります」ということです。また、教会生活そのものの価値です。「教会に通うことには価値があります」ということです。
「教会なんて何をしているのか分からない、得体の知れない集団だ」と思われていることがとても歯がゆく思います。わたしたちはここに、教会に通っていない人々を裁くために集まっているのではありませんし、そのような人々を軽蔑するために集まっているのでもありません。ただ、わたしたちが強く自覚していることは、わたしたち人間は独りでは生きていないということです。互いに助け合う仲間が必要であるということです。教会は、そのことを自覚しつつ互いに助け合うために存在しているのです。
しかしまた、わたしたちは、人間同士の助け合いだけでは足りません。嵐の海でおぼれかけている者同士がどうして助け合うことができるでしょう。上から手を伸ばして助けてくださる方がおられなければ!人間の力をはるかに超える力をもっておられる方がおられなければ!わたしたちは助からないのです。
わたしたち教会の者たちが多くの人に何とかして理解していただきたいと願っていることは、このことです。わたしたちには互いに助け合う仲間が必要です。そして同時に神が必要なのです。そのことを強く自覚している者たちが、教会に集まっているのです。
ですから、わたしたちには誰かを裁く意図などは全くありません。裁くのはファリサイ派の得意技です。裁かれることを最も恐れているのは、むしろわたしたち自身です。
「神とか宗教とか、そういうものが必要なのは弱い人である。教会とかそういう場所は弱い人が集まるところである」と昔からずいぶん言われてきました。私も直接そのように言われたこともあります。しかし私は反論はしません。「はい、そのとおりです」と答えることにしています。「そのようにおっしゃるあなた自身も弱い人間の一人ではありませんか」と問い返すこともしません。もしそのようなことを心の中で思っていても、滅多に口には出しません。相手が嫌がるようなことは言わないほうがよいのです。わたしたちにできることは、黙って待つことだけです。あるいは、祈って待つことだけです。
しかしまた、わたしたちは、もう一つの単純な事実も知っているつもりです。先ほど私は「地上の人生が終わった後に洗礼を受けます」と言われても返答に困ると申しました。それは無理な話です。しかしこれとはいくらか違う言い分として、「神も宗教も必要であることは分かっているつもりです。でも、今は忙しいので、教会に通うひまがありません」と言われることがあります。こちらのほうならば、繰り返し聞かされてきたことですし、理解できることでもあります。
しかし、たしかに理解できることではあるのですが、心の中ではかなり腹を立てていることでもあります。わたしたちは「ひまだから」(?)教会に通っているのではありません!「逆ですよ!」と言いたいところです。わたしたちは、むしろ「忙しいからこそ」教会に通っているのです!
気が滅入りそうなくらいに忙しい。自分を見失いそうになるくらい、他人の顔も見えてないくらいに目が回っている。そのようなときこそ、わたしたちには教会が必要なのです。神の助けと、同じ信仰の仲間たちの助けとが必要です。わたしたちは「忙しいからこそ」自分自身を取り戻すために、心の平安を取り戻すために、教会に通っているのです。
さて、私は今日これまでのところで、「水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできない」というイエス・キリストの御言葉の意味を考えてきたつもりです。洗礼を受けて教会のメンバーになって信仰生活を送ることの意義と価値を訴えてきました。また、そのことはすべて地上で起こるべき出来事であるとも申しました。それが意味することは少なくとも私にとって「教会とは、わたしたち人間が生きていくために通うものである」ということです。教会は「ひまだから通う」ところではなくて、「忙しいから通う」ところなのです。
その際、しかし、わたしたちがどうしてもこの点だけは押さえておきたいと私が願っていることを、これから申し上げます。ただし、もしかしたら、皆さんをひどく驚かせてしまう内容を含んでいるかもしれません。
そのことが、実は、今日お読みしました個所に記されているイエス・キリスト御自身の御言葉に関係しています。16節に記されている「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」というこれです。この中でとくに注目していただきたいのは「世」という名で呼ばれている事柄です。この御言葉を短く言い直すなら、「神が世を愛された」となります。ですから、わたしたちが問題にしなければならないことは、神に愛されている「世」とは何のことなのかという点です。
これからこの問題の答えを申し上げたいわけですが、その答えは単純明快、読んで字のごとくです。「世」とは、ギリシア語「コスモス」の訳です。花の名前にもなっています。これは神が創造なさった天地万物を指します。ユニバースと訳されることもあります。
そしてまた、ここで語られている「世」とは、わたしたちが生きているこの地上の世界のことです。ワールドです。しかし、世界といっても「海外旅行先」の話をしているのではありません。「世」とはこの世界に生きている人々を必ず含んでいます。そしてもちろんわたしたち自身(わたしとあなた)も含まれます。
つまり、もっと分かりやすく、あるいはもっと身近で卑近な言葉で言い換えるとしたら「世」(コスモス)とは「世間」(せけん)です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世間(せけん)を愛された」と訳してもよい。そのようなことがここで突然語られているのだと理解することができるのです。
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(17節)と言われている中に繰り返し出てくる「世」の意味も全く同じです。これらすべてを「世間」と呼び換えてもよい。「神が御子を世間(せけん)に遣わされたのは、世間を裁くためではなく、御子によって世間が救われるためである」。
このことを今、私は非常に力をこめて語っているつもりですが、もちろん明確な理由と意図があります。それは先ほどから申し上げていることにもちろん関係あります。わたしたちが教会に通っているのは、忙しく生きているからこそだと、先ほど私は言いました。しかし、わたしたちが決して間違ってはならないこと、それは、わたしたちが教会に通う理由は、「世間で過ごす忙しい日々」の中から逃れるためであるということであってはならないということです。
このように申し上げる理由は、はっきりしています。「神は世間を愛された」からです。神の独り子、救い主イエス・キリストを「世間」にお遣わしになったほどに。イエスさまは「世間」の中へと遣わされた方であると言われている以上、「世間」の中にこそおられる方なのです。
洗礼を受けて教会生活を始めること、信仰をもって生きる人間になることこそが「新たに生まれること」、すなわち新しい人生を始めることであるとイエスさまがおっしゃったことも、この点に直接関係しています。
頭の上にちょこっと水をかけたくらいで、あるいは、毎週日曜日の礼拝に通いはじめたくらいで、何が変わるのか、何も変わらないではないかと思われたり言われたりすることは多いのです。しかし、この点で私が申し上げたいことは、いや、むしろ、いっそのこと、何も変わらないほうがよいということです。わたしたちは、洗礼を受ける前も受けた後も、同じひとつの「世間」の中で生きていかなければならないことには変わりません。洗礼を受けた人は必ず職場を変えなければならないとか、人間関係も全く変えなければならないということはありませんし、変えるべきでもありません。
もし変えるべきことがあるとしたら、わたしたちが関わりをもってきた職場や人間関係を「愛する」ようになることです。かつては愛することができなかったかもしれないものを、です。「愛する」とは、裁いたり軽蔑したりすることの反対です。あなたと共に生きている人々を直視し、笑顔を向け、その人々のために生きること・死ぬことです。またそこには、自分自身を愛し、受け容れることが必ず含まれます。そのことが、実際にはとても難しいのです。その難しいことができるようになるために、すなわち世間と自分を愛する訓練を受けるために、わたしたちは神を信じる必要があり、教会に通う必要があるのです。
ですから、わたしたちは「ひまだから」教会に通うのではありません。それどころか、教会に通いはじめるとますます忙しくなります。世のため・人のために楽しんで奉仕する時間が増えていきます。それでよいのです!
(2009年3月22日、松戸小金原教会主日礼拝)
2009年3月21日土曜日
W. J. ファン・アッセルト講義「ファン・ルーラーと改革派スコラ神学」(2)
ご参考までに、ファン・アッセルト教授の講演の中で語られているいくつかの単語の発音を私の耳で聴くと、以下のようなカタカタ表記になります。「関口くん、あなたと私は違った聞こえ方がするんだが」とおっしゃる方の耳は、最大限に尊重します。しかし、とりあえずは私の聞き取り内容をご紹介してご批判を乞うことにします。( )内は辞書的意味であり、赤い字はアクセントの位置です。
van Ruler(人物名)
「ファン・ルーラー」
※「ルー」は舌がぶるると震えていますが、「リューラー」には全く聞こえません!
gereformeerde theologie(改革派神学)
「ヘリフォルミールテ・テオロヒー」
scholastiek(スコラ神学)
「スコラスティーク」
protestantse orthodoxie(プロテスタント正統主義)
「プロテスタントセ・オルトドキシー」
Nadere Reformatie(第二次宗教改革)
「ナーデレ・レフォルマーチー」
※「チー」(tie)は「シー」ではないし、scholastiekの「ティー」(tie)でもありません。
traditie(伝統)
「トラディチー」
Calvijn(人物名)
「カルフェイン」
(カフェインではありません。カルヴァンのことです)
Calvinisme(カルヴァン主義)
「カルフィニスメ」
onderzoek(研究)
「オンデルジューク」
Abraham Kuyper(人物名)
「アブラハム・カイパー」
(「コイペル」には聞こえません。口を大きく開けた「カ」です!)
Bavinck(人物名)
「バーフィンク」
(日本のキリスト教書店に流通している「バビンク」では絶対にありません)
loci(場所、転じて教説の意。いわゆるロキ)
「ロチ」
menselijke vrijheid(人間の自由)
「メンセラック・フレイヘイト」
W. J. ファン・アッセルト講義「ファン・ルーラーと改革派スコラ神学」(1)
以前も「国際ファン・ルーラー学会」(2008年12月10日、アムステルダム自由大学)の「講義音声」をネット上で聴くことができるサイトをご紹介しました。それを再び聴いています。不思議なもので、何度も聴いているうちに、だんだん意味が分かってくるものがあります(というか、何度も聴かないと私にオランダ語は分かりません!)。
なかでも特に面白くて何度も聴いているのは、W. J. ファン・アッセルト先生の「ファン・ルーラーと改革派スコラ神学」(Van Ruler en de gereformeerde scholastiek)です。
ファン・アッセルト教授は、プロテスタントスコラ神学に関する研究の世界的権威者の一人であり、とくに17世紀のオランダで活躍した改革派神学者ヨハネス・コクツェーユス(Johannes Cocceius)の研究者です。ユトレヒト大学神学部でファン・ルーラーから直接教わった学生であり、御自身もユトレヒト大学神学部で教えておられる人です。現在は「オランダプロテスタント神学大学」で教えておられます。
ファン・アッセルト教授の神学的立場はファン・ルーラーと同じ「改革派神学」です。プロテスタントスコラ神学に対する評価は非常に高いものです。20世紀の弁証法神学者やそれ以降のエキュメニズム神学者が好んで持ち出してきた「16世紀宗教改革からの逸脱ないし退落としての17世紀の(死せる)正統主義」という説明図式に立たず、16世紀宗教改革からのラディカルな継続性(radicale continuiteit)が17世紀正統主義にあることを主張するものです。
この講演の中でファン・アッセルト教授は、radicale continuiteit theorie(根本的継続理論)という表現を用いておられます。この理論と同じ基本線に立つ人々として、元ハーバード大学教授ハイコ・A. オーバーマン教授(故人)や米国カルヴァン神学校のリチャード・ムラー教授といった方々を挙げておられます。
そのファン・アッセルト講義の音声はこれ(↓)です。
http://cgi.omroep.nl/cgi-bin/streams?/eo/radio/kerkinbeweging/2008-2009/vanasselt.wma
これは分科会における短い講義だったのですが、私は別の分科会に参加しましたので直接聴くことはできませんでした。しかし、帰国後ネットに講義音声が公開されて以来何度も聴いていてやっと分かってきたことが、いくつかあります。今日特にピンと来た部分は、この講義の真ん中あたりですが、次のようなことを言っておられるところです。
「ファン・ルーラーはカルヴァンをラディカルに相対化した。彼は自分の神学を『カルヴィニズム神学』(Calvinistische theologie)として把えることは決して無く、常に『改革派神学』(gereformeerde theologie)として把えていた。しかし、それはまた、一教団としてのオランダ改革派教会(Gereformeerde Kerken in Nederlands、GKN)の神学であるという意味でもないことは言うまでもない〔なぜならファン・ルーラーはGKNではなくNHKの神学者であるゆえに〕」。
この発言の直後、会場から爆笑が起こります。この講演会場が元GNK教団の教職者養成機関(神学校)であった「アムステルダム自由大学」であったゆえの笑いであると思われます。つまり、出席者たちは、ファン・アッセルト教授がアブラハム・カイパーの「カルヴィニズム」とカイパーが創設した「アムステルダム自由大学」とに対する軽い当てこすりを述べたことに大いに反応したわけです。他にもご紹介したい点がたくさんありますが、今は我慢します。
この国際ファン・ルーラー学会の講演音声は、多くの方々にお聴きいただくことをお勧めいたします。何度も聴いているうちにだんだん分かってくるはずです(一度も聴かなければ決して聴き取れるようにはなりません)。
以下URLに講演音声のリストがあります。http://cgi.omroep.nl...から始まるリンクをクリックすると、音声がスタートします(メディアプレーヤ等の音声再生ソフトが必要です)。レッツ・トライです!
国際ファン・ルーラー学会の講演音声リスト
http://www.aavanruler.nl/index.php?alias=Impressie
2009年3月19日木曜日
質疑応答(7)罪との格闘
(7)義認後の罪の問題といつまでも格闘し続けるのが、福音派の一つの特徴なのかもしれません。
ファン・ルーラーもウェスレー的な「完全聖化主義者」ではありませんので、聖化のプロセスにおける「罪との格闘」の問題は軽視していません。しかし、そのことをファン・ルーラーは徹底的に「三位一体論的・聖霊論的に」考え抜くのであり、つまり、それを「聖霊の内住」(inhabitatio Spiritus sancti)の事態として捉えるのであって、わたしたち人間(イエス・キリストにあって選ばれ、信仰を与えられた人間)のうちに「聖霊」(プニューマ)が働いてくださっていることを前提としながら、聖霊(なる神)と人間精神との(ティリッヒ的に言えば大文字のSpiritと小文字のspiritとの)内的葛藤として「罪との格闘」を描き出すのです。
そして、人間存在のうちに聖霊が(そして同時に「三位一体の神」が)内住してくださっていることそのものが、すでに「救われた状態」です。わたしたちは「神無しで」罪と闘うのではなく、「神と共に」闘うのです。その勝敗はいずこにありやは、すでに決していると信じるべきです。
そしてファン・ルーラーの場合には、すでに書きましたとおり、「地上の存在を喜び楽しまないこと」や「このわたしを全面的に受け容れないこと」こそが「創造者なる神への冒涜」なのであり、それこそが端的に「罪」なのです。「人生を嘆き悲しむこと」や「憂鬱にとらわれたままでいること」でさえ、彼に言わせれば「罪」なのです。
ですから、事は単純です!神の力を信頼して、大胆にこの世を喜び楽しめばよいのです。わたしたちにできることは、それ以上のことでも、それ以下のことでもありません。(終わり)
「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」
質疑応答(5)罪の二次性
(5)私も、被造世界を喜び楽しむことが神の意志であると思っております。しかし、それを具体的な生活の中で実践しようとする時、被造世界全体が堕落の影響によって「喪に服している」という面も忘れてはならないと思わずにはいられないのです。そうなると、被造世界を「喜び楽しむ」という時、そこには何らかの形で神を「喜び楽しむ」こととは、区別をつけなければいけないのではないでしょうか。
「喪に服している」というご見解には、正直ちょっとした驚きを禁じえませんでした。「堕落」(corruptio)の影響があるのは当然のことですが、イエス・キリストにおける「贖い」(redemptio)の影響のほうはいかがでしょうか。「贖い」とは、改革派神学の伝統においては「再創造」(recreatio)です。その意味は、創造の原初性の再獲得です。堕落した全被造物に「はなはだ善きもの」(erant valde bona! 創世記1・31)としての原初性が回復されるのです。
この「再創造」は終末だけに起こる出来事ではありません。それはイエス・キリストの十字架と復活による「贖い」によってすでに始まったことであり、今なお進展し続けており、終末における完成の日まで継続されます。花婿としてのイエス・キリストは、すでに来られています。祝宴はすでに始まっています。それにもかかわらず、どうしてわたしたちがいつまでも喪に服し続けなければならないのでしょうか。
「堕落」ないし「罪」についてファン・ルーラーが主張していることは、彼の言葉を借りれば、「罪は二次的なものないし二番目のものである」(De zonde is iets secundairs, een tweede)ということです。第一番目はもちろん「創造」(schepping)です。創造こそが「神の善きみわざ」です。天地を無から有へと呼び起こしてくださった神の力、そしてまたイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださった神の力と比較するならば、人間の犯す罪の力や影響などどれほどのものでもありません。もし人間の犯す罪の力が神の救いの力に勝利するというなら、人間は「神以上の存在」であると認めることを意味してしまいます。(さらに続く)
「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」
質疑応答(6)改悛的霊性
(6)これらの問題を掘り下げていくと、そもそも「世」をどう見ているかという点に帰着するように思います。私は、元々神に造られた良いものとしての「世」が堕落の影響によってその善性を見失ったため、現在我々の目に広がる「世」は無批判に享受できないものと見ている面があると思います。それに対してファン・ルーラーは、神に造られた良いものとしての「世」を強調しているのだと思います。もしこの分析が正しいとすれば、焦点は「ファン・ルーラーにおける被造世界の堕落の影響」にあると思うのですが、いかがでしょうか。
わたしたちが受け継いできたらしき「一切の(神学的)議論を堕落と罪の問題から始める伝統」は、改革派神学の場合は、その根元にドルト教理基準のTULIP(カルヴァン主義の五特質!)があると思われます。
しかし、ドルト教理基準は本質的に「コントラ・レモンストランティア」であり、アルミニウス主義者からの批判に対するレスポンスにすぎません。すなわち、あれは「コントラ」ないしアンチテーゼとしてのモチーフを初めから持っているものであり、ドルト教理基準自体は何らカルヴァン主義の本来的なテーゼではありません。それゆえ、ドルト教理基準から全改革派神学を出発させることは根本的かつ方法論的に間違っています。「全面的堕落」(Total Depravity)は改革派神学における第一のテーゼではありえないのです。
しかし、改革派教会も含む日本のプロテスタント教会が色濃く受け継いでいるのは、そのような歴史的・伝統的・信条的な神学思想というよりももう少し根の浅いものであると、私には感じられます。私が考えるのは、むしろビリー・グラハム的な大衆伝道のやり方の中にある「まず最初に罪意識を徹底的に叩き込むことによって人を回心へと導く」というあれです。典型的な心理的誘導方法(Psychological Inductive Method)です。
しかし、私はこのことをビリー・グラハムひとりの責任にするつもりはありません。パネンベルクが指摘した、プロテスタンティズム特有の「改悛的霊性」そのものを問題にしなければならないと考えています。
16世紀の宗教改革者たちが強調したことは、罪責意識そのものではなく、罪の自覚によって怯える魂がイエス・キリストによって自由にされるという点にありました。ところが、彼ら以降のプロテスタンティズムは、あまりにも過度の罪責意識を強調しすぎるあまり、洗礼を受けてイエス・キリストと共によみがえった後も(この意味での「よみがえり」は単なるメタファーではありません!)、いつまでも堂々巡りを繰り返す不健康なメンタリティに留まり続ける人間性を涵養してしまいました。パネンベルクの議論は正鵠を得ています。
「創造→堕落→贖い」と来た後に、またしても「堕落」が息を吹き返しているような議論をしてしまうのは、おそらく福音派だけではないと私は理解しています。改革派も同じです、というか改革派のほうがひどいかもしれません。(さらに続く)
「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」
質疑応答(4)神を喜ぶ自由
(4)創造者を「享受」することと被造物を「享受」することとの間にもし些かの区別もないとなるなら、逆に我々が「神を喜び楽しむ」ということもまた「贅沢」「遊び」ということになり、そこにある種の「不必要なもの」という概念、つまり「人間の主な目的」ではなく、オプショナルなものに成り下がるという思想が入り込むことにはならないのでしょうか。
(4)の質問はとくに重要なものだと思いました。「神を喜び楽しむこと」も、もちろん「贅沢」であり「遊び」です。ファン・ルーラーの線を伸ばしていけば当然そうなります。
私が「不必要」と書いたことは、なるほどたしかに「オプショナルなものへと価値を低めている」という反応ないし反発を招きかねません。
しかし、これはオランダ語のnoodzakelijkheid、ないし英語のnecessityをどう訳すかにも依ります。「必要性」と訳すと反発されるようなら、「必然性」と訳すと少しは理解されるものが出てくるかもしれません。しかし、問題は論理的(ロジカル)なことにとどまりません。「必然性」と訳しますと、論理的なことだけに限定されてしまう危険性があります。
この「必然性」を説明するために持ち出すことができそうな例は、(あまり良い例ではありませんが)「わたしたちがもうける子どもの数」などです。
結婚して子どもを産む。一人にしようか、二人にしようか、三人以上にしようか。何人「でなければならない」理由は、どこにも無いはずです。お二人の自由です。「どうぞご勝手に!」です。誰からも強制されません。「何人産まなければならない義務」などは、誰にもありません。そもそも「子どもを産まなければならない責任」さえ、人間にはありません。
そのようなところで義務だ、責任だ、役割だ、使命だと言い出すところに「使用」(uti)の伝統が臭います。しかし、たとえば「女性は子を産むために使用される」だなんてことは、もはや絶対に言うべきではありません。
「神の創造のみわざ」も、だれから強制されたものでもありません。神に向かって「創造しなさい」と命令したり、「神よ、あなたには天地万物と人間を創造する義務と責任がある」と説教したりする存在とは何なのでしょう。そういうことができるのは、おそらく「神以上の存在」だけです。
わたしたちの「神を喜び楽しむこと」についても、義務だ、責任だ、役割だ、使命だとやりだすのが我々の伝統(アウグスティヌスの伝統!)なのかもしれません。しかし、義務だ責任だと言っては脅され、命令されて、強制されて、嫌々ながらさせられることが、どうして「神を喜び楽しむこと」(fruitio Dei)でしょうか。全く矛盾しているではありませんか。いかなる強制もなく、自由のうちに仕えることが「神を喜び楽しむこと」ではないでしょうか。(さらに続く)
「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」
質疑応答(3)享受と使用
(3)アウグスティヌスが使用(uti)と享受(frui)という点に具体的に見出したのに対して、ファン・ルーラーがこの区別性を取り払ってしまうとすれば、彼はどこに両者の区別性を具体的に見出したのでしょうか。同じ「喜び楽しむ」あるいは「享受」(frui)と言う時、そこには「使用」(uti)と「享受」(frui)の差異ほどではないにしても、創造者を「享受」することと被造物を「享受」することには、何らかの区別性があるのでしょうか。
繰り返しになりますが、創造者と被造物の区別性を「享受」と「使用」の区別に求めること、すなわち、わたしたち人間の倫理的態度に求めることが、なぜ必要なのでしょうか。
創造者と被造物との区別を設けてくださったのは神御自身です。なぜ人間が、自らの態度をもって(一方に対しては崇敬ないし礼拝をもって、他方に対しては軽蔑と尊大さをもって)区別しなければならないのでしょうか。
わたしたち(その中には私自身も含まれています)が「被造世界を享受すること」に躊躇があるのは、それを軽んじるなり憎むなりするように教え込まれてきたからではないかと思うのですが、その教えないし命令は神から出たものではないでしょう。アウグスティヌスもカルヴァンも神ではないし、直接啓示の仲保者でもありません。
わたしたちにできることは、「創造者は被造物ではないし、被造物は創造者ではない」というこのきわめて単純な事実を確認することだけではないでしょうか。
ファン・ルーラーの場合、神の場合も、世界の場合も、「享受すること」(frui)においては区別も差もありません。それはちょうど、17世紀のフラネカーとライデンで活躍したヨハネス・コクツェーユス(Johannes Cocceius)が、御父なる神と御子キリストの関係についても、神と人間との関係についても、同じ一つの「友情」(amicitia)という概念で説明したのと似ています。(さらに続く)
「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」
質疑応答(2)世を軽んじる罪
(2)聖書以来、「この世と調子を合わせてはならない」ということ、「この世を軽んじる」ということは、多くの神学者たちが論じてきました。アウグスティヌス然り、Imitatio Christiの著者然り、カルヴァン然りです。「この地上を喜び楽しむこと」と「この世と調子を合わせてはならない」という教説とは、ファン・ルーラーの神学の中でどのように調和を保っているのでしょうか。
そもそも、「享受されるために」この世界とわたしたち人間は造られたのです。つまり、「享受されるべきこと」こそが事物の本質であり、創造者の意図なのです。
キリスト者に求められていることは、神の意図に従うこと(≠この世と調子を合わせること)です。神の意図に従わないこと、それに逆らうことを「罪」と呼ぶのです。
神の意図が「被造物(=世と人)は享受されるべきものである」ということであるならば、なぜわたしたちはそれを喜び楽しんではならないのでしょうか。世はむしろ、世自身を軽んじたり憎んだりするのではないでしょうか。人間はむしろ、人間自身や自分自身を軽んじたり憎んだりするのではないでしょうか。
「この世は罪と悪に満ちている」と言って人生を嘆き悲しみ、絶望し、ため息と不平ばかりを口にし、他人と自分自身を傷つける。このような「世を軽んじる」態度はなんら神の意図に従っていません。ファン・ルーラーは、そのような(敬虔主義的・禁欲主義的な)態度を指して「創造者なる神への冒涜」と呼んでいます。
むしろわたしたちキリスト者は「世と人と自分自身に逆らって」世と人と自分自身を享受すべきではないでしょうか。これがファン・ルーラーの提起した問題であると言えるでしょう。
私自身を含む(改革派)正統主義者の落とし穴は、「これはアウグスティヌスとカルヴァンが主張したことだ」と言われたが最後、ほとんどそのままを無批判に受け入れてしまいそうになることです。しかしわたしたちは、彼らから悪いものまで受け継ぐ必要はありません。やはり彼らへのストア主義の影響は明白であると私は見ています。聖書的でないものを、知らず知らず持ち込んでしまっているのです。(さらに続く)
「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」
質疑応答(1)汎神論の懸念
拙論「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」をお読みくださった方から以下のようなご丁寧な質問をいただきました。ご本人の許可を得ることができましたので、質問内容を公開用に編集させていただいたうえで、謹んで回答いたします。
(1)講演の引用文では「この世界こそが神の世界である。この世界こそが、まさに神の栄光の舞台(theatrum gloriae dei)なのである。この地上の生が、神の栄光の現実化である」と言われており、この辺りにファン・ルーラーの神学的根拠がありそうですが、地上において働かれる「神御自身」とその舞台である「地上そのもの(被造物)」を、同様に「喜び楽しむこと(享楽)」が許されているのは、なぜなのでしょうか。ともすると、両者を非常に近付けて「喜び楽しむこと(享楽)」を許すと、汎神論的(pantheistic)な思想に接近してしまいそうですが、ファン・ルーラーはこの辺りに警戒心を持っていたのでしょうか。もし持っていたとすれば、どのように汎神論的思想と自らの神学を区別されていたのでしょうか。
ご質問ありがとうございました。どれも当然起こりうる疑問ですので、次回の講演のための参考にさせていただき、そのとき論拠を挙げてきちんとお答えできるようにしたいと思います。
しかし、事はわりあい単純です。この件に関するファン・ルーラーの神学的根拠は、主に創造論です。(経綸的三位一体における)創造のみわざ(creatio)において起こることは創造者(Creator)と被造物(creature)の絶対的区別です。創造論がきちんと機能しているかぎり、そしてこの区別が維持されているかぎり、いかなる汎神論も起こりえません。何の心配もありません。
しかも、創造者と被造物の区別は人間自身が立てた区別ではなく、神御自身がお立てになった区別です。創造者(神)については享受してよいが、被造物(物と人)については使用にとどめるべきであるという見方は、なんといっても人間側からの視点です。神がそのようなことをおっしゃったでしょうか。
そしてファン・ルーラー自身が論じているのは、創造者にとっての被造物の存在とは(神の存在を成り立たしめる上でかならずしも「必然性」がないという意味で)「不必要なもの」であり、その意味での「贅沢」であり、「遊び」であり、「楽しみ」であるということです。つまり、創造者自身が被造物を「享受」しておられるのです!(続く)