2009年2月12日木曜日

意識的にテレビを見ない日を作ろうと今日はさすがに思った

「お笑い芸人」なる職種の人々の出るテレビ番組が、今日ほど耐えられないと思った日はなかったかもしれません。



うちの子たちがテレビを見たい盛りの年頃でもあるので、ついスイッチを入れっ放しになり、結局付き合ってしまうのですが、今夜ばかりは「小学1年(!)の子供と母親(40)が二人で踏み切りをくぐった」と伝える短いニュースの直後にあのゲラゲラ声を聞くと、さすがに頭に血が上りました。



人間には「悼む」とか「喪」というような次元がどうしても必要です。なぜその子はお母さんについていったのか。そのときその子はどんなことを考え、何を思い出していたのかと想像するだけで胸がしめつけられます。しかしまた、そのような一つ一つを落ち着いて考える時間がわたしたちには必要です。



と思った次の瞬間にゲラゲラゲラ。その押し付けがましい大音量の笑い声の圧力によって「喪」の思いがあっという間に相対化されてしまいます。悪意さえ感じます。



そういう笑い声に支配されている番組なんか見なきゃいいと言われるだけでしょうけれど、最近はあんなのが出てこない番組を探すのが難しいと感じるほどです。



「悼み」や「喪」の思いを大切にしたい日もあります。たとえ見知らぬ人の死であっても。



だから、思いました。今日から私は、意識的にテレビを見ない日を作ります。



あの鬱陶しいゲラゲラ声から、私は早く解放されたい。



2009年2月11日水曜日

私の書斎、久しぶりの再公開

Dogmatics_2カイパー、バーフィンク、トレルチ、バルト、ノールトマンスに関しては、神戸改革派神学校の図書館には、パーフェクトかどうかは確認していませんが、たぶんほぼ全部揃っているのではないかと思います。



だから、私は神学生たちのことをとても羨ましいと感じているのですが、在学中にオランダ語の本に没頭する神学生が、残念ながら少ないのです。「宝の持ち腐れだ!」と言いたくなる面もあるのですが、3年3か月のうちにやらなければならないことが山ほどありすぎるので、彼らを責めるのは酷というものです。ただし神戸にはファン・ルーラーのものがあまりありません。これからの課題です。



(1) 私の書斎には、カイパーが住んでいません。『カルヴィニズム』の英語版と日本語版くらいしかありません。



(2) バーフィンクのものとしては、『改革派教義学』(GD)全4巻の原著オランダ語版の全部と英語版の一部をもっています。また、聖恵授産所出版部から『信徒のための改革派組織神学』という題で出ているMagnalia Dei(神の大いなるみわざ)の原著と日本語版(ただし下巻のみ)と、『啓示の哲学』(Wijsbegeerte der Openbaring)の原著と日本語版は持っています。このMagnalia Deiと『啓示の哲学』は、どちらも非常に重要な書物なのですが、残念ながら日本の教会においては全く軽んじられています。見た目(装丁)で負けているというか。



(3) トレルチは、昔の『著作集』(Gesammelte Schriften、GS)全四巻はありますが(※出戻り品)、現在刊行中の新しい著作集はありません。日本語版の著作集は全部あります。



(4) バルトは、『教会教義学』(KD)の原著と日本語版の全巻が揃っています。と言いたいところですが、原著が一冊だけ欠けています(残念!)。英語版(Church Dogmatics、CD)は持っていません。日本語版『カール・バルト著作集』も一冊欠け。ドイツ語版の著作集は10冊くらいあるだけです。バルトを取り上げた博士論文のうちオランダ語のものを集めているところですが、まだ10冊くらいです。



(5) ノールトマンスは、原著『著作集』(VW)が全部揃っています。と言えません。これも一冊欠けています。ノールトマンス研究書(博士論文)が、5冊ほどあります。



こんな感じの、かなり残念賞な書斎なのでした。



しかし、ファン・ルーラーに関しては、出版されたものについては、95%くらいは所有しています。



まさに「少しずつ少しずつ」です。お互い励まし合って行きたいものです。



2009年2月8日日曜日

来なさい、そうすれば分かる


ヨハネによる福音書1・35~42

「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが、『ラビ――「先生」という意味――どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい、そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシア――「油注がれた者」という意味――に出会った』と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――「岩」という意味――と呼ぶことにする』と言われた。」

今日の個所から始まる場面は、わたしたちの救い主イエス・キリストが御自身の弟子をお集めになった場面です。私は今、「イエス・キリストが弟子をお集めになった」と申しました。しかし、今日の個所に書かれていることをよく読みますと、「イエスさまがお集めになった」というよりも「バプテスマのヨハネが、自分の弟子であった人々をイエスさまに委ねた」という言い方のほうが適切であることが分かります。

イエスさまを見たヨハネは、二人の弟子たちの前で「見よ、神の小羊だ」と言いました。それを聞いた人々はその日から、ヨハネではなくイエスさまのほうに従う者になりました。このとき起こったことは、ヨハネのもとからイエスさまのもとへの弟子たちの移動です。ヨハネはいわば引退を決意したのです。わたしの果たすべき役割は終わった。これからはイエス・キリストの時代が始まるのだと、そのようにヨハネははっきりと自覚したのです。

大きな役割を果たしてきた人が引退する。それはある意味で時間の流れが作り出すことです。時間はすべての人に平等に与えられています。しかも、時間は、誰もそれに逆らうことができない大きな力を持っています。時間の前ですべての人の働きは相対化されます。一つの仕事に永遠にとどまることができる人はいません。いつか引退する日が来るのです。

そのことを知っている人は、自分の弟子が他の人の弟子になることを寂しがったり悔しがったりしません。自分の弟子たちを私物化しません。そもそも弟子たちを自分の所有物だとか、自分の子分のようなものだとは思っていません。喜んで他の人に委ねるのです。

ヨハネの弟子たちのほうも、後ろを振り返ることはありませんでした。まさにその日をもって、ヨハネに別れを告げ、イエスさまの弟子になりました。まさに「イエスに従う者」になったのです。

イエスさまは、そのことをお知りになったとき、二人の新しい弟子に「何を求めているのか」とお尋ねになりました。イエスさまの質問は、What do you want? です。つまり、この御質問の趣旨は「あなたがたは何をしたいのか」です。ですからもう少し噛み砕いて訳せば、「あなたがたは、わたしに何をしてほしいと願っているのか」ともなるでしょう。しかしまた同時に、「あなたがたは、わたしと共に、何をしたいと願っているのか」というニュアンスも含まれている。そのように言ってよいと思います。

イエスさまと彼らのやりとりは、いわばごくふつうの何気ない会話のようでもあります。しかし、少し丁寧に分析してみますと、イエスさまの御質問は非常に重要な意義を持っているような気もしてきます。このようなとらえ方は、決して大げさなものとも思えません。実際に言えることは、このイエスさまの問いは、二千年前の弟子にだけ投げかけられたものではなく、今のわたしたちにも投げかけられているのだ、ということです。

わたしたちはイエス・キリストに何を願い、何を期待しているのでしょうか。あるいはまた、わたしたちはイエス・キリストと共に何をしたいと願っているのでしょうか。「何も期待していないし、何もしたくない」というのでは、やはりちょっと困ります。あるいは「イエス・キリストに何かをしてほしいとは願っているが、わたしは何もしたくない」というのでも困ります。イエス・キリストはわたしたちに救いの恵みを与えてくださいます。しかし、恵みを与えられた者は、イエス・キリストと共に働き、多くの人々とその恵みを分かち合う者にならなくてはならないのです。

ヨハネの弟子であった二人は、イエスさまの問いかけの意図が分かったのでしょうか。分かったようでもあり、分からなかったようでもあります。彼らの答えは「先生はどこに泊まっておられるのでしょうか」というものでした。特別伝道集会の講師として来てくださった先生に「泊まっておられるホテルはどこでしょうか」と尋ねているようなものです。いくらか拍子抜けの気持ちをお持ちになったかもしれません。その先生が教会のみんなに聞きたいことは、そんなことではないはずです。「このわたしにどんな話をしてほしいのか」でしょう。「今、この教会が抱えている問題は何であり、その問題をあなたがたはどのように解決したいと願っているのか」でしょう。

しかし、イエスさまは、彼らの問いかけに腹をお立てになることはありませんでした。きちんとお答えになりました。「来なさい、そうすれば分かる」。そしてその日、彼らは、イエスさまの泊まっておられる場所に、一緒に泊まらせていただくことになりました。

「来なさい、そうすれば分かる」。このお答えそのものの中に、ものすごく特別な意味が含まれていると考えることはできないかもしれません。あまりにも多くのことを読み取りすぎないほうがよいかもしれません。しかし、いろいろと考えさせられることはあります。ともかくはっきりしていることは、二人の弟子たちは、この日はまだ、イエスさまの弟子になったばかりであったということです。つまり、彼らにとっては、イエスさまのことをまだ何も知らなかった日です。まだ何も知らない、何も分かっていない彼らをイエスさまは「来なさい、そうすれば分かる」と言ってお招きになり、御自身がお泊りになっていた場所に彼らをお泊めになったのです。

もしそうだとしたら、その夜、イエスさまと彼らの間でなされたことは、はっきりしています。おそらく彼らは、夜を徹してイエスさまのお話を聞き、互いに語り合ったのです。そして、「泊まる」ということには一緒に食事をすること、一緒に休むことが必ず含まれています。つまり、彼らは文字どおり「寝食を共にした」のです。イエスさまの弟子になるとは、イエスさまと寝食を共にする仲間になることを意味しているのです。

教会もまた、まさにそのようなところです。わたしたちは、ふだんから寝食を共にしているわけではないかもしれません。しかしたとえばわたしたちの教会が一年に一度行ってきた一泊修養会のような機会があります。また、東関東中会ではまだ行われていませんが、東部中会時代には、毎年夏に二泊三日の信徒修養会がありましたし、青年会や学生会が、やはり二泊三日、あるいは三泊四日で行う修養会などもありました。

そのような集会に参加しなくても、毎週日曜日の礼拝に出席しなくても、自分ひとりで聖書やいろんな本を読みさえすれば、「分かる」ようになるでしょうか。わたしたちが体験的に知っていることは、そうではないということです。そこに行かなければ、実際に参加しなければ、決して理解できないものがあるということを、わたしたちは知っています。

外国旅行がそうでしょう。ガイドブックを見るだけでは、本を読むだけでは、その国の様子は、ほとんど分かりません。大切なことは、とにかく行ってみること、参加することです。「そうすれば分かる」。イエスさまのお言葉は、意味深長です。

これはどんなことにでも当てはまります。学校に行くこと、仕事に就くこと、結婚すること、子育てをすることなども、そうでしょう。わたしたちの人生は、実際に体験してみなければ分からないことだらけです。外側から客観的に眺めているだけでは、そこにある苦労も、そして喜びも、ほとんど分かりません。

「いや、そうではない」と、わたしたちは反発を感じるかもしれません。イエスさまは「来なさい」と言われる。しかし、それではサービスが足りないではないか。イエスさまのほうがわたしのところに来るべきである。今の時代はどんなことにでも宅配サービスがあるではないか。そのような考えがあることも尊重しなければならないでしょう。

この点についてはイエスさまもよく分かっておられました。病気の人に「来なさい」とは決しておっしゃいませんでした。イエスさまのほうから出向いて行かれました。また、今日の個所には言及されていませんが、ヨハネによる福音書のこれまでの個所には、次のように書かれていました。「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」(1・14)。

これがイエスさまの基本姿勢です。「他人を自分のもとに呼びつける存在」というような、どこかしら邪悪なイメージをイエスさまに抱くことは完全に間違っています。矢印の方向が反対です。イエスさまがわたしたちのところに来てくださったのであって、わたしたちがイエスさまに呼びつけられるのではないのです。この点は誤解すべきではありません。

しかし、です!宅配サービスはたいへん便利なものではありますが、問題もあります。そこで起こる問題は、あらゆる事柄がほとんど個人化ないし個人主義化されてしまうことです。おいしいものをみんなで味わうのではなく独り占めするという事態が起こるのです。

しかし、信仰とは多くの人々と共に分かち合うものです。イエスさまがわたしひとりの家に来てくださるということをわたしたちが喜びはじめるとき、その人の信仰から「教会の交わり」の持つ意義が抜け落ちてしまいがちです。この点に関しては、今日の個所でイエスさまが「来なさい」と呼びかけておられる相手は、一人ではなく、二人であったという事実が重要な意味を持ちます。

イエスさまのもとには、複数の弟子たち、そして大勢の弟子たちが集められるのです。イエスさまがおられるところには「交わり」があります。イエスさまが「交わり」をつくりだしてくださるのです。イエスさまのもとに行くとは、イエスさまただおひとりのところに行くことだけではなく、イエスさまのもとに集まっている弟子たちのところに行くことをも意味しているのです。

その点から言えば、教会はなんら「縦社会」ではありません。言葉の最も正しい意味での「横社会」です。わたしたちは絶対的権力を持つ専制君主のような存在に呼びつけられ、物も言わずに集まっているわけではありません。わたしたちは、イエスさまと共に生きる楽しみを共有しつつ、この交わりそのものから多くの恵みをいただいているのです。

とても幸いなことに、この教会のなかの誰一人として「わたしは呼びつけられている」と感じておられる方はおられません。わたしたちは何ら受動的ではありません。主体的・積極的に集まっています。乱暴な言い方かもしれませんが、わたしたちはここに“来たいから来ている”のです。“やりたいことをやっている”のです。皆さんが今、そのような顔をしておられます。皆さんの顔は、恐怖に怯える顔ではなく、喜び楽しんでいる顔です。

「ふだん、家ではわたしひとりである」と感じておられる方にとっては、交わりこそが救いであるとお分かりになるときもあるでしょう。それは、どんなに打ち消そうとしても打ち消すことができない際限なき孤独感からの救いです。わたしたちも、教会でお互いに励まし合っているときには感じないことであっても、ひとりの家に帰ると「誰もわたしを必要としていないのではないか」という不安にとらわれてしまうことが、きっとあるはずです。その失望感、空虚感、人生の無意味感は、本当に苦しいものです。

その中から救い出されるために、わたしたちにできることがあることを知る必要があります。それは、「来なさい」というイエスさまの呼びかけに応じることです。

「そうすれば分かる」。何が「分かる」のでしょうか。救いの恵みを分かち合いながら共に喜んで生きている教会の仲間に加えられることの喜びが分かるのです!

(2009年2月8日、松戸小金原教会主日礼拝)

丸山眞男を読んだことがない

私の交友関係によるところも大きいのですが、「私は丸山眞男の本を読んだことがない」という言葉を語ることに、つい最近までかなりの躊躇や抵抗がありました。人前でカミングアウトできずに来ました。しかし。



あはは、実は私、丸山氏の本を全く読んだことがありません。買ったこともありません。本を手に取って頁をめくったことくらいはありますが、3ページも、いや、2ページも読んだことがありません。



「嫌いなのか」と問われたら「別に嫌いではない」とたぶん答えますが、現時点では「ほとんど関心がない」としか答えられません。



理由は自分でも分かりません。難しい本ならけっこう読んできたほうだと思っています。最近はオランダ語の本を読むことがあまり苦にならなくなりました。日本語の本もわりと読んでいるつもりです。



しかし「丸山眞男を読んだことがない」。やっとこういうことを口に出して言えるようになったことを(その際おそらく私は「何かの呪縛から解放される」というプロセスを通り抜けているはずです)私の神に感謝しています。



解放のきっかけは、親友である(と私は思っている、ちょっと年上の)大学教員の言葉です。「ぼくはジャック・デリダを読んだことがない。」



ああ、こんなふうに言える文化系の知識人に会ってみたかったのだと、そのとき感じました。ちなみに私は、デリダのほうは20年くらい前から、関心をもって読んできました。



2009年2月3日火曜日

「改革派神学研修所 東関東教室ホームページ」を立ち上げました

このたび「改革派神学研修所 東関東教室」(世話人 安田恵嗣、三川栄二、持田浩次、小林義信、関口 康)は、東関東教室のホームページを立ち上げましたので、謹んでご連絡申し上げます。



改革派神学研修所 東関東教室ホームページ
http://higashikanto.reformed.jp/



このホームページアドレス(URL)を教会の皆様にお知らせいただけますと助かります。また各教会のホームページにリンクしていただきたく、よろしくお願いいたします。



2009年2月1日日曜日

世の罪を取り除く神の小羊


ヨハネによる福音書1・29~34

「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。』そしてヨハネは証しした。『わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、「“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。』」

今日の個所にも、イエス・キリストに洗礼を授けた人、バプテスマのヨハネによる証しが続いています。先週の個所でヨハネはこう言っていました。「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(27節)。これはヨハネの謙遜であると共に、彼の信仰でもあると私は申しました。しかし、先週申し上げたことはあまり繰り返さないでおきます。

同じことが今日の個所にも表現されています。しかし、この個所に書かれている内容は非常に難解です。どのように理解すればよいか分からない言葉が、たくさん出てきます。そういう場合の一つの逃げ道は、難しいところを後回しにすることです。少しでもぴんと来るところ、理解可能な言葉を探して、そこから読みはじめるとよいでしょう。ヨハネが語っている結論部分には、理解できるものがありそうです。それは34節です。「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」。

これで分かることは、ヨハネの証しの要点はイエス・キリストは神の御子であるということだということです。そして、神の御子なるイエス・キリストは端的に「神」であるということです。これは先ほどの点の繰り返しです。ヨハネにとって、イエス・キリストは単なる尊敬の対象ではありませんでした。信仰の対象であり、礼拝の対象でした。

この点はわたしたちも同じです。教会はイエス・キリストを礼拝してきました。イエス・キリストに向かって祈ってきました。この点を外して教会は成り立ちません。わたしたちの礼拝はキリスト礼拝であり、わたしたちの信仰はキリスト信仰です。それはキリストを抜きにした単なる神信仰ではないと言ってもよいでしょう。

キリストを抜きにした単なる神信仰とは、何のことでしょうか。いろんな例を挙げることができます。たとえば、旧約聖書の時代から今日まで存在し続けているユダヤ教の信仰はまさにそういうものです。あるいはイスラム教。あるいは日本の神道などもそうであると言えるでしょう。あるいはこれは信仰と呼んでよいものかどうかは微妙ですが、古代のギリシア神話に出てくる神々への祀りなども、キリストを抜きにしているという点で同じであると言えるでしょう。

私が申し上げたいことは、わたしたちの教会の信仰はそういうものではないということです。わたしたちの信仰は、どこで切ってもキリストが出てくる、キリストを抜きにしては全く成り立たない信仰です。

この信仰はバプテスマのヨハネから始まった、と語ることはできません。わたしたちが持っているこの聖書には、ヨハネによる福音書だけではなく他の三つの福音書があります。それらの中に記されていることによりますと、バプテスマのヨハネよりも前に、イエス・キリストを産む役割を果たしたマリアと夫ヨセフが、あるいはベツレヘムの羊飼いたちが、あるいは東の国から来た占星術の学者たちが、イエス・キリストを神の御子と信じ、御子を礼拝しました。真のキリスト教信仰はベツレヘムから始まったのです。

しかし、ベツレヘムのイエスさまは、まだお生まれになったばかりの赤ちゃんでした。将来この方がどのような働きをなさるのかなど誰にも分かりませんでした。バプテスマのヨハネが登場するのは、もっと後のことです。少なくともイエスさまは成人しておられました。そしてヨハネはその目でイエスさまを見たのです。そうです、ヨハネはイエスさまのお姿を「見て信じた」のです。

ヨハネによる福音書には、ずっとあとのほうに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20・29)というイエス・キリストの言葉が記されています。この言葉をイエスさまは弟子のトマスに対して語っています。この言葉の意味については、その個所を学ぶときに説明しますので今は割愛します。今ここで重要な点は、バプテスマのヨハネは「見ないのに信じた」人ではなく、「見て信じた人」であるということです。

しかし私はこのことを何か悪い意味で、あるいは批判的な意図から申し上げているわけではありません。「見ないのに信じる信仰」が「幸いである」と言われているのですから、論理的には「見て信じる信仰」は「幸いではない」ということになってしまうかもしれませんが、だからと言って「見て信じる信仰」は「信仰ではない」とか「真の信仰ではない」と言われているではないのです。

自分の目で見たこと、自分の耳で聞いたこと、自分の手で触って確認したことを、自分自身で信じること、またそれをそのまま人に伝えることも、正しい意味での「信仰」です。それはまた、正しい意味での「伝道」であり、「証し」でもあるのです。

それでは、ヨハネはイエスさまの何を見たから信じたのでしょうか。そのことが32節に記されています。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」。これはとても不思議な言葉です。聖書の中で「霊」は見えないものであることになっています。見えないはずの霊がヨハネには「見えた」と言っているように読めますが、この読み方は正しいでしょうか。

もちろんそのようにしか読めない面があることを認めなければならないかもしれません。しかしもう一つの読み方があるように思われます。それは、ヨハネが見たのは、とにかくイエスさま御自身のお姿であったということです。霊そのものがヨハネの目には見えたというよりも、霊に満たされたイエスさまのお姿を見て、イエスさまに霊が豊かに注がれたことをヨハネが信じたと理解することができないでしょうか。

この点にこだわってみたいと思ったことには理由があります。イエスさまに注がれた“霊”とは聖霊です。聖書の中で「聖霊」は、イエスさまだけに注がれたものではありません。イエスさまを信じて生きた人々、そしてまた、わたしたち自身を含むイエスさまを信じて生きているすべての人々にも注がれました。この点ではイエスさまとわたしたちの間には共通点もあると言えるのです。イエスさまに注がれたと言われている“霊”とわたしたちに注がれる“霊”は、別の霊ではなく、同じ霊なのです。

しかし、ここで考えてみなければならないことは、わたしたちにも「聖霊」が注がれているというならば、そのことをわたしたちはどのようにして確認することができるのかという問題です。

「見た」だの「見えた」だのと、まるで液体か気体かでもあるような、まるで地上の物質であるかのようなものとして聖霊が存在し、そのようなものがわたしたちの中に流し込まれる様子を、はい、わたしは確かにこの目で観察し、確認しました、それがわたしたちに聖霊が注がれていると語ることができる動かぬ証拠であり、証しですと言わなければならないのでしょうか。そのような言い方や考え方は、わたしたちにはむしろ、全く不可能なものであると言わなければならないでしょう。

それとも、イエスさまに注がれた“霊”だけが目に見えるものであり、イエスさま以外のただの人間、普通の人間に注がれる“霊”は、目に見えないものであると言わなければならないのでしょうか。こんなふうに考え始めますと、だんだんおかしな話になってくるように思われてなりません。

そして、わたしたちに分かることは、わたしたち自身のことです。わたしたちは、信仰をもって生きている人々には聖霊が注がれている、と信じています。逆のことは、あまり言いたくありませんが、論理としては言わざるをえません。信じていない人には、聖霊は注がれていない。そうしますと、わたしたちにできることは、両者を見比べることです。信じている人と信じていない人の違いを見分けることです。

違いなどどこにもありませんと言わなければならないかもしれません。いえいえ、それどころか、信じている人より信じていない人のほうが優れているように見える。そういうことも実際にはあるかもしれませんが、それではいくらなんでも寂しいでしょう。「やはり違いがある」、そう言いたいでしょう。

ヨハネには、その違いを見分けることができたのです。“霊”が注がれ、満たされているイエスさまの姿を見て、「この方こそ神の御子である」ということを!

そういう目をもし手に入れることができるなら手に入れたいものだと私は願っています。しかし、もっと願うことは、私自身の姿が、他の人々の目から見て「あの人は信じている人である」と見えるようであって欲しいということです。「信じているあの人は、あのように、何か楽しそうであり、幸せそうでもある。あの人のように、楽しそうな、幸せそうな人生を送ることができるなら、わたしも信じてみたい」と思ってもらえるような人間に、もしなれるものならなってみたいと願うばかりです。

全くそうでないような人間は、牧師としてはおそらく失格なのです。「神を信じたらあんなふうな暗い人間になってしまうのか。ヤダヤダ」と思われるような人間であるならば。

イエス・キリストのお姿を見て信じたヨハネが語った言葉は、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29節)ということでした。なぜ「小羊」なのかという点に、残念ながら今日は、時間の関係でほとんど触れることができません。ここで「小羊」とは旧約聖書に出てくる過越祭の際に神にささげられる犠牲の小羊のことです。イエス・キリストは、十字架の上で御自身の命を犠牲にしてくださった、まさに過越の小羊である。そのことをヨハネは預言しているのです。この点を指摘するだけにとどめておきます。

このことをヨハネは、イエスさまに「聖霊」が注がれる様子を見たので信じるに至ったと語っているわけです。これを逆に言えば、または別の言い方をすれば、「聖霊」がある人のうちに注がれることと「罪」の問題とが深い関係にある、ということでもあるのです。

ヨハネの目がとらえた事実をわたしたちは次のように考えることはできないでしょうか。ヨハネは、聖霊に満たされたイエスさまを見て、この方こそ「世の罪を取り除く」役割を果たすために来てくださった神の御子であると信じるに至った。世の罪を取り除くために来られた方自身には罪がない。聖霊の注ぎと罪の支配の度合いは、反比例の関係にある。

わたしたちの場合には、イエスさまとは違って、「罪がない」とは言えません。しかし、信じることができるようになり、聖霊に満たされて生きることができるようになったときには、イエス・キリストの力によって罪の支配のもとから救い出されている。少しずつではあるかもしれないけれども、罪を取り除かれている。信じている人と信じていない人の違いは、罪の支配下にあるかどうかである。ヨハネ(この福音書の著者ヨハネ!)の言葉を借りれば「闇」の中にとどまり続けているかどうかです。

わたしたちはいつまでも「闇」の中にとどまり続けているわけではありません。すでに「光」のもとにあります。イエス・キリストを信じる人には聖霊が注がれています。それによってわたしたちは底抜けに明るい人(輝く笑顔の人!)へと造りかえられるのです。

もし違いがあるとすれば、このあたりにあると言いたい。言わせていただきたい。いや、そのように言えるようになりたい。私はそう願うのです。

(2009年2月1日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年1月25日日曜日

荒れ野で叫ぶ声


ヨハネによる福音書1・19~28

「さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させたとき、彼は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表わした。彼らがまた、『では何ですか。あなたはエリヤですか』と尋ねると、ヨハネは『違う』と言った。更に、『あなたは、あの預言者なのですか』と尋ねると、『そうではない』と答えた。そこで、彼らは言った。『それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。』ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。『わたしは荒れ野で叫ぶ声である。「主の道をまっすぐにせよ」と。』遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、『あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか』と言うと、ヨハネは答えた。『わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。』これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。」

今日の個所に出てくる「ヨハネ」はこの福音書を書いたヨハネではありません。イエス・キリストに洗礼を授けたことで知られるバプテスマのヨハネです。次のように書かれていました。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しするために来た」(1・6~8)。

このヨハネが今日の個所のヨハネです。ヨハネがそれをするために来たと言われている「証し」の内容が今日の個所に具体的に紹介されているのです。それはどのような「証し」だったのでしょうか。いくつかのポイントに分けて説明していこうと思います。

その説明をしていく前に一つ確認しておきたいことがあります。それは、今日の個所でバプテスマのヨハネが立たされている、明らかに危険な状況です。

19節に「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとに遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させた」と書かれています。しかし、彼らがしているのは「質問」というよりも「尋問」です。「祭司やレビ人たち」と呼ばれているのは宗教家を引き連れた警察官のような存在であったと説明する人々がいます。祭司が宗教家、レビ人が警察官というわけです。

おそらくこの説明は当たっています。彼らがバプテスマのヨハネを質問攻めにしている意図は、取り調べです。「エルサレムのユダヤ人たち」は彼らの上司です。おそらく彼らは一つの噂を聞きつけたのです。ヨハネという名の怪しい人間がいる。この男は人を集めて新しいグループを作っている。集まった人に洗礼を授け、「これから来る救い主を待ち望め。そのために準備せよ」というようなことを呼びかけている。このヨハネとはいったい何者なのか。現地に行って本人に会って調べてこい、というわけです。

ですから、先ほど申し上げました、ヨハネが置かれた危険な状況とは、次のようなものであると考えることができます。一人のヨハネを大勢の取調官が取り囲んでいる。彼らはヨハネに対して矢継ぎ早に質問を繰り出すことによって事実上の尋問をしている。そして、もしヨハネが少しでも隙を見せたりぼろを出したりすれば、たちまちのうちに逮捕して、エルサレムに連行し、処刑しようとしている。そのような危険極まりない状況にヨハネは立たされていたと見ることができるのです。

その状況の中でヨハネが「証し」をしました。彼がこの「証し」の中で語っていることの要点は、次のようなものです。

第一は、ヨハネ自身はメシアではないということです。「あなたはどなたですか」という質問に対して「わたしはメシアではない」と答えています。メシアとは、救い主キリストのことです。「わたしはキリストではない」と言っているのです。

第二は、ヨハネ自身は偉大な預言者でもないということです。「あなたはエリヤですか」という質問に「違う」と答え、また「あなたはあの預言者ですか」と問われて「そうではない」と答えています。

「エリヤ」とは旧約の時代に活躍した預言者の一人です。彼らの質問の意図は「あなたはあの偉大な預言者エリヤの生まれ変わりだと自称するつもりですか」ということです。「あの預言者」と呼ばれている存在は不明です。しかし、彼らの質問の意図は「あなたは自分を特別な預言者だと思っているのですか」ということでしょう。ヨハネはそのことをすべて否定しています。私は偉大な預言者などではないと言っているのです。

しかし、です。第三のポイントとして申し上げておきたいことは、ヨハネが答えている「わたしはメシアではない」とか「わたしはエリヤ(のような偉大な預言者)ではない」という言葉の中の強調は、明らかに「わたしは」という点に置かれているということです。

ヨハネの意図ははっきりしています。「メシアはわたしではない。別の方がメシアである」ということです。これはもちろん、ヨハネの責任逃れのようなことではありません。取り調べを受け、質問攻めにされ、「いやいや、それはわたしではありませんよ。どこかのだれかとお間違えではないでしょうか」と、しらを切っている。ほかのだれかに責任を転嫁し、追及を免れようとしている。そのような情景を思い浮かべることは、完全に間違いです。

ヨハネの意図はそういうことではありません。「わたしはメシアではない。メシアは別の方である。あなたがたはその方を知らないが、わたしは知っている」と言っているのです。

ここまで言いますとヨハネを追及している人たちは「あなたはメシアがだれかを知っているというのか。それならば、それは誰かを今ここで言いなさい」と、口を割らせようとしたことでしょう。しかし、ヨハネは吐きませんでした。もしヨハネがそれをしゃべってしまっていたら追及の手はすぐにでもイエスさまのところへと及んだでしょう。それこそが責任転嫁です。しかしヨハネはそうしませんでした。イエスさまをお守りしたのです。

第四のポイントは、「わたしはメシアではない」というヨハネの答えの真意は何かという問いの、もう一つの答えです。

この問いの最初の答えは「メシアはわたしではなく、別の方がメシアである」とヨハネが言っているということでした。これは事実です。ヨハネはこの事実を事実として語っているだけである。これも一つの答え方です。しかし、次に問わなければならないことは、ヨハネがこの事実を事実として語っていることの意味は何かということです。「責任転嫁ではない」という点はすでに申し上げました。しかしそれだけでは、説明としては不十分でしょう。責任転嫁でないなら何なのか。それが問題になるでしょう。その答えを出す必要があるでしょう。

この点で考えられることは、二つあります。第一はヨハネの謙遜です。第二はヨハネの信仰です。もちろん両方ともイエスさまとの比較ないし関係で申し上げることです。

第一の「ヨハネの謙遜」は、「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(27節)というヨハネ自身の言葉の中に表われています。イエスさまはヨハネよりも年齢的に若かったわけですし、(来週学ぶ個所に出てきますが)イエスさまはヨハネから洗礼を受けたのであって、その逆ではありませんでした。しかしヨハネは、自分自身はイエスさまよりも劣っている者であり、またイエスさまの下に立つ人間であると告白しているのです。

優劣の関係とか上下関係とか、そのような話は今日ではあまり好まれません。私自身もこのような話や言葉をなるべく避けたいと願っているほうです。しかし問題となっている事柄が「謙遜」という点にかかわっている場合は、優劣とか上下という関係づけを避けて通ることはできません。

なぜなら、「謙遜」とは、相手に対してこのわたしは徹底的に下であると自覚すること、そして実際に相手よりも下の位置に自分の身を置いてしまうことを意味しているからです。別の言い方をすれば、「謙遜」とは、力(ちから)にかかわる概念であるということです。話や言葉として「謙遜」を口にするだけでは足りません。文字どおり相手の持っている力の前に圧倒され、押しつぶされ、粉々に砕かれることが求められるのです。

ヨハネはそのことを知っていました。これから来られる真のメシア、イエス・キリストは、わたしなど足もとに及ばない真の力、救いの力を持っておられる方であると、ヨハネは告白しているのです。

第二の「ヨハネの信仰」は、彼が預言者イザヤの言葉を用いて語った「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道を真っ直ぐにせよ』と」(23節)という言葉に表われています。

このイザヤの言葉は、実際には次のようなものです。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ書40・3)。

実際のイザヤ書の言葉とヨハネが引用している言葉が少し違っているのは、この引用がヘブライ語の旧約聖書からではなく、ヨハネ福音書が書かれた頃には広く使用されていた七十人訳(しちじゅうにんやく)と呼ばれるギリシア語訳旧約聖書からのものだからです。新共同訳聖書はヘブライ語の原典から訳されていますので少し違っているというわけです。

この点は勘案するとしても、ヨハネがこのイザヤの言葉を引用している意図ははっきりしています。

「主の道」とは、すなわち神の道です。ヨハネにとってこれから来られる救い主なるメシア、イエス・キリストは、主なる神御自身です。イエスさまは自分よりも年齢が下だとか、後輩だとか、そのような次元のことは、ヨハネにとってはどうでもよいことでした。イエスさまは端的に「神」であられるとヨハネは信じたのです。これが「ヨハネの信仰」の内容でした。真の神であられる救い主イエス・キリストが来てくださる、そのための道備えをしなければならないと、ヨハネは自覚したのです。

ところで、ヨハネが引用しているイザヤ書40章の言葉は、旧約聖書を読む多くの人々を慰め、励ましてきたものです。わたしも大好きな御言葉です。

イザヤが立たされた現実は、最初は悲惨そのものでした。神の民イスラエルが分裂してできた北イスラエル王国と南ユダ王国が争い合いました。そして、分裂した二つの国は、それぞれの隣国アッシリアとバビロンに滅ぼされました。エルサレム神殿は打ち壊されました。神の民の多くが奴隷として隣国に連れ去られました。ところが、70年間の捕囚期間の後に神の民がエルサレムに戻ることが許されました。打ち壊された神殿を再び建て直す希望が与えられたのです。

イザヤ書40章の状況は、今最後に申し上げた、神の民の希望が取り戻された状況です。イザヤが語っている「荒れ野」は、ただ単なる地理的な意味での砂漠を意味しているだけではありません。宗教的・精神的・内面的に荒廃した人間の心の砂漠をも意味しています。

ヨハネが自分自身を「荒れ野で叫ぶ声」であると呼んでいる意図も、まさにそれです。宗教的・精神的・内面的に荒廃した人間の心の砂漠の中で、彼は叫ぶのです。「真の救い主が来てくださる!あなたの心の砂漠は、豊かな恵みにあふれる地に変えられる!イエス・キリストを信じてください!」

この叫び声は、わたしたちの時代、この状況のなかで、今なお響き続けています。

もし今、あなたの心が砂漠のように荒れ果てているならば、どうか、ヨハネの叫び声に耳を傾けてください。イエス・キリストを信じてください。

そして、真の救い主イエス・キリストを礼拝するあなたの神殿を建てなおしてください。松戸小金原教会を、あなたの神殿にしてください。お願いいたします。

(2009年1月25日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年1月24日土曜日

K. ヘンドリクセ著『存在しない神を信じること―無神論牧師のマニフェスト―』について

http://ysekiguchi.reformed.jp/2009/01/post-7208.html?cid=34906152#comment-34906152



アメリカの波勢様、うれしいコメントありがとうございました!



「無神論牧師」のことは、私もオランダで知りました。問題の書は以下のURLで紹介されています。
http://www.nieuwamsterdam.nl/gelovenineengoddienietbestaat



日本の『キリスト新聞』も大きく取り上げています。
http://www.kirishin.com/2009/01/2009131-2.html



著者はオランダプロテスタント教会(Protestantse Kerk in Nederland)の牧師であるクラース・ヘンドリクセ(Klaas Hendrikse)氏。書名は『存在しない神を信じること―無神論牧師のマニフェスト―』(Geloven in een God die niet bestaat. Manifest van een atheïstische dominee)です。たしかアムステルダム自由大学の書店コーナーだったか、ユトレヒト大学近くの一般書店のキリスト教書コーナーだったかにたくさん平積みされていたはずです。表紙だけ見て「へえ、オランダではこんなのが流行ってるのか」と思ったことを憶えています。



私はまだこの本を買ってもいないし、読んでもいませんが、タイトルだけ見るかぎり、おそらく全く同意できない(あるいは「決して同意すべきでない」)ものだろうと想像しています。しかし、興味はあります。とくに気になっていることは、オランダ語のbestaan(存在)の意味です。



もしそれが「目で見ることができ、手で触ることができる地上的な事物としての何ものかが存在すること」を意味しているとしたら、「わたしたちの神はそういうモノではありません」と言わなければならないかもしれません。「神を見た者はいない」というヨハネによる福音書1章に表明されている真理との関係が気になっています。あるいはまた、「無神論はキリスト教の敵である」と単純に語ることができるかどうかという点が、とても気になっています。ユダヤ教も、イスラム教も、そして日本の神道なども(「無神論」の対立概念としての)「有神論」なのですから。



オランダの人々にとってはなるほど日本は「地の果て」でしょうけれど、私にとってはオランダこそが「地の果て」でした。私は海外旅行はもうたくさんです。勝手は分からないし、言葉は通じないし。観光とかそういうことにはまるで関心がないし。言語能力の面はもちろんのこと、美的感性の面に何か根本的な欠落があるようだと、改めて自覚させられるばかりでした。毎日どんより曇っている季節の「美しくない」オランダに(事実、連日ほぼ雨天でした)わざわざ行く私も私ですが。



ちなみに、アムステルダムで四泊した「ホテルアクロ」(Hotel Acro)の最寄りトラムステーションの目の前が、かの有名な「国立美術館」(Rijksmuseum)でした。フェルメール作品が数点あるそうで、普通の日本人観光客ならば、ほぼ確実に立ち寄るところ。ところが、私ったら、四泊「も」しながら、その前を素通りでしたヨ。「あほか!」と罵られますね、きっと。



ですから、あとのことは波勢さんにすべてお任せいたします。翻訳だけなら、日本で十分できます。それ以上の何かを望んだことは、いまだかつて一度もありません。「私の」神学の場は「日本の」教会であると信じています。また、「日本語で神学すること」(doing Theology in Japanese)の意義を、オランダに行ってみてますます確信させられました。しかし、「海外の」教会を場とする日本の神学者がいることを否定するつもりはありません。



以上、まとまりませんが、お礼のつもりで書きました。どうかこれからも元気にがんばってください。心から応援しております。



2009年1月20日火曜日

本末転倒の極み

礼拝出席者数の落ち込みを気にする教会員は少なくないと思います。その声を聞いて牧師や教会役員たちは、責任を痛感して落ち込むばかりです。しかしみんなの話をよく聞くと、30年から40年くらい前との比較だったりします。「時代は変わったんだ!」と少し大きめの声で言いたくなりますが、ぐっとこらえます。別に教会員のみんなも牧師や教会役員たちのことを責めたい・攻めたいわけではなく、ただ先行きに不安を感じているだけだからです。



“わたしの教会”が将来消滅してしまうかもしれないとほんの少しでも予感できてしまう要素を感じとることは、だれにとっても嫌なことです。「たとえ各個教会は滅びようとも、日本キリスト改革派教会が存続するなら、いやいや、“改革派神学”さえ生き残ることができるなら、永遠の真理は保たれるゆえに、すべては安泰である」というようなクレージーな論理は徹底的に超克されるべきであると私は確信しています。事情はちょうど正反対でなければならない。「神学栄えて教会滅ぶ」などというのは本末転倒の極みです。神学は(カール・バルトが主張したのとは異なる意味で)「教会の学」でないならば、ほとんど無意味なのです。



2009年1月18日日曜日

恵みの神が世に来られた


ヨハネによる福音書1・14~18

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この方のことである。』わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

今日はヨハネによる福音書の学びの三回目です。まだ始まったばかりです。とても難解な序文がまだ続いています。

しかし、今日の個所には驚くべきことがあります。それは、ここに来て初めて「イエス・キリスト」という名前がやっと出てくるということです。

これまでの文章の中に、この名前は一度も出てきませんでした。イエス・キリストのことについて、ただ「言(ことば)」とだけ呼ばれていました。イエス・キリストの御生涯を描くことが目的で書かれている福音書という分野(ジャンル)に属する文書の中で、です。これは、どう考えても正常なことではありません。しかし、ここに来てやっと名前が出てきて、ほっとする。ああ、これまでの話はイエスさまの話だったのですねと分かる。このことについてはやはり、ヨハネ自身の側に何らかの意図があると見てよいでしょう。

それでは、そのヨハネの意図とは何でしょうか。考えられることを申し上げておきます。14節に「言は肉となった」と記されています。これは誤訳であるとまでは言えませんが、かなり大きな誤解を生みかねない訳です。「なった」(become)は、なるほど、原文を直訳したものです。しかし、原文で用いられている言葉(エゲネトー)の意味は、この文脈に限って言うなら、「成り変わった」とか「変化した」というようなことではありえません。むしろ「生まれた」(was born)です。

そして「肉」は、お肉屋さんに売られているのと同じあの「肉」ですが、その意味は、この文脈においては明らかに「人間」です。そして「言」はイエス・キリストです。そのためヨハネの意図に従って訳しなおすとしたら、「イエス・キリストは人間としてお生まれになった」ということです。

そのことを、しかしヨハネは、直訳すればたしかに「言葉は肉となった」と訳すことが不可能ではない、独特の不可思議な文章で表現していることも事実です。ですからここでわたしたちが考え込んでしまうのは、なぜヨハネはこのような表現を用いているのだろうかという点です。もう少し分かりやすく親しみやすい言葉で書いていてくれたらよかったのに、と思わずにはいられません。

はっきり言いますと、ヨハネの意図は今日ではよく分かりません。有力な注解書でさえ「『肉となる』という言葉の意味を確定することは困難である」と書いています(C. K. Barrett, 165など)。しかし、私は、少なくともこれから申し上げる一つの点についてだけはぜひとも注意深くありたいと願っています。それは、他のどこを間違っているとしても、ここだけは決して間違ってならないと思う点です。

それは、ヨハネあるいは聖書が、人間を「肉」と呼ぶとき、「人間は肉に過ぎないものである」とか「人間とは汚らわしいものである」というようなことを言いたいのではないという点です。

「霊的なものは清いが、肉体的なものは汚らわしい。」このような、あるいはこれに似た考え方や言い方は、わたしたち日本人にとっては馴染み深いものがあり、わりとすんなり受け入れることができる、いわばごくありふれたものです。「肉体」と聞けば「汚れた」という形容詞をすぐに思い起こす、といった具合です。

しかし、このような見方は、ヨハネの時代の教会を脅かし、その後のキリスト教会をも脅かし続けた、グノーシス主義の思想です。つまりこれは端的に言って、キリスト教会にとっては異端の思想なのです。教会の歴史の中でこのような考え方や言い方が見出されるとしたら、それらのものはすべて、教会の外から紛れ込んできたものなのです。

そしてわたしたちが信頼してよいことは、ヨハネ自身が異端思想のなかへと巻き込まれ、巻き取られてしまっていたわけではないということです。実際たとえば、この福音書の中には「肉」という言葉をことさらに下に見るような表現や、汚らわしいものを連想させるような表現は見当たりません(もしそれがこの福音書のなかのどこかにあるようでしたら、ぜひ教えてください)。今日の個所でもただ「肉となった」と書かれているだけであって、「汚らわしい肉へと落ちぶれた」というようなことが書かれているわけではありません。そのような考え方は、ヨハネの中には、そもそもないのです。

そのためヨハネが書いていることは、「イエス・キリストは人間としてお生まれになった」ということ、本当にただそれだけなのです。あるいは、もう少しだけ言葉を補うとしたら、「わたしたちと同じ人間としてお生まれになった」と言うことは構わないでしょう。

しかしそれでも、一つだけお断りしておかねばならないことはあります。それは、この文章の中には上下関係を示す内容が全く含まれていないと言い切ることまではできませんということです。天の神のおられるところが「上」だとしたら、わたしたち人間が生きている、ここは、たしかに「下」です。その意味から言えば、そしてその意味だけに限って言えば、イエス・キリストは、上のほうから下のほうへと「降りて」あるいは「下って」来られた方であると語ることは間違っていません。

しかし、はっきりさせておきたいことは、この上下関係は、神と人間との関係という点に関してだけ当てはまるものであるということです。霊的なものと肉体的なものとの関係ということに当てはめることはできません。なぜなら、この比較の中での「霊的なもの」の意味は、明らかに、人間存在の全体を構成する一つの要素としての「精神的な事柄」を指していると思われるからです。

しかし、その意味での「精神的な事柄」は、なんら神ではありません。精神もまた人間そのものです。現在流行中の脳の研究者たちの言い方に倣って言うとしたら、「精神というようなものは脳という臓器の中の化学反応のようなものに過ぎない」というようなことにもなるでしょう。私はそこまで言い切るつもりはありませんが、「精神」との比較で「肉体は程度が低い」だの「薄汚れている」だのと言い出すくらいなら、今の脳の研究者たちの言っていることのほうがはるかに聖書的であり、キリスト教的に正しいことを言っていると弁護しなければならなくなります。

少し話題がそれてしまっているかもしれません。私がなるべく明らかにしたいと願っているのは、ヨハネ自身の意図です。「言は肉となった。」イエス・キリストは、わたしたちと同じ人間としてお生まれになった。その意味は「汚れたものになった」ということではありません。わたしたちが「肉体」について語るときにはいつでも「汚れた」という枕詞をつけなければならないわけではありません。そのような言い方はキリスト教本来のものではないのです。

むしろヨハネの意図は「神の御子がわたしたちと同じ地平に立ってくださった」です。それを聞けばわたしたち人間が理解できるように噛み砕かれた「ことば」として、あるいは、わたしたちの心に届く「ことば」として、神の御子イエス・キリストがわたしたちの目線までおりて来てくださったのだということです。

そして、ここまでお話ししてきてやっと申し上げることができる点があります。それは、最初に触れました、先週学んだ個所にも、先々週学んだ個所にも、「イエス・キリスト」という名前が出てこず、ただ「言」とだけ呼ばれていたことの理由は何でしょうか、という問題の答えに当たることです。

これは、答えを言ってしまえば単純なことです。要するに、「イエス・キリスト」という名前は、この方の地上における名前であるということです。「イエス」という名前はこの方が地上にお生まれになったときに付けられたものです。生まれるよりもはるかに前から、すなわち永遠から、この方が父なる神から「イエス・キリスト」と呼ばれていたわけではないのです。

私は今、なぜこのような点にこだわっているのでしょうか。もちろん理由があります。そして根拠もあります。それは「イエス」という名前の意味です。イエスとは「救う」という意味です。そのように、マタイによる福音書にはっきりと記されています。「その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからです」(マタイ1・21)。

この点で申し上げたいことは、次のことです。イエスという名前の意味としての「救い」を必要としているのは地上に生きる人間だけであるということです。父なる神にとっては「救い」は必要ありません。救われなければならないのは人間なのであって、神ではありません。「神を救う」という言い方は、言葉の矛盾であり、何の意味もありません。地上に来られる前の段階で、永遠の次元におられるときから、神の御子が「イエス」と呼ばれる理由はなかったのです。

救い主が必要なのは、あくまでも、どこまでも、わたしたち人間です。しかも、加えて言うなら、救いが必要なのは罪を犯した人間だけであって、罪を犯していない人間に救いは必要ありません。救いとは「罪からの救い」だからです。

「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とヨハネが書いています。ここに出てくる「恵みと真理に満ちた栄光」という言葉には、抽象的な響きがたえずつきまとっています。具体的な内容は何なのかということまでは分かりません。

しかし、わたしたちは、イエス・キリストがこの地上にもたらしてくださった「恵み」とは何か、「真理」とは何かを知っています。それは結局「救いの恵み」であり、「救いの真理」です。神の御子は、罪を犯して神の栄光を汚したわたしたち人間を罪の中から救い出してくださるために「人間になって」、地上に来てくださったのです。

神の御子がどうして「人間」にならなくてはならなかったのかという事情については、ハイデルベルク信仰問答の第12問から第18問までに詳しく書かれていますので、どうぞご参照ください。

ハイデルベルク信仰問答が教えていることを短く要約すれば、わたしたち人間の犯した罪があまりにも重すぎるため、それを償うためには、動物の命はもちろんのこと、人間の命をささげても足りないということです。人間の命など軽いものだと言っているわけではありません。人間の命ほど重いものをすべて差し出しても償いきれないほど、わたしたちの罪は重いということです。わたしたちの罪が真に償われるためには、真の神でありつつ真の人間でもあるお方(仲保者)の命の価が必要であったということです。

わたしたちが覚えるべき大切なことは、それほどまでに人間の罪は重いのだということであり、それほどまでに神の恵みは大きいということです。人間の存在、その精神や肉体そのものが汚らわしいのではなく、人間の犯した「罪」が汚らわしいのです。

罪から救い出された人間は清いのです。わたしたちの存在そのものは、なんら汚れていないのです。私たちを清めるためにイエス・キリストは来てくださったのです。それこそが「恵み」であり「真理」なのです。

(2009年1月18日、松戸小金原教会主日礼拝)